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第一章 過去の枷 3


 数日、寝台の上から動かず過ごした。
 熱自体は下がっていたが、寝台から動きたくなかったのだ。何も考えず、ただ眠って過ごしたかった。それを許される身分であることに、ティアレは初めて、感謝した。
 だが、寝台の上で何時までも煩悶するわけにはいかないだろう。意を決し、身を起こす。体調はすっかり、よくなっていた。
 汗を吸って重たくなった夜着を脱ぎ、下着類を一切代えて。今日の衣服は、青橡[あおつるばみ]の光沢をわざと殺した布地に、花の刺繍が施されたものだ。帯は桜鼠。それらに袖を通しながら、ティアレはふと、これはラルトに初めて衣装を貰い受けたときに袖を通したものだったと思い出した。
 着替えを手伝うのはレンである。彼女は黙々と、ティアレの夜着を受け取り、身体を拭くための湯を用意し、髪結いの為の道具を鏡台に整えている。鏡台の前に腰を下ろし、彼女の動きを視界の端で追っていたティアレは、ふと、その中に二つの新しい影がさしたことに気がついた。
 一人は、奥の離宮の女官の一人。赤毛にそばかすの浮いた頬を赤く染めたラナである。この忙しい時期、レンがティアレの世話を中心的に行うようになってから、ラナとはしばらく顔を合わせていなかった。彼女は慕わしい笑顔をそのあどけない顔に浮かべている。
 そして彼女が伴うのは。
「シノ」
 ティアレは思わず、席を立った。
 鏡台の円椅子が、その拍子に音を立てて転倒する。
 ラナの傍らに佇む女官長は、ひどく懐かしい笑顔を浮かべて、諸手を広げた。
「しばらく留守にして、申し訳ありませんでした、ティアレ様」


 ひどく落ち着かないのは、着慣れぬ東大陸の衣装に袖を通しているせいもあるだろうし、広い部屋に一人置き去りにされているせいもあるだろう。水の帝国の宮城は、イルバが見たこともないほどに広大で、荘厳だった。
 イルバが通されたのは、本殿と呼ばれる白い石造りの城にある迎賓室で、見るからに高級さと歴史を感じさせる趣味のよい調度が、品よく並べられた部屋だった。黒の布張りの長椅子には羽毛が詰められているらしく、なよやかにイルバの体重を支え受け止める。長い船旅で疲れている身には、ひどく毒だった。
 現実逃避だろうか、それとも純粋に、疲れが溜まっていたせいだろうか。イルバはやけに大きく耳に響いた扉の開閉音に身を震わせ、己が少し転寝をしていたことを知った。
「長らく待たせて、申し訳なかった」
 部屋に入るなりそういって頭を垂れたのは、年の頃三十前後の、青年だった。
 取次ぎだけを行う下級の文官だとは、イルバには思えなかった。無意識に、イルバは襟元を正していた。
「かまわんよ」
「それは、助かる」
 イルバの前の長椅子に腰を下ろした青年は、精悍で、端整な造作をしていた。身体の体躯も引き絞られて、武道を嗜むもののそれだった。黒曜石色の長い髪を、首元で無造作に結わえている。身につけているものはひどく簡素だったが、イルバが一目見てそうとわかる、上質のものだった。
 何よりもその双眸だ。彼の持つ、夜に焚く炎のような暗い赫の瞳を、イルバはかつてみたことがなかった。その瞳は、意思の強いもの特有の、真っ直ぐな光を宿していた。
 おそらく、高位の文官だろう。それも、皇帝にひどく近い。こんな目をする男が、下級であるはずがない。
 案の定、男はイルバの予想を上回る形で名乗った。
「俺は、ラルトという。ラルト・スヴェイン・リクルイト」
 男の名前に、イルバは驚愕に目を剥いていた。馬鹿な、と思わず腰を浮かす。だが席に着く男は微笑を浮かべたままで、その瞳には微塵の嘘も感じられない。
 再び腰を下ろし、愕然としながら、イルバは呟いた。
「皇帝自ら……?」
 リクルイトは、水の帝国皇族の名前だ。
 そして、この国には現在、たった一人しか直系がいない。リクルイトの姓を名乗ることが許されているのは、国唯一の皇后か、皇帝その人しかありえないのだ。
イルバの呻きに、皇帝は微笑んでいた。
「直接礼をいいたかった。これだけ待たせて、少ししか時間が取れないんだが、それは許して欲しい」
「そりゃぁ許すもなにも、俺のほうは皇帝陛下が自ら出てくるなんて、思ってねぇ……ませんからね」
「敬語は使わなくてもいい」
 気を楽にしてくれ、と皇帝はいい、膝の上で手を組んだ。
「イルバ殿、こちらも敬語を使うつもりがないし、何より俺の部下というわけでもない」
「……貴方の周囲の人間に、手打ちにされるといったことなどは?」
 そう皇帝に尋ねながら、イルバの脳裏を過ぎったのは一人の女の姿だった。シノ・テウイン。腹部に傷を負ってなお、彼の役に立ちたいのだと、負傷した身をおして船に乗り込むほど彼に心酔している女官。
 皇帝に敬意を払わなければ、笑顔で殺されそうだ。
「そんなことはないと、保証しよう」
 苦笑しながら皇帝は確約する。それでもそう簡単にもとの乱暴な言葉遣いをすることはできない。相手は皇帝なのだ。
 ただ、イルバは微笑んで言った。
「遠慮なく」
 ひとまず、かしこまらない程度ならいいだろう。皇帝がわざわざ言ってくれているのだから。そもそもイルバは、宮廷勤めは長かったが、堅苦しい敬語が一番嫌いだった。宮廷勤めから解放されて何が喜ばしかったかといえば、敬語から解放されたことなのだ。
「そちらも、殿なんていうのは結構だ。俺はそんな偉い身分でもない」
「そうか?」
 意外そうに首をかしげた皇帝に、イルバは嘆息した。
「俺の出自は調べてるのか?」
「調べるほどでもない」
 皇帝は、肩をすくめた。
「シノから聞いた名前が全てを説明する。宰老イルバ・ルス。滅び去った、海上国家バヌアの王監査役。その長」
「古い名前だ」
 イルバは苦笑しながら口を挟んだ。古い名前。もう世界のどこにも、ルスが存在する意味はない。
「そう思っているのなら、何故シノに改めてそう名乗ったんだ? 最初は、姓を名乗っていなかったんだろう?」
 皇帝に尋ねられ、イルバは何故だろうと自問していた。海から引き上げた記憶喪失だった女に、イルバは自分の姓を名乗らなかった。彼女が記憶を取り戻してからも。
 それまでは、ルスという姓は、忌々しい過去の残滓でしかなかったからだ。
 だが、あえてそれを名乗った。
「……この大陸……多分、ダッシリナに、俺の不肖の弟子がいる」
 暁の占国ダッシリナに。
 古い著書一つを携えて。
 行方不明だった、弟子が。
 皇帝は興味深そうに、眉を上げた。
「……へぇ?」
「出来ることなら決着をつけたい。そう思って、この姓を名乗ることにした」
 うんざりしていたのだ。
 過去から、逃げ続けることにも、目を背け続けることにも。
 だから、けじめとして、この姓を名乗ることにした。
「俺に出来ることがあったら言ってくれ。人探しに人を出すぐらいわけはない」
 親切にも、皇帝はそう申し出る。が、イルバはどこか釈然としないものを感じて、首をかしげた。
「そいつは助かるが、いいのか? わざわざ俺如きに人を動かして」
「あぁ。シノを救ってくれた礼だ。それを思えば安い用事だよ」
 どうせ何か礼をしなければならないと思っていたのだと、皇帝は言った。
 そういえば、確かに先ほどから皇帝は気安くイルバが付き添ってきた女の名前を呼ぶ。普通、皇帝が一介の女官をそんな風に気にかけるだろうか。
「シノは、あんたの愛妾かなんかなのか?」
 それは、決してないとはいえない可能性だった。シノはやけに皇帝のために、と口にしていたし、つまるところはそういうことかと思ったのだ。
 が、次の瞬間、皇帝はこれでもかというほどに目を見開いて、膝をたたきながら笑いを弾けさせていた。
「ははははははははははっ!!!! 俺と、シノが!? 馬鹿いえそんなこと天地がひっくり返っても御免だ!!」
「それはそれでひどい物言いだと思うが」
「それでもない!」
 きっぱりと断言する皇帝は、当初よりも屈託がない。強いていえば、この部屋に入ってきたばかりのときよりも、人間臭かった。これが、彼の素なのだろう。イルバは好感を覚えながら、彼の言葉に耳を傾けた。
「シノは俺と一番長い付き合いの女官だ。家族同然の。強いて言えば、口うるさい姉だな」
「そんなに近しいのか」
「俺が物心ついたときには、既に俺たちの面倒をみていたよ。付き合いとしてもそうだし、仕事の面でも、彼女がいなければ回らないことも多々ある。彼女を助けてくれて、本当に礼を言いたかったし、何か役立つことがあればしたかった。人を探す程度なら、お安い御用だ」
 シノが皇帝の役に立つために命を懸けるのは、もしかしてただ彼に心酔しているだけではないのかもしれない。皇帝に姉のような、といわせる関係。もしかしてシノは、血を分けた肉親を助けるような気持ちで、彼に仕えているのかもしれなかった。
 だが同時に、シノが心酔する理由も、イルバには判った。気安く語りかけてくる皇帝には、もっと会話を交わしてみたい、傍にいて、役立ちたいという欲求を起こさせる魅力がある。
 かつてイルバが仕えていたバヌアの王ワジールにも、確かにそういった魅力は存在した。だが、この皇帝を見てしまうと、ワジールがいかに魅力に欠ける王であったのかよく判る。シノが心酔するわけだ。シノだけではない。たった十年足らずで、国の復興を見事成し遂げてみせた皇帝。それは、この魅力に惹かれて、有能な人材が皇帝の下に集まるからこそなのだろう。
「俺はそろそろ行かなくちゃいけないが、探して欲しい人間に対する情報は、またこちらに寄越すスクネという文官に言ってくれ。客人としてもてなそう」
「別に街の宿でもかまわんが」
「それは困る」
 皇帝は真っ直ぐにイルバを見据えて断言した。彼は続けて、尋ねてくる。
「説明しようか?」
 理由を。
「いや、いい」
 イルバは首を横に振った。思い当たる理由は多々ある。シノがそれほど高位の女官であったというのなら、彼女の命の恩人であるということをどこからか聞きつけ、イルバに擦り寄る輩もいるだろう。誘拐、暗殺を企てて皇帝に脅しをかけようとする輩もいるかもしれない。見るからに、この若い賢帝は情に厚そうだ。
 他にも、皇帝には皇帝の思惑もあるだろう。
「どれぐらいの自由が、俺には保障されることになるんだ?」
 それだけは、確認しておきたいことだった。下手にうろついて衛兵に囚われることになっても双方困るだろうし、あまり窮屈な生活というのも御免被りたい。
「そうだな。俺自身もまだ決めてないんだが」
「オイオイ」
「暇つぶしには大抵何をしてる? 趣味とかあるか?」
「趣味?」
 皇帝と面会していて、そんなものを尋ねられるとは思っていなかったイルバは、素っ頓狂な声で聞き返し、腕を組んだ。
 軽く、思案する。
「……あー。読書とか……釣りとか。昼寝?」
 今更だが、自分は酷く趣味に乏しいと、イルバは思った。
 幼い頃は乱闘を起こす毎日。師父に拾われてからは勉強勉強。宮廷に上がってからは、政治漬けの日々だった。たまに休みがあっても、つい政治の書物を読みふけっては、娘に笑われていたものだ。諸島連国の孤島に移ってからは、空いている時間は釣りに専ら興じていた。
 皇帝は笑った。
「なら図書館か。自由に借りることができるように、登録書を発行して、後でスクネに持たせる。その他、立ち入っていい場所も彼から聞いてくれ。彼か、武官か、だれかをつけて一人では出歩かないようにしてもらう。監視されているようで窮屈かもしれないが、少し我慢して欲しい」
「俺はかまわねぇよ。あ、部屋の中まで兵士がうろうろするとかもあるのか?」
「いや、それはない。部屋の外に護衛の兵はつけると思うが」
「ならいい。傍でうろつかれちゃ、おちおち昼寝もできないもんな」
 頭の後ろで手を組んで、イルバは天井を仰ぎ見る。
 その視界の端で、皇帝が笑っていた。
「確かにな。……と、すまない。俺はこれで失礼する」
 窓の外から響いた、時を告げる鐘の音を耳にした彼は、慌てて腰を上げた。イルバも席を立ち、彼の後を追った。
「こちらこそ礼を言いたい。貴重な時間をわざわざ取らせた」
「かまわないさ」
 イルバが右手を差し出すと、皇帝は躊躇いなくそれを握った。握力の強い、皮膚の厚い手だ。武道を嗜んでいるというイルバの初見は間違っていなさそうである。
「あぁそうだ。宰相はどうしている?」
 イルバはふと思いついて皇帝に尋ねた。
 宰相ジン・ストナー・シオファムエンとは、昔、面識がある。西大陸の民族特有の繊細な面差しをした――けれど瞳に宿る光は、この皇帝に負けず強かった少年を思い浮かべながら、挨拶ぐらいはしておきたいと思った。
 皇帝は少しだけ困惑の色を浮かべた。それは、ほんの一瞬だった。人の顔色を窺う習い性のないものなら、おそらく見逃してしまうほどの。
「宰相は、今国にいない。……外交に、出ているんだ」
 皇帝の言葉に、そうか、とイルバは頷いた。皇帝は笑って、手を振る。きびきびとした足取りで、彼はそのまま退室した。
 扉の閉じられる音を聞きながら、イルバは何か釈然としないものに首を傾げていた。


 露に濡れる、奥の離宮の裏庭。
 比較的花の蕾が見られる庭先を、シノと肩を並べ、ゆっくりと歩きながらティアレは尋ねた。
「いつ着いたのですか?」
「今朝方です」
 シノは衣装こそきちんと整えてはいたものの、女官長としてのそれではなく、髪はいつものようにひっつめてはいなかった。長い黒髪が背に揺れている。彼女はこれほどまでに髪が長かったのだと、長い歳月の中ティアレは初めて知った。
「休んでいてもよかったのに」
「ティアレ様のお顔を拝見するまでは、休んでもいられません。体調はいかがですか?」
 心配していたのですよ、と、女官長は気丈に笑う。彼女の方こそ、大変な目に遭ったろうに。
 最後にシノと会ったとき、確か自分は病み上がりだった。シノがいなくなってから、床に臥せってばかりだ。ここ数日も寝台から起き上がることができなかったとは、さすがにティアレは口にできなかった。
 それに、と。
 無意識に、腹部に触れる。
 堕胎しろ、といわれた小さな、命。
「ティアレ様?」
 ティアレの様子を勘繰ってか、案じる様子で顔を覗き込んできたシノに、ティアレは慌てて笑顔を取り繕った。
「シノ。奥の離宮に、新しい女官が入りました」
「レン、という子ですね」
「はい。この離宮の中では、年少になります。少し不器用なきらいもありますが、とてもよい子です」
 意識を、紛らわすように、ティアレは空を見上げた。春の空は柔らかく澄み渡り、白い鳥が時折羽音を立てて木々から飛び立つ。
「シノがいなくなって、皆が忙しい中、私の世話をよくしてくださいました。これからも、シノ、彼女にどうかよくしてあげてくださいね」
「それはもちろん」
「それから本殿の庭で、梅がようやく咲いたようです」
「今年の春は、あまり花が咲きませんね」
「えぇ。私も気を揉んでいました。この庭の花はどれもまだ蕾ばかりですけれど、順々に咲いていきそうです」
「ティアレ様」
「よかった。シノも無事で」
「ティアレ様」
 取り留めのないことを話し続けるティアレの手を、いつの間にかシノが握り締めていた。覗き込んでくる彼女は、心配という文字を顔に貼り付けている。
 どうかしましたか、と首を傾げかけたティアレは、シノの顔が霞んで見えることに気がついた。
「シノ……」
「どうなさったのですか、ティアレ様?」
 彼女は衣服の裾で、ティアレの頬を伝う雫を拭いながら問うてくる。
「一体、何があったのですか?」
 ティアレは、唇を引き結んでいたが、とうとう堪えきれずにシノに縋りついた。
声を上げることこそなかったものの。
 かつてないティアレの啜り泣きは、シノの衣服を濡らした。こんな風に最後に泣いたのはいつだろう。確か、デュバートが死んで、己の業の深さを、思い知ったときだ。
 シノは当惑の表情のまま、それでも優しく、ティアレの髪を撫で続けた。デュバートが死んだ時は、ラルトがこの髪を撫でてくれたのにと、女官長の温かい腕に縋りつきながらティアレは思った。


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