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第十二章 望みを問う 1


 毛布を引っかぶったまま、寝入っていたらしい。
 どれぐらいの時間が経ったのだろう。明り取りからは光が見え、あまり時間が経ったようには思えない。しかし時間感覚の狂っている自分に、正確に経た時を計ることなどできない。丸一日経ていることもありえた。
 牢屋にティアレが戻った痕跡は見られない。ヒノト一人が、寒々しい空間に取り残されたままだ。
「……誰か、おらんのか?」
 毛布に包まったまま鉄柵に歩み寄り声を上げたが、誰も返事をする気配がない。定期的に見に来ていたはずの看守の姿もない。ヒノト以外の誰かを収容している様子の見られぬ独房が、沈黙したまま廊下に並ぶ。
 ヒノトは嘆息して、身を包む毛布の前をかき寄せた。
「寒い」
 牢獄の中で一人、こんな風に膝を抱えていると、様々なことを思い出す。
 昔、牢獄の中で一人の少女の死を見取ったこと。薬の代金を払えぬ貧しい者たちに追い回されたこと。養母に手を引かれてひび割れた田畑広がる大地を歩き、国中を旅した。最後に居ついた薬草の匂い充満する小さな庵。そこで押し合いへしあい眠って笑い合った兄妹たち。そして彼らの無残な死。
 最後に触れた養母の冷えた躯を思い返して、ヒノトは身を震わせた。
 戻る気配のないティアレはこの館のどこかで、彼女と同じように腹を割かれているのだろうか。ティアレは体調を崩して以来、常に蒼白な顔をしていた。土気色のまま床に伏せる彼女を見続けてきたせいか、彼女が目を閉じたまま冷えていく様を容易に想像できてしまう。
 ヒノトは暗い思考を取り払うために大きく頭を振って、立ち上がった。
 ティアレが戻らぬというのなら、自分が迎えにいかなくては。彼女をラルトの元から引き離したのは自分だ。だから、自分が彼女をラルトの元に返さなくては。
 ヒノトは鉄柵に歩み寄り、顔をその狭間に押し付けて廊下の様子を探った。相変わらず、人っ子一人見当たらない。
 ふと視線を下げると、入り口の傍に置かれている見慣れぬ盆と丸められた毛布が目に入った。ティアレがこの場を去ったときには見られなかったものだ。盆の上には皿に乗った握り飯二つと、干した果物がひとかけら、そして水差しが置かれていた。
 ティアレを連れて行った男が去り際に、食べ物を運ぶようなことを言っていた。信じていなかったが、本当に運ばせたらしい。
 毒が入っているかもしれないという警戒心に、腹の訴える空腹が勝った。味見程度に口にした握り飯の塩味があまりにも美味で、最後には、はしたないほどにがっついて食べた。干した果物を口に含み、水差しの中身を高杯に移すことももどかしく飲み干す。砂漠の砂が雨を吸い込むように、水はヒノトの隅々に吸収されていった。
 腹が落ち着くと頭は冷えてくる。改めて思えば、牢の並ぶこの階は不自然なほどに静かだった。まるで、誰かに見捨てられてしまったかのように。
(……まさか本気で見捨てられたのか?)
 ヒノトは身を乗り出して外を見つめながら、胸中で独りごちた。足音も衣擦れの音も、呼吸音も、虫の行き交う音さえ聞こえぬ耳の痛いほどの静寂が暗がりを占める。そのあまりの静けさに薄ら寒さを覚え、ヒノトは食事の傍に置いてあった追加の毛布を手に取っていた。
 と。
 がしゃんっ
 広げた毛布から細長い何かが滑り落ち、けたたましい音を立てて石畳に落下した。周囲が静かなものだから、その音は必要以上に大きく響き、ヒノトを震い上がらせる。かたかたと小さく振動していたそれは、見守るヒノトの目の前でやがて沈黙した。
 毛布を抱えたまま、恐々と、覗き込む。
「……刀じゃ」
 毛布から滑り落ちたそれは、刀だった。
 黒い鞘に収められた、刀。
 赤い玻璃球と飾り紐が付けられたそれには、見覚えがある。シファカが携えていた獲物だ。間違いない。
 恐る恐る手にとって、鞘を汚していた赤黒いものに、ぎくりとした。指で触れるだけでぱらぱらと零れ落ちるそれは、錆に似た臭いをヒノトの手に付着させる。それを毛布に包んで抱きかかえると、ヒノトは唇を引き結んだ。
(シファカも、連れてこられておるのか……?)
 死んでいるのか、生きているのか、それは判らない。
 だが一つはっきりとしたことは、彼女もまた、無事ではなかったということだ。刀に付着した血が彼女のものとは限らないが、彼女が無事ならば刀がここにあるはずがない。
 ティアレと自分とは、別の場所に留め置かれた。おそらく彼女もまた、同じ襲撃者の手に落ちたのだ。
 探さなければならない。ティアレもシファカも。
 しかし、どうやって。
 ヒノトは立ち上がり、牢屋の戸口に立った。まず、鍵がどのような形で施錠されているのか詳しく調べる。鍵は魔力によって開くものではなく、錠前に鍵を差し込んで開ける型のものだった。それがヒノトを安堵させる。あの、ティアレを連れて行った男は鍵を使って開閉していたが、鍵自体に魔術の施されたものということもある。そうであったならばお手上げだったからだ。
 さらに調べるため、手を鉄柵の間に差し込んで、その鍵の角度を変えようとしたヒノトは、思いがけず開いた扉に身体の均衡を崩し、したたかに顎を石畳に打ち付けるはめになった。
 がしゃぁぁぁ……
「いだっ!」
 がしゃっ
 ヒノトの上げた悲鳴に一歩遅れて、放り投げる形となってしまった刀が再びけたたましい音を立てて石畳に叩きつけられる。ヒノトは蒼白になりながらその刀を取りに起き上がった。腕にずしりとくるそれを取り上げ、慌てて刀を鞘から抜く。美しく輝く銀は、傍目には欠けたり歪んだりしているようには見えない。安堵しながら再びそれを鞘に収めて、ヒノトは牢屋の扉を見つめた。
「……なぜ鍵が開いておるのじゃ」
 他にも、様々な疑問が頭を[もた]げる。
 どうしてこんなにも静かなのか。どうしてこんなにも人の気配がしないのか。
 まるで、打ち捨てられてしまったかのような。
 ヒノトは刀を毛布で包み、抱え上げると、靴を脱いだ。衣服の裾を裂き、それを足に巻いて、靴を毛布の中に挟みこむ。そして、よく看守が休憩の為に消えていた方向へと駆け出した。
 ひたひたという裸足特有の足音が、ヒノトの耳に届く。牢屋の中から覗いていた際に果てしなく長く感じられた廊下は、走ればそれほど距離のあるものではない。すぐに外へと通じると思しき階段と、木製の扉が見つかった。
 半開きになっている扉の隙間から外を窺い見ても、人の影、気配すら感じ取ることができなかった。抱えている毛布を強く抱きしめると同時、唾を嚥下する。その喉の音すら、不気味に反響するほどに静かだった。
 じっとしていても、仕方がない。嘆息してヒノトは扉を開いた。蝶番の音がぎしぎしと鳴る。誰かに見つかるかも知れぬと背を粟立たせたが、それも杞憂に終わった。
 扉の奥は紫色の絨毯の敷かれた広間だった。広さはそれほどではないが、明らかに平民の暮らすような場所ではないとわかる。その様子だけをみれば、ヒノトが現在ダッシリナにいるかどうかも激しく怪しい――広間の建築様式は、どうみても東大陸の一般的な建物のそれではなく、どちらかといえば西か北大陸寄りだった。
 しかしヒノトは中央から二階へと伸びた階段の手すりを見て、ここは少なくとも東大陸内だと見当をつけた。手すりに施された細かい透かしの彫刻は、東大陸によく見られるものだったからだ。
 柔らかい絨毯に、足が沈み込む。上等な絨毯だ。貴族以上の生活を営んでいなければ、このような絨毯を敷き詰めることなど叶うまい。
 ヒノトは歩を進めた。それを咎めるものはやはり誰も居ない。廊下に並ぶ扉は全て開け放たれているが、その奥に垣間見える部屋にも人影はない。明りも全く灯っておらず、椅子は横倒しに倒れて、まるで慌しく人がここを打ち捨ててしまったかのような有様だった。
 ヒノトは階段の対面に存在する扉に視線を移した。部屋と部屋を繋ぐ扉よりも一回りだけ大きい扉は牢房へと続く扉と同じように、ほんの僅かに開いていた。指一本分ほどの隙間から明りが漏れている。それが街灯や蝋燭の明かりとまた違うものだと感覚で知っていたヒノトは、その扉が外へと続くものだと判断して歩み寄った。
 扉の近くに人の気配はない。しかし声がする。
 ざわざわという、大勢の人間の。
 意を決して、ヒノトは扉を押し開いた。
 光が、溢れる。
 眩しさに一度目を細め、明りにようやっと慣れた視界に飛び込んできたのは、館を囲む垣根、そして入り口の柵の向こうで賑々しく祭りに浮かれる人の流れだった。


 窓から見える城下のそこここに、美しい彩の旗がはためいている。通りには人がひしめき、露天商の掛け声が、明瞭ではなくともここまで届いてくる。町中を熱気が包み、その様相は、まるで祭りのようだ。
 ダッシリナの祭りもこのようであっただろうか。今日から祭りのはずであるが。
 寝台の上で上半身を壁に持たせかけ窓の外を眺めていると、扉を軽く叩く音がした。この部屋に入ってくる人間は限られている。ティアレは返事をせず、ただ顔だけを扉のほうへと向けた。
 叩扉した方もまた返事を待つこともなく、無許可で扉を開き、入室を果たす。ティアレはわずかばかり驚きに目を瞠った。そこには予想していた男と別の男が、少女を伴って立っていたからだった。
「……どなた、ですか?」
「姿を変えただけだ。俺だよ、ラヴィ・アリアス」
 ティアレの問いに男は笑い、寝台の傍まで歩み寄ってきた。ラヴィ・アリアス――ソンジュは、リアス・ラヴィアと呼んでいたが――は、冴えた美貌はそのままだが、つい先ほどまでのどこか印象の薄い男とは容貌が全く異なっていた。
 黒髪黒目であることには変わりがない。しかし黒は黒でも深淵をのぞいたかのような漆黒だった。異常なのは身体右半分で露出している部分を隙間なく覆う赤い刺青だ。魔術文字か、単なる文様なのか、それはティアレには判別がつかない。
 ただ、非常に禍々しい気配を放っている。
 それを除けば東大陸の民族の顔立ちをした美丈夫だった――そしてどこか……ラルトに似ている。
「この城に立ち入るには俺の招待が必要だ。ソンジュも然り。だから姿を戻したんだ。姿の上塗りは結構魔力を消費する。周囲の人間にもよく影響がでるものだから」
「……貴方は、魔術師なのですか?」
 魔術を扱える人間は今の時代そう多くはない。特に、姿を変えるなどという高等な魔術を扱えるものはことさら少ないだろう。
 男は首を横に振った。
「俺は剣術畑の人間だ。君の旦那と同じだよ、ティアレ」
 彼はそういうが、剣を携帯している様子は全く見られない。今までティアレと会っている間、彼が刃物を持ち歩いている様子は一切みられなかった。しかし剣術畑といわれて納得はできる。彼の纏う気配は文人というには違和感がありすぎた。武官といったほうがしっくりくる。
 ティアレがつい先ほどまで眺めていた窓に、ラヴィはついと視線を動かし尋ねてきた。
「ハルマ・トルマの風景は懐かしいか? たしか現皇帝に出会う以前は、この古城にいたんだろう?」
「以前はこのような窓のある部屋にはおりませんでした。私が魔女であることを知りながら、貴方は私の以前の忌み名をご存知ないのですか?」
 ハルマ・トルマの古城。
 あれからすぐ、馬車に乗せられ運ばれた先は、ラヴィが口にしていた通り、水の帝国のデルマ地方――ハルマ・トルマに運ばれた。見晴らしのよい、しかし逃げることはひどく難しい一番高い塔の上の一室にティアレが落ち着いたのはつい先ほどのことだ。運ばれている間もこの城を外からも内からも観察したが、懐かしさなど覚えることはない。
 以前この場所にいたときは、当然窓も明り取りも何もない、魔封じの為の文様と寝台だけがある部屋に留め置かれていた。自由に行き来することができるといえば、扉で一続きの先の手水と湯浴みの為の部屋だけだった。
 滅びの魔女。
 国を滅ぼす娼婦<傾国姫>。
 夜伽を売る女に、外の景色など必要なかったということだ。
「将軍、ご婦人に嫌なことを思い出させるような発言は、お控えになってください」
 ラヴィの発言を叱咤するように口を開いたのは、今まで無言だった少女である。
 年の頃は十代半ばか、それよりも下か。あどけない面差しの少女だった。白い光沢のある布地に赤の縁取りをした袍を身につけ、頭の上で団子にした黒髪には、黒塗りの簪を挿している。きらきらと輝く瞳は晴れた空の色。
 少女は場違いなほどに明るく、にこりと笑う。
 ラヴィは少女の背を軽く押し出しながら、ティアレに向き直った。
「ヤヨイだ。ここでの君の世話は彼女に全てやってもらう」
「初めまして」
 ヤヨイと呼ばれた少女はぺこりと頭を下げた。簪についた鈴がちりんと揺れる。ティアレは少女の明るさに当惑しながら、挨拶に応じた。
「初めまして……」
「当分彼女と二人きりだろうから、仲良くやってくれ。部屋の外に出るには全て彼女の許可がいる。身支度、食事、湯浴み、一切の世話を彼女がする」
「よろしくお願いいたします」
「……彼女一人が私につくのですか?」
「そう。彼女一人だ。かといって変な気は起こさないほうがいい。先ほど俺に訊いたよな? 魔術師かと。彼女こそが、魔術師だよ。この国のどんな兵をかき集めても、彼女には手も足もでないだろう」
 この少女が?
 ラヴィの言葉を誇張だろうと思いながらも、ティアレはまじまじと少女を観察した。ラヴィの傍らにいる少女は酷くあどけなく、どう見ても彼のいうような腕利きの魔術師とは思えない。少女もまた、にこにこと邪気のない笑顔を浮かべるばかりで、ラヴィの言葉に同意することも、否定することもしなかった。
「今回はひとまずそれだけを伝えに。多分しばらく暇だろうから、ゆっくり静養でもしててくれよ。ダッシリナの祭りは今日からだが、こちらの本番はまだ先だ」
「待って」
 軽く手を振ってそのまま踵を返しかけるラヴィを、慌ててティアレは呼び止めた。こちらに移動している間、熱で意識が朦朧としていたためかろくに話すこともできなかった。しかし尋ねたいことは山とあるのだ。
 寝台から足を下ろそうと身じろぎしたティアレを、ヤヨイが慌てて押し留める。その華奢な腕はティアレの抵抗をものともせずに、ティアレの身体をしっかりと押さえた。ティアレは少女の肩越しに、叫んだ。
「ヒノトは、無事に帰したのでしょうね!?」
 それは約束だった。自分を誘拐した男との『約束』など、果たされぬに等しいと判っていたが、せずにはいられなかった約束。取引といってもいい。
 男はさらりと言った。
「きちんと帰ったかどうかは俺の知るところじゃない」
「貴方……!」
 激昂し、少女の肩を握る指に力が篭った。少女はわずかばかり顔をしかめたが、何も物を言わない。彼女の瞳はティアレと男の間を交互に行きかって、この行く末を案じているようでもあった。
 やがて、嘆息したラヴィは言った。
「星詠祭の人の群れの込み具合は格別だ。人に流されて道に迷ったかもしれない。浮浪者に捕まったかもしれない。いや、俺がそのように画策したというわけじゃぁない。純粋にそうなってしまえば、俺にはわからないという意味だ。ただ――」
「将軍、回りくどいいい方はやめて、きちんと町中に解放したといえばよろしいではありませんか。どうせ無事であらせられるように、何かしら守りだってつけているのでしょう? ティアレ様の神経を逆撫でするような発言はお控えくださいな。それでなくとも、とても色々なことに不安に思われているでしょうに」
 ヤヨイのこちらを擁護する発言に、ティアレは思わず手から力を抜いて彼女を見返していた。視線を合わせた空色の双眸は柔らかく微笑む。ティアレの身体はそれとなく寝台に押し戻され、最後には頭が枕の中に埋もれているというありさまだった。
「大丈夫ですよティアレ様。えぇっと、ヒノト様、でしたっけ? そのお方はきちんと、お帰りになられているはずです」
「……本当、ですか?」
「えぇ。きちんといつか、再会できますよ。将軍は、無碍な殺生をするような方ではないですから」
 少女がその場しのぎの嘘をついているようには見えなかった。
 大丈夫です、と繰り返しながらティアレの髪を整える少女に、ティアレは知れず息をつく。
 この部屋には封じ込めの魔術が施してある。ティアレが己を傷つけられるようなものも全て取り上げられている。そしてこの少女が見張りにつく。自害する心配のない状況下で、よく考えれば、ラヴィは嘘をつく必要がない。ヒノトは死んだ。その一言を告げても問題はないはずだ。
 彼らが解放したというのだから、ヒノトは解放されたのだろう。ただ、それが今の彼女が無事に生きているということと同義語ではないというだけの話だ。
「……貴方たちの狙いは一体なんなのです?」
 ラヴィはソンジュの為に動いているわけではないと言った。
 自分の目的のためだけに動いていると。今はある程度方向が合致するから、付き添っているだけなのだと。
 ならばティアレをこのハルマ・トルマの古城に閉じ込めたことも、彼の『目的』とやらの為なのだろうか。
 ラヴィは扉傍の壁に背を預け、腕を組んで答えた。
「確かめたかっただけだ」
「……確かめたかった」
「そう。……一つ質問してもいいだろうか、滅びの魔女」
「……どうぞ」
 ティアレが促すと、ラヴィはやはりいいと手を振った。怪訝さに枕の上で首を傾げる。ラヴィはすこし寂しげとも取れる微笑を浮かべて言った。
「いい。今のでわかった。……やはり君は、滅びの魔女と呼ばれることに違和感を覚えないんだな。……皇帝も同じ様子のようだし」
「……どういう意味ですか?」
 ラヴィはティアレの質問に答える気はもうないらしく、背を壁から離す。ひらりと振られる、無骨な手。
「ヤヨイ、後は頼む」
「はい」
「どういう、意味ですか?」
 ティアレは身体を起こすと語調を少しだけ強め、問いを繰り返した。扉の取っ手に掛かっていたラヴィの手が止まり、刺青の浮かぶ頬がティアレをかえりみる。空間に浮かび上がるような赤い刺青と、対極的に光を宿さぬ漆黒の瞳。それらに背筋を凍らせながら、ティアレは視線を逸らすまいと唇を噛み締めた。
 沈黙の後、ラヴィがティアレに問うてきた。
「君は、この国の呪いは解かれたと思うか?」
「……え?」
「この国には呪いがかかっていた。この国を建てた男の呪い。魔女が永遠を祈ったために、それもまた永遠となった。気の遠くなるような時を経てついに君たちは出会い、呪いは解かれた」
 男の独白とも取れる言葉を聴きながら、ティアレはぼんやりと思っていた。
 なぜこの男は、この国の呪いが魔女ではなく、皇帝によるものだったと知っているのだろう。
 ラルトでさえ、ジンの出奔以後、膨大な古い資料を読み解いてようやくたどり着いたことなのに。
 ティアレの意識は、ラヴィの言葉の続きに引き戻される。
「しかし君は、本当に呪いは解かれたと思っているか? 英雄と魔女が出逢った。それだけで? 本当に?」
「何を、おっしゃりたいのです?」
「この世界には呪いがある」
 男は自嘲めいた微笑を見せてそう述べた。
「作物が育たない。どう足掻いても、兄妹たちで玉座を争う。長命種との盟約に縛られる。魔に酔っている。神の宣下を妄信的に慕う。……この国のように、裏切りあう。この世界は、呪われた国が布陣のように置かれ、成り立っている。最初は魔によるものだ。しかしそれから解かれてすぐに、人々は染み込んだ呪いから解放されるのだろうか? この世界を呪われた世界足らしめているものは、本当は何なのか。魔か、人か。人の紡ぐ、歴史なのか。……この国は、世界で初めて呪われ、世界で初めて呪いから解放された国なんだよ、ティアレ・フォシアナ・リクルイト。俺はそして本当にこの国が呪いから解放されるのか、確認するためにここにきた」
「……貴方は、一体……?」
 掠れた声でティアレは問いかける。
「同じ問いかけ、君の旦那にもされたなぁ」
 ラヴィはおどけたように肩をすくめた。
「君の旦那にもこう答えたよ。俺は、世界の傍観者だ」


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