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第十一章 宴の前 3


「調子はどうだ?」
 男は親しい友人に挨拶するかのようにヒノトに声をかけてくる。ヒノトは勢いよく立ち上がると、鉄柵に飛びついた。
「いいわけなかろう! こんな牢屋に入れられて! みればわかるだろうがおんしは馬鹿か!?」
 唾を吐きかける勢いで唐突に叫ばれたことに、男は面食らったようだった。少しばかり上半身を引いて、目を瞬かせている。鉄柵を握り締めヒノトが黙り込むと、男は小さく笑った。
「うん。元気なのはわかった。魔女は? 寝てるのか?」
「……魔女?」
 鸚鵡返しに問い返し、ヒノトは男の視線を追った。彼の目は牢屋の奥、寝台に横たわるティアレを見つめている。その視線に迷いはない。彼の目は、確かにティアレを捕らえている。
「……彼女のことか?」
「あ? ……あぁそうか。そう。ティアレ・フォシアナ。……今は最後にリクルイトがつくか」
「彼女はそんな名前の人間ではない」
 人違いだと、だから解放しろという意味で、ヒノトは断言した。しかし男は微笑んだまま、さも当然のようにこういった。
「人違いなら殺すまでだろう」
 男の声音は穏やかで、その何気なさがヒノトを絶句させた。男はヒノトのその当惑さが可笑しかったのか、今度は喉を鳴らして笑い、鉄柵越しにヒノトの頭を撫でた。
「大丈夫大丈夫。そんな蒼白にならなくても。誰がなんといおうと、そこの彼女はティアレ・フォシアナ・リクルイトだ。判ったか? お嬢さん。ここまで来てハッタリをかませるのは立派だが、こんな受け答えもあるから、発言には気をつけておいたほうがいい。本人だと思わせておいたほうが、身の安全を確保できる場合もある」
 ヒノトは我に返り、男の手を振り払った。男はヒノトの手によって弾かれる前に己のソレを引き寄せ、ヒノトの睨め付けなどどこ吹く風の様子で、さて、と軽く肩をすくめた。
「彼女を起こして欲しい。俺は彼女に用事がある」
「……ティアレは起こせん。発熱しておる」
「……発熱?」
 そこで初めて、男は眉をひそめた。
 懐から鈍色に輝く鍵の束を取り出した彼は、鍵を空けて牢屋の中へと踏み込んできた。牢屋の扉を開け放したままで、牢の中へと踏み込んでくる。ヒノトが逃げようが逃げまいが、関係ないといった無頓着さだ。
 彼はティアレの元に真っ直ぐ歩み寄ると少し距離を置いた場所で立ち止まり、顎をしゃくった。
「あぁ……これはさっさとこちらに引き取らなきゃだめだな。……お嬢さん?」
 こっちへこいと手招きする男に、ヒノトはしぶしぶ歩み寄った。
 この男から危険な匂いは感じられない。むしろ奇妙なほどに人懐こいほどだ。まるで何年も何年も親しんできた友人のように笑いかけてくる男にとうとうほだされ、ヒノトはしぶしぶ歩み寄った。
「……彼女、何時からこんな調子だ? 確かに気絶したとき体調不良が見られたけれど、発熱はしていなかったよな?」
「わからん。じゃがこの牢屋で目覚めたとき既にこのような様子じゃった。ひとまず寝台に寝かせたが……お前のところの看守はけちじゃぞ。水すら恵んでくれぬ。これでは脱水症状になってしまう」
「ここの看守は事情を知らないからさ」
 男は看守を擁護すると、ティアレのほうにもう一歩だけ踏み出し、手を彼女の額に触れさせた。男の薄い唇が何かを呟く。
「何をするつもりじゃ!?」
 反射的に、ヒノトは男の腕に取り付いていた。男はヒノトの行動に驚いた様子もなく、もう終わったよと言って、また元のようにティアレと距離を置く。
 何が終わったのか。
 ヒノトは男の腕にとりついたまま、胸中で彼の言葉を反芻し、ティアレのほうに顔を向けた。
「……ら、ると」
「ティアレ?」
 ティアレの唇がかすかに動き、長い睫毛がかすかに震える。ヒノトは驚いた。ティアレの額の汗が引き、様相が明らかに平常に戻っているからだった。
 男の手を離れたヒノトはその場に膝をつき、ティアレの手首を取った。脈が、戻っている。つい先ほどまで、あれほど早く脈打っていたというのに。
 額に触れてさらに驚く。
「ティアレ……熱が」
 引いている。
 つい先ほどまで、彼女は明らかに高熱に喘いでいた。それは、間違いがないのに。
「……ヒノト……」
 まだ夢現にいる様子のティアレが、かすかに瞼を開いてヒノトのほうに面を向けた。
「ラルトがいるのですか?」
「ラルト? いや……」
「でも……声が……」
 きこえたの。
 ティアレが震える声で断言する。だが、そんなはずはなかった。ここにいるのは、自分以外には一人しかいない。
「まだ皇帝には会わせてあげられないよ、ティアレ・フォシアナ・リクルイト」
 この場に存在する三人目は、おどけるようにそう言い、残念だが、と付け加える。ティアレの視線が動き、その摩訶不思議な色合いの双眸に男の姿を捉えたとき、彼女は弾かれたかのように上半身を起こしていた。
「貴方は……!」
「ここで交友を温めたいところだが、そういうわけにもいかない」
 男は先ほどと打って変わって、神経をひやりと撫でるような、抑揚を殺した声音で囁いた。
「貴方の身の振りが決まった。一緒にきてもらおう」
「ティアレ」
 行っては、ならないと。
 ヒノトはティアレの手を握り締めた。けれど彼女は微笑んだ。ヒノトの手をやんわりと押さえ込み、厳しい眼差しでティアレは男を射抜く。
「……ヒノトは、どうするのですか?」
「ここに置いていってもらう。殺しはしないよ。離れて不安だろうけれど」
 さぁ、と手を差し出す男に、ティアレが静かに頭を振る。
「手助けはいりません。一人で参ります」
 そう男の手を拒絶して、ティアレは立ち上がった。その立ち姿は毅然として、見るもの全てを惹き付け、そしてひれ伏させる。
 皇后としてラルトの傍らに並び立つときの、ティアレの姿だった。
「……ティアレ……」
 ヒノトはティアレの手を握り締め、床に膝をついたまま彼女を見上げた。ティアレがヒノトを優しく見下ろす。この眼差しを、知っているとヒノトは思った。
 エイに連れられ、見知らぬ土地に初めて足を踏み込んだヒノトの手を握り締めて微笑んだ。そのときと同じ。
 不安がるものを安堵させるそれだけの為に浮かべられた微笑。
「ここでじっとしていても何が変わるわけではありません。私たちを何故捕らえたのか、理由を聞けるのでしたら聞きにいったほうがいいでしょう」
「じゃがそれがおんしを殺すためであったらどうするのじゃ?」
「ここにいてもそれは同じです、ヒノト」
 ティアレはヒノトの手を力強く握り返した。彼女の柔らかくそしてひやりとした手は、やがてその力をゆっくりと緩めてヒノトの手から離れていく。
「私には貴方の命を保障する義務がある」
 厳しい口調でティアレは言い放ち、男に向き直った。
「案内してください」
「もとより」
 男はティアレの言葉を請け負って、牢から出た。それにティアレが続き、彼女が出たことを確認して、再び鍵穴に鍵を差し込む。
「ひとまず食事と水と、もう一枚毛布を持ってこさせるようには、いっておくよ」
 男はそういってひらりと手を振り、ティアレを引きつれ歩き始める。
 ヒノトは鉄柵に取り付いて彼女らを見送った。しかしティアレが振り返ることは一度もない。
 二つの背が暗闇の向こうに消えた後、ティアレの温度が残る寝台に戻って、ヒノトは毛布を頭から被った。


「女官一人、薬師一人、文官一人、ですか……」
 大儀そうに顔をしかめ呟いた官夫に、エイは何か問題が、と小首をかしげた。
「捜索の為に手を借りたい。それだけなのに何ゆえそうも渋られるのか、私には理解しかねますが」
 ティアレたちが姿を消し、まず真っ先にすべきことといえば、水の帝国から随行している人数で出来る限り手勢を裂いて彼女らの捜索に当たることと、ダッシリナの宮廷に救援を求めることだった。館に詰めている人数でできることなどたかが知れているし、ダッシリナ国内で捜索といった特殊な動きをする以上は、宮廷に許可を取っておいたほうが何かと好都合だ。密偵かと勘繰られた際には、言い訳できるという利点もある。
 しかし普段ならばすんなりと通るはずの申請が、今日に限って時間を喰った。
 苛立ちを面に出さぬよう、表面には冷静を装い、エイは長らく待たされた挙句に現れた冴えない印象の上級官夫を睥睨した。
「いえね。お大臣ともあろう方が、何ゆえたいした事のない三人にうちらに捜索の援助を申し出るのか判らぬと上が申しておりまして」
「たいした事ないとは心外ですね」
 膝の上で握りこんだ拳を、もう一方の手で覆い隠すようにしながら、エイは応じた。
「薬師、女官、文官、誰もがなくてはならない人材であり、そしてそれ以上に人の命です。私は確かにこの国に、この国の祭事に祝辞を述べるという大義名分のもとに馳せ参じてはいますが、それを私一人でなしえるものではなく、彼らの支えあってのこと。私には、彼らを無事祖国へ連れ帰るという義務も負っています。彼らがこの国で行方知れずとなったならば、力の限りを尽くして探し出し、家族の下へ返さなければならないのですよ。それのどこが不自然かと?」
「私には、こっちの国に探りを入れるためにわざと行方不明にさせたんじゃないかって思えますが、どうなんでしょうねぇ」
 にや、とやに下がらぬ笑みを浮かべた官夫に、エイは呆れた。そして、呆れの表情を押し殺すのに、時間が掛かった。
 エイは嘆息し、そして微笑んだ。反論せず、悠然とした笑みを見せたことに相手は驚いたらしい。僅かに身を引く男にエイは穏やかな口調で尋ねた。
「なるほど。それをして、こちらにどのような利益があるのですか?」
「……利益?」
「貴方は一つ勘違いしておられますが、貴方の国を探るために、わざわざ誰かの行方不明を偽装してまでやって差し上げるようなことはいたしませんよ。貴方の国など、今更どうして探らなくてはならないのですか?」
 それは暗に、もうこの国に探るようなものなどないと言っているに等しい。
 事実に近い。ユファがこの国の実権を握っている限りは、暁の占国ダッシリナは限りなく水の帝国に友好的だ。多少の情報戦はあれども、互いの腹などある程度は知り尽くしている。そしてダッシリナの深部まで知る必要はないというのが、今のところのラルトの判断だ。
 エイは立ち上がって、官服の襟元を正した。
「どこへ行かれるのですか?」
「貴方は近いうちに首になるでしょうね。己の言葉が国の代表者としての意味を持たぬと思う限りは」
 エイは官夫の問いには答えず、あえて同情の眼差しを向けて宣告した。
「戦争とは些細なことが原因でなるものです。貴方の一言が、我が国とこの国の不和を作り出したとしたら、盟主は真っ先に貴方の首を私共にささげ、和平を請うでしょうね。あと、うちの諜報方は行方不明を偽装しなくとも、貴方の七つの可愛い娘さんが誕生祝を待っていることぐらいは即座に知りえます。紅の衣装が、よく似合いますね」
 まるで見てきたかのように官夫の娘について口にするエイに、彼の表情が今度こそ強張った。顔色を文字通り青白く塗り替えていく男に、エイは微笑んで踵を返し、来賓室の扉に手をかけた。
「申請の返事は、館に届けてくださればよいですよ。ごきげんよう」

 ばたん

 馬車の扉を勢いよく閉めて、エイは席に腰を下ろした。足を組んで背を壁に預け、傍らにある御者との連絡用の小窓に囁く。
「人の捜索の申請をやけに渋る」
 少しの沈黙の後、帰ってきたのは低い男の声だった。この馬車の御者の声だ。
「……やはり、マキート様たちを襲撃したのはヨンタバル側で?」
「断定はできないけれど、可能性としては高そうだ。でなければあれほど渋る理由が見つからない。……痕跡は見つかった?」
「マキート様のものらしき暗具を水路の影で発見したと部下から報告が上がっています。血痕も」
「……状況は絶望的か」
 組んだ手の上に顎を乗せて、エイは眉間に皺を刻んだ。ティアレたちが行方不明になってから、まる二日が経過している。明日はいよいよ星詠祭だ。エイの滞在期日は明後日、つまり、星詠祭の翌日までだ。何人かの人員を残すことはできても、エイ自身は報告もかねて、一度水の帝国へ帰らなければならない。
「……自分の失態だが気が重い」
 伝令の招力石を使い、ラルトの元へ連絡はしてある。
 だがその顔を、どのようにしてみればいいというのか。
 いやそもそも、顔を見る前に首を切り落とされるかもしれない。
「いや、気が重い、というか、死の階段を上っている気分なんだけれど」
 ティアレが見つからなければ、そうなる。
「命在るよう、嘆願はいたします」
「心休めをありがとう」
 皇帝の剣術は政治と同じく天賦の才だ。切り落とされる際には、おそらく痛みを感じる暇もないだろう。
 皇帝に見放されたら、生きるつもりもないけれど。自分の今の人生は、ラルトに見出されたからこそのものだ。唯一気がかりなのは、ヒノトの将来であったが、その彼女も行方不明ときては。
「救いは、死体がないことだろうね」
「血痕はありますが、マキート様の身体も見つかっておりません。遺体を処分したような跡も」
「どこかに遺体ごと持ち去った」
「マキート様についてはその可能性のほうが高いでしょう。しかしティアレ様ヒノト様お二方につきましては、誘拐の線が濃厚かと」
 エイが襲撃者の立場だとしても、ウルだけは後々の邪魔になると判断し、殺しておくだろう。
 左僕射の位に就いたばかりのときから自分を支えてきた副官を思い返し、腹の奥に溜まる冷たい澱を吐き出すようにして、エイは深く息を吐いた。
「<網>は動くようになった?」
「<結び目>たちに言わせれば、ある程度は、と。しかし手ひどくやられているようです。動くにはまだ時間がかかります」
 ウルがいなくなり、真っ先に手繰ったのは<網>が持っている情報だった。ウルでなくとも網の情報を引き出す手立てはある。それが網の中継地である<結び目>たちの存在だ。しかしそのどちらも機能不全に陥っていて、現在は全く意味を成さぬものとなっている。巨大な魔力に触れたからであるらしい。
(網を麻痺させる魔力など、この世のどこにあるっていうのでしょうね)
 そんな魔力をもつのは、それこそ歴史の中で国の興亡に姿を見せるという伝説の魔女たちぐらいなのではないか。
 <網>に働く魔力はそれほど巨大で、それを動かす構成も緻密だというのに。
 何が、起こっているのか。
 何に、巻き込まれたというのか。
 ティアレも。
 ヒノトも。
 単なる政治的陰謀というにはあまりにも禍々しい何かが、水面下で蠢いている。
「左僕射」
 御者の囁きにエイは面を上げた。何、と小さく返事をすると、安堵したような、同時に労わるような優しい響きが窓から零れた。
「希望はあります。ティアレ様は無事でしょう。……マキート様も、ヒノト様も」
 そのために力を尽くします。
 御者の力強い囁きが漏れ、エイは瞼を閉じて頷いた。
「ありがとう」


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