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第十三章 祭りの夜に 2


「この国に残る?」
「はい。お許しいただきたいのです」
 ユファ・ハン・ダッシリナと面会するための部屋に通されて早々、ウルがエイに請うたことは、水の帝国に帰国せずに一人残留することの許可だった。
「ティアレ様を探すために?」
「はい」
「あぁそれならばかまわないよ。盟主にひとまず挨拶をして、君と、あと医師も含めた何人かを館に残留させよう」
「いえ。私一人で動きたいのです。他の方々は全て引き上げてくださってかまいません」
「……ウル、一人で?」
「はい」
 エイの鸚鵡返しの問いに、ウルが再び頷く。エイは肯定を求めて問いを重ねているわけではない。ウルが一人での残留を希望する、その理由を知りたいのだ。
 仕方なく、エイは嘆息した。
「理由なしに許可はできないよ、ウル。ティアレ様の捜索は確かに急務だし、君の能力が必要になる。だからこの国に残留することは私も同意できるけれど、一人でというのは解せない。君は怪我人だし、身体を診る人間もいるだろう。潜入捜査にでも出るつもり?」
「そう思っていただいて結構です。幸い、身体のほうは盟主のほうで診ていただけるそうですので」
「!? ウル!?」
 驚きに、エイは思わず叫んでいた。
「意味をわかっているんだろうね?」
 ダッシリナ宮廷に世話になる。ウルがその意味を理解していないはずがない。ウルは曲がりなりにもエイの副官である以上、水の帝国の上級官夫に当たる。そのような地位につく人間が、盟主の世話になる。それはある意味国交上の貸し借りに等しいのだ。
 もしくは――……。
「わかっています。無論、ダッシリナの犬になるというわけでもありません」
 エイの懸念を笑顔で否定した後、ウルは表情を引き締める。
「信じてください。私の国はもうこの国ではなく、私と貴方様が仕え生きるかの国です。ブルークリッカァに、なんら迷惑をかけぬと、約束いたします」
 決然とした口調だ。こうなると、副官は一歩も引かぬのだと、エイは知っている。
「……判った。一人で動くことの許可はだすよ」
 ダッシリナと折衝が起きず、水の帝国の意向に反するようなことをしないというのであれば、問題はないだろう。ウルは水の帝国に忠誠を誓っている。それはエイも知るところだ。
「ただ、ティアレ様を探し出すだけならば、直接盟主の世話にならなくともよくはないか? 確かに、ティアレ様を探すために協力いただかなくてはならないとは思うけれど」
「確かに、ティアレ様を探すだけならばその通りでしょう。ただ、私には探すべき人がもう一人おりまして」
「……もしかして、それってティアレ様と町中で意気投合して、一緒に行方不明になったっていう人?」
「ヒノト様から、聞いておられましたか」
「うん」
 ヒノトの抱え持っていた刀の持ち主。どんな女だったのか、どのような経緯で意気投合したのか、詳細はまだ一切聞いていないが、今回のことに偶然居合わせ、巻き込まれた女を捜す義務はこちらにもある。
「それならばなおさら、一人で動かず国として動いたほうが、捜索はやりやすくないか? ティアレ様の捜索はともかくとして、その人を探すためにダッシリナ側が動いてくれるとは思えない」
 ティアレは国の要人だが、その人物は一般人だ。そんな相手に、ダッシリナが人員を貸し出すとはとうてい思えない。
 しかしエイの予想は、割り込んできた女の声に否定された。
「いいえ。動きましょう」
「……盟主?」
 いつの間にか部屋の戸口に女官を伴い佇んでいたのは、この国の盟主、ユファ・ハン・ダッシリナに他ならなかった。以前、面会したときは外だったこともあり、ひどく質素な身なりだったが、今は盟主らしい盛装に身を包んでいる。おっとりとした笑みを浮かべた彼女は、そそとこちらへ歩み寄ってきた。
 慌てて長椅子から立ち上がり、エイは礼をとった。
「盟主。これは失礼いたしました」
「頭を上げてくだされや、カンウ殿。お話中に割り込むような真似をして申し訳ありません。何よりも……大変な騒ぎに巻き込んでしまいました。心よりお詫びを」
 エイよりもさらに深く、盟主が頭を下げて陳謝する。エイは困惑しながら、彼女が面を上げるのを待った。
 ユファのいう大変な騒ぎというのは、彼女による宮廷奪還の為の襲撃のことだ。ソンジュ・ヨンタバルに掌握されていた宮廷を取り戻し、彼を捕らえるために、ユファは私兵を率いて宮を襲撃した。突然の襲撃に驚いたソンジュ側の人間たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げた。その一人が裏方の人間で、彼の逃走経路上に、エイたちが偶然到着してしまったらしい。
 目撃者を抹殺することが目的だったのだろう。結果、襲われたというのが、先ほどの経緯のようだ。
「そのように立たれずに。どうかお席に着かれてください」
「盟主も」
「無論です」
 衣装の裾を器用に裁き、長椅子にユファが腰掛けたのを確認し、エイもそれに倣って席に着く。間を置かずして、ユファが伴っていた女官がエイとウルの前に茶器を並べた。茶器から昇りたつ白い湯気越しに、彼女の微笑を見つめる。
「それで、話の続きですが」
「あぁ、そうですね。……先ほども、少し漏らしましたが、私共は心より協力を申し入れます。そもそもの発端は私の甥の愚挙によるもの。償いにもならないとは思いますが、ぜひとも協力を。尽力させていただきますわ」
 ユファの申し出は、確かにエイにとってはありがたいものである。
 しかしエイは面には出さなかったものの、胸中で眉をひそめた。ユファは穏やかで物腰の柔らかな婦人ではあるが、何の打算もなく動くような人間でもない――彼女は、政治家なのだから。
 ティアレの捜索に協力することによって、今回の事態への借りを帳消しにしようという算段だろうか。それとも純粋な彼女の好意によるものなのか。
「こんなことを申し上げることは失礼だとは承知しておりますが、あえて言わせていただくならば、マキート殿に協力するのは、リクルイト皇帝陛下のためではございません」
 ユファの真意を沈黙の裏で測っていたエイは、彼女の言葉に虚を突かれた。
「……私共の為では、ない?」
「さようです。実はリクルイト皇后陛下と並んで行方不明になられた方の連れは、私共と古くから付き合いのある者なのです」
 エイは驚きに一瞬瞠目し、落ち着きを払ってユファに尋ねた。
「……傭兵だと、お聞きしましたが」
「えぇ」
 ユファは大きく頷いて肯定を示した。
「かつて私がまだ盟主でなかったころより、付き合いのあったものです。ここ数年は、連絡が途絶えておりましたが……。どのような付き合いであったかは、深くは聞かないでくださいませな。ただ、行方不明になられた方を探すために、彼は助力を請うてきた。私はそれに応じました。……マキート殿への協力は、利害の一致と申しましょうか」
「なるほど……」
 ダッシリナの政治は、占師たちの宣下に従って行われる。
 しかし政を行っていくのは宮廷であり、その頂点に象徴として頂かれるのが盟主。盟主は選挙で選出され、政治決定権を持たぬとされているが、ユファは違う。
 確かに彼女は選挙によって選出された侯爵だが、着飾って政治の方向を民に伝えるばかりの人形ではない。お飾りにすぎなかった宮廷と整え、不確定な占いに頼らず、占師と現実の調整をつけながら執政を行っているのは他ならない彼女。そうなるために彼女が付き合ってきた人間は、決して宮廷に官を戴くものばかりではないだろう。
 シファカと呼ばれる、ティアレとともに行方不明になった女。その彼女の連れもまた、ユファに影で尽力した人間の一人ということか。
「判りました」
 エイは承諾した。
「我らが皇帝、ひいては、我らが国のためでは、ないということですね」
 そして確認した。
「えぇ。今回、いらぬことに水の土地を巻き込んでしまったことの謝罪は、また後日にあらためて」
 借り一つは保留にすると、ユファは言う。いつか水の帝国は、ダッシリナにこの貸しを返してもらわなければならない。
 ただ今は、外交の札は伏せておくだけでいいらしい。
「判りました」
 エイは頭を下げた。
「私の副官を、そして我が国の母である皇后陛下を、どうかよろしくお願いいたします」


 この国の、一番偉い人に会うのだという。
 ヒノトは臨席が許されないらしく、大人しく控えの間で待つこととなった。エイはウルと連れ立ってすぐに部屋を出て行った。すぐに戻ります。そう言い置くだけならばともかく、頭を撫でていくのは子供扱いだと抗議したい。
 ヒノトが通された小さな部屋は、奥の離宮にあるそれに似ていた。
 木目美しい床の上に、異国情緒溢れる織物が敷かれている。部屋の中央に置かれた卓と長椅子。敷物と同じ文様の刺繍が施された小さな綿の詰め物を抱えながら、長椅子に背を預け、じっと待つだけという酷く退屈な時間を過ごしていたヒノトは、軽やかな叩扉の音に上半身を起こした。
 エイが戻ってくるには早すぎる。忘れ物かと揶揄の言葉を載せるべく開きかけた口を、ヒノトは慌てて両手で塞ぐこととなった。
 入室してきたのは、見慣れぬ美丈夫だったのだ。
 年の頃は三十路前後。彫り深い西の民の容姿に、鍛えて引き絞られた中肉の身体。背丈はそれなりに高く、腰には見慣れぬ型の太刀を下げている。肩甲骨に届くか届かないかといった程度の亜麻色の髪をうなじの辺りで縛っていて、同じ色の瞳には知性の輝きがある。
 その瞳を優しげに細めて、彼はヒノトに問うた。
「失礼。君が、ヒノト嬢、かな?」
「……そうじゃが。……なんじゃ、おんしは?」
 反射的に身を引いたのは、男の足運びに、あまりに隙がなさすぎたためだった。ヒノトはこれと似たような足運びをする男たちを幾人か知っている。例えばウル。そしてラルト。
 武術の何かしらを極めた人間というものは、このような足運びをする。襲撃を受けたばかりで、警戒心の鋭敏なヒノトの脳裏に浮かんだのは、暗殺の文字だったのだ。
 しかし男の目は穏やかで、ヒノトが脅えを抱いたと感じたのか、彼は必要以上に距離を詰めることはなかった。戸口から数歩離れただけの場所で、彼は腰に下げた太刀を見下ろしながら言った。
「これは置いてくるべきだった。怖がらせちゃったね」
「……いや、大丈夫じゃ」
 今から置いてこようかと踵を返しかける男を、ヒノトは手を振って制止する。向き直った彼に、ヒノトは改めて問いかけた。
「それより、妾に何の用じゃ?」
 名前を呼んで当人と確認しているわけだから、ヒノトに用事があるのは明白だった。しかしこのような男に、ヒノトは全く覚えがない。
 ヒノトの問いに、男が応じる。
「シファカと最後に会ったのが君だと聞いた」
「シファカを知っておるのか!?」
 ヒノトは傍に置いていた毛布に包んだままの刀を携え、跳ねるように椅子から立ち上がった。
「うん」
 男は小さく頷いた。
「一緒に旅をしている。宿に戻らなくて調べていたら、何か厄介ごとに巻き込まれたと聞いた。その時に一緒にいたのが、君だと」
「……となると、おんし、シファカの旅の連れか……」
 シファカが話していた、水の帝国出身だという男。シファカが愛してやまない恋人。
 ヒノトは刀を床に置くと、それを前に膝をついて頭を下げた。
「――――すまんかった……っ!!!!!」
「ちょ、え!?」
 突如床に頭をこすり付けたヒノトの挙動に、男が狼狽の声を上げる。しかしヒノトは土下座をやめなかった。
「すまんかった。妾たちが――妾がシファカを引き込んだのじゃ。妾が最初に迷子になって、皆を危険にあわせた。シファカを巻き込んだ。本当に――……ごめんなさい……っ!!!」
 逃げるために、ティアレの手をとって走ったその瞬間。
 シファカと、目が合ったように思う。
 きちんと逃げてね、と、紫金の瞳が優しく言っていた。そんな風に思うのは、ヒノトの傲慢だろうか。
 本当ならば、日が沈む前に彼女を恋人のところに帰さなければならなかった。なのに、気絶から目覚めたヒノトの前で、シファカはティアレを守ってウルと共に武器を振るっていた。
 お人よしなのだ。多分、迷子になったヒノトの捜索に付き合っただけなのだろう。そして最後まで、彼女は自分たちを見捨てずにいた。
 シファカの消息は、ウルでさえ、わかっていないらしい。
『じっと、していてください』
(わかっておるのじゃ、エイ)
 エイはよくヒノトに言い含める。じっとしていろと。けれどヒノトはどうしても何かをせずにはいられなくて、停滞した問題の打開を図るために走り回って、結局物事をややこしくしてしまうのだ。
 今回もそう。全ての始まりは、ヒノトがティアレを水の帝国の宮廷から連れ出したことだった。
 もし、そうしなければ、ティアレは誘拐されることもなかったし、シファカも危険に遭わず、この恋人の傍を離れずに済んだのに。
「ごめんなさい……」
 ヒノトは、謝罪の言葉を繰り返した。
「判ったから」
 男の労わるような声と共に、無骨な手がヒノトの肩にそっと触れる。何時の間に距離を詰めたのか。男はヒノトのすぐ前に跪いて、ヒノトの顔を覗き込んでいた。
「顔を上げて。君のせいじゃない。シファカはね、あの気性だから、しょっちゅう厄介ごとに顔をつっこむんだ。俺が一緒に外に出ているべきだったんだよ。彼女を、一人で見知らぬ街へと行かせてしまった、俺に責がある」
「でも」
「いいんだ。顔を上げて。俺は君を責めにきたわけじゃない。ただ、少し教えてほしかった。君たちと出逢ったシファカは、笑っていた?」
「笑って……?」
「そう」
 ヒノトは思わず面を上げて男を見返した。すぐ傍にある整った男の顔には、憔悴と悲哀の色がある。泣き損ねた顔で無理やり作ったかのような、不細工な微笑を口元に湛え、男は言った。
「最近シファカを悲しませてばかりでね。……おかしいね。幸せにしたくて傍に置いたはずなんだけど」
 ――ラルトと、同じ科白だと、ヒノトは思った。
 幸せにしたいと常に願っている。
 そのはずなのに、すれ違って、今は互いに遠いところにいる。
 男は自嘲めいた微笑を浮かべたまま、言葉を続けた。
「だから、もし彼女が、異国の地で、たった一人でいたのにもかかわらず、楽しい時間を過ごせていたのだとしたら……俺は逆に君にお礼をいうよ。そしてどうか気に病まないで欲しい。シファカは自分で望んで、君たちを助けるために、事に身を投じたんだ」
 ありがとう、と。
 耳朶を震わせる小さな囁きに、ヒノトは泣きたくなった。
 鼻を鳴らし、その奥に詰まっている熱いものを唾と共に嚥下しながら、ヒノトは毛布に包んでいた刀を男に差し出した。
 毛布の狭間から出てきたそれを見下ろした男が、驚きにか瞠目する。
「シファカの」
「妾を逃がした誰かが置いていきおったのじゃ。……多分、シファカは生きておると思う。そんな気がする」
 誰がこの刀をヒノトに残したのかは知らない。
 しかしシファカが生きているということを、無言のうちに伝えているような気がしていた。
「こちらで引き取っても?」
「無論じゃ」
 男の問いに、ヒノトは即答した。
「そのほうが、シファカも喜ぶじゃろう」
 彼は微笑み、刀を大事な宝のように抱え持って立ち上がった。刀についている双子の玻璃球が、かちりとぶつかり合って揺れる。踵を返し、扉のほうへと歩いていく男を見て、ヒノトは慌てて立ち上がり姿勢を正した。
「か、帰るのか?」
「うん」
 戸口で足を止めた男は、ヒノトを振り返って頷いた。
「しばらくはここで、お世話になるけどね。シファカはこちらで探す。心配しなくていい。だから――君は国へお帰り」
「連絡は取れるのか? シファカが見つかったら、教えてくれるのか?」
 シファカが生きているというのなら、もう一度会いたい。もう一度会って、またティアレと三人で、お茶を囲むのだ。
「どうだろう」
 男は困惑の笑みを浮かべ、肩をすくめて見せた。
「連絡はするよ。水の帝国の宮廷だよね。君の後見人宛でいいんだろうか」
「う、うむ」
「約束するよ。だから君は国へ帰って、君のすべき事をするといい。君の後見人はおそらく、あちらに戻ったら、てんてこ舞いだろうからね。ティーちゃんを一時的にせよ失っているラルトを押さえつけるのには、骨が折れるだろうし」
「うむ……うむ?」
 男の言葉に神妙に耳を傾けていたヒノトは、ふと違和感を覚えて首を捻った。
 ティーと、ラルト。
 一瞬、誰のことを指し示しているのかと思った。
 エイの知り合いにそのような呼ばれ方をするものは一人組しかいない。だが、本当にこの男が名指す人物は、ヒノトの脳裏に過ぎった『彼ら』のことなのだろうか。
 急に頭を擡げた懐疑心に焦燥を覚え、ヒノトは男に問いかける。
「おんしは……――誰じゃ?」
 この男は、本当に、シファカの恋人なのだろうか。
 一つの疑問がヒノトの胸中に去来する。
 しかし男がヒノトの問いに答えることはなく、ただ、一言だけ呟いた。
「これも、めぐり合わせなんだろう」
 男の呟きは酷く渇いていた。抗うことのできない何かにぶつかったものだけがもつ、倦怠感のようなものを滲ませていた。
 こここんっ
 男とヒノトの間に横たわった沈黙に、扉の叩く音が軽やかに響く。間を置かず姿を現したのは、やはり見慣れぬ男だ。白い髪を撫で付け、髭を蓄えた初老の男。彼は男に何事かを耳打ちし、そして廊下へとまた姿を消す。
「それじゃぁ、時間だから」
 シファカの連れだという男は、微笑を見せて扉の向こうに姿を消す。
 扉が閉まる間際に響いたさようならという言葉は、男が二度とヒノトの前に姿を現すつもりがないことを示していた。


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