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第十四章 民の意味 3


 ばんっ!!!!!!
 執務室の扉が、前触れなく乱暴に開かれる。視線を開け放たれた扉に素早く移動させながら、ラルトは無意識のうちに傍らに立てかけられた剣の柄に触れていた。レンもまた、武器を探してだろうか、懐を探っている。
 執務室にずかずかと足を踏み入れたのは、帝国領内の一地方へと視察に出ていたイルバである。彼に顔を合わせることが辛くて、理由をつけて二、三日宮廷から離れてもらっていた。
「おいラルト!」
「イルバ……?」
 柄に手を触れさせたまま、椅子から腰を僅かに浮かして、ラルトはイルバを仰ぎ見た。彼が薄汚れた旅装束もそのままに、宮城に帰ってすぐこちらに赴いたことは明白だった。
 ひとまず剣から手を放し、ラルトは立ち上がった。怪訝さに顔をしかめて、彼に問う。
「どうしたんだ? 血相を変えて」
 イルバはラルトの質問に答える気はないらしく、ラルトの顔を下から覗き込み凄んだ。
「つまんねぇ真似して人を遠ざけやがって。二度とやんな」
 ドスの利いた男の声に、ラルトは思わず絶句する。もちろん、その声の響きが恐ろしかったわけではない。絶句したのは、彼を意図的に遠ざけたことがどうやら彼自身には筒抜けだったということに対してだった。やはり、早朝に彼を訪ねて視察の話を持ちかけたのは、唐突過ぎたのだろう。
 ラルトに対しての怒りを収めようと努めてか、イルバが長く息を吐き出した。
 彼にはスクネをつけていたはずだ。その彼の姿が見えない。執務室の入り口を見つめながら、ラルトは尋ねた。
「スクネを振り切ってきたのか」
「振り切ったんじゃねぇ。早足でこっちきただけだ。スクネの奴の足がおせぇんだよ」
 腕を組んだイルバが嘆息混じりに唸る。
「同じことだろう」
「罰するなりなんなり必要ならすりゃいぃ。……外野なのは仕方ねぇが、無意味に外にやらなくても、会いたくねぇっていや分は弁える。結構腹立ったぞ」
「イルバの場合、会いたくないといっても無理やり乗り込んできそうだったしな。仕事を理由に上げても、シノが無理やりイルバの部屋に俺を叩き込みそうだった」
 ティアレが行方不明になってすぐ、イルバを遠ざけたのは、彼の前では自分を取り繕うことができないと思ったからだった。彼の前だけで皇帝という自分が瓦解するならばいいが、あのときは一度皇帝という顔がはずれてしまうと、再び元に戻すことは難しいと思ったのだ。
 イルバは再び大きく嘆息をして、まぁいいわ、と頭を掻く。
「シルキスが何やらかしてんのか、足跡見れたのはよかったよ。んで、この国も周囲の評判より、内部はけっこうのっぴきならねぇのな」
 イルバの口調は軽かったが、何を目にしてきたのか如実に語る言葉だった。
 十年足らずで復興を遂げた古い国と人はいうが、荒廃した土地をいくつも抱えた状態で、復興などと呼んでよいものか。
「そうか。……理解に役立ったならよかった」
 彼の弟子の姿が目撃された土地に彼を行かせたのは、付けこまれる下地がこの国にあるということを、知っておいてほしかったことも理由のひとつだった。
「それで、何で俺に会いたくねぇぐれぇに精神病んでたのか、理由は説明しろや」
 間髪いれずにイルバから質問が投げかけられる。仁王立ちになったまま、イルバは頑として動く気配をみせなかった。彼はどうやら質問の回答をラルトから得られるまで、その場から動く気はないようである。
 ラルトは一度唇を引き結び、躊躇いながら口を開いた。
「……ティアレが誘拐された」
 婉曲さもなにもない簡潔な一言に、イルバが一度動きを止め、これ以上ないほどに声を張り上げた。
「はぁ!? ティアレって皇后か!? なんだそりゃ!? 左僕射とあの嬢ちゃんと一緒にいるんじゃなかったのかよ!? なんだその誘拐されたっつうのは!?」
「説明するもなにも、そのままの意味だ」
 そこまで口にして、ラルトはこれ以上説明してもよいものか迷った。だが彼は客人でありながら、ティアレがダッシリナにいることを知っている。今更だと嘆息し、注意深く言葉を選びながら説明を続けた。
「外歩きにでて、襲撃にあった。そのまま行方不明だったが、一緒に行方不明になっていたヒノトが戻ってきて、ティアレが誘拐されたことを証言した」
「誘拐犯の目星はついてんのか?」
「確証はない。が、目星はついている。その男は現在行方不明で、追跡中だ」
「で、お前は探しにいかねぇのか?」
 ごく当然のように吐かれたイルバの言葉に、ラルトは顔をしかめた。
「……なんで俺の周囲には、政務放り出してティアレ探しに行けっていう奴らが集まってるんだ……」
 普通逆じゃないかと呻くラルトに、イルバが言う。
「んなもん、お前が理性を失って騒ぐような奴じゃねぇってことよく知ってるし、こっちの腹が痛くなるからさっさと探しにいけやっつってるだけだろうが」
「なんでお前らの腹が痛くなるんだ」
「お前が何時壊れやしないかとはらはらしてるっつうことだろ。ガキが川べりなんかうろうろしてっと、落ちやしないかハラハラすんだろ。それと一緒だ。お前にとって皇后は、川べりにおちちまわねぇような、重石だろ? 早く取り戻しておいてほしいんだよ」
 そんなに危うく、自分は人の目に映っているのだろうか。思わず顔をしかめてラルトは呻いた。
「子供かよ俺は」
 その通りといわんばかりに、イルバが腕を組んだまま、ラルトの言葉に大きく頷く。レンがどう思っているのか気になり、ラルトは彼女を一瞥してみたが、レンは相変わらず無表情で部屋の片隅に、無表情のまま控えているだけだった。
「そう思われたくないんなら、最初から最後まで公人でいろ」
 頭をかきむしりながら、イルバが告げる。
「愛する女ではなく政治の道具として貴族、もしくは他国の姫を娶り、首尾一貫全てに置いて、人間として欠損しているんじゃないかというほど捻じ曲がってろ。そうすりゃ誰もがお前を皇帝としか見ない。后捜索には手堅く腕の立つ部下を当たらせ、自らは冷静に公務を平常どおり行う。公人として正しい皇帝に、誰もが賛同していつも通りの日々を送るだろう」
「……公人として事に当たることがまるで悪いことのように聞こえるな」
 険のあるイルバの物言いに、ラルトは顔をしかめたまま低く呻く。イルバは、口元を笑みに歪めた。
「悪いことだぁ? 悪くはねぇよ。お前がきちんとした政治を行えば行うほど、民は潤い、治世は安定する。ガキが腹すかせず、女が春を売らず、豆一粒に殺しあうことのない国ができる」
 皮肉のようにイルバが言う。ラルトはその言い方にさすがに憤然としながら呻いた。
「見てきたんだろうイルバ。この国の実情を。十年でできることなど、たかが知れている。国の端や山の奥に一歩踏み込めば、荒廃が当然のように横たわる。城の中だってそうだ。人の皮をかぶった魑魅魍魎たちが、虎視眈々といつ玉座を手に入れようかと、機会を狙っている。シノがこの国から諸島連国に飛ばされたのだって、血塗られた玉座を欲する酔狂が動いたその結果だ」
 非情だと思われても、この玉座に腰を下ろしておく必要がある。
 なんでもない顔をして玉座に着く。それだけで、城の中に巣食う狸たちの、それこそ重石となる。
「俺が私情で動いて、今、宮を荒らすわけに行かないんだ」
 信頼を築いてから、相手を殺す。
 裏切りあう皇族たちのなんと醜かったことか。
 その皇族たちに擦り寄りながら、さらに城を荒らした宮廷人たち。
 私情はいつも、彼らに付け込まれる隙となる。
 ラルトはその私情を顕にすることを許されない。
 もう二度と、この城の中も、政治も荒らすこともないように。
 自分は、この国の、呪われた歴史すべてを引き受けた、たった一人の――……。
「俺は、皇帝だから」
 この国の呪いを引き受けたのは、もう自分ひとりになってしまった。
 だからもう、その仮面を捨てることは許されないのだ。
 ラルトはふと不穏な気配を感じて身を引いた。経験に慣らされた体が、意識するよりも早く、傍らに置かれた剣に手を伸ばす。しかし伸びてくる手の主を見て、剣を取らなかった。
 結果、均衡を崩した体は床に叩きつけられる。そしてすぐ、胸倉が引き上げられた。
「……ぐっ」
 覚悟していたとはいえ、急に締まった襟首に、ラルトは呻きを上げた。本来ならば堪えることもできただろう。しかし部屋の片隅で懐に手を伸ばすレンを制するほうに意識が引っ張られ、思わず口から声が漏れたのだ。
 イルバはラルトの襟首をつかみ上げながらも、何も言葉を発しようとはしなかった。ラルトの視線が、イルバではなくレンのほうを向いていたからだろう。
「助かった」
 まず最初にイルバからもれたのは、安堵の声だった。
「俺の考えなしは女房からもよく諌められてたけどな。……さすがに自分の娘ぐれぇの女官に刺殺はされたくねぇもんだ。ありがとうよ」
「礼をいうぐらいならもう少し手の力を緩めてくれ。苦しい」
「苦しくなきゃ意味ねぇだろ。今から説教しようっつうんだからよ」
 イルバが一層ラルトの襟元を握る手に力を込める。彼の声音は穏やかだったが、彼の藍色の双眸にはありありと怒気が見て取れた。
「国が荒れるから、離れるわけにゃいかねぇだぁ! ふざけるのもいい加減にしろ!!」
 ぐ、と、さらに締まる襟元。とうとうたまらなくなって、ラルトはその腕を振り払った。
 床の上に腰をつけたまま、上半身をどうにか起こす。急に開いた気管支が、空気を求めて喘ぎだした。襟元を握り締めながら、ラルトは仁王立ちになってこちらを見下ろす男を睨め付ける。
「ふざけるなだと!? いったい何をふざけてるっていうんだ!?!?」
「ふざけてっだろその考えが!!」
 久方ぶりに張り上げた怒声は上ずっていた。その声量を軽く凌駕する声をさらに張り上げ、イルバが言う。
「俺はこの国の過去にゃ、あんま詳しくねぇ。けどこの国の荒れ方が尋常じゃなかったっつうのは昔から知ってたし、今回スクネに色々聞いてさらに判った。過去五百年、即位した皇族が荒らしに荒らした。滅びてないほうがおかしいっつうような状態の国を、お前は何年で、人がまともに暮らせる国に作り変えたんだ!? まだたった――……十二年だぞ!?」
 イルバの手の力が緩み、ラルトは小さな咳を繰り返しながらイルバを見上げた。彼はラルトの体を両足でまたいで仁王立ちしながら、ラルトを見下ろしている。
 表情は相変わらず歪んでいたが、それはラルトに対する怒りからではないように見えた。
「十二年……」
 イルバは繰り返す。
「たった、十二年だ。……聞け、ラルト。俺の国が滅びて今年で八年になろうとしている。安定した国の庇護を受けていてすら、いまだ民は立ち直らない。国土は荒れ、城は焼け落ちたまま。かつての都ですら、町としてきちんと機能しているか疑わしいぐらいだ」
 イルバの言葉を聴きながら、ラルトは彼の出自を思い出す。
 今は諸島連国に併合され、存在しない国バヌア。
 その国を、ラルトは訪ねたことがない。しかしまだ、荒れたままだということは知っている。諸島連国の役人の中には、バヌアを併合したことに不満を持つものもいるのだ。会合で顔をあわせる諸島連国の役人には、かの国をお荷物と呼んではばからないものもいるとラルトは知っている。
「七年前には、ごく普通に、貿易の都市としての機能を果たしていた町が、それだけの年月を経てもまだ戻らない」
 復興の兆しすら見えぬ、小さな島。
 イルバが言葉静かに続ける。
「なのにこの国を見ろ。俺が見てきた荒れた土地は国境近くの田舎だ。国境が近いと荒れやすいのはどこの国も同じ。それ以外の土地は……普通に、きちんと機能してるじゃねぇか! この城の中にゃ、確かにふざけた貴族の野郎だっているんだろう。けど文官武官、女官、俺が世話になった奴らはみんな、躾の届いたやつらだ。お前が十年間の間に行ってきた結果だ! たった十二年でこれだけのことができるんだぜ!? お前、女房迎えにいくのに、何年留守にするつもりだよ!? たった一時玉座から離れて、国が荒れたところで、たかが知れてるだろうが!! 挽回できるだろうがっ、んなもん!!」
 イルバは肩を揺らして力説した後、大きく嘆息して言った。
「何の痕跡もなく、お前の女房がきえちまったわけじゃねぇだろうが。探しにいくっつったって、長くても一年二年ぐらいだろうさ。それぐらい、挽回しろ」
「お前にいったい何がわかる!?」
 ラルトはイルバを跳ね飛ばすようにして起き上がり、彼に掴みかかった。
「お前にいったい何がわかるっていうんだイルバ!! 皆死んだ。俺が愛していったものは皆死んだよ!! 誰もがこの国の呪いに巻き込まれて死んでいった。俺に、たった一つの夢を託しながら!!!!」
 なぜ、皇帝を目指そうとしたのか。
 皇帝という位など興味はなかった。できれば息を潜めるようにひっそりと暮らしていきたかった。けれどそれは許されなかった。
 きっかけは母の死だ。母は異人だった。ティアレと同じ、下級の民の出。強引に親元から引き離され、皇帝の妻たちの争いに引きずり込まれ、嫌がらせを受けながら生きてきた。ラルトを生み、密やかに生きてきた彼女は殺された。馬鹿げた裏切りあい罵り合いの闘争に巻き込まれた形で。
 ジンの母親もそうだった。大国メイゼンブルの姫君として生まれたことを除けば、ラルトの母と同じような足跡をたどってきた彼女は、ラルトの母とともに命を落とした。自分たちは、愚かしい呪いに弄ばれてばかりの国が憎くて、すべてを塗り替えてしまいたかった。
 為政者を目指した。同じように、この国の呪いを憎んでいる人々と共に。
 そして彼らは死んでいった。
 一人、二人、三人、四人。
「みんな、死んでいったんだ……」
 自分が渡ってきた血の河を作ったのは、何も自分が殺してきた人間の屍だけではない。
 自分に、ひとつの夢を託して死んでいった人間の屍もまた、ラルトは踏み越えてきたのだ。
 誰もが、笑い会える国を。
 ラルトは、先日見た夢を思い返した。
 何十と、床から伸びる生白い手が、ラルトを玉座に縫いとめる。その手に、輪唱のように響く声に、窒息しそうになる。
 彼らは生きられるはずだった。それをラルトの抱いた夢が、彼らを死の淵に引きずりこんだのだ。
 初めはジンと二人で分かち合っていた。けれどその彼はもういない。
 生きながらえさせるために、彼はラルト自らの手で遠くに追いやった。
 数え切れぬ人を殺して今この位に立つ。
 その罪は必ず贖うから。
 だから。
「俺はもう、離れることができない」
 判ってる。
 判ってるよ。自分はこの玉座を離れない。
「この国に生きる最後の一人まで、笑える国を作るまで」
 ラルトに掴まれた襟元を緩めながら、イルバが困惑顔で尋ねてくる。
「お前や皇后の幸せは、そこのどこにあるんだ?」
 ふと、部屋の外から、徐々に近づく、慌しく響く足音を聞いた。
 やがて小さな叩扉の音が響き、ラルトの返事を待たず扉が開け放たれる。
「陛下……っ!?」
 互いに襟首を掴みあい、不穏な雰囲気のラルトとイルバに、スクネが足を止める。彼はイルバをラルトから引き剥がすかどうか迷っているようだった。ラルトは小さく首を振った。かまうなという合図だ。
 スクネは顔をこわばらせたまま、小さく頷いた。
 初め、ラルトはスクネがイルバを探してここに飛び込んだのかと思った。しかしスクネはイルバに対しては一瞥しただけである。
「陛下」
 ラルトに向き直った彼は、神妙に言った。
「妃殿下はハルマ・トルマです」


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