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第十一章 宴の前 1


(熱い)
 意識の片隅でまず認識したのは、背を支配する熱だった。まるで火を背で炊かれているかのような熱さだ。その熱さから逃れようと身をよじったかいも空しく、背に熱は篭り続ける。
 息を荒く吐き出し、額に手を添えて、瞼を無理やり引き上げた。
 まず見えたのは古く太い梁。吹き抜けた天井に、木目ある壁。視界は霞み、それ以上の詳細を認識することは叶わなかった。
 今は何時だ。ここはどこだ。
 荒い呼吸を繰り返しながら、死線をさまよったときに必ず行う思考の手順を踏む。まずは、自分の名前を認識。ウル・マキート。数年前に自らがつけて、結局本名になってしまった名前はすべらかに脳裏にはじき出された。記憶喪失ではないようだ。
 しかし、ウルが考えられることができたのはそこまでだった。身体が訴える疲労に、意識は泥に沈むように、再びずるずると闇へ引かれ始める。
(だめだ。……おきなくては)
 ウルは下唇を噛み切って、覚醒するように努めた。身体は全く動かない。指一本動かすことにも苦心する。
 しかし探さなくては。
 シファカは。
 ヒノトは。
 そして、ティアレはどうなった――……?
「何か、[くつわ]をかませておくべきだった」
 ふと響いた声に、ウルは目だけを動かした。頭がどうにも重く、動かすことができなかったからだった。
 男が、寝かされているウルの枕元に腰掛けている。彼は膝の上に乗せていた本をぱたんと閉じて、傍にあった卓の上に乗せた。卓に置かれていた水差しと白い布を代わりに手に取った男は、布に水を含ませながら口を開いた。
「急所から外れてたけど、毒が塗ってあったらしい。水の中に落ちたのは幸いだった。洗い流されたみたいだからね」
 男は水をたっぷり含ませた布を、ウルの口元にそっと寄せた。ひやりとした雫が、舌を湿らせる。唇の傷が痛んだが、自分でつけた手前、致し方ないことだった。
「熱が高いから、二、三日は動けないと思うよ。話は後で聞くから、今は眠るといい」
「閣下……」
 ウルは、男を呼んだ。喉が酷く痛んで声が出ない。掠れた音は、男に届いたのか否か。
 男が、その亜麻色の瞳を細めて、微笑む。
 長らく行方不明だった水の帝国の宰相。
「久しぶりだね、ウル」
 ジン・ストナー・シオファムエンが、そこにいた。


 ぱささささ……
 羽音を立てて小鳥が明り取りから飛び立つ。その影を視界の端に入れ、ジンは階段を下りた。鳥一羽に神経を払うことは止めている。ダッシリナに<網>の技術があるのかどうかは知らなかったが、ウルの前に姿を現した今、居場所を誰に知られようと関係ない。捨て鉢のような気分になっていた。
 ぎしぎしと音を立ててたわむ階段の床板は相当古い。踏み抜かぬように注意を払い階下に下りると、一人の男が待っていた。
「盆を」
 白髪を撫でつけ、豊かな髭を蓄えた初老の男は、そう言ってジンに手を差し出した。ジンの手元にある盆を引き取ろうということらしい。
「ありがとう」
 盆を手渡しながら礼を言うと、男――ソーヤは笑った。
「いいえ」
 さっと踵を返して、再び古い屋敷を歩く。ここはダッシリナの目抜き通りから少し外れた場所にある古い屋敷だ。貴族筋の気難しい老人が、一人住まいをしている。表向きはそのようになっている屋敷。
 しかし正式には、ダッシリナ盟主直属の諜報方の拠点であり、有事の際の避難所だった。
「副官殿の様子はいかがでしたか?」
 傍らについて歩くソーヤが尋ねてくる。ジンはそうだね、と軽く思案してから答えた。
「熱が変わらず高そうで辛そうだった。さすがの彼も堪えるみたいだね。眠り続けているよ」
「意識は戻らず、ですか?」
「いや……戻った。少し話をしたよ。ほんの、少し」
 熱に浮かされたウルは喉を傷めていることもあって、ほとんど会話らしい会話はできなかった。しかしいくつかのことは聞けた。ティアレがダッシリナに来ていること。シファカと出逢ったこと。帰り際に何者かに襲われ、シファカもそれに巻き込まれたこと。そして、行方がわからなくなっている。
 シファカを探し、町を歩き回った。シファカが馬車に乗せられどこかへ連れ去られていったことは判ったが、人の足では馬に追いつけるはずもない。ひとまず馬車の向かった方向へ走っていると、水路から這い上がったらしい男を見つけた。
 最初は死体かと思った。ずぶ濡れ、血まみれ、ぴくりとも動かぬ冷えた身体。それだけ揃えば、死体かと思っても仕方がない。普通なら放っておいた。放っておかなかったのは、男が、知り合いだったからだ。
 ウル・マキート。かつて自分が見出して水の帝国へ招いた、元暗部の男だった。
 死体まがいの男を一人抱えて途方に暮れているときに、見計らったように現れて自分たちを拾ったのが、このソーヤだった。
 ソーヤ・ディモルデはダッシリナの現在の盟主、ユファ・ハン・ダッシリナに幼少のころから仕える近習だ。無論、ジン自身、外交の席で幾度となく顔を合わせた。城塞都市ハルマ・トルマを有するデルマ地方を、水の帝国側で併合する。それを決定するための暁の占国との折衝の際には、嫌となるほど顔を付き合わせたものだ。
「医師の話では徐々に熱は引いていくだろうとのことです」
「感謝しているよ、ソーヤ太夫。俺だけじゃどうしようもなかった。あまりにも具合よく現れたことについては、色々追求したいけどね。……盟主はおいでで?」
「奥の間でお待ちです」
 よどみなくソーヤは即答する。彼はしばらくジンについて歩いた後、途中で盆をさげるために土間へと降りていった。
 彼の背中を見送ってから奥の間へと向かう。色のはげた絨毯が敷かれ、古い暖炉が設えられた部屋の戸口を軽く叩き、一礼してからジンは足を踏み入れた。
「シオファムエン宰相閣下」
 椅子から立ち上がって微笑み、ジンを迎えたのは暁の占国ダッシリナの盟主、ユファ・ハン・ダッシリナ。小春の空の色を思い起こさせる柔い色彩の瞳に、紅茶色の髪。ふくよかな体に纏う衣服は美しい刺繍の施された桜色の民族衣装。その色合いが、彼女を優しげな貴婦人に見せている。
 懐かしい人物だ。最後に会ったのは、それこそデルマ地方併合に同意する調印を貰い受けたときだった。
「お久しぶりです盟主」
「お久しぶりですね、シオファムエン宰相閣下……あぁ、公式の場ではないからこんなまどろっこしい呼び方は止めてもよろしいかしら? シオファムエン殿とお呼びしても?」
「もちろんです」
「さ、どうぞ席にお座りになられてください」
 にこにこと微笑む婦人に促されて、ジンは席に腰を下ろした。彼女に笑顔で応じながらも、内心一体何を切り出されるのかと冷や冷やしている。
 ユファはただ慣習に従って、侯爵家の中から盟主として選出された婦人ではない。邪魔なものは切り捨て、利用できるものは利用し、占師たちも道具としか考えぬ。この古い占いの国で堂々と盟主の位に就き、表向きには政治的干渉力がないとされながらも、十二分に裏から国を支配している女狐だ。ジンだけではない。ラルトは無論、隣国メルゼバの元帥たちも揃って倦厭する公爵夫人。その腹の中には一物どころか計り知れないものを抱えている。纏う気品は、まさしく女王のそれ。
 そんな人間に捕まったこと自体に、ジンは頭痛を覚えてしまっていた。
 そう、捕まったのだ。おそらく諜報の目を借りて、こちらの動きを観察していたに違いない。人通りのない夜半に、頃合を見計らったかのように現れた彼女の馬車が、その証左だった。
 かちゃり、と目の前に茶の入った茶器が置かれる。目線を動かすと、無機質な眼差しをした女官と目が合った。ここまで同伴を許されている女官となると、相当腕が立ち、ユファから信を受けているものだ。音も立てずに退室する彼女の足取りを確認して、ジンは再び意識をユファに集中させた。彼女は、ジンと相対する席について、運ばれてきた茶を優雅にすすっている。彼女の白くふくよかな女性らしい指に、白磁の茶器がよく似合っていた。
「あの副官の方の体調はよろしくて?」
「えぇ。お陰さまで。医者を呼んでいただけて助かりました。お礼を申し上げます。盟主」
「そのようなこと、我が国と貴方様の国との関係を鑑みれば……いえ、それ以前に、人として当然のこと。気に病む必要などありません」
 茶器を置き、口元に手を添えてユファは笑った。おっとりとしたその口調、笑い方だけを見れば、母性すら感じてしまう親しみやすい微笑だった。
 それ以上の追求をユファはしてこない。ジンは目の前に出された茶を口に含んだ。舌先に広がるのは芳醇な茶の香り。
「ところで、シオファムエン殿」
 懐かしい味と、そこに毒の感触がないことに安堵していた矢先、ユファの尋問は始まった。
「手をお貸しすることは私たちの関係からして当然だとしても、あの場所で一体何があったのか、それはお聞かせいただけますわね?」
 卓の上に手を揃えて置き、こちらを笑みに目元を細めて見つめるユファに邪気はない。しかしここでの会話が、単なる世間話にならぬことをジンは知っている。
 どう、答えたものか。
 四年もの間、外交の名目の元、行方の知れずとなっていた宰相の男が、明らかに流れ者とわかる格好に身を扮し、血塗れの左僕射副官を、夜半に抱え途方にくれていた。
 その中に、質問事項はいくらでも見出せることだろう。
「答えられませんか?」
 ユファが、その澄んだ海色の目をさらに細めた。笑みにではない。そこにあるのは、冷徹な好奇心だ。
「貴方様が長らく水の帝国を不在にしていたことは知っていましてよ。幾度となくあった外交の席にも、貴方様ともあろう方がとんと姿をお見せになられなくなった。外交? いいえ。外交している様子もない。一度も国に戻られた気配もない。四年、貴方様はこの大陸に居られなかったのです。その貴方様が、瀕死の水の帝国の使者の方を抱えて、何をしていらっしゃったの?」
「私とウルは別行動でした。私は私の目的によって街を移動しているときに、たまたま瀕死のウルに出くわした。それだけです」
「では副官殿は、一体何をなさっていたのでしょう?」
「彼の今の直接の上官は、私ではなく、うちの国の左僕射です。彼がどの命に従っているのかなどと、さすがの私も感知するところではありません。左僕射は確かに私の副官扱いではありますが、実質には異なります。私とて、全てを把握しているわけではありませんのでね」
 ウルが水の帝国左僕射の副官だとは、むしろジンのほうがユファ達から教えられたようなものである。ジンとウルを見て、馬車から降りたソーヤが、ウルのことを副官殿、と呼んだ。この館までの道すがらソーヤと交わした会話で、ジンはエイが左僕射の任に就き、そしてウルがその副官として籍を置いていることを知ったのだ。
 最終的にはエイを宰相かそれに順ずる左僕射の地位につけようと相談はしていたが、一方ウルにはどの官職を割り当てるか決めかねたまま、ジンは母国を後にした。ラルトはジンの足跡を僅かながらでも辿ることは可能だっただろう。しかしこちらは、水の帝国の政治的動きの詳細など、知りようもない。国が安定しているか否か。なじみの情報屋や、伝手を使って、旅の最中知り得た情報はその程度だ。
「なら貴方様は何故私に助けを請うたのでしょう?」
「……何が言いたいのですか?」
 ジンの問いに、ユファは微笑んだ。そのゆったりとした笑みは、見るものに親しみを覚えさせる柔らかいものであるのに、嫣然と、という表現が妙にしっくりくるように思える。しっかりと紅が[]かれた厚めの唇の端がつりあがり、目尻が細められるにつれ、引っ張られているかのように垂れ下がる。
「話を逸らさないでいただきたいと、私は申しております。シオファムエン殿」
 扇でもあれば、それで口元を隠しただろう。白い手で心中を覆い隠すように口元を隠し、婦人は続けた。
「エイ・カンウ殿」
 盟主の口から唐突にこぼれ出た名前は、水の帝国の左僕射のものだった。
「この数年で親しくなりましてね。大変可愛らしい方で、私、気に入っているのですけれども」
(かわいい……?)
 ユファの表現に、思わずジンは眉をひそめた。
 ジンの記憶が正しければ、エイ・カンウはきちんとした成人男性である。確かに中性的な顔立ちの優男ではあるが、可愛いという表現が正しいのか否か。
 それとも、生真面目なきらいのあるラルトに生真面目と言わしめたその性格が、可愛いとでもいうのだろうか。ユファが最も厭うのは自分のような人間だろう。同族嫌悪という言葉がある。ジン自身も、ユファのことを逆立ちしても優しくて聖母のような夫人とは比喩できない。ユファが好むのは、人を真っ直ぐに信じるような人間だった。ユファが水の帝国と友好関係を保ち、且つデルマ地方併合に合意したのは、ジンとの話し合いの結果や、占師の告げがあったからというよりもむしろ、彼女がラルトという人間を気に入っていたからに他ならない。エイも確かに、その類の人間だ。
 くすくすと笑い、ユファは言葉を続けた。
「今、星詠祭の来賓としてこの国にお出でになられているのです。まさかそのことをご存知なかったというはずはありませぬでしょう? いくら行動を別にしていたとはいえ、宰相閣下とあろうお方が、すぐ下に就く役職の方の動向を把握していないわけではありますまい」
 ジンは薄く笑った。ユファの問いに不意を突かれたからではない。むしろその逆。ユファが自分に対して追求してくるとしたら、その部分しかないだろうと思ったのだ。予想通りの問いに、ジンは笑うことしか出来なかった。
「何故貴方様は、馬車で通りかかったソーヤに、大使館へと送り届けるように依頼されなかったのですか? 私はその点が腑に落ちない」
「ウルには一刻も早い医者の手当てが必要でした。貴方のお招きをお断りするよりも、ご好意に甘えたほうがよいと判断したまでです」
「貴方様らしくない判断ですこと。いいですか? シオファムエン宰相閣下。貴方様ともあろう方が、そうやすやすと我が国に借りを作るなど、ありえないと私は知っています。高位の文官の手当てをさせる。その一つの行為が、国の貸し借りに繋がる。そのようなこと、外交の初歩的の初歩ではありませんか」
 彼女の言葉に、まったくもってその通りだと同意したいのは山々だが、今は貝の如く口を閉ざしているほうが得策だろう。ただ相手がこちらの意図を読めぬように、薄い微笑だけを顔に貼り付け、ジンは盟主の言葉に黙って耳を傾ける。
「貴方様はご存知なかったのですよ。左僕射がこの国に来ていることを。もしくは知っていて、母国の国府に頼れぬ事情がおありだった。だから、私の招きにすぐに応じた。違いまして?」
 ちちち、という。
 鳥のさえずりが聞こえる。
 この館はよく鳥の鳴き声が聞こえる。初めは野鳥がよく迷い込むのかとも思っていたが、実は鶺鴒でも飼っているのかもしれない。
 ジンは笑みを深くして、ユファを見返した。おかしくてならなかったのだ。今更、このような舞台に自分が立つなど、何かの間違いのような気がしてならない。しかしジンは今この瞬間、捨ててきたはずの姓で呼ばれ、国を背負い、ダッシリナの象徴と対峙している。それが、おかしくて、おかしくて。
 ジンが笑ったことが意外だったのだろうか。盟主が僅かに気色ばんだ。
「私は確かに、今、とある事情により母国の国府を頼れぬ身です。貴方の予想通り」
 理由を問われる前に、ジンはしかし、と言葉を続けた。
「逆に貴方にお尋ねしましょう、盟主。貴方は、何故、ウルを監視していたのですか?」
「……監視、とはどういう意味でしょう?」
「そのままの意味ですよ、盟主。貴方はウルの動向を監視していたのでしょう。でなくては、あのように頃合を見計らったかのように、あの時刻に馬車が通りかかるなど、出来すぎている。貴方は、正確には、ソーヤ太夫でしょうが……何者かの襲撃を受けたウルを、手助けもせずにじっと見ていた。一連のことを見ていたのです」
「……見ていたとしたら、どうだというのですか?」
「貴女方は知っていたはずです。ウルがどんな命を受け、街にいたのか。ウルのそばには誰かがいたはずです。なぜ貴方はそれを止めなかったのですか?」
「他国のことに深く足を踏み入りすぎては、我が国を揺るがすことにつながります」
「ウルに助けの手を差し伸べるより、傷ついたウルを抱えた私に助けの手を差し伸べることのほうが、有益に思えたのですか? ……ウルのそばにいた人物が連れ去られることのほうが、この国を揺るがすことに繋がると、知っていたでしょうに」
「……何が言いたいのです?」
「ウルの傍にいたのは、誰でしたか?」
 ジンは、自分の口からウルが誰の傍にいたのか、明言するようなことはしなかった。
 しかし言葉に詰まった盟主の顔色を見ることで、自分の推察は正しかったのだと認識する。盟主は、ウルが襲撃にあうその瞬間を、ソーヤの目を通して目撃しながら、それを、放置した。
 ウルが誰を守っていたか、知らぬはずは、なかっただろう。
 ユファともあろう人間が、隣国の皇帝の正妃を、知らぬはずがない。
 そしてそれをこの国で失ったとラルトが知れば、死に物狂いでこの場所へ彼はやってくるだろう。もしかしたら、兵すら率いてくるかもしれない――侵攻する勢いで。
 それを、彼女が予想できなかったはずもない。ティアレが死ぬかもしれない。だというのに、それを放置するはずがないのだ。本来であれば。
 しかしユファはそれをした。想像できるその理由は一つだ。
「盟主。貴女方が、ウルらを襲いましたね?」


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