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第十四章 民の意味 4


 ラヴィによって引き合わされた相手は、片眼鏡をかけた端正な顔立ちの男だった。黒い髪をうなじの辺りでひとつに縛り、背に流している。衣装は暁の占国のものだ。玻璃のはめ込まれた眼鏡の奥に覗くのは虚無を抱いた瞳。焦点の合っているもう片方の瞳も、光を映さない瞳と同じほどに無感情だった。
「シルキス・ルスと申します」
 彼は名乗り、ティアレにむかって丁寧に頭を下げた。
「俺と同じ、ソンジュ・ヨンタバルの契約者だ」
 ティアレの傍らに立つラヴィが、そう補足する。ゆったりと微笑むラヴィの同僚とやらに、ティアレは薄気味悪いものを感じ、ただ目礼だけを返した。
「いくぞ」
 ラヴィに促され、ティアレは彼の後に続く。周囲には彼ら二人しかおらず、拘束具も皆無だったが、逃げたとしてもすぐに取り押さえられて引きずられていくだろう。おとなしく彼らに従うほうが無難である。
 どこへ行くのかとたずねても答えは返ってこない。古城の中を歩いてしばし、ティアレが立っていたのは、かなりの面積を有する広間だった。
「ここは……」
 ティアレも覚えがある。城主の、謁見の間だ。
 前の所有者であるシンバ・セトに、この場で買われたのだと思い出した。娼婦としてのティアレを買った最後の人物であるだけに、シンバ・セトについての記憶はまだ鮮明である。いくつかの国を滅ぼし、商人たちの間で売買された。市場でティアレを競り落とした高級娼婦の商人が、シンバ・セトと交流が深く、この場でティアレを彼の男に引き渡した。
 古い石畳と主を失った小さな革張りの椅子に顔をしかめたティアレは、ふと、地鳴りのようなものが遠く聞こえることに気がついた。
 地鳴り、否。
 獣の、咆哮のようなものが、壁の向こうから断続的に響いている。
「この音は、何ですか?」
 ティアレは隣のラヴィを顧みた。しかし彼は口元の笑みを深くするだけで何も答えない。不快感に、ティアレは眉根を寄せた。前を歩いていたシルキスという男が不意に立ち止まり、ティアレのほうを振り返る。
「歓声です」
 彼が、ラヴィの変わりにティアレに応じた。
「歓声……?」
 シルキスがティアレの腕をつかみ、強引に引き寄せる。そのあまりに突然のことに、ティアレは瞬きを繰り返した。遅れてやってくる腕の痛みに顔をしかめる。仰ぎ見た片眼鏡の男はティアレなど意に介さずと言った様子でまっすぐに前方を見つめ、歩調を速めていた。向かう先には扉がある。その向こうは、この広間の階層から考えて庭ではなさそうだった。
 息つく間もなく外に引きずり出され、シルキスによって腕を背後でねじり上げられる。膝をつきそうになったものの、強引に立たされた。傍らのラヴィはシルキスのティアレに対する乱暴な扱いに対しては何も言わない。彼もまた、シルキスと同じように前方を見ている。
 その玻璃球のような何も映さぬ眼差しに、ひやりとしたものを覚えながら、ティアレは彼らの視線の先を追った。
 潮風が吹き上げ、ティアレの紅い髪を揺らす。
 そこは、壁から突き出した濡れ縁だった。
 手すりの丈はティアレの腰ほど。その濡れ縁の位置の高さに、ティアレはめまいを覚えそうになる。だがもっとティアレを驚かせたのは、濡れ縁の下、地面を隙間なく埋め尽くした人の頭だった。
 それが、蠢いている。
 何かを、喚いている。
「ね?」
 シルキスがティアレを振り返り、微笑んだ。
「歓声ですよ」
 その笑みは子供に向けられたもののように優しげだったが、手つきは反して乱雑極まりなかった。
「……っつ!!!」
 突如髪を根元からつかまれ顔を引き上げられる。強引に前を向かされたときには、すぐ背後にシルキスの顔があった。
「今この手の中にいるのは、この国をすべる皇の后である」
 静かで抑揚のないシルキスの声音は、風に乗って不気味なほどに大きく響いた。
 魔力を感じる。ちらりと視線を動かした先、ラヴィが視線をティアレと合わせて微笑んだ。おそらく、彼が<拡声>の魔術を行使しているのだろう。
「この后の為ならば、皇帝も討議に応じよう。我らが、我らによる、我らのために国を作る。さぁ……」
 一度言葉を区切ったシルキスは、笑いを堪えたのか、くっと小さく喉を鳴らす。
 ティアレは、シルキスの声に耳を傾けるために静まりかえる人々を見下ろしていた。誰もの瞳に陶酔が浮かんでいる。熱に浮かされた異様な雰囲気に、ティアレは息を呑む。
 シルキスが言った。
「始めよう。私たちの、まつりごとを」
 獣の咆哮のような歓声が、風と共に地平を駆け抜け、ティアレの足元を大きく揺るがした。


「この報告を聞いても、まだ動かないつもりか?」
 皇后がハルマ・トルマで人質になっていることが確認された。それがスクネのもたらした報告だった。
 つい先ほど、かの城塞都市で革命の狼煙が上がった際に、首謀者と見られる男の手の中に女が捉えられていたというのである。その女は、皇后に間違いないとのことだった。
 イルバの問いに、ラルトは答えない。皇帝は唇を引き結び、挑むようにしてこちらを睨みすえている。イルバは嘆息して、謝罪の言葉を口先に転がした。
「わりぃ」
 イルバの言葉に反応して、ラルトの身体が身構える――それよりも先に、イルバの拳はラルトの頬目掛けて突き出されていた。
 ごっ……
 鈍い衝撃音が、部屋に響く。机に積んであった書類を巻き込んで、ラルトの身体が派手に横転した。
「陛下!!!!」
 今にも飛び出し、イルバに掴みかかりそうな勢いのレンを片腕で制し、スクネが身を乗り出しながら叫ぶ。イルバが殴り飛ばした皇帝の手が、彼の叫びに応じるようにぬっと伸び、机の縁を掴んだ。
「……つ」
 起き上がるラルトは、口元がわずかに切れている程度だった。とっさに身体をそらして、イルバの拳の威力を殺したのだろう。とんでもない身体能力に舌打ちしながら、イルバは彼の身体を襟首を掴んで引き起こした。
「何が判る、と、言ったなラルト」
 ラルトは口元を手の甲で拭いながら、それでもイルバに抵抗を見せようとはしない。無抵抗な皇帝に悲しさを覚えながら、イルバは言葉を続けた。
「何もわかんねぇよ、お前の心中なんざ……判ってたまるか」
 呪われた玉座に腰を下ろすその意味。その心中。判りたくもない。
 呪われていない玉座でさえ、一人の聡明な人間を容易く狂わせてしまうというのに。
「もう一度、訊くぞ。お前の目指すその国に、お前の幸せはどこにある? お前、皇后を失って、生きてられんのか? 皇后と、自分の幸せと引き換えにして手に入れた国なんかで、生きてられんのか?」
 ラルトは答えない。イルバは彼の襟元を握る手に力を込め、彼を揺さぶりながら叫んだ。
「聴いてんのかよラルトっっ!?!?!?」
「聴いてる」
 短く答えた彼は、イルバの手を押しのけて立ち上がると、小さく笑った。
 嗤った。
 自嘲の笑みだということはよくわかった。泣き出しそうな、それでいて今にも声を上げて笑いだしそうな、実に奇妙な笑みだった。
 彼は両手でその笑みを覆い隠す。その手の間から、くぐもった声が漏れ出でた。
「いきて、られない」
 彼は、繰り返す。
「ティアレは俺にとっての最後で……失った後なんて、考えたくもない。ただ、どうすればいいのか、わからないんだ。どうすれば俺は、この国を幸せにできるんだ? どうすれば俺は、俺が死に追いやってしまった仲間たちに、報いることができるんだ? どうしたら俺は」
 呪われた玉座に一人、縛られ続ける哀れな皇帝。
 あまりにも政治の才に長け、剣の腕に秀で――しかし彼は、皇帝の座など似合わぬ。哀れなほどに、優しい。
 その優しさをねじ伏せ、人を殺し、骨の丘を踏み砕き、血の川を渡り、屍の山を越え、彼は呪われた皇帝として、玉座に君臨する。
 けれど見よ。その精神は確かに磨耗しているのだ。己の足元が、見えなくなるほどに。
「考えろラルト」
 イルバは言った。
「昔の仲間云々についちゃぁ、俺はしらねぇ。けれどな、ラルト、お前、真剣に想像したこと、一度でもあるか? 皇后を失ったあとの自分を。お前、生きてられるか? 最愛の女を失った後で、その国を愛して生きてられんのか? 俺には、無理だ――無理だったね!」
 最愛の娘と幾千幾万の国民を天秤にかけ、顔も名も知らぬ国民を選んだ。それほどまでして救おうと思った国が、革命で滅びたとき、もう自分は何も思わなかった。
 もう、愛せなかった。復興に手を貸そうとも思えなかった。あの国で、生きている自分を想像できなかった。
 妻と娘のいない国。
 彼女らの思い出は眠っているのに、彼女らが、どこを探してもいない国。
 その国で生きることなど、もう自分にはできなかった。
「お前はただ、怖いだけだ」
「怖い……?」
「そうだ。怖いんだ。目の前で直接失うのが怖いんだ。何もできねぇことが怖いんだ。だから逃げ続ける――后妃から」
 イルバは皇帝を見つめながら思う。
 この男は、怖いのだろうと。
 自分もそうだった。
 [セレイネ]を失ったあと、[ナスターシャ]と言葉を交わさぬようになった。彼女が病んでいくことを止められず、かといってどんな言葉をかければいいのかわからない。声をかけたが最後、決定的な亀裂が入るような気がして直視しなかった。
 政を理由にして、逃げた。
 自分がかかわらなければ国が傾く。自分がいなければ王が狂う。だからナスターシャと会う時間が取れぬのだと言い訳にした。一人よりも多数助けなければならぬ。妻という個人よりも、国民という多数がいた。政というものの信者。それが自分だった。
 ただの、言い訳だった。
 妻の口から、決別の言葉を耳にすることが恐ろしかった。妻の口から、罵りの言葉を聞くことが恐ろしかった。
 そのようなこと、あるはずがなかったというのに、恐れた。
 自分に彼女しかいなかったように、彼女にも自分しかいなかった。手をとらなければならなかった。
 罵られても、傍にいて、悲しみに暮れる女に贖罪していくしかなかったのに。
 娘を捨てたことに対する謝罪を繰り返していくしかなかったのに。
 逃げ回れば、結局失うだけだ。本当に、大事なものから遠ざかっていくだけだ。そして、本当に大切なものから逃げて、それを失ってしまった国で、人は生きていくことなどできはしない。
「今ならまだ間に合う」
 助けてくれ、とイルバは祈った。
「今ならまだ間に合う。失わずにすむ」
 失ってしまった妻と娘に祈った。
 どうかこの優しい皇帝が、妻を失うことのないように。
 自分の言葉が、この男に届くように。
 力を貸してほしいと、助けてほしいと、祈った。
「勘違いするなよ。お前、たった一人で国を治めてるとか思うなよ。玉座に腰を下ろしてんのは確かにお前だ。けれどな、ラルト。お前の部下は、お前を皇后の元に送り出すぐれぇ、わけねぇはずだ。だってここにいる奴らも、左僕射の兄ちゃんも−―シノも、誰も、民の幸せのために、お前らが犠牲になってほしいなんざ、思ってねぇ」
 民は、皇帝の幸せを祈らない。
 民は自分の幸せが平穏であるために、皇帝に犠牲を強いる。宮廷の人間たちは、自分たちが権力を得るために皇帝の愚鈍、もしくはその力の失墜を望む。誰も、玉座にある人の幸せなど祈らない。たとえ、皇帝がすべてを犠牲にして、彼らを守っていたとしても。
 しかしこの国では違う。
「みんな、お前の、幸せを、祈ってる。お前と皇后の、幸せを祈ってる。皇帝と皇后などという記号ではなく、お前らを人間として見なして、幸せを祈ってる。……だから公務を捨てて皇后を助けにいけと、皆、平気で言うんだぜ」
 客人として滞在した期間の間に見た、宮廷の人々。少なくともイルバの傍にあった人は皆、ラルトを愛していた。
 皇帝と皇后の二人をきちんと個人として愛していた。
 なんと、幸せな国だろう。
 この国において、皇帝は一人で玉座に座することなく生きることができるのだ。
 かつて滅びた祖国を想って、イルバは目を伏せた。誰も、あの国では皇帝の幸せなど、祈らなかった。
「お前が、そういう風にしたんだろ? ここは、そういう国なんだろ? この国で、公務を捨てて、皇后を自らの手で探しにいくことなんざ、罪でもなんでもねぇよ。死者の望みなんざ、考えるな。どうしたら幸せな国を作れるか? そんなもん、皇后を救い出したあとで、皇后と一緒に考えろ。逃げんなよ――大事なもんから」
 ラルトは、終始無言だった。
 沈黙が落ちる。イルバは彼の反応を待っていた。しかし息苦しい静寂ばかりが続く。イルバはたまらなくなって、視線を窓の外に移した。欝になるような鈍重な鉛色の雲が空を覆う。
 再び視線を戻したとき、ラルトは静かに目を伏せていた。まるで、眠っているかのように。
「……おい、ラルト?」
 不安になって思わず声をかける。ラルトは答えなかった。ただ、目を見開いた。
 イルバの眼前で開かれた双眸に、心臓が跳ねる。暗い炎を炊いたような、珍しい深緋[こきあけ]の双眸は、見るものを魅惑する。
 乱闘に巻き込まれ床に放り投げられていた剣を手に取ったラルトは、無言のまま、散乱する書類を踏み越えて、執務室から出て行った。


 剣を手に、足早に廊下を歩く。すれ違った官夫たちは誰しも、少し驚いた表情を浮かべて無言で通り過ぎる自分に頭を垂れている。
 なぜ、今自分はこんな風に足を動かしているのだろう。
 ラルトは歩きながら自問した。
 ティアレの救出には、有能なものばかりを集めて、十分な人員が割かれている。合理性だけでいえば、わざわざラルト自身が赴く必要もない。しかし一度歩き始めた足は、どうあっても止まろうとはしなかった。
(気休めだ)
 ラルトは胸中で呟いた。
(気休めだ。いまさら、俺がいったところで、何かが大きく変わるわけじゃない)
 ティアレが殺されるというのなら、ラルトがハルマ・トルマに辿り着くまでに殺されているだろうし、救出されるというのなら、やはりラルトが辿り着くまでに、ラルト自身が派遣した兵たちによって救いだされているだろう。
 結局、自分が動くのは単なる気休めにすぎない。もしこのまま宮城から動かなければ、長い時間、待つだけという苦行を強いられることになる。
 煩悶することに、自分は飽いただけなのだ。
 ひとたび動けば、もう止まらない。焦燥感が身を支配し、急げ急げと意識を駆り立てる。
 腹の底からせり上がり、喉にひっかかっているのは恐怖だ。ずっと長い間、押し込めてきた恐怖。目の前で、ティアレを失うことに対する、恐怖。
 ――もがいてもがいて、それでも目の前で失ってしまった女がいた。
 銀に塗りつぶされた冬の朝、純白をその赤で汚した女。骨が砕けたやわらかい身体から、瞬きする間に温度が消えていく感触を、今もまざまざと思い出すことができる。何を言っても届かなかった。病んで病んで、自ら塔から身を投げた。
 恐ろしかったのだ。ティアレの病んだ涙を見たときから。彼女も、レイヤーナのように、何をいっても届かないのではないかと。自分が踏み込めば、さらに病んでいくばかりなのではないかと。
 自らの判断で、ティアレはラルトの手元から遠ざかった。だから、彼女が行方不明になったと聞いてもどこか現実感が薄かったのかもしれない。遠く距離を置いて、ティアレが病んでいくさまを直視せずにすむのなら、と。
 怖かった。すべては自らの身を守るため。
 守るために、幸せにするために、彼女を、生かすために、手元に置いたはずだったのに……!
 なのにここまできて、無意識のうちに、自分は己の保守を優先したのだ。
 夢で見た、生暖かな手を思い出す。
 許さない許さない。この血塗られた玉座から、離れることなど許さない。そう囁いて、自分を玉座に縛り付けたあの無数の手を。その中に混じっていた、女の手を。
すまない、と、ラルトは胸中で謝罪した。
(俺は、お前たちを、言い訳に使った)
 自分を玉座に縛り付ける無数の手は、きっとラルトがティアレから逃げたいがために心が作り出した幻だった。
 ただ、志半ばで命を落とすことになった原因を作り出したのは自分だ。レイヤーナも含め、彼らは自分を恨んでいるだろう。
 ラルトが為政者になることを望まなければ、理想を思い描かなければ、それに、彼らを巻き込まなければ。
 彼らは今もきっと生きていた。
(許してくれなくても、いい)
 もう罪は数え切れぬほど犯した。公務を放り投げ、玉座を一時離れる程度の罪が上塗りされたからといって何になろう。
(許してくれなくてもいい、レイヤーナ。もう、当の昔に俺は呪われているのだから。お前の、お前たちの責めはすべて受けるから。だから、俺にティアレを捨てさせることだけは、させないでくれ)
 ラルトは下唇をかみ締めた。イルバに殴られ切れた下唇からは鉄の味がする。まともに拳を食らったわけではなかったが、久々に誰かに殴られたせいもあってか、痛かった。とても。
 じくじくとした痛みが、ラルトに告げる。これ以上の痛みを味わいたくないのであれば、さぁ、迎えにいけ。
 ラルトは口元を緩めた。笑い出したかった。迷う前に動けば早かったのかもしれない。そうだ、ティアレが死んでしまったら、この国でもう自分はいきていられないではないか。レイヤーナも死んだ。ジンもいない。ティアレだけがもう自分の手元に残っているのに。
 それなのに、ティアレがいない世界を、守ろうとしていた自分は、なんと愚かなのだろう。
 ラルトは歩きながら、会いたいと思った。
 今すぐ会いたい。ティアレに。
 だからきっと自分は、こんなにも必死で、皆を跳ね除ける勢いで、廊下を駆けているのだろう。


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