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第十四章 民の意味 2


 都への帰途、イルバは苛立ちを隠さなかった。その苛立ちは、都の出発当初はそれほどでもなかったような気がする。しかしラルトに故意に遠ざけられたということを思うと、じわじわと腹の中で怒りが燻り始めたのである。
 さすがのスクネも耐えかねたのか、それともこのまま宮廷に帰してはならないと思ったのか、躊躇いがちに尋ねてくる。
「申し訳ございません、ルス様。一体何に対して怒っていらっしゃるので?」
「ラルト」
 そしてスクネはイルバの即答に口を噤み、それ以降無駄な質問を挟もうとはしなかった。
 ラルトが視察を理由にイルバを遠ざけて幾日かが過ぎている。
 間に合え、とイルバは思った。
 ラルトはあまり精神的に強くはない。本当だったら、きっと権謀術数などという世界から遠ざかっていきるのが一番よいだろう。それほど彼は繊細で、人の機微に富み、屈託がない。
 どうしてあのような人間が皇帝という位に就いていられるのかがわからない。
 どうしてあのような人間が、玉座という汚れた椅子に腰掛けて、正気を保っていられるのかがわからない。
 イルバのかつての主、ワジールのように、狂ってしまえたら楽だったろうに。狂うこともできず、他人に思いを吐露することもできずに生きるというのは、どれほど神経を擦り切らしていくものなのか。
 ただラルトも、狂う一歩手前というところか。狂い始める人間は、人を周囲から遠ざける。
 そしてある日突然、振り切れるのだ。
 何が歯車を狂わすきっかけになるのかは千差万別だ。しかしラルトの場合は皇后の妊娠で、彼女とのすれ違いだった。それが悪いほうへ悪いほうへと転がって、彼の精神を追い詰めていくさまがイルバにはよくわかった。
 だから、間に合え、と思った。
 彼が狂う前に、一人でないことを思い知らせなければならない。
 一人で狂う必要はない。
 この国は、一人で玉座に座らずともよい国だ。
「もうすぐ、都です」
 隣で馬を駆るスクネが告げてくる。イルバは頷いて馬の手綱を強く握り締め、更に勢いをつけるべく鞭を打った。


 誰もが、笑い合えるような国を。
 それは一つの約束事。永遠に守られるべき約束事。
 それを交わしたのは、互いの母の葬儀の日だった。喪服を身につけ、国を見渡すことのできる場所にある小さな墓所で、二人で誓い合った。
 広大な土地に流れる豊かな水と同じほどの血が、流れ続ける国にうんざりしていた。
 誰もが、笑い合えるような国をと願って、自分たちは為政者を目指した。
 その誰も、とは、誰のことだっただろうか。


 何故、厭いながらも玉座に縛られ続けるのか。
 シノから与えられた問いは、仕事に没頭する間も、際限なくラルトの脳裏の片隅を廻り続ける。
 何故、玉座が欲しいと願ったのか。
 何故、この位にしがみ付いているのか。
 皇帝になろうと思った。この国を根底から変えるには、皇帝という位が必要だったからだ。
 この位を離れるわけにはいかなかった。この位を手に入れるために、あまりに多くの人間の人生を塗り替えてきた。その報いは、受けるべきだった。
「集中、できないな……」
 考えることが多すぎてまとまらない。眉間を揉み解しながら嘆息したラルトは、軽く響いた扉を叩く音に面を上げた。
「入れ」
「失礼いたします」
 控えめな声をまとって執務室に入室してきたのは、奥の離宮の女官であるレンである。
 元はティアレに差し向けられた暗殺者。名もなき子供を集めて教育する、暗殺方の機関出身の少女だ。ウルといい、スクネといい、最近自分の周りに裏方の人間が集まっているなとぼんやり思いつつ、ラルトはレンに尋ねた。
「どうした?」
「軽食をお持ちいたしました」
 彼女の言葉通り、レンが持つ盆の上には、竹で編んだ菓子用の籠と茶道具が載せられている。彼女は丁寧に一礼してから部屋を一瞥し、無表情のまま尋ねてくる。
「こちらはどこに置かせていただきましょうか、陛下?」
「そっちの机が空いているだろう。ひとまずはそこに。今こっちを片付ける」
 ラルトは処理した書類をひとまとめにし、机の角に寄せて置いた。文官が書類を取りに来るまで、まだ時間がある。
 レンはラルトから見て左側に設えてある主人不在の机の上に、ラルトの言いつけ通り盆を置いて茶の準備を始めた。彼女が玻璃製の小さな水差しに<熱>の招力石を慎重に入れる様を確認し、ラルトは再び席に着く。
 ほどなくして運ばれたのは、月餅に似た焼き菓子とそれに見合う緑茶だった。
 疲れをほぐすために、甘いものをとれということだろう。ひとまず一つ、菓子を拾い上げて半分に割ってみる。中から出てきたのは胡桃を混ぜ込んだ棗餡。見るだけでも甘さを覚える一品だ。
「用意したのはシノか?」
「はい」
「だろうな。胃をやった人間に、こんなものを送りつけてくるか普通」
「疲れをとるためには、糖分が必要不可欠ですとの、シノ様からの伝言でございます」
 無表情のまま、淡々とシノからの伝言を口にするレンに、ラルトは苦笑を返した。
「ありがとうと伝えてくれ。次はもう少しお手柔らかにとも」
「かしこまりました」
 レンの承諾を聞きながら、ラルトは試しに菓子の欠片を口の中に放り込んでみた。思ったよりも甘くなく、柔らかい。月餅とは明らかに違う食感がする。消化によいのかどうかは判らないが、これならばまだ食べられそうだった。
 レンはてきぱきと、盆の上を片付けに掛かっている。次の仕事が待っているのだろう。
 そう思いかけてふと、ラルトはレンに声をかけた。
「そういえば、今離宮はレンが世話をしているんだったな」
「はい」
 レンは、控えめに頷いた。
 ティアレが離宮を離れて以降、奥の離宮は閑散としている。休めといったのに全く休暇を取る気配のない女官長は、不在にしていた間に溜まっていた仕事を処理することと、ラルトのお守りで忙しなくしているし、他の女官たちも、事情を知るものとして、ティアレの身代わりとなって遠方の療養地へと飛ばされていたり、役職に応じた仕事の処理に忙殺されていたりする。
 今、奥の離宮で専任しているのは、レン一人のはずだった。
「一人では大変だろう」
 奥の離宮は小さな楼閣である。とはいっても、その広さは平気で何組もの家族が住めてしまうほどだ。そのような場所の世話、本来ならば一人で行うようなものではない。
 レンは静かに頭を振った。
「これが、私の与えられた職でありますれば」
 そして珍しく、言葉を付け加えた。
「陛下も、皇帝という責務をお一人で背負ってらっしゃいます。なんら変わりありません」
「……それもそうだな」
 女官の仕事と皇帝の仕事を並べて批評するとは思わなかった。
 レンの言葉に、ラルトは笑いをかみ殺しながら同意した。
「それでも離宮を一人で管理しようとすると、大変だろう」
「そのようなことはございません。シノ様も時折来てくださいます。……そして、ティアレ様がお戻りになられたときに、いつもと同じ空間で、迎えて差し上げたいのです。一人で離宮を磨くことに、苦痛を覚えたことなどございません」
 無口だと思っていた女官が、熱っぽくティアレの為にと語る。それを見て、ラルトはティアレがどれほどこの娘に慕われているのか判った。
 レンから温かな湯気を上げる茶碗を取り上げ、微笑む。
「そうか。ありがとう。……ティアレも喜ぶだろうな」
「……ティアレ様の居場所は、お分かりになられましたか?」
 躊躇をみせながら、レンが問いを口にする。ラルトは、小さく嘆息して首を振った。
「いいや。まだだ」
 レンの瞳が暗く沈む。その目を直視したくなくて、ラルトは黙って茶碗に口をつけた。
 淹れられた緑茶は香り高く、鼻腔をくすぐって身体を温める。しかし今は茶の香りにまったりとしている場合ではない。割ってしまった菓子をひとまず口の中に放り込み、無理やり飲み下した。
 味がしない。食事に味を感じなくなったのはいつからだっただろう。
 執務室は静かだった。
 ラルトの喉の音すらよく響く。その静寂に気配すら溶け込まし、少し距離を置いて佇んでいたレンから刺さるような視線を感じ、ラルトは面を上げた。
「どうした?」
「……陛下は、何故、ティアレ様を探しに行かれないのですか?」
「……シノと同じことを問うんだな」
 ラルトは苦笑しながら茶器を置いた。シノ以外の人間に、そのようなことを言われるとは思っていなかった。
「俺だって探しにいきたいけれど、どうしようもないことがある」
「どうしようもないこととは、何ですか?」
「レンは……そういえば、この部屋に入ったのは初めてだな?」
「はい」
 レンが小さく頷く。それを確認し、ラルトは傍らに高く積まれた書類を叩いていった。
「これが民の声のほんの一部だ」
 日々、吸い上げられてくる民人の声は、一度それぞれの地区の官吏が処理を行う。処理しきれない複雑な事項は、順々に上へと繰り上げられて処理される。そして最終的に裁可の必要なものが、ラルトのもとに集められてくる。
 何人もの人間を通してさえ、数の減らぬ声。
「堆く積まれる民の声。それに応じること。それを何よりも優先させることが、皇帝の仕事だ。それを投げることはできない」
「民の声……それはどのようなお声ですか?」
 レンの問いは、素朴な問いだった。
 政治も何も知らぬものの問いだ。思いがけぬ問いに、ラルトは虚を突かれた。そんな根本的なことを問うものなどラルトの周囲にはいない。ラルトの周囲には政治家が溢れていたし、政のことなど全く判らぬ、娼婦上がりのティアレですら、そういったことは問うことなく理解していたからだった。
「民の声……か。そうだな。助けて、という声か」
「では、民とは誰ですか?」
 思いもよらぬことを問われて、ラルトは思わず瞠目していた。
 レンはシノのように深い意味で以って、ラルトに質問を投げかけたわけではないだろう。民という言葉が理解できぬ子供のように、純粋にその意味を問うただけのように、ラルトの目には映った。
 レンは、小さく首を傾げる。
「……申し訳ございません。無知をお許しください。私は、何かおかしなことを問いましたでしょうか?」
「いや。……別におかしくはないんだが、そんなことを聞かれたことがなくて。民は誰、か。……この国に住む、全ての人間のこと、だろうか」
 民は誰。
 民を定義することはひどく難しいと思った。民は誰。そんな風に、ラルトに尋ねた人間は、今まで誰もいなかった。
 ラルトの答えに納得したらしいレンが、小さく頷いて、では、と口を開く。
「ティアレ様を探しにいくことに、何故躊躇われるのですか? ティアレ様も、この国に暮らす人間の一人です」
「それは――……」
「同じ民の助けを求める声に、どのように陛下は、優先順位をつけていらっしゃるのですか?」
 どのように優先順位をつけているかと問われても、説明することは難しい。
 その時の国内外の状況。大臣たちの思惑。緊急性。そういった様々なものを加味して、優先順位は決定されていく。
 ラルトは別段、ティアレを後回しにしているわけではない。むしろ何よりも優先すべきこととして、手をうっている。
 ただ、ラルト自身が捜索に身を投じることが、ないだけだ。
 そのことを、どうやって噛み砕いて説明しようか考えあぐねていると、レンが続けて口を開いた。
「私は昔、ティアレ様を殺そうとしたことがございます。けれど私は殺すことができませんでした。……陛下もご存知であらせられますね?」
「……あぁ」
「今もきっと、見知らぬ誰かを殺せと命ぜられたら、殺すことができましょう。あえて不幸になれ、とは思いませんが、彼らが生きていようとも死んでいようとも、私には関心がないのです」
 しかし、とレンは言った。
「私は殺すことは躊躇いませんが、見たことも会ったことも話したこともない大勢の人間を、愛しなさい、彼らの為に尽くしなさいといわれれば、躊躇すると思います。私はティアレ様という存在を知ったからこそ、あの方を殺すことができなかったと思うのです。あの方が主だからこそ、尽くすことも苦にならないのだと思うのです。……陛下はどのようにして、見ず知らずの人間の声を、ティアレ様の声よりも優先させているのですか? どのようにすれば、名前も知らない、一度たりとも会わないかもしれない人を、大事に思うことができるのですか?」
 普段寡黙なレンが酷く饒舌なのは、ティアレを自ら探しに行かないラルトに、苛立っているからだろうか。彼女の湖水のように静かな瞳に、感情の揺れを見つけることは全く叶わなかったが。
 民は誰。
 会うことも話すことも無論名前を知ることもない、ラルトにとって見ず知らずの他人。
 けれどラルトはそれを誰よりも愛さなければならない――皇帝だからだ。
 誰もが、ティアレよりも民の声を優先させるラルトに疑問を持たない――ラルトを、ラルトではなく、皇帝としか見ていないからだ。
 けれど、ラルトにとっての、民は。
 ラルトにとって、愛すべき、守りたいと願う、民は。
 民は、誰。
『貴方様の幸せが含まれていない理由で、皇帝になろうなどと本気で思ったのですか?』
 シノの問いが突き刺さる。
 彼女はラルトを皇帝ではなく、ラルトとしてみていた。皇帝という何かではなく、皇帝という位に就く一人の人間として、ラルトをきちんと見ていた。だから彼女は追求したのだ。
 皇帝ではない自分が、願った本当のこと。
 レンがラルトに追求したのは、彼女が皇帝という位の意味を、いまひとつ理解していないからだろう。
「それは――……」


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