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第十五章 会戦前夜 2


「ハルマ・トルマに、貴方の皇帝陛下は兵を集めているようですわ」
 朝食を終えた後、優雅に布で口元を拭いながら、ユファが言う。ジンはちらりと彼女に視線を寄越して応じた。
「聞き及んでいます」
「ハルマ・トルマを責め滅ぼすおつもりなのかしら。リクルイト皇帝陛下」
「半分は威嚇のためでしょう。いくら革命などという反逆罪を犯していても、ハルマ・トルマにいるのは踊らされた民に違いない。滅ぼすなどという物騒なことはしませんよ」
「そうですわね。虐殺してしまえば、慈悲深いリクルイト皇帝陛下の御名に傷がつく」
 椅子の背に重心を移し、納得の表情で頷くユファに、ジンは笑った。
「盟主、貴方も陛下のことがまだお分かりでない」
「……どういう意味かしら?」
「評判に傷がつく。そのようなこと、まるで考えていない男。ただ、まっすぐに、国を豊かにすることしか考えていないのが、我が君主なのです」
 ラルトが風評を気にしたことなぞ、一度たりともない。ジンとしては、彼にもう少し頓着してほしかったが、ラルトらしいといえばそうだ。そんな真っ直ぐな男だからこそ、自分が焦がれ、命を預けたのだと。
 ジンの言葉に、思い当たるところがあったらしい。ユファは半眼で、「そうでしたわね」と呻いた。
 女官の入れた茶を優雅に口にするユファを置いて、ジンは朝食の席から立った。ユファはジンに視線を寄越すことなく、茶の香りを楽しんでいる。
「盟主、ひとつお願いが」
 席を共にしていた円卓の傍らに留まったジンは、逃亡生活から開放され、のびのびと自分の城を満喫する女に言った。女は茶碗を空にして、白い陶磁器であるそれを音もなく受け皿の上に置き、視線をジンの方に動かした。
「よろしくてよ。何かしら?」


 朝食をとる部屋から出てきた宰相を追って、ウルは歩を早めた。やがてこちらに気づいたらしい宰相が少し歩調を緩める。
「今は何事もないんだから、病人は部屋でおとなしくしてなよ」
 ジンは視線を前に向けたまま、呆れ混じりの口調で言った。
「閣下が動いていらっしゃるのに、私一人寝ているわけにもまいりません」
「熱が下がりきらないのに、この間も無駄に動いてるし」
「動かなければカンウ様やヒノト様がお亡くなりになられておりました」
「あぁ言えばこういう。しばらく見ないうちに、なんというか、口うるさくなったね、ウル」
「下士官根性が身についたといってください」
 今はそれほどではないが、下で働き始めた当初は見ているだけで危なっかしかった左僕射。そしてリファルナの旅以後、よく面倒を見るようになったお転婆なヒノト。
 いつしか、気になることがあると口やかましく忠告せずにはいられないようになってしまった。
「どんな下士官根性なんだろうね、ソレ。まぁいいけど、今は盟主との会談に疲れてんだからさ。ちょっとそっとしておいて」
 右手でこめかみを押さえ、犬を追いやるかのように空いた左手を振るジンに、ウルは盛大に嘆息せざるを得なかった。
「疲れていらっしゃるのでしたらなぜ毎朝ご一緒なされているのです? 朝食の件は閣下から申し出があったと、ディモルデ殿から伺っておりますが」
 宰相は盟主と朝食を必ず共にする。すでに約束事となっているらしい。
 しかしその件については、ジンのほうから申し入れがあったのだと、ユファの側近であるソーヤ・ディモルデから聞いていた。
「……身体を慣らさないとね」
 僅かな躊躇の後、ジンが答える。
「慣らす?」
「逆に訊くけど、俺、国ではどういう状態で不在になってる?」
 唐突に話題を切り替えられ、ウルは当惑しながら問いに答えた。
「……外交のために、不在と」
「うん。そうなんだろうね。盟主も同じことを言ってたし。だから俺、宰相って呼ばれてるんでしょ? 馬鹿だなぁラルト。なんで俺の居場所、まだ用意してるんだ」
「……どういう、意味ですか?」
 宰相の口から漏れる独白にも似た呟きに、ウルはますます当惑の色を隠せなくなった。嫌な予感はしていた。誰もが予想していたことだ。四年、彼が戻る気配すら見せなかったことから、その予想を躊躇いなく口にするものも多かった。
「俺はもう、戻るつもりなんてない」
 予想は、宰相の口から漏れ出でた瞬間、現実となる。ウルは予想していたにもかかわらず、呆然となって立ちすくんだ。
 ジンもまた、足を止める。
「シオファムエンの銘も、宰相という地位も、捨てたつもりでいた。実際、事故がなければこの大陸に足を踏み入れることもなかった。あったとしても、もっと遠い未来だったはずだ」
 そう言って彼は振り返り、ウルに微笑んだ。そして忘我にも似た状態で足を止めているこちらに、彼は笑みを浮かべたまま続けた。
「俺は、ラルトを殺そうとしたんだよ」
「ば」
 馬鹿な。
 宰相の唐突な告白に対し、真っ先に浮かんだのは否定の言葉だった。喉が一瞬にして渇き、言葉をそのまま喉に張り付かせる。
 ウルは、胸中で反芻した。
 馬鹿な。
 宰相が、皇帝を殺そうとする? そんなこと、あるはずがない。
 あっていいはずがないという意味ではない。本当に、あるはずがないのだ。
 宰相が誰を一番に愛し、誰のために身をささげ、誰のために自分を雇い入れたか。
 ウルが一番よく知っている。
 餌を求める魚のように、ぱくぱくと口を開閉するウルに、ジンは可笑しそうに笑いを深めた。その表情に、むっとなる。
「冗談なのですか?」
 そして同時に安堵する。自分は、からかわれただけなのではないかと。
「冗談じゃないよ」
 しかし一瞬の安堵は、すぐに取り払われた。ジンの眼差しに嘘はない。
 本当に彼は、彼が愛してやまなかった皇帝を、殺そうとしたのだ。
 そのことを知って、ウルは愕然となった。
 ジンは再び歩き始める。ウルも急いで、彼について歩いた。
「俺はラルトを殺そうとして、逆に俺のほうが怪我を負った。怪我は癒えたけど、俺とラルトの間には溝ができた。そんな状況で、傍にいることなんてできやしない。俺は殺してほしかったけど、ラルトは俺を殺せなかった。ラルトは俺を殺せなかったけど、憎んだだろう」
 どうということのない昔話を語るかのように、ジンの口調は淡々としていた。しかしその簡易な内容には、計り知れない意味が篭っている。
 裏切りの帝国で、ジンのラルトに対する裏切りは、裏切り以上の意味を持つ。
 この四年間、他人に請われなければ、決して宰相について口にすることのなかった皇帝の心中を、ウルは推し量った。
 皇帝は、悲しみを押し込めていたのだ。
 そしておそらくその悲劇について知っていただろう皇后を思った。
 子供を欲しがっていた皇后。それは単純に、新しい家族が欲しかっただけではないはずだ。
 宰相を裏切りの果てに失った皇帝を、癒すために、彼女は新しい家族を得たかったのだ。
 初めて合点がいって、ウルは口元を覆った。
「俺は国を出た。その間、ほとんどが傭兵業。政治の世界から離れて久しくてね。盟主との会談は、政治家同士の腹の探りあいに身体を慣れさせるには、ちょうどいいんだ」
 これがさっきの質問の答え、と、宰相は笑う。
「それに情報も手に入れられる」
「情報、ですか」
「そう。君ももう知ってるだろう? ハルマ・トルマ近郊に、兵が配置されたってさ。本格的な、布陣だ」
「はい……存じています」
 ジンの耳に、今朝入れようと思っていた情報のひとつだった。しかしジンはそのことを盟主経由で、すでに知っていたらしい。
「こういうことを、盟主経由で知るっていうのは色々意味があってさ。盟主が情報をもたらした、その分彼女に頼みごともしやすい。だって彼女は、俺が事態を知れば何か手を打たなければならない。その為には盟主に何か頼むかもしれない。そのことを予測して、あえて情報を流してるんだからね。貸し借りの比率もうんと軽い」
「……その、頼みごととやらは、なさったのですか?」
「ダッシリナ側からも兵を出して、うまくブルークリッカァ側と同調してくれるように頼んでおいた」
「その、借りはどのようにして返されるおつもりで?」
 ジンが本当に、水の帝国に戻るつもりがないのなら、ユファとの政治的貸し借りは意味がない。
 金銭で払うにしても、傭兵をしていたという彼だ。手持ちがそうあるわけでもないだろう。
 そうだねぇ、と間延びした声で、ジンが言う。
「そのときは、シファカと一緒にしばらく盟主に雇われてようかな。いまだに内部に敵、多そうだから、盟主は」
 あっけらかんと言う彼に、ウルは呆れながら問う。
「本当に、それでいいのですか?」
 ジンは頷いて、何ということもないように言った。
「それが、ラルトのためになるのなら」
 ウルは、嘆息する。
 皇帝を殺そうとしたなどと、嘘だろうと思う。
 彼の瞳に嘘がないとわかっていても。
 なぜなら、いまだに宰相は、これほどまでに皇帝を愛しているのだ。
 こつこつという、二人分の足音が響く。しばしの沈黙の後、再びウルはジンに向かって口を開いた。
「国を離れてからは、ずっとシファカ様と旅を?」
「ずっとじゃないかな」
 ウルの問いに、ジンは小首をかしげる。少し思案するそぶりを見せて、彼は言葉を続けた。
「初めて出会ったのは一年半か、二年前ぐらい。旅を一緒にするようになったのは、半年ぐらいかな」
「……その、間の一年は、一緒に暮らしておられたのですか?」
「まさか。別々だよ。……あぁ、でも一緒に暮らしていればよかったかな。最初は無理やり別れたんだ。しんどかった。今でも時々後悔するよ」
 冗談めかしにジンは言うが、辛かったという言葉には熱が篭っている。本当に、別れているのが辛かったのだろう。
 きっと時間の経過といくつかの出来事を経て、結局彼らは二人で旅することを決めたに違いない。
「いまさらですが、シファカ様との馴れ初めを、お伺いしても?」
 シファカに関しては、ジンは本当に顔色を変えるのだ。皇帝以外で、ジンがそのように顔色を変えるのは見たことがない。ずっと不思議だった。確かにシファカは、人を和ませる何かを持っている。それに腕の立つ武人だ。しかし、ティアレやヒノトと騒いでいるときを思い出せば、愛らしい娘にしか見えない。
 だが、愛らしいだけの娘は大勢いる。聡明な娘も、美女も、宰相は星の数ほど目にしてきただろう。それでも彼の心には、皇帝しか触れなかったはずなのだ。
 あの黒髪の娘の、何が宰相の琴線に触れたのか少し知りたかった。
「馴れ初め? たいしたものじゃないけど」
 そう前置いて、ジンは答える。
「世話になってた先の、鍛冶師の偏屈爺さんが、やっけに可愛がってたから興味を惹かれて。ちょっかいかけているうちに俺のほうが溺れた」
 苦笑交じりのジンの返答に、ウルは面食らう。彼のほうから、女に溺れるなどという台詞を聞くとは思わなかったからだ。
「シファカ、よく笑ってたってきいたけど。ヒノトちゃんに」
 驚きに閉口していたウルに、今度はジンが言葉を切り出した。
「え? ……あぁ、はい。よく笑われてましたね」
 ティアレもヒノトも、あの時よく笑っていたが、同じようにシファカもまた、鈴のような笑い声を上げていた。女の笑い声は平和の証というが、彼女らの笑い声は、聞いているだけで何か暖かいものを胸に呼び起こしたものだ。
「昔はね、笑わなかった」
 ジンが言う。
「声を上げて笑ったりしなかった。大勢の大人に囲まれて、いつも泣きそうな顔をして、笑っていたよ」
 その言葉を聞いて、ウルは理解した。
 おそらく、シファカは、ジンの昔に、似ていたのではないだろうか。
 悲しみを押し殺して笑う人々を、ウルは知っている。それはラルトであったり、ティアレであったり、ときにエイであったりする。ジンもまたその一人だ。悲しみを表現することを許されない人々の、寂しい微笑。
 ティアレやヒノトとあのように笑いあっていた気丈な娘が、そのような微笑を浮かべて生きていたのだとは、あまり想像がつかなかったけれども。
「彼女に出会って、俺は正直ずいぶん救われた。国を出て、罪の意識だけで生きて旅をしていた俺に、喜びや生きる意味を与えてくれた。自業自得とはいえ、いろんなものを失ったけれど、そんな俺に残された唯一のものだよ」
 そこまで言って、宰相は言葉を切る。ウルを顧みた彼はそれこそ、泣きそうな顔をして笑っているように見えた。
 まだ、失っていないといいたい。
 皇帝と宰相の間にあった出来事を、ウルは知らなかった。しかしジンがいうように、ラルトが彼を憎んでいるとは思えない。ジンがラルトを愛しているように、またラルトもジンを愛しているだろう。周囲になんと言われようと宰相の席を彼のために空け、彼の罪について沈黙を守っている。
 行方不明のシファカもまた、死体が上がったという報告は来ていない。ヒノトが無事開放されたところをみると、無関係だと判るシファカが殺される可能性は低いだろう。監禁され、拷問されている可能性は、あるにしても。
 そんな、絶望的な顔で、笑うのはやめて欲しいと、ウルは思った。
 その願いが通じたのかどうかはわからない。
 だがふと脳裏に滑り込んできた短い記号に、ウルは身体を強張らせた。
「ウル?」
 こちらの表情を訝ったのか、ジンが顔を覗き込んでくる。ウルは呼吸を整え、手短に告げた。
「シファカ様が、見つかったようですよ」
 具合よく、<網>を通してウルに届けられた情報。
 しかしそれを告げても、ジンは安堵した様子を見せなかった。
 他ならぬ、見つかったと口にするウル自身が、表情の強張りを解かなかったからだろう。


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