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第十一章 宴の前 4


 卓の上に置かれた高杯には、水が満たされている。
 そこに映る自分の顔色は決してよくない。不安げな色をそこにみて、ティアレは口元を引き締めた。この場では、毅然としていなければならない。
「毒は入ってないぞ? ただの水だ」
 背後から声がかけられる。男の声は思いがけず親しみやすく、そしてどこか愛しい男の声音にも似ていたが、ティアレはそれを無視した。ティアレをこの部屋まで案内した男は、椅子に腰掛け、ただ前を向いたまま微動だにしないティアレに、閉口しているようだった。
「……せめて水ぐらい飲んだらどうだ。本当に何も入ってない。ただの水だから」
「何故飲まなければならないのですか?」
「脱水症状になりたければ。あの君の連れが言っていただろう。それとも、君は昏睡状態で聞いていなかったんだっけ? 水を飲まなければ脱水症状になると」
「今は何も不都合を感じていません」
「そりゃぁそうだろう。俺が魔力で無理やり身体の感覚をいじってるから。けれど反動が酷いし、君の身体に水が必要なことは変わらない。日数で言えば、二日近く君は何も口にしていないことになる。水ぐらいは、飲んで喉を潤しておいたほうがいい」
「二日……」
 その日数に、ティアレは驚いた。最後に物を口にしたのはあの茶屋だ。その後しばらくして襲撃を受けた。襲撃を受けてからまるまる二日寝ていたことになる。
 つまり今日は星詠祭の前日か。
「牢屋に転がしていたのは半日程度だ。でも、寝ていたのは一日半かな」
 男は部屋の隅に腕を組み、壁に背を預けて佇んでいた。まるでティアレが水を飲むまでそうしているといわんばかりの男の眼差しが居心地悪く、ティアレは仕方なしに目の前の高杯の水に口をつける。
 水に一度口をつけると、とまらなかった。結局一口の元に全てを飲み干してしまっていた。
「ほら、喉が渇いていた」
 からかうような男の声音に、ティアレは羞恥から頬を染めた。唇を噛み締め、膝の上で衣服の裾を握り締める。
「なんならもう一杯」
「いりません。……それより、話はまだですか?」
「話?」
 何のことかと大仰に首を傾げる男に、ティアレは努めて平静を装いながら言った。
「私たちを、何のために襲撃し、何のために捕らえたのか」
「自分の身の上を理解していないわけではないだろうリクルイト皇后陛下。その御身にはいくらでも、様々な用途に対する利用価値がある」
「はぐらかさないで下さい」
「理由は……そうだな。俺の契約者にでも聞いてもらおうか」
「契約者?」
 男は何気なく手を上げて、ぱちりと指を鳴らした。その音は小さくあれど、奇妙なほどに部屋全体に余韻をもって響いた。ややおいて、待ちかねたようにこの部屋の扉が開かれる。そこから姿を現したのは、喪に服しているかのように全身を黒で固めた、冴えぬ印象の男だった。
「おはようございます、皇后陛下。大変よく眠られていたそうですが、目覚めのほうはいかがでしたか?」
「そのような社交辞令はなくてもかまいません。……用件だけを教えなさい」
「お噂とは違い、せっかちな」
 男は鷹揚に笑うと、卓を挟んだティアレの向かいの席に腰掛けた。
「自己紹介を。ソンジュ・ヨンタバルと申します。あれは、名乗ったかもしれませんが、私の副官でリアスと」
「ヨンタバル……? ダッシリナのヨンタバル候ではないのですか?」
「ご存知であらせられましたか」
 感心したように頷く男に、ティアレは眉をひそめた。ヨンタバル候はたしかダッシリナの盟主、ユファ・ハン・ダッシリナの甥だったはずである。それが一体ティアレを誘拐して何の用があるというのだ。
「さて、貴方においでいただいたのは、リクルイト皇帝陛下に、とある条件を飲んでいただきたいからなのです」
「条件?」
「デルマ地方の解放です。そしてゆくゆくは、ダッシリナ側でデルマを引き受けます」
 デルマ地方はティアレにとっても見知った土地だ。四年前のデルマ地方の併合。そのための進軍。その際に、自分は当時の領主シンバ・セトによってラルトに献上された。
 忌まわしき土地の名に、ティアレは瞼を下ろしながらソンジュに尋ねた。
「デルマ地方は水の帝国側で引き受け既に法も施行されています。それは貴方の国の盟主であらせられるユファ様との間で取り決められたこと。それを勝手に引き受けるなど、許されることだとでもお思いですか。それともそれは、ダッシリナとしての意向だと?」
「いずれはそうなります」
「……どういうことですか?」
「私がダッシリナの盟主になる。いずれは」
 男の浮かべる笑みは恍惚としていて、細められた目はティアレを映してなどいない。
「……ユファ様はどうなされました?」
 幾度か面会したことのある妙齢の婦人を思い返し、ティアレは問うた。
「今は逃げ回っておりますが、いずれは始末がつくでしょう」
 男の声には確固たる自信が溢れている。しかしどうしても、ユファがすぐに捕まったり殺されたりするような人間には思えなかった。何せラルトも認め、あのジンが毛嫌いしていたという食わせ物であるらしいのだ。ティアレに応対するときはおっとりとした母性溢れる婦人の役に徹していたが、時折見え隠れする品定めの目にはティアレも辟易したものだ。
「私をデルマ地方交換の品物とするおつもりですか?」
「貴方様が交換の品とあれば、かの皇帝陛下も喜んでデルマ地方を差し出すでしょう」
「愚かなことを。デルマ地方を併合したのは数多くの民人の命に関る故あってのこと。それを私の首一つでやすやすと交換するなど、皇帝陛下がするとお思いですか」
「ならば貴方は他に思われているほど、皇帝陛下に愛されてはいないのですね」
 不意を突かれたその言葉に、ティアレは唾を嚥下した。自分は今、色を失っているだろう。だがそれを悟られてはならなかった。動揺したとも、思わせたくない。
 愛されていない?
 確かに自分は愛されていた。だから今自分の腹に子供がいるのだろう。
 たとえ、生まれてくる未来がなくとも。
 ティアレは微笑んだ。
「私を愛する一個人であるまえに、彼は皇帝である。それだけです」
 そして自分は、皇后である。
 彼の唯一の后で、同じく国の責務を負っている。
 こんな事態に陥るまで本当にその責務の意味を思い出さないなど、自分はどれほど病んでいたのだろう。
 口から滑り出た声音は自らが意図していたそれよりもうんと静謐で、そのことがティアレを安堵させた。
 ソンジュは一瞬忌々しげに表情を曇らせたが、それを押し込めるように目を伏せた。やや置いて、荒々しく席を立つ。
「何にせよ、貴方の命は私の手の中だ。それをゆめゆめ忘れぬように、皇后陛下」
 鼻息荒く一息にまくし立てた男は、その足で退室した。荒々しい開閉音の後、沈黙が戻る。
 ティアレは嘆息して部屋の隅に控える男に尋ねた。
「……本気で、水の帝国からデルマ地方を奪い取るおつもりで? ヨンタバル候の意向は、話し合いにて決着することをお望みではないようですが」
「本気だろうなぁ」
 男は壁から背を離しながら即答した。事態を把握しているとは思えない、間延びした返答だった。
「その気になればこの大陸の覇者にでもなれるという風な意気込みようですね」
「君の目から見て彼はどうだ? 覇者になれそうな器か?」
 その問いを聞いて、ティアレは笑い出しそうになった。ソンジュが覇者かと。
 ティアレの目から見ても彼は風采の上がらぬ小物にしか見えない。よくて田舎の地方領主どまりだ。改めてラルトの纏う空気の稀有さがわかる。彼の他者を従わせる威厳、なんともいえぬ空気は育ちのよさだけでは説明がつかぬ。ソンジュもラルトと相対してみればいいのだ。己が役者不足であることに気付くだろう。
「正直に言って首をはねられては困りますので」
 やんわりと応じると、男は笑いながら言った。
「実に正直な回答だ!」
 本当に諸手を叩き、腹を抱えてけらけらと笑い出す有様だ。その上官に対する態度とは思えない不遜さに、ティアレは驚愕に目を剥いて彼を見つめた。
「貴方は……ヨンタバル候の部下ではないのですか?」
 しかし男は笑いを収めることもせず、まさか、と手を振った。
「部下? いいや違う。彼は契約者だ」
「契約者……」
「そう。……傭兵と雇い主みたいなものかな」
 男はティアレの傍に歩み寄ると、人の腕ほどの大きさの瓶を取り出しティアレの目の前の高杯に向かってその口を傾けた。水の瓶だ。ティアレが認識すると同時、瓶の口から透明な液体が水晶のようにきらめき、高杯に向かって落下していく。
 何時の間に、そんなものをどこから取り出したのだろう。
 ティアレが疑問に思う間に高杯は水で満たされた。
「ヨンタバル候は盟主が手放したデルマ地方を手に入れ、彼女を見返すつもりでいる。もっとも、そんなことをしても彼女はヨンタバル候を歯牙にもかけないだろうけれどね。もともと、盟主自身デルマ地方をもてあましていた。リクルイト皇帝陛下が持ち出した併合の話は願ったり叶ったりだったはずだ。あとは資源ある地区のみをダッシリナ側に残せばいい。……その辺りの折衝は、おたくの宰相がやったらしいけれど。それを今更無理に併合などしてみせても、盟主はヨンタバル候の浅はかさを嘲笑うだけだろう」
「……それを気付いていて、貴方はヨンタバル候に指摘しないのですか?」
「俺はヨンタバル候を立ててやるために契約しているわけじゃない。ただ俺の思うところにヨンタバル候が見事にはまってくれたから、契約しているに過ぎない。ヨンタバル候が大陸の覇権を握るつもりでいるのは俺を当てにしているんだろうが、俺はヨンタバル候の夢物語に最後まで付き合ってやるつもりはないよ」
 男は瓶を卓の上にどん、と置いて、お代わりは自由だからと笑った。その笑みはやけに親しげで、まるで男が十年来の知り合いであるかのようにティアレに錯覚させる。
 自分の立場を思い返すようにティアレは男から視線をそらし、高杯に注がれた水に大人しく口をつける。喉の渇きはある程度癒されていて、今度は、飲み干すようなまねはせずにすんだ。
「……私はこれから、ここで暮らすのですか?」
 ティアレの質問に、男は首を横に振った。
「これから君は俺と共にデルマ地方へ移ってもらう」
「デルマ地方へ?」
「城塞都市ハルマ・トルマ。そこに古城がある。そちらへ」
「ハルマ・トルマの古城には、デルマ地方領主が居を移しているはずです」
「あぁ、追放になったよ」
 男はこともなげに返答する。ティアレは言葉を失った。
「……追放!? 何故ですか!?」
 人望厚く、経験も豊富な老獪な文官が領主となっていたはずだ。彼が何か粗相をしたという話も聞かないし、ラルトがそんな安易に人を追放するはずがない。
 男は腕を組み、小さく口の端を歪める。それは男が浮かべる笑みの中で始めて、冷たい温度を宿したものだった。
「まぁ、いろいろお祭りの下準備はしてあって。……あっちに着いたら判るだろう」
「……どういう意味ですか?」
 男はティアレの問いに答えない。ティアレがいくら返答を待ったとしても、あちらに着いたら判るといった以上のことは男には答えるつもりもないのだろう。
 しかたなく、ティアレは質問を変えることにした。
「ヒノトも、連れて行くのですね?」
「いや、残念だがお嬢ちゃんは連れていけない。彼女とはここで別れてもらう」
 その問いに、ティアレは思わず立ち上がった。殺すつもりなのか、と尋ねるべく開きかけたティアレの口を、男の言葉が制した。
「ソンジュも用がないみたいだし、まぁ殺すことはないかな。彼女が余計なまねをしなければだ」
「……最後に面会は」
「それもできない」
 きっぱりとした拒絶だ。予想していたことではあったが。
 ティアレは無言で立ち上がり、卓の上に乗せられた瓶を手に取った。
「……おい、何をするんだ?」
 ばりん! がしゃん!
 男の手が届く前にそれを勢いよく床に叩きつけたティアレは、綺麗に割れ、水と赤いもので塗れた破片の先端を己の首に触れさせた。ちくりと、針で刺したときのような感触が肌に走る。しかしそれはすぐさま、手を痺れさせる痛みに紛れていった。
「……ヒノトの安全は保障していただきます。でなければこの部屋から動くことはいたしませんが」
「……判った。約束する」
 男はティアレの提案を、苦虫を噛み潰した様相で承諾したが、ヒノトの安全を確保するために命令を下すような行動には出なかった。ひどく不服だ。ティアレは目を細めて男を睥睨した。
「……本当に、お嬢ちゃんは逃がすよ。元々殺すつもりはないといってるんだから。そんな怖い顔で睨まないでくれ。魔女の顔で睨まれると本気怖いんだ」
 男は話しながら、ゆっくりとティアレとの距離を詰めた。その距離を再度開くつもりなど、ティアレにはなかった。ティアレはただ男の慎重な動作を視線で追い、その手がティアレの手首を掴んで破片を奪い去る様を、他人事のように見やった。
「けれどその方法はあまり褒められたものではないな。君の為に命を懸けたものたちを侮辱することになるだろうし。……あぁ、そろそろ魔術がきれるのか。実は頭、朦朧としているだろう?」
 確かに男の言う通り、急に頭が朦朧とし始めていた。身体全てがじわじわと熱を帯びてくるのは、出血の為かと思っていたがそうではないらしい。男が魔術で封じ込めていたという熱が、再発したのだ。
 男は破片を卓の上に無造作に投げ捨て、懐から取り出した布でティアレの傷ついた手を包んだ。
「……命を懸けたもの、と仰いましたね。私を護衛したものたちの行く末を、貴方はご存知ですか?」
 ウルとシファカ。
 あの二人は一体どうなったのだろう。無事であるとよいが。
 しかし男はティアレの傷ついた手を布で包む動作を止め、小さく肩をすくめた。
「男のほうは逃げたと聞く」
「……女性のほうは、どうなさったのですか?」
 男は柄にもなく口篭り、頭をかいた。どういうべきか、考えあぐねている。そういった様子だ。
「……死んだのですか?」
 ティアレは、考えたくない最悪を自ら口にした。あの、自分たちに巻き込まれただけの善良な娘。宿に、待っている人がいるといっていた。ただ、自分たちと街を見て回った。それだけで――……。
「死んではいないよ」
 男は言った。
 そして少し言いにくそうに、言葉を口の端にのせたのだ。
「彼女は、今は人形として、別の館に連れて行かれた」


 きっ……
 蝶番のきしむ音に、シファカは仮眠から覚醒した。
 時刻はおそらく夕刻。一度目覚めた昼からさほど時間が経ったようには感じない。仮眠も現半ばだった。
 シファカは瞼を上げた。明りが落とされ、帳が窓を覆う部屋は薄暗い。それなりに格式ある調度の整った部屋の輪郭が、侵入者のもたらした外部からの明りに一瞬だけ浮かび上がり、そして消えた。
 音もなく閉じられた扉。しかし部屋の気配はなくならない。
 気配を隠すわけではなく、しかし足音は殺して――シファカが目覚めぬようにと配慮したのか、慎重さを見せて忍び寄ってきた影に、シファカは呼びかける。
「シルキス」
 侵入者は、シファカの数歩手前で足を止めた。
「よく眠れましたか?」
 男の声音は穏やかで、相手を心から労うように優しげだった。しかし彼の問いは皮肉以外の何者でもない。シファカは柔らかい綿の詰まった長椅子の上で身じろぎをし、両の手首を重ね合わせるようにして、両手を掲げて見せる。
「こんなものがついてなければよく眠れたと思うよ」
 両手を上げると同時、金属音が部屋の空気を揺らした。両手と両足を拘束する鎖は鈍青色に輝いて、暗がりの中に浮かび上がる。
「すぐに外して差し上げます」
「ホント、今すぐに外して欲しい」
 シファカはうんざりしながら呻いた。鎖は細くも酷く重い。ただの鋼ではなく、何か特殊な金属を用いているのだろう。
 シルキスはすぐ外すと口にしながらも、動く気配を見せなかった。まるで人形のようにその場に微動だにせず佇んでいる。
 目が慣れてくると、シルキスの様相も徐々に判り始めてきた。彼は相変わらず片方の 目を眼鏡で覆っていて、色の詳細こそわからないが身につけている袍は、作りこそ東大陸のものだがひどく簡素である。どこかの学者のような出で立ちだった。昔と同じように長い髪はうなじの部分で軽く結わいてある。夜の王国[ガヤ]で会ったときよりは、幾分かやつれたようだが、落ち窪んだ眼窩の向こうに以前にはあまり見られなかったぎらついた眼光を宿すようになっていた。
「……何をしてるんだこんなところで?」
 シルキスは夜の王国で一度罪人として捕らえられたが、そのまま逃げおおせたのだと聞いている。もう二度と会うこともないだろう。そう思っていた。世界は広く、たった一度であっただけの人間と偶然に再会する確立は酷く低い。しかもここは彼と出会った北の大陸ではない。東の大陸なのだ。
「現在このダッシリナにて仕官しております」
 シルキスは答えた。
「ガヤを離れ、そのまま真っ直ぐ南下しました。東大陸に入ったのはあれからすぐのことです。現在の主であるソンジュ・ヨンタバル様に見出されて今に至ります」
「仕官……」
 シルキスはひどく頭が切れる。教養もある。仕官することはそう難しいことではなかったのだろう。制服らしい文官の袍が似あう様を見ていればそう思える。
「……それで、私をこんな風に鎖で繋いでおく理由は?」
「話がしたかったからです」
「鎖がなくとも、話ぐらいはいくらだってしてやるよ!」
 思わず身を起こしながらシファカは叫んだ。夜の王国の経緯を思い返せば、シルキス・ルスは確かにまともに会話したくない、できれば二度と会いたくなかった男だった。しかし昔話に興じたい、もしくは夜の王国のその後について耳にしたいというのであれば付き合ってやる程度の人情はシファカも持ち合わせている。
「……鎖で繋いでおかなければ逃げられると思いましたのでね」
 いけしゃぁしゃぁと言い放つ男に、シファカはげんなりとしながら呻き返した。
「どうして逃げられそうになるのか、その理由からして胸に手を当てて考えてみろよ」
「考えずとも存じております」
「その性癖、全然直ってないじゃないか」
 男は笑う。シファカの皮肉を否定もしない。
 夜の王国にいたときもこのような具合だった。夜の王国にいるときも突然囚われて突然牢獄の中に入れられた。シファカを手の内から逃がすまい、という意思は汲み取れるが、それが何故なのか明確な理由は示されない。執着されていることはわかるが、シファカのどんな言動が彼の気を引いたのか思い当たらない。
 ただ、男は笑う。狂気そのものを自覚しながら。
「直すつもりもございませんので」
「……で、どんな話をしたかったっていうんだ?」
 シファカの問いにどう答えようか、思案しているのか、シルキスは口を閉ざしている。どうやら、明確な話があったわけではなかったらしい。
 本当に「話がしたかった」だけのようだ。
「……リシュオはあんたがいなくなってから結構気落ちしてたよ」
 シファカは、夜の王国でシルキスと懇意にしていた第二王子の名前を口にした。シルキスを友人としてみていただけに、彼の謀反や逃走は、面には出さなくともリシュオにはかなり堪えたようだった。
「どうして、友人として大人しくしていることができなかったのさ……」
 あの夜の王国で大人しくしていれば、シルキスは民人に慕われ、リシュオの庇護を受けたまま平穏に暮らすことができただろう。しかしシルキスはシファカには理解しがたい理由で国に小さな革命を起こし、そして姿を消したのだ。
「私の望みは平穏ではありませんでした」
 シルキスの回答にシファカは笑い出したくなった。
「平穏じゃない?」
 少なくともシファカの目に映る男は、平穏を切望しているように見えた。
 どこにも行き場のない自分を、繋ぎ止めておく場所を探しているように見えていた。
「じゃぁ何を望んでいたんだ?」
「……なんでしょうね」
 シファカの問いに判らないという風にシルキスは静かに頭を振った。再び部屋に沈黙が落ちる。その間の悪さに身じろぎしながら、シファカは男を見つめ返した。
 シルキスの瞳は暗い。夜の王国にいたときの彼の眼差しにも狂気の色は確かにあったが、感情のゆれはあった。
 しかし今のシルキスの瞳に宿るものは空虚そのものだ。ジンと旅する中でシファカは滅んだ国もいくつか見た。人々の住まわぬ土地となりながらも人がいた痕跡を残す荒れた大地。そこに宿る空虚さと同じものをシルキスの中に感じる。
 やや置いて、シルキスが躊躇いがちにシファカに尋ねてきた。
「……シオファムエン殿と旅を続けているのですか?」
「シオファムエン……?」
 聞きなれぬ音にシファカは眉をひそめる。人の名前だが聞き覚えがない。誰のことだと問い返しかけ、シファカはふとその名前を一度だけ耳にしていたことを思い出した。
「……ジンのこと?」
 そう、シルキスは一度だけジンの名前をそのように呼んだ。
「えぇ。……彼はお元気ですか?」
 シルキスの問いはジンが健康であるか存命であるか、そういったものを尋ねるものではなかった。
 彼の問いにこめられていた意図は、どちらかといえば彼が幸せであるかどうか、そんなものを問うているような気がした。
 ジン。
 彼のことを思い返すと、胸が痛い。黙っていなくなってしまった自分を、彼は探しているだろう。それとも、付き合いきれないと見放しただろうか。
「……元気だけど」
 シファカは、ひとまずシルキスの言葉通りの意味を汲んで返答した。そうですか、とシルキスは呟き、唐突に斜め後方に面を向ける。彼の目に映るのは薄暗がりの中ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる凝った装飾を施した扉だ。それは先ほどシルキスがくぐってきた扉なのだと、シファカは認識した。
「入りなさい」
 シルキスの短い命令に従って扉は開き、一人の女が現れる。黒髪黒目というごく一般的な東の民の容貌に、簡素な衣服をまとった女の身のこなしは静かだ。髪を団子状にして頭上で結い上げ、この国独特の袍を着ている。女官だ、とシファカは思った。たとえ大陸を違え、文化風習が異なったとしても、共通する役職に就くものの雰囲気はどことなく似通っているものだ。
 彼女は盆を携えている。そしてその盆の上には小さな茶瓶のようなものが乗っていた。
 女官は盆を携えたまま足音もなくシファカたちに歩み寄ってくる。彼女がシルキスの真横で足を止めたとき、シルキスは彼女から盆の上に置かれたものを受け取った。
 シファカはシルキスの手の中にあるそれを確認すべく目を細めた。
 それは形だけなら茶瓶に似ていた。だが用途は違うものであるとすぐに判別がついた。
 香炉だ。
 瑠璃色の美しい玻璃で出来た、香炉である。その周囲を薄靄が包む。既に香が焚かれた状態なのだとシファカは思った。
 その証拠に、香りがする。
 甘く、神経を、ねぶるような香りが。
「……なにこれ?」
 シファカは思わず身を引いて口元を覆った。足を拘束されていなければ、すぐさまその場から飛びのいただろう。
 香と一口にいっても様々だが、妹であるエイネイが香を嗜むため、シファカにも多少は知識がある。しかしその香炉から漂う香りは、シファカが経験したことのある香りのどれとも異なっていた。甘い。それも極上に。香の甘さとも砂糖の溶けるときに漂う甘さとも異なる、もっと酷い甘さ。
 死臭に似ているとシファカが認識するに、時間はあまりかからなかった。そう、この香炉から漏れ出でる香りは、病に伏したものが漂わせる饐えた香りに似ている。かつて病床にあった、ロプノールの前王ウルムトを、シファカは思い返した。彼も、このような香りを漂わせていた。
 シルキスも女官もシファカの問いには答えなかった。シルキスは黙ったまま、香炉の蓋を開ける。もっと濃密な甘い香りがシファカの鼻腔をくすぐった。
「な、に、これ……」
 同じ問いを繰り返す。だが舌先が痺れ始め、呂律が上手く回らない。シルキスが笑った。歪んだ唇の形だけが、かすみ始めた視界に映る。
 とうとう起き上がっていることも辛くなり、シファカは頬を長椅子の中に埋めた。
「私が何を望んでいるか、という話ですが」
 遠ざかる意識の向こうで男の声を聞く。
 幾重にも奇妙に重なって聞こえる男の声を。
「おそらく、道連れでしょうね」
「みち……づ」
「私は何も望んでいません。この世界にはもう何も望んではいない。理由があって、私は貴方を引き止めるわけではない。理由があって、私はこんなお祭りに参加したわけではない」
 男は独白を続ける。シファカに返答を求めているようではないようだ。何か意見を求められても、今のシファカには難しかったのだが。
 なにせ、男の名前すら、もう思い出せない。
「シファカ・メレンディーナ」
 男が、名前らしきものを口にした。
「貴方はこの馬鹿げた舞台を、外から観賞していてください。貴方には、至上の観客席を差し上げましょう」
 その言葉を最後に、シファカの感覚は外部から切り離される。
 ただ甘い香りと闇だけが、シファカの意識を柔らかく包んでいた。


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