BACK/TOP/NEXT

第一章 過去の枷 2


「……なんと、おっしゃったの、ですか?」
 ティアレは、ラルトの言葉の意味するところを理解しかねているようだった。
 ラルトは瞼を閉じた。出来れば、繰り返して口にしたくない言葉ではある。一音一音、これで最後であってほしいと祈りをこめるかのように、ラルトは呟いた。
「堕胎して、欲しい」
 長い。
 長い、沈黙があった。ティアレは一度瞼を閉じた。世界全てを拒絶するかのように。ラルトはじっと彼女の返答を待った。待ったのは、ほんの僅かであったのかもしれない。それでも、永劫に思えるかのような長く重苦しい沈黙であった。
「何故ですか?」
 再び瞳を開いたとき、彼女の双眸には意思があった。何故、どうして。ラルトに疑問をぶつけるとき、彼女はいつもそのような眼差しをする。
 どう、彼女に伝えるべきだろう。この事実を。
 どう考えても、これだという答えは思い浮かばない。だが、ティアレは先ほどのラルトと同じように答えを待っている。ラルトは結局、単刀直入に言うしかなかった。
「子供を生めば、死ぬ可能性が、高いからだ」
 母子共に、死に至る可能性が、非常に高いでしょう。
 脳裏に生々しく蘇る御殿医の言葉は、ラルトを戦慄させるに十分だった。
 ティアレが得ているのは正確に言えば病ではない。
 いわば娼婦として生きた彼女の過去の遺物だ。
 リョシュンに言わせれば、彼女は薬を飲まされていた。
 子供を産めない身体にするための薬。呪薬だ。無論ラルトが飲ませるはずがない。ティアレが、娼婦という商品として、王侯貴族もしくは裕福な商人の間でやりとりをされていたころ、彼女のかつての所有者が、彼女に飲ませたのだ。
 避妊の為であるといわれたのかもしれない。何も告げられず、ただ飲まされていたのかもしれなかった。なんにせよ、強力な薬だ。日常生活にはさほど支障はないが、子供を孕んだ段階で、とたんに悪影響がでる。
 だが、そういった諸々をティアレにどのように説明すべきだろうか。娼婦としての過去をもっとも厭っているのは、ほかでもない彼女自身であるというのに。
「……ティアレ?」
 ティアレから、何の反応も得られず、ラルトは怪訝さに彼女を見つめなおした。ティアレは、ラルトが何を告げたのか理解できないというように、呆けた顔をしている。彼女はやがて小さく首をかしげ、泣き出したいのか、笑い出したいのか、どちらともとれる表情を浮かべて呻いた。
「……え、えぇ……?」
 彼女の唇が何か言葉を紡ごうと、小さく動いている。だが何一つ明確な言葉を紡がないまま、彼女は瞬きを繰り返していた。ラルトは立ち上がり、ティアレの肩に触れた。もともと華奢な肩は哀しいほどに痩せて、ラルトは思わず手を放しそうになる。
「ティー」
 事実の補足をすべきか、それとも慰めの言葉を吐くべきか。ラルトが逡巡していると、静謐なティアレの声が部屋に響いた。
「……それは、私に、何か欠陥があるということ、ですか?」
「欠陥!?」
 あまりの言い方に、ラルトはぎょっと目をむき、慌てて首を横に振った。
「ティアレ、欠陥なんかじゃない。ただ、子供を生もうとすると、命の危険があるだけで――……」
「それを欠陥と呼ぶのではないのですか!?」
「違うといってるだろう! ティーのそれは先天的なものじゃない!」
「でも今は欠陥なのでしょう!?」
「そんな言い方はするな!」
 ラルトは思わず、掴んでいるティアレの双肩を揺さぶった。ティアレはこんな風に時折己を卑下する。それは彼女の生い立ちを考えれば仕方のないことかもしれなかったが、ラルトを酷く苛立たせる。ティアレはびくりと身を震わせたが、それだけだ。ラルトを見上げてくる彼女の眼差しは、まるで刃のように鋭く真っ直ぐだった。
 ティアレは嗤った。低く。
「子をなせぬ、世継ぎを生めぬ后妃に何の価値がございましょう。血を次に残せぬ后は、須らく欠陥品と呼ばれるのです」
「誰がそんなことを決めた。不安定になると、昔のように皮肉屋に戻るのはお前の悪い癖だぞティアレ。世継ぎがどうしたっていうんだ。お前は俺が最も必要とする女。だからお前はその位にいるんだ」
「ですが私は貴方から奪ってばかりです」
 いつの間にか、ティアレの手がラルトの腕を握り締めていた。白く細い手は血管が透けて見える。
 あぁ、病んだものの手だと、ラルトは思った。
 リョシュンはつわりだといっていたが、やはり心労によってこうなってしまった面も、あるのだろうとラルトは思う。
 彼女の桜色の爪が、ラルトの衣服に食い込んだ。僅かに、痛みを感じる。しかしラルトはティアレから瞳を逸らさず、彼女の言葉に耳を傾けた。
「私は、貴方から、うばって、ばかり」
 ティアレの顔が泣きに歪み始める。
 ラルトは断言した。
「そんなことはない」
 ティアレがラルトから奪った。
 一体、何をだ。
 ティアレはラルトに、数え切れぬものを与えたのだ。
 夜帰った寝床が冷えていないということ。深い暗闇に落ちるような、夢の見ない眠り。お帰りなさいという声。笑顔。
 それは裏切りの帝国としてのブルークリッカァでは、考えられぬことだ。悪夢ばかりを繰り返す浅い眠り。暗殺を避けるため、女官たち全てを遠ざけた冷えた寝床。静まり返った寝室なぞに、ティアレがこの国にやってきた以前は戻りたくもなかった。
 ささやかな、けれど大きな幸せだ。ティアレがラルトの手をとる限り、ラルトは決して孤独なのではないと思える。
 そんな幸せと心強さを与えてくれた、ティアレが奪ってばかりだと?
「一体、何を俺から奪ってばかりだというんだ!!!」
 与えられこそすれ、ティアレによって奪われたものなど、ひとかけらもない。
 だが意表をつく形で、ティアレが呻いた。
「私は、貴方から、家族を奪ったのに……」
「……か、ぞく……?」
 その単語から連想できる人物は一人しかいない。
「ジンのことを言っているのか?」
 ラルトのたった一人の親族。生き残った、たったひとりの、幼馴染。
 乳兄弟でもあった、気の置けない、唯一の男。
 政治においての女房役でもあった男は、今は国を離れて、どこぞの空の下で生きている。
 ティアレはとうとう涙をこぼし始めていた。透明な雫がはらはらと、頬を伝い、零れ、そしてラルトの衣服に染みを作る。
 ラルトは苦渋の表情を浮かべて言った。
「ティアレ、何度も言っただろう。あいつがこの国を離れたのは、お前のせいじゃない。お前のせいじゃ、ないんだ」
 ジン・ストナー・シオファムエンが国を離れることになった事は、確かにティアレがこの国にやってきたことに端を発する。
 しかしティアレが彼を追いやったわけではない。決して。
 この裏切りの帝国で、彼の行った小さな裏切りを完璧に許すことなどやはりできなくて、それでも死んで欲しくなくて、彼を憎むために、彼に、幸せになってもらうために、この国からラルト自身が追い出し、またジンもそれを選択したのだ。
 ティアレのせいでは決してない。
「ジン様がいなくなって、貴方はとても疲れていた」
 ティアレは言った。
「ねぇラルト。私にわからなかったとお思いですか? 私に、貴方の憔悴が判らなかったと。私はあなたの后です。ですがこの国で過ごした年数は、まだ足元おぼつかぬ子供よりも短い。私には判っていた。私ではどうしても、貴方を支えきれぬ部分はあるのだと。どれほど、后として人を動かせるようになり、その責任を果たそうと。貴方から、貴方の言葉を理解し、貴方と同じ皇族の血を引き、呪われ、貴方と共に歩める、貴方の家族を奪うべきではなかった。奪ってはならないものだった。私では、貴方と同じ世界を見ることができない」
「誰が俺と同じ世界を見て欲しいとお前に言った!? 俺はただお前に共に歩いて欲しいといったはずだ!」
 ティアレが、ジンのことを気に病んでいたことを知っている。ずっとずっと、気にかけていたことを知っている。
 しかしラルトは、彼女には何度も、気に病むな。あれはティアレのせいではなかったのだと繰り返していた。ティアレは微笑んで頷いていたはずだ。
「それでも貴方の憔悴を、何も出来ずに見ているのはとても辛い」
 ティアレは首を横に振った。駄々をこねる、子供のように。
「ラルト。私は、貴方の家族を取り上げただけではなく、貴方に新しい家族を作ってあげることもできないのでしょうか。私の何が、いけなかったんですか!? 私は、貴方に、してあげられることは、何もないのでしょうか!?」
「ティアレ」
「ねぇ、ラルト……!」
 女の嗚咽が部屋の空気を湿らせる。ラルトはティアレを見下ろしながら途方に暮れていた。
 こんなとき、自分はレイヤーナを失った七年前から少しも成長していないのではないかと思うのだ。
 愛しい女。
 彼女らが苦悩し、追い詰められ、堰を切ったように泣き出したとき、自分はいつも、呆然と途方に暮れている。
 がたんと。
 ついたての揺れる音がした。ラルトは弾かれたように面を上げて戸口を見た。そこには医師見習いの少女が、茶道具を盆に載せて立っている。ヒノトは驚愕の眼差しでティアレとラルトを見比べると、素早く手に持っていた盆を円卓に置いて、ティアレをラルトから引き剥がした。
「ティアレ、おちつかんか!」
 ティアレは興奮しているんか、混乱しているのか――おそらく両方だろう――泣きながら何事かを呟いている。ヒノトはそんな彼女を羽交い締めにして、必死になだめに掛かっていた。
「ラルト! おんし、ティアレに何をいうたのじゃ!?」
 ティアレの様子に明らかな狼狽を見せて、ヒノトが叫ぶ。だがラルトは答えることができなかった。
 ただ、その場所に、立ち尽くしていることしか、できなかったのだ。


BACK/TOP/NEXT