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第十三章 祭りの夜に 3


 ソンジュの行方と目的について簡単に論議したあと、ユファと別れ、エイと簡単な打ち合わせを済ませる。上官は明日の朝――もう、今日の朝だろうか。予定通り、随行した全ての人間を伴って、水の帝国へ帰国するらしい。
 ソンジュが水の帝国へ向かったのは昨日の夜のこと。エイが帰国を急ぐのは、ソンジュを迎えて捕らえるための、準備を整えなくてはならないからだった。
 エイから自由に動く許可は出されたが、水の帝国に定期的に連絡をいれるようにとは釘をさされた。もとより、そのつもりではある。
 宮廷は静かだった。もともと襲撃を行った時刻が夜半を回っていた。まだ大半の人間が夢の中だろう。
 奥の区画へ向かっていたウルは、廊下の窓枠に頬杖をついて外を眺める見知った人物に、足を止めた。
「……閣下」
 呼びかけとも呼べないような囁きに応じて、ジンが視線を動かす。その口元は、苦笑に歪んでいるようだった。
「悪いねぇ。嘘をつかせた」
 ちっとも悪びれた様子のない、面白がってさえいるような彼の声音に、ウルは顔をしかめて歩み寄った。
「カンウ様に嫌われるのは嫌ですよ。後で私の代わりに謝ってくださいね、閣下」
 二年以上、仕えた上司である。彼を騙すように言いくるめて、一人で動く許可を得たことに胸が痛んだ。
 今回ジンとともに行動するとウルが決めたのは、彼が姿を消さぬように見張るためである。
「んー、どうだろう。俺、エイを選んですぐ国出たもんだから、あんま彼の性格わかってなくてさぁ。謝ったらすぐに許してくれそう?」
「四年間も貴方不在のとばっちりを受けて東奔西走。上司不在の慣れぬ仕事であっちから叩かれこっちから叩かれした挙句、全てをまる投げした上司に騙されたとあっては、いくら温和なあの方でも怒るでしょう」
 ジンと違って、エイは不器用だ。左僕射の席について間もなくは、大臣を含む周囲と随分と折衝があった。今でこそ軟化したものの、数年前の彼には生真面目がすぎて融通の利かぬところがあった。しかし折衝は、エイの性格全てが理由ではない。ジンという存在を透かし見る周囲からの重圧があったことが大きい。
「あーうん……俺のせいで苦労したわけね」
 ウルの言葉の裏を悟ったらしいジンが、遠い目で呻いた。
「じゃぁ、会うのやめとこう」
「縄で縛って突き出しますよ」
 ウルは真顔ですごんだ。ジンが身を引きながら半眼で呻く。
「うっわウルなんかその顔すっごく怖いって」
「ティアレ様とシファカ様のことがなければ、今すぐに一服盛って陛下の前に突き出し、皆でたこ殴りにしたいところですよ?」
「大体、普通だったら寝込んでていておかしくないって言うのになんでそんなに元気なのさ?」
「気力です」
「気力でどうにかなるもんでもないし! いやだから、その満面の笑顔も怖いんだって」
「知ってます」
 ウルが口元に刻んだ笑みの皺を一層深くすると、ジンは嘆息して再び窓の外に視線を移した。
「……先ほどから何をご覧になられてるんです?」
 彼の視線を追うようにして、ウルは窓の外を覗き見た。空は徐々に群青の色を薄め、彼方に見える水平は白み始めている。もう、夜明けなのだ。
 ジンの視線の先には、中庭に停められた馬車が一台。そこに乗り込んでいくのはウルの上司と薬師見習いの少女だった。
「これからすぐに、水の帝国に戻るんじゃないの? エイ」
「よく判りましたね」
「俺も毎年、星詠祭で挨拶終わった翌朝に出立してたもん。鶏がこけこっこーって鳴くぐらいの時間にさ。予定変更されてないならそうかなって。エイは一刻も早く帰りたいところだろうし。有事だし、ラルトが心配でしょう?」
「……貴方様は陛下が心配ではな」
「心配だよ」
 ジンの回答は、即答だった。
 否、質問を終えるよりも、早かった。
 彼は窓枠から身を起こし、顔から笑みを消して言葉を繰り返す。
「心配だよ……」
 夜明けを前に、ジンの亜麻の双眸は暗かった。その眼差しは遥か遠く、虚空を見つめている。
「……ならば何故、戻ろうとなされない?」
『その力、うちの陛下の下で、使う気ない?』
 あとは死を待つばかりだった自分に、彼はそう言って手を差し伸べた。国を突如出奔するその日まで、彼は皇帝のことを気にかけ続けた。
 そして今も、彼は皇帝を愛している。
 だというのに、何故、戻ろうとしないのだ。
 中庭から出発した馬車は、人目つかぬよう裏口を通り、これから水の帝国の大使館へと一度戻る。そして落ち着く間もなく、帰国の旅へ出るのだろう。
 その小さな影を見送りながら、ジンが唇を震わせる。
「……ラルトは――……憎んでるんじゃ、ないだろうか」
 まるで、蜻蛉の羽ばたきのように、儚い囁き。
「え?」
 明瞭さにかけるジンの言葉に、ウルは思わず訊き返す。
 しかしジンは小さく頭を振り、小さく微笑んだ。
「今は、シファカのことで一杯一杯だから、俺。ラルトのことを気にかけるなんて、無理無理」
 まるで、迷子の子供のような。
 頼りない目をして、彼は笑う。
 ウルは嘆息し、エイとヒノトの乗る馬車を見送りながら言った。
「ならば、私は必ずシファカ様を見つけましょう。……シファカ様を見つけ、そしてティアレ様と、貴方様を、陛下の下に必ず帰します。そのために、私はここに残ったのですから」


 館に着くころには、太陽は地平から頭を覗かせていた。館に到着してすぐさま、待機していた馬車に乗り換えダッシリナを後にする。
「……そっちに座っても、よいじゃろうか?」
 馬車の中、徹夜でかすむ目を擦りながら、ひとまず報告の書類に目を通していたエイは、ヒノトの声に面を上げた。
「いいですよ? 眠れませんか?」
「いや……眠いんじゃが」
 何かしらを口ごもる彼女に微笑んでやって、エイは傍らを空けた。長旅用のため、快適さを求めて空間に余裕を持たせてはあっても、馬車の中は決して広いとはいえない。ヒノトが傍らに腰を下ろせば、身体の大半が密着することになる。
 エイは彼女を片腕の中に収めるような形で迎え、仮眠のための毛布を引き寄せた。
「ウルが、無事で本当によかった」
「本当です。……ただ、怪我のこともありますし、無理をしないでくれるといいのですが」
 怪我の具合は訊かなかった。ただいまいち血色の優れない副官の顔を見ていれば、彼の体調などおのずとわかる。無理はしてほしくはない――だが、今は無理をしなければならないときだった。
「……ティアレ達は、見つかるじゃろうか?」
 ぽつりと落とされた囁きに、エイは断言してやる。
「見つかりますよ。ご無事です」
「……だと、よいな」
 彼女は同意し、目を閉じた。そして両手で目元を覆い隠し、小さく囁く。
「ごめんなさい……」
 掠れた声だった。
 その震える声が、あまりにも痛々しい。彼女は謝罪を繰り返し、やがてその呟きには嗚咽が混じり始める。エイは、その震える肩を抱く手に力を込めながら、思った。
 彼女は何も悪くない。
 彼女は、必死だっただけだ。ティアレに笑顔を取り戻したいと。誰もがティアレの価値を考えて行動する中、ヒノトだけがティアレの心を慮った。その結果だ。悪くない。
 そんなに、泣く必要はないのに――……。
 安全なところにティアレを留め置き続ける義務のあった、エイにこそ、責はあるのに。
 エイは傍らの暖かさを確認しながら、思った。
 この当たり前のぬくもりを失っている皇帝は、今、どうしているのだろうかと。
 しゃくりあげる小さな肩を抱きながら、窓の外を見る。
 白む空。明ける夜。けれど、真の意味の夜明けではない。
 まだ、祭りは終わらない。
 水の帝国が引きずり込まれた、不本意な祭りは、まだ終わらない。


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