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第十一章 宴の前 2


 ユファは顔色を変えない。ただ笑みを消し、静かにジンを見返すのみだ。
「貴女方が、ウルを襲った。頃合よく馬車を止め、私たちを助けたのは、私が出てきたことに驚いたこともあったでしょうし、生きながらえていたウルの息の根を確実に止めるためでしょう」
「違」
「貴女方がウルの傍にいた人物を誘拐した」
「違います!」
 がたっ、かちゃん……
 盟主が声を張り上げジンの言葉を否定すると同時、卓上の茶碗が大きく傾いだ。硬質の音を立てて横倒しになるそれに見向きもせず、ユファはジンを真っ直ぐに見据える。
 立ち上がった彼女は、卓の上に両手をつき大きく嘆息して、静かに言葉を繰り返した。
「……違います。私共は襲撃には一切関りはありません。……目撃して、放置していた、という点に関しては、貴方の言う通りですけれども」
 彼女は小さく頭を振って、再度椅子に腰掛けなおした。呑口に添って、くるくると卓の上で円を描いて転がる茶碗を指で止めた彼女は、一度小さく口元を引き結んでから、話を切り出した。
「……ティアレ・フォシアナ・リクルイト皇后陛下が誘拐される様を、見ていたのは確かです。打算があって、手を出しませんでしたが、それは皇后陛下のお命に別状がないだろうという確証を持ってのこと。……ただ襲撃は私ではございません。私の甥の配下のものです」
「貴方の……甥?」
「ソンジュ・ヨンタバルと、名を申します。風采の上がらぬ私の唯一の血縁者ですが、この私に反旗を翻し、私を出し抜いて現在宮廷を掌握しております」
「……出し抜かれたのですか? 貴方が?」
 ジンは、純粋な驚きで以って呻いた。この婦人が、人々を出し抜くことはあろうとも、出し抜かれるようなことはないと思っていたのに。
「名誉の為に抗弁を許されるのでしたら……私はあの甥に出し抜かれたのではありません。あの甥を抱え込んだ、二人の男に出し抜かれたのです。この避難所に、私は貴方がいるから訪ねたのではない……ここを、現在仮住まいとしているのですよ」
「……宮廷を追い出されたのですか?」
「現在私は病床に伏しているらしいですわ。口惜しいこと」
 ジンの問いに、ユファは心底悔しそうに、言葉を吐き捨てるようにして呻いた。彼女の様子だと、風采の上がらぬ甥を歯牙にもかけていなかったのだろう。その甥に出し抜かれ、彼女の矜持は大層傷つけられたはずだった。
「貴方がその甥とつながっていないという証拠はおありで?」
「それは――……」
 ジンの問いに、ユファが渋面になりながら口を閉ざす。
「失礼を」
 しばしの沈黙の後、ジンはふと笑みを零した。
「貴方が、その甥とは敵対していると、信じます。……もし繋がっているのでしたら、ウルに対して医者を呼び、手当てする義理もないでしょう。彼は確かに快方に向かっている。それが証拠です」
 ユファは一瞬目を瞬かせ、動きを止めた。ジンの言葉の意味を咀嚼しているようだった。やがて彼女はさも嫌そうに眉をひそめ、大仰に頭を振った。
「あぁ。これだから貴方様と再会などしたくはなかったのですわ、宰相閣下。貴方様と会話していると、気分が滅入ります。ここにいるのがリクルイト皇帝陛下であればいいのに」
「私も同意見です」
 満面の笑顔で、ジンはユファに皮肉を返した。
「……それでは何故、皇后陛下の誘拐を、指をくわえてみていたのか。その理由についてぜひともお聞かせ願いたいものですね、盟主」
 いくらティアレに危害が及ばぬという確証を得ていたとはいえ、友好国の后の誘拐を見学していたなど正気の沙汰ではない。
 そこに理由がなければ、おかしいのだ。
「……先日、エイ・カンウ殿と内々にお会いしたときのことです。私は依頼いたしましたの。甥を、水の帝国側で捕らえて、裁いてくれはしませんかと」
「……貴方の甥ともなればダッシリナの高官。理由なくこちら側で捕らえ裁くなどできはしませんでしょう」
「えぇ、同じことをカンウ殿もおっしゃられましたわ。もしやるとしても、見返りはなにか、と。ダッシリナの侯爵筋の人間に、おいそれと手をだすことなどできはしない。それがたとえ、私共の要請であったとしても……捕らえて、ダッシリナに送り返すのがせいぜいだと、いわれましたわ。見返りなしに、水の帝国は危険を冒せない。存外、優秀ですのね、あの左僕射の方は」
 この国の官夫たちも見習わせたいと、盟主は嘯いた。
「何故、貴方の甥を水の帝国側で裁かせたいのですか?」
「あら、甥を私の手で裁いたとなれば、邪魔者は血族といえども排除する、冷酷な女という印象を民人に植え付けてしまうではありませんか」
 さも当然というようにそう答えて、ユファは嫣然と微笑んだ。
「私は、この国の象徴であらなくてはならないのです。この国の太陽。この国の母。この国の大地。この国を優しく包み、占師たちの宣下が理不尽であれば、民の代表として対抗し、民人の声が理不尽であれば、民人に理解を示しつつ占師と議会の決定に基づいてことを速やかに実行する。そこに血塗れた印象がまとわりつくことは、あってはなりませんのよ。貴方様なら、お分かりになりますでしょう? ……ラルト・スヴェイン・リクルイト皇帝陛下が、名実共に慈悲溢れる名君であるように、血塗れた仕事全てを引き受けてきた貴方様なら。ねぇ? ジン・ストナー・シオファムエン宰相閣下」
 盟主の微笑みは、同族に向けられる優しげなものだった。その微笑は、唾棄すべきおぞましいものであったが。
「……私たちの要請であれば、水の帝国は動かない。けれど、私共が敵とみなすものが、水の帝国にとってとても大切なものを奪ったならば? ……水の帝国は、私共に要請してでも、私の甥を捕らえ、刑に処そうとなさるでしょう?」
「……なるほどね」
 膝の上で手を組み、ジンは納得に唸った。
「恨むのであれば、自分の立場も理解せず、ふらふらと小娘のようにほつき歩く、皇后陛下をお恨みください」
 ユファの言葉には、明らかな軽蔑があった。同じ国の運命を左右する責を背負うものとして、ティアレの行動は許すことができないのだろう。
「そんなことを恨んだりしません。私はね」
「あら、それは冷たくいらっしゃるのではありませんこと?」
「貴方の言うことは最もだ。なぜ、ウル一人を護衛につけて、街歩きなぞしていたのか。自分の立場を理解していなかったであろう皇后陛下は十分に反省していただかなくてはならないでしょう」
 それにシファカも巻き込まれたのだと思うと、腹立たしくてならない。
 魔女に出逢って、シファカは何を思い、巻き込まれていったのだろう。
 ジンは魔女を見たときは、ただ畏怖しか感じなかったのだけれど。
 あの、美しくも恐ろしい、透徹した眼差しをした魔女を思い返し、ジンは瞼を伏せた。
「……それでも、私は貴方のやり口に賛同したりなどはしませんが」
 人を道具としか見ないユファのやり口に同意できる部分はあれども、手放しで賛同はしない。
 大体、ラルトは一体何をしていたのだ。ティアレがそのようなことをする許可を、彼が出すとも思えない。だとしたら、ウルあたりの独断だろうか。
 何にせよ、ウルの口から事の仔細を聞くのはもう少し後になりそうだが。
「もちろん、これからは皇后陛下を助けるため惜しみなく尽力させていただくつもりです。……皇后陛下に何かあれば、貴方様の国の皇帝陛下に、嫌われてしまいそうですもの」
 それだけは避けたいと、茶化すようにユファは言う。
「……そうしていただきたい」
 これから、どうするのか。
 少なくとも、しばらくはこのユファについて、ティアレの行方を捜さねばならないだろう。そして、ティアレの行く先には、シファカもまたいるはずだった。
 どちらも、救い出さねばならない。
 ティアレは、ラルトの為に。ラルトが誰かを失うなど、これ以上あってはならない。
 シファカは、自分の為に。
 彼女を喪えば。
 自分は。
 今度こそ。
「一つ聞かせてくださいませんか、シオファムエン殿」
 ふいに切り出された問いに、ジンは面を上げた。
「……なんですか?」
 卓を挟んで腰掛けるユファの眼差しには、もはや皮肉の色も、腹の探りあいも見られなかった。彼女の明るい色の瞳には、冬の湖水のような静謐さが宿っている。彼女にしては珍しく、躊躇いのようなものを見せながら、ユファがとつとつと言葉を紡いだ。
「貴方様は誰よりも、裏切りの帝国を……皇帝陛下を、愛しておられた。私はそれをよく存じております」
 外交の席で杯と会話を交わした数は、数え切れない。
 ユファやソーヤは、ジンにとって国外の人間で最も付き合いが長い人間といえた。
「だというのに何故、貴方様は、ここ何年も、国に……皇帝陛下の下に、戻られようとはなさらないのですか?」
 ユファの問いには期待がない。ここでジンが沈黙を保っても、彼女は納得するだろう。
 ジンは軽く思案し、答えた。
「呪いの、せいですかね」
「呪い……?」
「国に巣食う、呪いです」
 裏切りの呪い。
 果たして本当に、あれは呪いだったのか。今となってはわからない。ただ確かなのは、裏切ってしまったという事実だけ。
 裏切ってはならなかった。ラルトの信頼だけは。決して裏切ってはならなかった。
 しかし実際には、自分は彼を手ひどく傷つけて、その代償に国を離れた。
「そう……」
 ユファは目線を手元に落とし、小さく頷いた。
「この国は呪われていますのよ、シオファムエン殿。この国は、占師たちに取り付かれた国。古き因習といるかどうかもわからぬ神の声に、縛られている国なのです」
 ユファの声音は硬質で、まるで何かを恐れているかのように少し震えて聞こえた。口にすること自体恐れ多い。そのように。
 しかしその響きに、ジンは覚えがあった。昔、裏切りの呪いの存在を囁くとき、誰もがそのような声音でもって口にしていた。
「……辛いですわね。呪いゆえに、愛しいものから、離れなくてはならぬと、いうのは」
 普段は一片の皮肉と、心中を隠すためだけに柔らかさに包まれる盟主の声音。
 この一瞬だけは、珍しく、ジンに心より同情するかのように、盟主は優しく呟いた。
「えぇ……」
 ジンは小さく顎を引いた。
 膝の上で組み合わせた指。それがまるで、これ以上何も失わないように、祈りっているようだと思いながら、ジンはユファに同意した。
「本当に」


「駄目だ」
 看守の返答はにべもない。ヒノトは鉄柵から身を乗り出さん勢いで、そのたいそう人相の悪い壮年の男叫んだ。
「何故じゃ!?」
「しつこいぞお前! 捕虜は捕虜らしく黙って大人しくしてろ。腹減るだけだぞ」
「くそ!」
 ヒノトは悪態をつきながら鉄柵から離れた。高めの天井近くにある赤子の顔の半分もない明り取りが唯一の光源という暗い牢屋だ。広めに取ってある空間のせいか、さほど不自由は感じない。ただ風が吹きぬけ、よく冷えた。
 ヒノトは自分たちを見張る看守に舌をだし、勢いよく踵を返した。牢屋を見渡し、その一角に備え付けられた寝台に横たわる女がいる。ティアレだ。
 ヒノトは足音を殺してティアレの枕元に忍びより、彼女の顔色を確認した。乱れた赤銅色の髪は床に落とされ、頬は発熱の為か赤く紅潮している。唇は乾いて、白くひび割れていた。与えられた一枚の毛布をかけ布にして寝台に横たわったまま、ぴくりとも動かない。ただ彼女は、浅く早い呼吸を繰り返している。
 気がついたらこの牢屋に、毛布の敷かれた床に横たわるようにしてティアレと二人でいた。今がいつなのかもよくわからない。ただ、明り取りから漏れる太陽の光を見る限り、半日は経過している。朝だろうか昼だろうか。それとも、丸一日眠りこけてしまった後だろうか。
 ティアレの無事を確認して安堵したのもつかの間、彼女の高い熱にヒノトは血の気を失った。彼女を申し訳なさ程度についている寝台に慌てて寝かせ、近くを巡回していた看守に水を持ってくるように頼んだ。このままでは、脱水症状になってしまう。
 しかし看守の返答は「駄目」の一点張りだ。目覚めてから半刻足らず。牢屋の並ぶこの階を往復する看守が通るたびに頼み込んでも、この通り、駄目の一言で終わってしまう。
 ヒノトは嘆息し、その場に腰を下ろした。床にはめ込まれた石は腰を冷やす。しかし立ち続けていることにもそろそろ疲れていた。
 石に手を当てて冷やし、それをティアレの額に触れさせる。手のひらはティアレの体温を吸って、すぐに温まる。再び、石に手を当てる。ティアレの額に触れる。それを、ヒノトは黙って繰り返した。
 何日眠っていたのかも、ここがどこなのかも判らない。
 看守は何も答えない。囚人らしくしてろとヒノトを一蹴する。無視されるよりはましだろうと前向きに考えることにはしていた。会話を重ねていけば、いずれ判ることもあるだろうと。
(……都からあまり離れておらんとよいが)
 仮にここがダッシリナ国内だとして、都から遠く離れた、西側の端だとする。そうすると、助けがくるのはかなり遅くなる。エイは国賓としてダッシリナに招かれているだけで、随行人数も限られている。自分たちの捜索に避ける手勢など数しれていた。都の外を捜索するとなると、ダッシリナに助けを請わなければならないだろう。その手続きなどを考えれば――助けがくるほうが早いだろうか。それとも、自分たちがのたれ死ぬほうが早いだろうか。
 エイ。
 名前を呟きかけ、ヒノトは下唇を噛み締めてそれを堪えた。助けて、と祈るつもりだった。けれどそれは駄目だ。祈ることも、自分には許されない。
 これはきっと罰だ。
 沢山我侭を、言って、エイを困らせた罰なのだ。
 自分の些細な嫉妬、些細な疎外感、些細な不注意、そういったものから、ティアレを危機に陥れてしまった罰なのだ。
 だから、己の助けを祈ってはならない。
 ティアレを、どのようにしたら助けられるかだけを、考えなければ。
「あぁ、起きてたか」
 ふと牢の外から響いた声に、ヒノトは面を上げた。牢の鉄柵の外に、男が一人立っている。黒髪黒目の目元涼やかな男。身につけている袍はダッシリナの官夫が身につけるものだった。
 見覚えのある男だ。
「おんし……」
 自分たちを、気絶させてこちらに運んだ男に、相違なかった。


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