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第十四章 民の意味 5


 スクネとレンは、呆然としながら開かれたままの扉を見つめている。イルバも無論。
「……迎えに、いったのか?」
 イルバの問いに、スクネたちは答えない。
 イルバは嘆息して、書類の散乱した部屋を見回した。この部屋を片付けるべきか否か迷ったのだ。散らかしてしまった首謀者である自分が片付けるべきではある。しかしここは皇帝の執務室。一介の客人が触れていいような書類は置かれていないだろう。見るつもりはないが、意図せず目に入るものもある。
 スクネに判断を仰ごうと面を上げたイルバは、ふと、大勢の足音を聞いた。
「何……?」
 その忙しい足音に怪訝そうに呻いたのは、レン。
 程なくして執務室に飛び込んできたのは大勢の兵士である。彼らは執務室に踏み込んでくると、迷いなくイルバを拘束した。
「な、なんだなんだなんだ!?」
 訳わからず叫びを上げたイルバは、有無を言わさず連行される。それこそ、理由も弁明も口にすることができず、スクネへの救済を求める暇もない。
 廊下に引きずり出されたイルバは、兵士の一人からようやく理由を聞き出すことができたのだ。
「あなたを、陛下への反逆罪で拘束します」
 イルバは思わず呻いた。
「はぁ?」


「愚かですね」
 これから自分たちで国を作るのだと、そんな夢物語を信じて熱に浮かされる民を見たのはこれで何度目になるだろう。
 最初は自分もその熱の中にいた。しかし回を重ねるごとに、その熱からは疎外されていった。そして今、熱狂を外から傍観し、思う。
 なんと愚かなのだろう、と。
 シルキスは独りごちた。
「何もせず、考えず、己の都合のよいことを待つばかりの民に、国を治めるなど、務まるはずがないではありませんか」
 餌を待つばかりの雛鳥に、空を駆けることができぬように。
 自らの翼で羽ばたこうと努力せぬものが、自らの不幸の救済を、自らに求めぬものが、政治などに参加して何になる。彼らは己の無知を自覚し、彼らのできる最大限のこと――畑でも耕して、おとなしく、彼らの貧困が皇帝の目に留まる日を待っていればよかったのに。
「国のためを思わぬものに、政に参加する意義などありません。おとなしく貧しくあればいい。考えぬから、不幸なのです。考えぬから、貧しいのです。考えぬものは何も学ばず、学ばぬものに幸福などない。なぜ、それに気づかないのでしょうね。愚かしい」
 独白は、この小さな城塞都市に集まった人々に向けてというよりも、かつての自分に向けてのものだった。
 愚かな。
 このような、何も知らぬ民に、国を治めるなどとできるはずがなかったのに。
 この世界の人々は無知で愚鈍。だからこそ、この世界で、民主主義の理論が欠陥としてみなされるのだ。
「そういってやるなよ」
 シルキスの独白に水をさしたのは、自分と同じようにソンジュと主従の契約を結んでいた男である。暗がりから姿を現した男はシルキスの隣に並ぶと、窓枠から身を乗り出して外を見やった。
「仕方ない。守られることに慣れた人々だ。それが自分で自分を守ると言ってるんだ。可能か不可能かは別として、いいことだと思うべきじゃぁないか?」
「彼らは死ぬのに?」
「革命に参加したからといってあっさり抹殺するほど、この国の皇帝は非情じゃないよ。その行く手を遮ったものに対して、慈悲があるかどうかはわからないけどさ」
 この国の皇帝について語る彼は、どこか楽しげだ。この町に集まった人々の熱気に当てられたというわけではないだろう。けれど彼の浮かべる表情は嬉々としていて、その表情は祭りを前に顔をほころばせる子供そのものだった。
「楽しそうですね」
 思わず、シルキスは呻いた。
「楽しいというか、楽しみ、かな」
「何がです?」
「皇帝と、剣を交えるのが」
「……そんなことが楽しみなのですか?」
「この世界で、まともに打ち合えるのはもう彼ぐらいなものだろうから」
 普段魔術を得意としているこの男の本分は、剣術にあるのだという。彼が剣を持ったところを見たことがないので、どれほどの腕前なのかはわからないが、ひどく自信ありげな物言いだ。
「楽しみだ」
 彼は繰り返す。
 その横顔は彼の心中を如実に語って、喜色に彩られている。男のこのように楽しそうな顔は、共に仕事をした半年弱、見たこともない――……。
「あなたは何のために、この国にやってきたのですか?」
 尋ねたのは、何気ない好奇心からだった。
「だったらあんたは、何でこんなことに首をつっこんだんだ?」
 逆に問いを返されてシルキスは押し黙る。同じ問いがソンジュからきたのならば、狂った身が、滅ぶためだと答えるだろう。しかしこの男と会話していると――狂気が眠り、正気が引き出されてしまう。そんな気がしていた。
 罪深いと承知の上で、なぜこのような馬鹿げたことをしているのか。
「深く考えるなよ」
 困惑を浮かべたシルキスに、男は笑った。
「俺がこの国に来た理由、教えてやるよ」
 彼は微笑んだ。
「愚かな民にも、罪深き民にも、死者にも、すべからく、救済は訪れる――そうあってほしいと、思ったからだ」
 男の表情は穏やかだ。彼は古い城の外を眺めて、瞼を伏せる。
「狂った男にも、救済があっていいと、俺は思ってる」
「私に救済などいりません。私にはただ滅びがあればいい」
 シルキスは言い切り、踵を返した。靴音が高らかに響く。黒い影が伸びる。
「死にたいと願っているものほど、本当は救済に渇望してるんだ」
 背後から響く男の声を、シルキスは意識の外に押しやった。忙しく足を動かし、階下に向かう。
 ソンジュが待っている。彼を伴い、都に向かわなければならない。
 民の独立などどうでもいいのだ。彼らは皇帝の目をそちらに移すための時間稼ぎに過ぎない。
 シルキスの望みは。
 本当に、ただ。
 純然たる滅びだったのだ。


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