BACK/TOP/NEXT

第十二章 望みを問う 2


 呪いの始まりは、とても単純だ。
 魔女が祈った。国の幸せを。英雄が祈った。国の破滅を。
 複雑に絡み合った魔と祈りの螺旋。魔によって永劫の未来を約束させられた国は、それだけならば幸せであるはずだった。英雄が、国の破滅を祈らなければ。英雄の血脈が、不幸に慣れなければ。
 幸せに在れば誰かを疑い、不幸にあればやはりと納得しながら絶望する。
 魔の元に縛り付けられた不幸より、人の歴史に刻まれた不幸のほうが呪わしい。
 魔によって終わりが見えぬ不幸を、人の歴史に刻まれた国は、果たしてそのことに気付いているのだろうか。


 玉座に腰を下ろしていた。
 謁見の間、階段の上に鎮座する玉座だ。政務の為、あちこちをうろうろしているせいか、それとも自分がこの席を厭っているからか、温めた数こそ少ないが、この座は自分が皇帝という地位についていることを思い知らせる一つの象徴である。
 誰よりもこの座を憎みながら、最後までこの座に執着していた父を、皇帝という位から引き摺り下ろしたのは十年以上も前だ。
 謁見を終えて、そのままこの場で眠ってしまったのだろう。ラルトは頭を軽く振って、周囲を見回した。明りの招力石が橙色の淡い光を浮かべている。東大陸の建築様式とかなり異なる、石畳の並べられた広い空間に人の気配はない。誰もラルトを起こさず退出したのか、それとも自ら人払いをしたのか、記憶は不明瞭だ。ただ頭の片隅だけが鈍く痛む。
 眉をひそめ、ラルトは立ち上がった。執務室に戻り、山積している仕事を片付けなければ。
 席から一歩踏み出した、その刹那だった。
 ぐっ……
「!?」
 不意に、足を固定された。
 驚愕に視線を下げ、ラルトが確認したものは、足を固定する手だった。青白い手。血の気のない肘から下の腕が唐突に床から生えて、ラルトの足を固定している。それを振り払うべく身をよじった矢先、背後から伸びたもう一本腕がラルトの身体を固定した。
「な……!?」
 驚いている間に、手はさらに増え続ける。手の大きさはまちまちだった。男の手もある。女の手もある。子供の手。老人の手。それこそ世界中の老若男女、全ての手を揃えたといっても過言ではない本数が、床から、もしくは宙から唐突に生えて、ラルトの身体に絡み付いていた。
 いつも手元に置いている剣を探すが、見当たらない。そうこうしているうちにラルトの身体は手によって玉座に据え付けられた。
『逃がさない』
 手から、声が聞こえる。
『ここから離れること、許さない』
 逃がさない。許さない。逃がさない。
 手の囁きは、寒い冬の夜の風が、廊下を走る音に似ている。
『逃がさない。この場から動くことは許されない。私たちの命を犠牲にして、その座にある。だというのにその座を厭うだなんて』
 聞いたことがある、と思った。
 その声には、聞き覚えがある、と。
 かつてこの玉座を奪う際に、共に剣を手に取った仲間たちの声だった。許さない。逃がさない。許さない。声は囁き続ける。この場から離れることは許されない。この国の全てに笑いが満ちるまで。血も肉も骨も心も全てをこの座に費やしていかなければ許さない。
『貴方だけ幸せになるなんて……』
 耳に風が触れる。吐息だ、とラルトは思った。人の呼気。その温かさが生々しくラルトの肌の神経をなぶり、まるで爬虫類のもののようなぬるりとした手がラルトの頬に触れる。
『許さないわ、ラルト』
 ――レイヤーナ……!
 彼女だ。レイヤーナ。かつての自分の妻。狂気に触れてそのまま塔の上から自ら身を投げた女。ラルトにとっての、裏切りの呪いの象徴。
 ゆるさない、ゆるさないと様々な声が輪唱のように繰り返す。そこには自分の父の声もあったし、かつての近習の声もあった。ジンの祖父の声も。毒の茶会、その以前、あるいは以後、ラルトに賛同し、しかし心半ばにして命を落としていった仲間たちの声が、呪詛のようにラルトに絡みつく。
 玉座に縛り付けられながら、ラルトはふと階下に浮かび上がった影を見つけた。
 磨きぬいた銅の色の髪をした女の影。身につけているものは見るも無残に切り裂かれた衣装だ。腹部を赤い何かで濡らした女は、裸足の足を一歩前へ押し出した。爪先が黒く変色している。白い肌に浮かび上がるのは殴打の跡。青紫の痣を身体のそこかしこに残した女は、腕に小さな何かを抱えている。
 赤い、肉塊を、抱えている。
 女は面を上げた。美しすぎる美貌が張り付いた髪の狭間から覗き、爛々と輝いた魔の輝きを閉じ込めた双眸が、ラルトを射抜いた。
『どうしてラルト』
 女が紅の掃かれたように赤い唇を震わせる。
『どうして、来てくれなかったの? ラルト。どうして、すぐに助けに、来てくれなかったの……?』
 女の瞳から透明な雫がこぼれ、頬をを伝う。ラルトは手を伸ばした。その女の頬に指先が触れることを願って。しかしそこには絶対的な距離がある。女は一歩、足を踏み出したのみでその距離を詰めるようなことはしなかった。
 女がすすり泣く。小さな肉の塊を抱きしめて。小さな傷に傷んだ彼女の頬が、赤黒く汚れていく。
「ティ――……」
 女の名前を紡ぐために開かれた自分の口は、拘束しつづける手のどれかによって塞がれた。どれほど身をよじり足掻いても、身体を押さえ込む手にこめられた力は圧倒的で、ラルトはとうとう指一本も動かすことができない。
 身動きの取れぬラルトの横を、白い影が通り過ぎる。明瞭な輪郭を持たぬそれは、まるで白い敷布を戯れに被った人のようだ。ゆらゆらと揺れる白い影から、ぬっと腕が現れる。
 銀の刃を握った白い影は、ゆっくりと階段を踏みしめ、すすり泣く女の前に下り立った。
 ――やめろ……!
 声にならぬ声で、ラルトは叫んだ。
 白い影がけたたましい笑い声を上げながら、刃を掲げ、そして振り下ろす。
 玉座に縛り付けている手も、影に呼応するように笑い声を上げた。
 許さない、許さないよ。この玉座に、貴方は永遠に縛り付けられる。
 貴方はこの国の為に全てをすり減らしていく。
 この国の為に命を落とした、わたしたちとおなじように。
 ラルトは悲鳴を上げた。
 ――やめてくれ……!!!!!
 閃く銀に、哀しそうに笑う女の顔が映りこむ。
 赤い赤い飛沫が、闇に散った。


「あぁあぁあああああぁっ…………!!!!!」
 男の叫び声で、目が覚めた。
 がたんっ、ばさばさばさ……どさっ
 続けて耳朶を打ったのは、大量の書類が滑り落ちていく音。どうやら跳ね起きた瞬間に腕を振り上げ、積み上げていた書類の山を崩してしまったらしい。滑り落ちたそれらは、机の脚のそばで小さな丘を作っている。
 ラルトは自らの顔に浮かんだ冷や汗を手で拭い取りながら、椅子の背に重心を預けた。日の光差し込む執務室には、自分以外誰もいない。鳴り止まぬ心臓の鼓動をどうにか落ち着かせるべく呼吸を繰り返しながら、ラルトは自分が自らの悲鳴で飛び起きたのだということを理解した。
(……ゆ、め……か?)
 胸中で自問しながら、ラルトは眠りに落ちる前の記憶を順々になぞった。昨日はデルマ地方への出兵を指示するべく、謁見の間で将軍たちを送り出した。その後、シノと会話をし、レイヤーナの墓を参って執務室に戻り、書類に向き合った。
 それ以後、記憶がない。
「……そのまま寝てしまったのか」
 呟きは静かな部屋によく響いた。書類の散乱した机に手をついて、それを支えに立ち上がる。すると調度、軽く戸を叩く音が聞こえた。
「陛下、こちらにおいででございますか?」
 間もなく扉越しに響いたのは、女官長の声だ。あぁ、と頷きながら一歩踏み出そうとしたラルトは、唐突に覚えた腹部の鈍痛に顔をしかめた。
「……つ」
 ぎしぎしと、まるで内臓自体がきしんでいるかのような痛みがラルトを襲う。視界が湾曲し、ぐるりと回り始めた。
 漣のように断続的に襲い来る傷みに腹部を押さえようと動かした手は、ラルトが思うよりも早く自らの口元を覆っていた。
 瞬間、胸の奥から込み上げる、饐えた液体。
 ラルトは回る視界の中どうにか踏みとどまり、部屋を一瞥して[たらい]を探した。軽く手や顔を洗う際に使うそれは、入り口にそう遠くない場所に設置された棚の上だ。傍には水差しが置かれている。
 もつれる足をどうにか動かして歩み寄る。空いた手でそれを掴もうとしたが、ぐらりと身体が傾いだ拍子に手がぶつかり、床の上に転がって止まった。
 ラルトは床に膝をつき、盥を抱え込むようにして、その中に胃の中のものをぶちまけた。
「……かぁっ……かはっ」
「陛下!?」
 盥が床に跳ねる音に急を要すると判断したのか、ラルトの許可を待たず開かれた扉の向こうから、シノが飛び出してくる。彼女は簡易な食事の乗った盆を持っていた。彼女はそれを床の上に置き、飛ぶようにして、ラルトの傍に跪いた。
「陛下、大丈夫ですか? 一体……」
「胃をやられた」
 胃の中のものを全て出し切り、舌先に広がる胃液の味に閉口しながらラルトは答えた。
「……シノ、水をくれ。手を洗う」
「……はい」
 頷いた彼女は素早く立ち上がり、棚から水差しを取り上げた。盥の中のどろりとした液体を見下ろしながら手の甲で口元を拭ったラルトは、まもなく彼女に差し出された水差しの下に両手を差し入れる。
 水差しからこぼれる水はひやりとして、熱を持った手に優しかった。
「……すぐに、リョシュン様を呼んで参ります。陛下は横になられてお待ちください」
「あぁ」
「その場でお待ちを。今、寝具を整えて参ります」
 シノは水差しを置き、勢いよく立ち上がると、衣服の裾を絡げて執務室の奥へと進んでいった。半二階には仮眠用の寝台がある。しかし彼女は奥の階段を数歩上った時点で、足を止め、大きな嘆息を零した。
「……陛下、せめて寝台でお眠りくださいとあれほど……」
「気がついたら眠っていたんだ。仕方がない」
「そんな風ですから、疲れもいっそう溜まってしまわれるのです」
 シノの声音には呆れの色がありありと浮かぶ。彼女は再びラルトに歩み寄り跪くと、その手を差し出した。
「お手を」
「いい、一人で立てる」
 そういって彼女の申し出を断り、足取りをしっかりとしたものに見せるのには少しばかり労力を要した。まだ、視界がぐらついている。壁や机に時々手をついて場所を確認しながら行くラルトに、シノは追求をせず、ただその後をついて歩く。
 彼女の視線を感じながら、ラルトはどうにか冷えた寝台に身を横たえた。
「……今は朝か?」
「頭を枕に埋めてくださいませ」
 上半身を寝台の背に預けた状態で尋ねると、シノから鋭い叱責が飛んでくる。
 嘆息して、ラルトは問いを繰り返した。
「今は、朝か?」
「朝か夜かもわかられないほどに憔悴してらっしゃるのですか?」
「手厳しいな。日中であることはわかってる。窓の陽の入り具合から多分朝だろうとは思ってるんだが、昼ということもあるしな」
「朝でございます。夜明けからは多少経っておりますが。本当に、イルバさんがいなければ夕餉すらきちんととられない。そんなふうですから、朝か昼かもわからぬのでございましょう」
「そう怒るな」
「怒りたくもなります。陛下、お願いですからご自愛くださいませ。昨日も申し上げましたでしょう? 仕事にお逃げになられるのは、おやめくださいと」
 怒りに任せてか、乱暴に毛布がかけられる。それを片手で払いのける気力も、シノの小言を諌める気力も、今のラルトにはなかった。胃がきりきりと痛む。その痛みは、肺まで絞り上げているのではないかというほど、喉元にこみ上げてくる。冷たい汗が額に玉を作り、手に血の気がない。改めてその様子を自覚すると、シノの小言を諌める気力など起きるはずがない。
「悪い」
 ラルトは目元を手で覆って、シノに謝罪した。暗い視界の中、彼女の何度目かの嘆息が聞こえた。
「……そのように、なられるぐらいでしたら、今すぐ宮城を飛び出して、ティアレ様を探しに行かれればよいのです」
「行方もなにもわからない。手がかりもつかめない。何日程度で戻れるのか見当もつかない。それなのにいけるか」
「何日かかってもよいでしょう。ことの流れからいって一月二月もかかるということはないと思われます」
「それでも何もかも放り出して今すぐ飛び出していけるほど、今の俺は自由ではない。考えなければならない案件がありすぎる」
 皇帝という責務が、ラルトを束縛する。
 昔のように、自由には動けない。四年前とは事情が違いすぎる。
 ふって湧いた沈黙に怪訝さを覚え、ラルトはシノを視界に納めた。彼女は口元を引き結び、深い憐れみをその紫紺の目に湛えてラルトを見下ろしている。
 ラルトは瞼を伏せた。シノの瞳は雄弁にことを語る。皇帝の責務を捨てて、ただティアレを追いかければいい。そのように瞳はラルトに語りかける。
 デルマ地方の不穏な動きに増え続ける仕事に忙殺される文官たちが聞けば、卒倒しそうな内容だ。皇帝の責務を捨てるなど、とんでもないと彼らは口にするだろう。
「夢を見たよ」
 ラルトは笑いながら言った。
「たくさんの手が、玉座に俺を縛りつける夢だ」
 思い返すだけでも吐き気を催す感触。爬虫類のような生暖かくぬるりとした手。
 輪唱のような囁き。聞いたことのある声。
「フィルもいたな。懐かしい」
 声だけが聞こえた。かつてラルトの近習だった男の声。フィル――フィリオルはシノの婚約者だった。懐かしく、しかしおぞましい声が、あの囁きの中に混じっていた。
 シノの顔がさっと蒼ざめる。
「……誰も、貴方を玉座に縛り付けることを望んで死んだわけではありません」
 かみ合わせた歯と歯の間から搾り出された彼女の声は震えていた。憤怒だ、とラルトは思った。シノのこのような怒りを見るのも、珍しいことだった。
「それでも、俺には義務がある」
 まるで言い訳のようだ――死者を瞼に思い描きながらラルトは呟く。
「彼らは国の為に犠牲になった。それに報いる義務が俺にはある」
 若く、理想と正義に燃え、そしてただラルトに追従した彼らを死に至らしめたのは、直接的ではないにしろ、ラルトだった。彼らを殺したレイヤーナ。天真爛漫で純粋だった彼女を、仲間に毒を盛るほど追い詰め狂わせたのは間違いなくラルトだった。
 そして、彼らだけではない。ラルトは玉座を簒奪するために立ち向かってくるものたちを数多く屠ってきたのだ。裏切りの帝国、その名に恥じぬ血にぬれた玉座。どんな理由があれども、自分は人を殺しすぎた。血の河を渡り、朱に染まる椅子に腰を下ろす限り、皇帝という責務を全うすることでその罪を購い続けなければならない。
 そして、皇族は、国というものを背負うが故に、いつかは血族を犠牲にしていかなければならない。
 どれほど家族を愛していても、優先順位が変わることはままあるのだ。
「……では、逆に伺いますが陛下」
 拳を形作るシノの手は、血の気を失って震えている。紫紺の双眸は今にも泣き出してしまいそうだった。ただ怒りに蒼ざめ、眉間に皺を刻んで、彼女は問うてくる。
「陛下は何ゆえ、皇帝になられる道をお選びに?」
「……何故、皇帝に、だと?」
 鸚鵡返しに問い返すと、そうです、とシノが頷いた。
「陛下は幼くあらせられたころ、誰よりも皇帝という地位に興味のないお方だった。だというのにある日、為政者になるのだ、とおっしゃられた」
 シノの言葉を合図に、遠い記憶が漣のように押し寄せる。
 そう、自分たちは皇帝という地位になぞ興味はなかった。何故醜い争いや、愛するものに欺かれ、またその逆をしてその位につかなければならないのか。いっそのこと国を出て平民として暮らしていけたら。そんなことすら思っていた。ずっとずっと、前のことだ。
 しかし自分たちは決意した。国の頂点に立つことを。
 ただ、一つの目的の為に。
「何故、皇帝になるなどと、お思いになられたのですか? 陛下」
 シノは問いを繰り返す。ラルトは答えた。
「誰もが幸せに笑い合える国を作りたかった」
「本当ですか?」
 しかしシノは眉をひそめて再び問う。
「本当に、それが理由ですか? 陛下」
「何故疑う?」
 ラルトは腕を支えに身体を起こした。腹部の痛みは相変わらずだが、シノと相対するためには身体を起こす必要があった。
「誰もが笑い合える……立派な大義名分でございます。そして貴方はそれを現実のものとされている。誰もが喜んだ。この私も無論。ですが本当に、そのような理由だったのですか? 陛下。貴方様の幸せが含まれていない理由で、皇帝になろうなどと本気で思ったのですか?」
「……それは――……」
 確かに、本当だ。
 確かに作ろうとした。この国が、誰も喪失と裏切りの痛みに泣かぬ国であればいいと思った。
 しかし糾弾のまなざしを向けてくるシノに、それを断言することができない。
 幸せな国をつくる。ただ、それだけでなくて。
 もっと、身近な何かを、願ったはずだったのに。
「本当に、そう、思われたのですか? 陛下」
 結局ラルトは、彼女の問いに答えることができなかった。
 シノはラルトの身体を押さえて寝台に横たえさせると、休んでいるように言い置いて、御殿医を呼ぶために執務室を退室していった。再び一人となり静まり返る部屋で、ラルトは寝台に身体を横たえ天井を見つめたまま、シノの問いを反芻し続ける。
「何故、皇帝に――……」
 こんなにも厭う玉座をどうして温めたいと願ったのか、上手くその理由を思い出すことが、ラルトにはできなかったのだ。


BACK/TOP/NEXT