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第十二章 望みを問う 3


 訪れてこれで三度目になる星詠祭は、賑々しく煌びやかであるものの、いつもよりも幾許か活気が薄れていたような気がする。
 それはこの国の象徴ともなっている盟主が不在であるせいかもしれない。代行として指揮を取ったソンジュ・ヨンタバルは、やはりどこか冴えない印象が付きまとい、何人もの古い役人たちに不審の目で見られていた。
 水の帝国の代表として式典に参加した後、形式的な挨拶を交わしたが、彼とはそれだけで終わった。ただ見たことのない男が一人、側近として彼の傍に控えていた。身のこなしに隙のない片眼鏡の男。あれがウルの言っていた、彼の側近のもう一人だろう。整った顔立ちは東の民のものではない。異人の近習は静かに一礼するのみで、ソンジュと共にエイの前を去った。
 代表としての仕事はあっさりと終わった。この国での仕事は終わったということだった。ソンジュが盟主の代行としてある以上、むやみに滞在を引き伸ばすこともできない。それに、ラルトの様子も心配である。
 ティアレたちの行方を捜しに出たものからの報告はまだない。
 祭りに浮かれた景色を馬車の窓から眺めながら、疲労の嘆息を繰り返していたエイは、帰国の支度に戻った館で、信じられないと息を止めることになった。
「ヒノト……!」
 館の一室でこざっぱりとした衣服を与えられ、濡れた髪を頬や首筋に張り付かせたまま、温かいお茶を口にしていたのは、ティアレやウルと共に行方不明となっていたヒノトである。
 エイは彼女が腰を下ろす長椅子のそばに立ち尽くして、思わず尋ねた。
「本物ですか?」
「幽霊でもないぞ。いうておくが」
 彼女はいつも通りの小憎たらしい口を叩いて、湯気を上げる茶碗を置いた。しかし一度エイを見上げた顔は何かの感情に歪んで、やがて伏せられる。緑の目を瞼の奥に隠して、彼女は言った。
「……すまぬ」
 その謝罪が、何を表しているのか、わからないわけではない。
 現にこの館に足を踏み込んで受けた報告は、ヒノトのみが帰館したということだった。ティアレとウルの姿はない。ヒノトにも、その行方はわからないと。
 膝の上で拳を形作る彼女の手は血の気を失っている。横一文字に噛み締められた唇は、うっすらと血が滲んでいた。
 ティアレたちを見失った。それは、ヒノトの罪ではないのに、彼女は己を責める。
「ヒノト」
 エイの呼びかけに応じて彼女が視線を動かす。エイはその小さな身体を、強く抱きしめてやった。
「生きていてくださって、ありがとうございます。……無事で、何よりです」
 ヒノトが姿を消して、生きた心地がしなかった。普段自分の手を引く少女の温度が世界から消える。そのことは、何よりも恐ろしいものに思えていたのだ。
 ヒノトの顔が歪み、小さな手がエイの腕に衣服の上から爪を立てる。彼女は泣きこそしなかったが、エイの胸に押し当てられた額からは小さな震えが伝わってくる。ごめんなさい。そんな囁きが呼吸音に混ざるようにしてエイの耳に届いた。
 ヒノトの髪から石鹸の香りがする。彼女は祭りの熱気に狂う町中を一人でふらふら歩いていたところを衛兵に保護され、ここまで連れ帰られたらしい。その後、湯でも浴びたのだろう。
 エイはヒノトの背をもう一度さすり、そして身体を離した。
「ゆっくりと休ませてあげたいところですが、時間が惜しい。状況を説明してくださいますか? ヒノト」
「もちろんじゃ」
 目元を擦りながら笑うヒノトの快諾を得て、エイは彼女の向かいの長椅子に腰を下ろす。傍に控えていた女官が茶の入った椀を置くよりも早く、エイは彼女に尋ねた。
「ティアレ様とウルと共に戻ってきていないことは報告を受けていますが……今まで、一人で逃げ回っていたのですか?」
「いいや」
 ヒノトはエイの考えを否定した。
「ずっと牢屋に閉じ込められておった。ほとんど寝ておったな。ウルとは最初、襲われたときにはぐれてそれきりじゃ」
「襲ってきたのは?」
「襲ってきたのは、人を夜に紛れて殺すことが本職の人間じゃと思う。袋小路まで追い詰められて、そこで捕まった」
「ティアレ様とはすぐに逸れたのですか?」
「ティアレは牢屋まで一緒じゃったが、途中で奴らの仲間の男に連れて行かれた」
「と、いうことは、貴方は一人で、牢屋から逃げ出してきたのですか?」
 ならばよくぞ大きな怪我もなく無事であったものである。
 しかしエイの考えを否定するように、ヒノトが両手と首を大きく左右に振った。
「違う。逃げ出してきたというか、鍵が開いておったのじゃ。妾が居ったらしいのは街の中心から少し外れたところにある屋敷なんじゃが、目が覚めたら誰もいなくなっておって」
「誰もいなくなった?」
「なんか、用が済んで捨てたみたいな様子じゃった。誰もおらんくて、妾はそのまま外に出たのじゃ」
「館の場所は聞き及び、既に駒を派遣しております」
 口を挟んだのはエイのそばに控えていた武官の一人だ。ウルがいなくなってエイの護衛を勤めている一人。
 そう、と頷いて、エイは命じた。
「どんなこともつぶさに報告するように。……ヒノト、それで、ほかに何かわかるようなことはありませんか?」
 何ゆえヒノトが解放されたのかは判らない。もしエイが先方だったとしたら、情報が漏れることのないようにヒノトを殺しているだろう。だというのに何故、ヒノトは生かされ無傷で解放されたのか。
 考えれば考えるだけ深みにはまるその疑問を、エイはあえて無視した。今は時間が惜しい。考えるだけならば後でもできる。
「ティアレ様を連れて行った男がいると仰いましたね? その男の、姿は……? どんな年で、どんな容貌をしていましたか?」
「うーん。どんな格好かといわれても……黒髪黒目の、まぁそれなりに男前じゃったような、なかったような」
「印象とかでもなんでもいいんですが」
 黒髪黒目の男など、この大陸に星の数ほどいる。自分もまた黒髪黒目。この大陸に住まう八割方は、おそらく同じだろう。探しきれない。
 思いついたように、ヒノトが言った。
「魔術が、得意のようであったの。ティアレが熱を出しておったのじゃが、あやつが何事かを唱えるとティアレはすぐに元気になりおったよ」
「魔術師、ですか……」
「んー魔術師、という感じではなかったが。魔術師というのは、大抵暦官のお役人のような雰囲気なのじゃろう? じゃがあの男からはそういった雰囲気がかけらもなかった。なんというかその……」
「その?」
「うん。エイとか、あぁ……ラルトに似ておるかもしれん。そうじゃ。なんというか、本とか持って仕事してそうな感じじゃ」
「学者?」
「ではない。もっとなんかこう、本を持ちながら剣を振り回しているような……」
「あーわかりました。そうですね。陛下に似ている感じ、それでよくわかります」
 つまるところ、切れ者、ということか。武に秀で、智にも通じる。
「顔立ちはなんとなく覚えていますか? ヒノト」
「なんとなくなら」
「でしたら絵師を手配しましょう。似顔絵を描かせて、調べます。その間におそらくヒノトがいたという館の調査も終わっているはずですし。疲れているところ申し訳ありませんが、もう少しお付合いください」
 エイの言葉にヒノトが大きく頷く。早く休ませてやりたいとも思うが、少しでも彼女の証言を用いて事態を動かさなければならない。せめてここにウルがいればと思う。しかし彼もまたティアレと共に行方不明だ。簡単に死ぬような男ではないと知っているが、祈らずにはいられない――どうか、無事で。
 それにしても、一体何の目的でティアレを誘拐したのだろう。
 ティアレと知って誘拐したか、たまたま誘拐した女官がティアレであったかで、襲撃した犯人象も変わってくる。ティアレと知って誘拐したのなら、ダッシリナの人間――それも、宮廷でも上位の官を戴く人間の可能性が高い。ティアレを用いて外交に優位に立とうと画策する輩もいる。もしくはそう見せかけて、水の帝国内の人間である可能性もある。どちらにしろ、宮廷人である可能性が高い。
 ティアレと知らず誘拐したのなら、犯人像はより曖昧になる。水の帝国が多方面に恨みを買っているとは思いたくはないが、それでも誰の血も流さず、恨みを買わずに繁栄したというわけではない。その意趣返しという可能性もあるだろう。
 何にせよ、それなりに財力のある人間だ。暗殺者を、子飼いにしているなど。
「失礼いたします」
 こんこんという軽い叩扉の音が響くが早いか、男が一人、部屋に滑り込んできた。水の帝国からエイについてきたウルの部下の一人である。
 彼は部屋の入り口で一礼をすると足音もなくエイの傍に歩み寄り、耳打ちをした。長椅子に腰を下ろしたまま怪訝そうにこちらの様子を窺うヒノトを見つめながら、エイは報告された内容に嘆息を零す。
「やれやれ」
「どうしたのじゃ? エイ」
 どんな報告だったのかと卓に手をついて身を乗り出してくるヒノトに、エイは座るようにと手の仕草で指示する。大人しく長椅子に腰を下ろした彼女に、エイは独白ともとれるような呟きを吐いた。
「面倒な人物と面会しなければならないと思っただけです」


 さらり、と手から髪がこぼれた。
 絹糸を染め上げたかのような艶のある黒い髪は、さらさらと指の隙間から零れ落ち続ける。全てが指の狭間からこぼれてしまっても、シルキスはその場から動かなかった。
 目の前には、豪奢な椅子に腰掛ける、飾り立てられた娘が一人。彼女は焦点の合わぬ眼差しを虚空に投げたまま、瞬きすら忘れてしまったかのように微動駄にしない。
 彼女の黒髪に、白い衣装はよく映えた。彼女の為だけに仕立てられた白い袍には、銀糸で目が痛くなるほど緻密で繊細な絵柄が縫い取られている。しかし彼女は動かない。その衣装を見下ろして笑うこともしなければ、勝手にこんなものを着せ掛けてと激昂することもない。
 彼女には、甘い香りがまとわりついている。
「セレイネ」
 今目の前で人形のようにただ飾り置かれている女は、呼んだ名前の女ではない。目の前の女は形代だ。シルキスのものではなく、別の誰かの男の中で幸せに笑うべき女。
 どうして彼女に執着するのか自分でも判らない。その似通った風貌のせいかもしれない。ただ貞淑を貫いて、自ら命を絶った女に似通った眼差しが、まったく別の誰かのほうを向いて強く生きている。そのことが腹立たしかったのかもしれない。
 ただ、罪の証として、傍に置いておきたいだけなのかもしれない。
 シルキスは立ち上がり、部屋の出口へと踵を返した。扉の取っ手に手をかけたまま、一度だけ後ろを振り返る。
 広い部屋にぽつりと置かれた椅子。そこに腰掛ける女。焚き染められた香。厚い絨毯の上に転がる、無意味な玩具、豪奢で美しい衣装。その中には、子供の為のものも混じっている。
 シルキスは部屋を出て、後ろ出に扉を閉めた。
 シルキスが愛する婚約者を失ったのは七年前。北の大陸に程近い島に存在する小国バヌアの国王に乱暴を働かれ、子を身ごもった彼女はそのまま自ら海に身を投げた。
 その時彼女は、婚礼衣装を身につけていた。彼女の母親、自分の師の妻も身につけたという白い衣装。
 一度、彼女の死の際、海水に浸かって痛んだ衣装を、彼女の母が手直ししていたことは覚えている。
 シルキスは絨毯の敷かれた廊下を歩きながら思った。
(……あの婚礼衣装は、どうなったのだろう?)
 薄布を重ねて作られた婚礼衣装。本当はあれをセレイネに着せてやって、そして自分たちは幸せになれるはずだった。
 セレイネが死んだあの日から、悪夢を繰り返している。繰り返さんと動いているのはほかでもない自分だ。止めたいのに止められない。麻薬と同じだった。
 もう、自分の理論に執着しているというわけではない。民主化教本に記載されている内容が、過ちであろうと正しかろうと、もはやどうでもいいことだ。証明したいとも思わない。人生をかけて学び続けてきた政に、意味を求めたいとも思わない。
 ただ、破滅したいと思った。
 自分たちに起こった悲劇も過失も繰り返した罪も、全てをひっくるめて破滅したいと。
 その舞台に水の帝国を選んだのは――八つ当たりだった。
 先ほど後にした部屋で人形と化して眠る女の愛する男が、水の帝国の男だった。だからかの国を選んだ。
 広く取られた窓の向こうからは人々の喧騒が聞こえている。祭りに狂う国。おかしなことだ。こんな風に祭りに熱狂できる民もあれば、明日に食うに困ってシルキスの理論を信じ、口車に乗せられてデルマ地方へと移動したものたちもいる。
 盟主がいなければ、宮廷は文官武官、地方に派遣された衛兵や執政官の統制もうまく取れていない。この国の方向を決めるという、占師たちは沈黙したままだ。国のきしむ音を聞きながら、もうこの国は用済みだと、自分は全てを後にする――。
 廊下の先の扉を開くと、そこには身支度を整えたソンジュ・ヨンタバルがいた。
「シルキス、用事は終わったのかい?」
「終わりました」
 即答しながら、シルキスは悟られぬようにソンジュを睥睨した。これから自分たちは水の帝国の皇都へと向かう。シルキスを代表者に立て、デルマ地方の独立を申し入れる。後見はダッシリナという方向で。
 ダッシリナの宮廷の中には、何ゆえユファがデルマ地方を手放したのか理解していないものが多く、シルキスの交渉を経て、デルマ地方独立、そして、ゆくゆくはダッシリナに併合という道筋を後押しする高官も多数得た。盟主の行ったことに抵抗を感じる小心者の何人かは、今シルキスが握っている中毒性の高い水煙草――月光草にさらに改良を加えたものの売買権をちらつかせると、あっさりとこちらに寝返った。
 この国は脆い。だからこそ簡単に、もぐりこむことができたのだが。そうでなくては、本当ならば水の帝国自体にもぐりこんでいた。
 なにはともあれ、準備は整った。二つの国の民衆を道連れに、崩壊への『祭り』を終わらせるための旅が今から始まる。デルマ地方の独立、そういったものもどうでもいい。ただ、全てを崩壊させるためだけの無意味な旅。
 その意味を理解しているのかいないのか、ソンジュは贅沢の限りを尽くした趣味の悪い衣服を身につけ、鼻息を荒くしている。煌びやかな衣装は今まで盟主に対して嫌味のように黒い衣装を身につけ続けていた反動だろうが、旅をするだけでもその衣服は邪魔だろう。馬車の中でも着替えるというのに。
 さらにいえば、賢帝として謳われる水の帝国の皇帝がその趣味の悪さに対して眉をひそめる姿を、シルキスは容易に想像できてしまった。
 シルキスにとって、デルマ地方の独立の為の交渉など茶番のように意味のないものだったが、ソンジュにとってはそうではない。憎き才能に秀でた叔母を見返すための一大事だ。そんな衣装を意気揚々と身につけるべきではないだろうに、その浅はかさが己の無能さを露呈してしまっている。
 今自分の傍にいるのは、こんな男一人だ。
 本当は、別の誰かが傍にいることを願ったはずなのに。
 婚約者は自分ひとりを置き去りにして海に身を投げ、師はこちらをかえりみず、どこかへ姿を消したという。雪深い夜の国で差し伸べられた手は、自分から振り払っていた。
 それを後悔している自分は、手に入らないものばかり欲しがる子供のようだ。
「いくよシルキス」
 ソンジュの呼びかけに、シルキスは面を上げて微笑んだ。そして全てを終わらせる旅へ、今一度一歩を踏み出した。


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