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第十四章 民の意味 1


 展望の塔に立って外を眺める。
 ハルマ・トルマの城は気に入っていた。防衛の要として建てたのだったか。広い海が壁面を削るほどに迫っている。その、海との近さがよい。
 海が好きなわけではない。けれど母国とは少しでも近いほうがいい。それがほんの僅かな距離であっても。水の帝国の宮廷は、これほどまでに海と近くはない。
(生まれ故郷といえば、この国こそ生まれた国に違いはないんだけどなぁ)
 けれど、この国にはもう何もない。
 郷愁も、愛情も、憎悪も。
 そのような国に、何故再び足を踏み入れたのかは判らない。
 ただ、見てみたかった姿があるからだろう。
 呪われていない、国の姿。
 彼は凝った体をほぐすために、軽く首を回した。その際に、古城に到着したばかりらしい馬車の姿を門付近に見つける。彼は肩をすくめ、独りごちた。
「あー、お早いお着きだ」
 彼の契約者と、この仕事に関する同僚とでも言おうか。やはりダッシリナからは早く追い出されたらしい。いや、早くと同僚のほうが急きたてたのか。契約者はこの舞台を用意するために利用させてもらっただけで、野心ばかりが強い、能力のない男だ。あのままダッシリナに滞在しては危ういという判断が、その男につくはずもない。
 同僚の方は、頭は切れる。しかし何かが振り切れてしまったものの物悲しさと虚脱感に満ちていた。狂人になりきれていない様が、いっそ哀れだ。いや、常人からすると、彼の思考の仕方は、十分に狂っているといえるのかもしれないが。
 何はともあれ、これが彼らと付き合う最後になるだろう。その後は、各々の望みに向けて別行動を取る。
 彼は大きく伸びをすると踵を返した。そのまま、展望台を後にする。
 今しばらくは契約上の主人と同僚である男たちを迎える、そのために。


 いくらヤヨイが供をしていれば、ある程度出歩くことを許されるとはいえど、その範囲は限られている。その上、ハルマ・トルマの古城は、歩き回ったとしても、面白みも何もない城だった。
 ティアレの部屋からはハルマ・トルマの街の様子が見え、散歩に出た先では、古城が隣接する海が見える。春の海は凪いでいて、鈍色に沈んでいた――今日は、空を厚い雲が蓋をしている。散歩して楽しめるものは、その、海の景色だけだった。かつて、この古城に滞在していたことがあったというのに、懐かしさは欠片も覚えない。
 早く、ラルトの元に帰りたい。ティアレは、それだけを強く思った。
「出産するにしても、堕胎するにしても、まず体力を養うことが大切です。だから、しっかり食べてくださいね」
 ラヴィが宣言したとおり、ティアレの世話はすべて行う。食事の世話もそうだ。一日三回、食事を運ぶたびに、ヤヨイはそのようにティアレに言い含める。口調はともかく、その内容がヒノトの言葉そのままで、初めてヤヨイのその言葉を耳にした時は、ティアレは思わず笑ってしまった。
 運ばれてくる食事の献立は様々で、予想していたものよりもはるかに上質の食事がティアレに与えられていた。今日の主食は粥だが、水で煮立てたものではなく、山羊の乳で煮込んだものだった。それに小麦を練って香草と焼いたものがつく。野菜と肉の炒め物が添えられていた。
 味は素朴で、温かい。
「料理、お上手ですね」
 ティアレに出される食事は全てヤヨイが作っているのだという。寝台の上で口に粥を運びながらティアレが感想を述べると、床に敷かれた絨毯の上で本を呼んでいたヤヨイは、照れくさそうにはにかんだ。
「ありがとうございます。本当はこちらの大陸の料理も作ることができればよかったんですけど。私、普段は料理、あまりすることがなくて……」
「あまり料理をしない? それにしては、とても美味しいですよ」
「うー。褒めても何もでませんよ、ティアレ様。あ、これ今日の薬です」
 ヤヨイが思いついたように差し出してきたのは、白い紙の小さな包み。その中身はおそらく、館について早々飲まされた苦い丸薬と同じものだろう。ヒノトに、得体の知れない薬は胎児に影響があるため飲むなとは言われている。それを理由につっぱねたのだが、これは大丈夫だとヤヨイは言い張って、とうとうラヴィに口を掴まれ、無理強いに飲まされた。乱暴な扱いを受けて結局飲まされるのなら一緒だということで、今は大人しく言われるままに飲んでいるものである。
「きちんと飲んでくださいね」
「……繰り返し訊くようですが、一体何の薬なのですか?」
「お薬はお薬です。ですから、毒ではありませんってば」
 本当の本当ですよ、と、ヤヨイが主張する。包み紙を彼女の手から受け取って、ティアレは中身を確認した。
 黒い丸薬は、味も臭いも、ヒノトが最近毎日処方してくれていたものに似てはいる。しかし効果がわからない以上、口にすることは躊躇われた。
「ためしに私が食べてみてもいいです。ティアレ様の体調を考えて、毎日私が調合している薬です。ですから、何の薬かと問われましても、答えに困るのですけれど」
「……ヤヨイが作っているのですか?」
「はい」
 にこにこと満面の笑みを浮かべながら、ヤヨイがティアレの問いに応じる。思わずティアレは、手のひらに乗る小さな丸薬を見つめた。
「調合している薬は、お腹のお子にも影響がないもので作っています。ティアレ様の体調が落ち着きましたら薬もなくなります」
「……今日、熱が下がっているのもその薬の為ですか?」
「正確には、昨日一昨日と飲んでいただいたお薬です。今日は熱が下がっているようですので、解熱のものは材料にいれていませんよ」
 ヤヨイの言葉を聞き流しながら、ティアレは嘆息した。捕らえられて以降、発熱と昏睡を繰り返していた。このハルマ・トルマに移動する道中のことも、熱に浮かされあまり覚えていない。ただラヴィが、眠れと、ティアレに魔術をかけた。それがダッシリナでの最後の記憶だった。
 ハルマ・トルマに落ち着いてすぐは気だるさが身体を支配していた。しかし今のところは平熱に下がり、気分も落ち着いている。それがまさか、ヤヨイの用意した薬の為だとは。
「……何故、私の体調を、気にかけたりなどするのですか?」
 見るからに稚さを残すヤヨイが、薬を作ることが出来るという事実にも驚いたが、ヒノトの例もある。その事実にはあえて追求せず、ティアレはもう一つ、気になっていることを問うた。
 何故、こんな風に、ティアレに回復を促すようなことをするのか。
 一体どんな提案をラルトに持ちかけるため、ラヴィがティアレを手元に置いておくのか、ティアレは知らない。確かに人質が死なれては困るだろう。だが、病で衰弱していたほうが、人質は扱いやすくあるはずだ。
「目の前に、怪我している人がいたら、手当てをします。目の前に、熱を出している人がいたら、薬をあげます。ティアレ様は、そうしませんか?」
「……そうですね。そう……するでしょう」
 確かに、目の前で誰かが倒れていたら助けに駆け寄るだろう。だがそれは、相手と自分に立場というものが存在しないときだ。
「私を、助けてくれる――それは、貴方の意思なのですか? それとも、ラヴィの意思なのですか?」
「……ティアレ様を助けたいと思っているのが、私か、将軍か、っていうことですか?」
「そうですね」
「……んー。私も、将軍もだと、思いますよ? ティアレ様のお世話をするために、私はここに呼ばれました。熱を出してらっしゃるティアレ様を放置しておけとか言われてないです。将軍が昨日、ティアレ様に薬を飲むことを強要なさったのは、私が将軍に頼んだからですし」
「頼んだ……」
「このまま、ティアレ様のお身体の具合が悪いままだと、お腹の赤さまが、死んでしまうと思ったんです。もう何度も、お熱を出してるって、将軍に聞きました。それなのにまだ流れていないから、よほど生まれてきたいと思ってるんだろうなって」
「……私は、赤子を生めない身体だと、知っていますよね?」
 ヤヨイがティアレの世話をするのだと決まり、ラヴィとともに最初に挨拶に来た後、彼女はティアレの体調を問診した。その時すでに彼女は、ティアレが妊娠しており、さらに出産できぬ身体だと知っていたのだ。
「それは、呪薬のせいですよね? それは子供を生めない身体とはいいませんよ」
 膝の上に乗せている本を閉じながら、ヤヨイがティアレの言葉を否定した。
「確かに、今のままでは産めないと思いますけど。でも、きちんと治療をすれば治るものです」
 リョシュンですら、匙を投げた。
 ヒノトも、諦めるなとは言ったが、必ず治るとは断言しなかった。
 それを、ごく当たり前に治癒できる病のように、ヤヨイは言う。
「……でも、時間が掛かるのでしょう?」
 諦めなければいつかは治るのだとヒノトが言っていた。だが、いつかという言葉が示唆する時間はとても長いのだ。赤子が生まれる期日までに治るものではない。
 ヤヨイの言葉を信じることが出来ず、皮肉に口の端を歪めて、ティアレは問うた。しかしヤヨイの返答は、ティアレにも予想できぬものだった。
「普通のお医者様だったら、そうなのかもしれないですけど……。結構簡単に、治るものですよ」
「嘘」
「どうして、疑うんですか?」
「誰も、治らぬといいました」
「何故、ティアレ様は他人が治らないといったら、それを信じるのですか?」
「……何故って……」
 ティアレの病が治らぬと言ったのは、無知な者ではない。世界でも有数の医学の権威と呼ばれる老人が、苦渋の上で判断したのだ。信じたくはなかったが、無知なティアレよりも彼の判断のほうが数倍正しい。
「病は気からといいます。難しい病も、案外思いがけないことで突然治ってしまうことも、あるんですよ」
「ですが私の病はそのような類のものではないと聞き及んでいます」
 娼婦の頃、ティアレが口にしていた呪のかかった丸薬。
 それが原因だと聞いた。いわば、麻薬の副作用、あるいは後遺症のようなものだ。しかも魔術がかかっていて、容易に治療できるものではないと聞いた。
「そうですね。単なるお医者さまには難しいことなのかも」
 ぼそぼそと、独り言のようにヤヨイが呟いた。
「……私は確かに十三の小娘ですから、お医者様が仰った言葉より、私の言葉を信じろというのは無理な話なのかもしれません。信じる信じないは、ティアレ様次第です。ただ……ティアレ様は、どうしてそんなに、労わられることに躊躇われるのですか?」
「……労わられることに、躊躇う……?」
「はい」
 膝の上で本を閉じた彼女は、立ち上がってティアレの傍らに椅子を引き寄せた。そこに腰を下ろし、ティアレの前に置かれた、食事の乗った盆を指差す。
「私は食事を一日三回、ティアレ様の元に届けます。ティアレ様のお体が、少しでもよくなるように。……ですが最初、温かい食事にティアレ様は驚かれました。おかずが多いことにも驚かれて、薬が体調を整えるためのものと私がいうと、信じられないというような顔をなさりました」
 それは、ティアレでなくとも、驚くだろう。
 いや、ティアレだからこそ、驚いたのかもしれない。人生の半分以上を占める囚人にも似た娼婦としての生活において、こんな風にティアレの身体を労わるものなどいなかった。食事は人が食べるものでないような粗末なものか、逆に胸焼けを起こしてしまうような豪奢なものに二極化していた。
 今回ティアレに与えられているのは、緩やかで怠惰な軟禁生活。ヤヨイさえいれば基本的にはこの古城の中を散歩することも許されるので、療養の為に滞在しているかのように錯覚すら覚える。
「将軍の思惑は、私の知るところではありません。ですからお答えすることはできません。でも今は、ティアレ様を傷つけるおつもりは、将軍にはないようです。ティアレ様が安らかであるよう、配慮するようにと言い付かっています。何故、それを喜ばないのですか? 何故、そんな風に不当に扱われるのが当然とでもいうような、お顔をなさるのですか?」
「不当に扱われるのが当然などとは、思っていません」
「でしたら、何故そんな顔をなさっているのですか? 何故、これを機会に、体力を蓄えようとは、なさらないのですか? ティアレ様のお体は、ティアレ様だけのものではないのでしょう? 少しでも生き残れる可能性を高めるために、よく食べて、よく休んで、体力を蓄えておくのは、ティアレ様の義務だと私は思います」
 ヤヨイの言葉は、ティアレを軟禁している側の人間の口から出たとは思えないようなものだった。
 ティアレは唖然としながら、頬を紅潮させて力説した少女を凝視する。ティアレの視線に、己が今何を口走ったのか気付いたらしい。ヤヨイは先ほどと一転して顔色を青ざめさせ、ぶん、という風を切る音がティアレの耳に届くほどの早さで、頭を下げた。
「すすす、すみません!! 大変失礼を……!!!」
「いえ……大丈夫です。頭を上げて、ヤヨイ」
 そろそろと顔を上げる少女に、ティアレは噴出しそうになった。ヤヨイの表情は、叱られることを覚悟する子供と変わらなかったからだ。
「耳に痛い諫言ですね」
「……すみません」
「いいえ。大丈夫です。ありがとう」
 しゅんとなって頭を垂れる少女の頭を、躊躇いながら、ティアレはそっと撫でた。こちらの表情を窺うように上がる少女の目線とティアレの目線がかち合うと、彼女ははにかんだように笑う。
 その微笑に微笑み返しながら、ティアレは胸中で独りごちた。
(……私の、義務)
 ――ティアレ様のお体は、ティアレ様のものだけでは、ないのでしょう……?
 そう、ティアレの身体はティアレのものだけではない。
 もしかしたらヤヨイは、ティアレの腹に宿る命のことを思ってそのように口走ったのかもしれない。しかし彼女の言葉は、ティアレに立場を認識させるに十分だった。
 どうしてこんなに簡単に、自分のことで一杯になってしまうのだろう。
 ティアレの身はティアレのものだけではない。だからこそ、ティアレは人質として軟禁されている。人質として価値がある。一つの国を支える女の為に、大勢の者がその命を懸ける――……。
 これからティアレがどんな役回りを要求されるのかは判らない。だが、どんなことを要求されても、[したた]かに生き延びて、ラルトの元に無事に帰る義務が、自分にはあるのだ。
『どんなことも、健康でなければ、成し遂げられぬのだぞ、ティアレ』
 ヒノトの言葉が蘇る。ダッシリナにいる間も常に食事をともにして、ティアレが皿を空にするまで彼女は付き合った。ラヴィは彼女を帰したといっていたが、本当に無事だろうか。
 自分だけの、ものではない。
 無論、ラルトだけの、ものでも。
 もう自分は自分の運命だけを負う滅びの魔女ではない。ラルトの背負う運命を分かち合った一人の女なのだ。
 判っていたはずなのに、やはり判っていなかった。だからこそ、ヤヨイの言葉がこんな風に突き刺さる。そもそも本当にわかっていたのなら、我侭を突き通すこともなかったし、ウルやシファカを危険にさらすようなこともなかったのだ。シファカなど、通りすがりにすぎなかったのに。
 国では大勢の人間が、ティアレを探し出すべく動いていることだろう。その彼らに報いることができるとしたら、今はやはり、食べて休み、自由に動けるだけの体力を取り戻しておくことなのだ。
 己の愚かさに嘆息しながら、ティアレはひとまず食事を片付けるべく、匙を手に取った。
 その時だった。
「ティアレ、行くぞ」
 今日はまだ姿を見せていなかったラヴィが、前触れなく扉を開け放ち、部屋に踏み込んできた。
 ティアレは思わず瞬いた。ラヴィはティアレと初対面のときの文官姿だったからだ。刺青の綺麗さっぱりと消えたその姿は、昨日までの姿とは文字通り別人である。
 しばらく文官姿にはならないようなことを口にしていたというのに、その心変わりは一体どうしたことか。
 寝台の上で食事をとる姿のまま、動く気配のないティアレに業を煮やしたのか、ラヴィが顔をしかめた。
「ヤヨイ、ティアレの支度を」
「え? あ、はい」
「ひとまず夜着からそれなりの衣服に。髪は結わなくていい」
「は、はい」
 ラヴィの命令に、ヤヨイが慌てて動き出す。彼女はまず寝台の上から食事の乗った盆を取り上げ、卓の上に移動させると、ティアレの衣服を探すためにだろう、慌しく部屋の片隅に置かれた行李を漁り始めた。
 ヤヨイが忙しなく仕度の為に、ティアレの周囲を右往左往する。ティアレはヤヨイのするがままになりながら、ラヴィに尋ねた。
「どこへ行くのですか?」
「安心しろ。そんなに遠くへはいかない。古城から外に移動するわけじゃない」
 ラヴィは肩をすくめて応じた。
「部屋にはすぐ戻ってくる。ただ、少しばかり、抜け毛があるかもしれないけどさ」
「……抜け毛?」
 一瞬、ラヴィが言い間違えたのではないかと思った。
 ティアレは怪訝を皺に替えて眉根に刻み、鸚鵡返しに聞き返す。ラヴィは片手と首を左右に振った。
「いや冗談で言ってるわけじゃぁなくてだなぁ。……ん。まぁ行けば判るよ」
「そうですか……」
 両手を合わせてごめんなーと笑う男の表情に、ティアレは脱力する。何をされるのかはわからないが、今はひとまず生き残ることが重要だった。今からのことと抜け毛がどう関係あるのかは知らないが、このぶんだと殺されることはないだろう。
「将軍」
 少し目尻を吊り上げ、ラヴィを睨め付けのはヤヨイである。彼女は片方の手を腰に添え、仁王立ちすると、動物を追い払うかのように、しっしと手を振った。
「無駄話はいいですけれど、お着替えしますので一度部屋から出てくださいね。ご婦人の着替えを覗かれるおつもりですか?」
「あぁそうだな、ごめん。部屋の外にいるから、できたら呼んでくれよ」
「かしこまりました」
「あと、なるべく早く。お客人が怒るから」
「お客人とは……?」
 ラヴィの承認がなければ、誰も入れぬというこの古城に、招かれる人物などいるのだろうか。
 ラヴィは微笑み、しかしティアレの問いには答えない。
 扉の閉じる音が部屋に響き、腕まくりをしたヤヨイが、着替えさせんとティアレの衣服に手をかけた。


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