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第十章 受啓者たちの散会 4


「走れ、ティアレ!」
 ティアレの手を引き、鼓舞する少女のほうこそ、息を切らしていた。先ほどから全力で駆けている。ただ走るだけで、暗殺を生業とするような輩から逃げ切れるとは思えない。しかし自分たちには走って逃げるしか、身を守る手立てが残されていない。幸いにも、まだ追手は追いついていないようだったが、同時に、追撃の手を阻むために囮となってくれたシファカたちの身が案じられる。
(私は、なんて、馬鹿な)
 ティアレは胸中で己を恥じた。
 本当に、いつもいつも、自分のことしか考えていなかった。こんな事態になるかも知れぬということは、予想の範疇だったはずだ。だというのに我侭を言って、何時までも皆を引き止めて……。
 このような状況に陥る前に、早く、館に帰るべきだった。馬車の中から街をみる。せめてそれだけで満足すべきだった。
 自分の我侭で、シファカとウルが死ぬようなことだけはあってはならない。それでもそのために、自分ができることなど何一つない。ただ、走り、逃げ切ることしか出来ぬのだ。
「ごめんなさい」
 謝罪は、知れず唇から漏れた。それが、空気を欠乏させると知っていても、謝罪を止めることが、ティアレにはできなかった。
 自分は、いつも、いつだって、迷惑をかけてばかりだ。
「馬鹿もの!」
 ティアレをヒノトが叱咤した。ただ前を映す緑の双眸は、今にも泣き出しそうなほどに不安げだ。それでも彼女が泣き言を言わぬのは、ティアレという存在がいるからだろう。
 ティアレは死ねない。殺されるようなことがあってはならない。
 水の帝国の国民の、母なのだから。
 こんな異国の地で死んでは、国交問題にもなる。
 それをヒノトは理解しているのだ。
 ティアレはそれを、理解できていなかった。
 理解していなければ、ならなかったのに!
「馬鹿者!」
 ヒノトは繰り返した。
「ウルも大丈夫じゃ! シファカも大丈夫じゃ! 二人とも、強い。強いから……」
 大丈夫だと、彼女は励ます。
 しかしその体力は尽きかけていると、ティアレは感じた。


(馬鹿なのは、妾のほうじゃ……!)
 街歩きにティアレを誘うべきではなかった。危険を承知しているようで、全く理解できていなかったのは自分だ。どれほど、ウルが自分たちに何事もないように神経を払っていたか、理解しているようで理解できていなかった。判っていたのなら、安易に迷子になるようなこともなかっただろう。一人にならぬように、足手まといにならぬように、細心の注意を払っていたはずだ。
 寂しさに溺れて、皆を危険にさらした。
 その罪は、贖わなければならない。
 心臓が破れても。
 自分が命を落としても。
 ティアレだけは、生き延びさせなければ。
 彼女は皇后だ。彼女は水の帝国の半分を担っている。皇帝が狂気に至らぬように、繋ぎとめている鎖のようなものだ。
 だから、ティアレの手を引いて走る。自分のほうが、夜目も利くし身も軽い。選ぶ道はでたらめでもいい。ただ、先導して、逃げなければ。
 しかし袋小路にはまり込んでしまったとき、自分たちはただ、邪魔の入らぬ場所にたどり着くまで泳がされていただけなのだと、ヒノトは知ったのだ。
「鬼ごっこ、終わりにしていいかな?」
 ヒノトたちの背後から掛かった声は、柔らかく、穏やかだった。その声音はラルトのそれに似ていた。振り返れば、見たことのない男が佇んでいる――襲撃者に、見覚えがあっても困るのだが。
 黒髪黒目の、目元涼やかな男だった。年は三十路前後。中肉中背の、どこにでもいるような容貌をしていたが、思わず視線が惹かれる魅力を備えた男だった。
 深緑の質素な袍に身を包んだ彼は、にこりと微笑んだ。邪気のない笑みだった。
 瞬間。
 ばちり、と。
 雷がヒノトたちの周囲を跳ねる。驚愕しながらヒノトは周囲を見回した。ヒノトとティアレの周囲をぐるりと囲むように、光が円を描いている。魔術だ、と思った。初めて見るが、おそらく、封じ込めのための魔術だと。実際ヒノトが外へ手を伸ばすと、光が放電してそれを阻んだ。
「ひ、ひの、と」
 蚊のなくような囁きに、ヒノトは背後を振り返った。そこに腹を抱えてうずくまっているのは無論ティアレだ。彼女の顔は蒼ざめて、もう一歩も動けないといった様相だった。
「ティアレ!」
 ここ数日は好調だったとはいえ、ここ一月ほどティアレはずっと臥せっていたのだ。その上、子を身ごもっている。本来なら、激しい運動などさせるべきではない人間なのだ。ティアレの呼吸音に喘鳴が混じる。今にも、胃の中を吐き出しそうな顔色。
「ティアレ……!」
「じっとしててくれよ。悪いようにはしないから」
 ヒノトはティアレを庇いながら男に向き直った。男はそんなヒノトの様子に心外だとでもいうように、軽く肩をすくめてみせる。ゆっくり歩み寄ってきた男に、ヒノトは半ば叫ぶようにして問うた。
「妾たちを殺すのか!?」
「殺す……?」
 男は片眉を軽くひそめて、いいや、と、ヒノトの言葉を否定した。
「殺さないよ。ただ、少しついてきてほしいけどな」
「ついて、きて……?」
「言っただろう。悪いようにしない。殺さないさ」
 男の言葉に聞き入っていたヒノトは、背後の喘鳴がいつの間にか途絶えていたことに気がつき、蒼白になった。慌てて振り返ったヒノトは、その場で崩れ落ちるティアレを確認した。
「ティア」
 すい、とヒノトの横から手が伸びる。男の手だった。魔力の光爆ぜる幕を容易く突きぬけたその手は、地に伏せるティアレの身体を抱きとめ、その身を軽々と持ち上げた。
「ティアレ!」
「大丈夫」
 男は笑った。彼の空いているもう片方の手が、ヒノトの目を覆う。
「君も一緒だ」
 男の言葉は、まるで蜜のようだと感じた。それほど甘く、耳に響いたのだ。
 そしてそれを最後に、ヒノトの意識は闇に落ちた。


 襲撃してきた男たちを返り討ちにしたと思いきや、一人また一人と暗殺者は現れる。その場から逃げ出したシファカは、いつまでたっても止まぬ追撃の手に、痺れを切らしていた。
「しつこい!」
 何人目かわからぬ男の腹を、切りつける。生暖かいものが頬を汚したが、気にしている暇はない。死体を蹴り飛ばして再び走る。誰もいない闇夜に、シファカの靴音だけが響いていた。
 かなりでたらめに走って、今自分がどこにいるのかさっぱりわからない。ジンの待つ、宿はどこだろう。ウルは、ヒノトは、ティアレは、皆逃げおおせることができたのだろうか。そうでなければ、この苦労が報われない。
 それにしても、そこまで関係の深くないシファカをどうしてここまで執拗に追いかけてくるのか。シファカを尋問すれば、何か有益な情報でも得られるとでも思っているのだろうか。目撃者を潰すためにしては、執拗がすぎる気がする。同輩を殺された報復をかねているのかもしれないが、彼らのような人間が、仕事中、私怨で相手を追撃するとは思えなかった。
 慣れぬ町をたった一人で駆けずり回ることには酷く労力と精神力を強いられる。夜の闇はそれでなくとも、シファカの心を凍えさせる。助けなど入らぬ、孤独な戦いを強いられていることを思い知らせるからだった。
 走って走って走って。
 終焉は、あっけなく訪れた。
 目の前の大通り、一台の馬車が停まっていた。助かった。助けを呼べる。そう思ったのもつかの間だった。
 そこに思いがけない顔を見て、驚愕に足が止まってしまった。
 その隙を、本業の暗殺者たちが見逃すはずがない。肩に刃が食い込む。肌に走る、焼け付くような痛みにシファカは顔をしかめた。急所から外れていることを認識し、次の動きに移るべく身体をよじる。
 そして、身体に掛かった負荷と裂傷に、唇を引き結んだ。
 目を凝らして、確認する。身体を縫いとめる、細い何か。
(糸)
 それは、鋼糸だった。
 とても、丈夫な。
 糸巻きつく首元に、小さな痛みを感じる。つ、と、生ぬるいものが肌を伝った。糸が肌に食い込んで、切れたのだ。
 ざざざ、と数人の男たちがシファカの周囲に集まる。その男たちは、シファカに止めを刺すつもりはないようだった。ただ、黙って、馬車の前に立っていた男が、シファカに歩み寄るのを待っている。
 男はひどく緩慢な歩みでシファカに近寄った。一瞬が永遠に感じられるかのような歩調だった。男の顔が暗がりから街灯の下に移り、徐々に、その容貌が顕になる。
「ま、さか」
 見覚えのある輪郭に、シファカは心臓が早鐘のように打つのを感じた。
「お久しぶりです」
 片眼鏡をかけた男は、まるで旧友にでも会うかのように、優しげに微笑んだ。
 そんな馬鹿なと、思う。
 この男は、決別したはずだ。
 あの、雪と夜に支配される国で。
 決別、した、はずだ。
 しかし男は親しげに、シファカの名前を口にした。
「シファカ・メレンディーナ」
 シルキス・ルス。
 かつて、夜の王国ガヤで、敵対した男が、悠然とそこに佇んでいた。


 走れど走れどシファカは見つからない。宿に一度戻っても、シファカは戻っていないという。<網>に見つかるかもしれないという危惧はどうでもよくなっていた。それよりもまず、判らぬシファカの安否に、血の気が引いていた。
(どうしてだ)
 なぜ、シファカは戻ってこない。
 ジンは歯噛みしながら胸中で呻いた。
 夜は深まり、夜の街に人通りはない。時折、酒場らしき場所から人々の喧騒と音楽がもれ聞こえる程度で、ぞっとするほどダッシリナの街は静かだった。
 方々まで街を歩いたが、最愛の女の姿は見当たらない。このまま、彼女を失っていくのかもしれないという可能性が頭の片隅を過ぎり、あってはならない、と、ジンは頭を振った。
 そんなこと、あってはならない。
 二度と手を放すまいと決めたのだ。
 彼女は、自分に残された最後の希望だと。
 街は余所者に冷たい。路地裏に覗く虚ろな瞳たちに嘆息しながら、街をどれほど徘徊したころだろうか。
 遠く、車輪の音を聞いた。
(馬車……?)
 こんな夜更けに疾走する馬車は少ない。それも音を聞く限り、かなりの速度だった。車輪の音は徐々に近づいて、やがてジンの傍らを駆け抜けていく。
 その、黒塗りの馬車の窓。
 遠ざかっていくそれに、捜し求める娘の姿を見た。
 玻璃のはまった窓に、蒼ざめた顔を押し付けるようにして。
 瞼を、硬く閉じた娘の姿。
 間違えるはずがない。
 あれは――……!
「シファカ!!!!!」
 悲鳴は夜の闇に吸い込まれる。
 いつの間にか昇った月は青く冴え冴えとして。
 愚かな自分を、嗤っているかのように思えた。


 進まぬ案件の書類を前にため息をついていたラルトは、ふと人の気配を感じて面を上げた。入り口には誰もいない。いるはずもない。しかし確かに、人の気配を感じたのだ。
「……誰だ?」
 ラルトが問うが早いか、戸口にふわりと、燐光が揺れた。薄緑の小さな輝きは陽炎のように儚く、しかし確かに戸口を照らす。それは古い森のような魔力のたまり場でのみ、稀に見られる魔の燐光だった。
 またあの男か、と、思った。
 ラルトがまず連想したのは先日の侵入者だった。禍々しい刺青を身体半分に施した、ラヴィ・アリアスと名乗った男。その赤い刺青のせいか、はたまた男が元々もつ内在魔力のせいなのか、燐光とともに現れ、そして音もなく姿を消した男を連想したのは、彼の侵入からまだ時間を経ていないせいだった。
 しかしその燐光が伴っていたのは、意外にも女の影だった。透けて見える女の影は、懐かしい面差しを宿している。腰まで届く真っ直ぐな黒い髪、雪肌という表現が似あう、ぬけるように白い肌、整ったうりざね顔。
 驚愕に、呻く。
「……ヤーナ?」
 レイヤーナ。
 裏切りの連鎖の果てに失った、かつて愛した女。
 疲れているな、と思った。レイヤーナの亡霊がこの場に現れるなどと。目を軽く擦って目頭を揉みほぐし、戸口に視線を戻す。そこにはレイヤーナの影はない。しかし代わりに、慌しい足音がその扉の向こうから響いてきた。
「陛下!」
 深夜の執務室に、許可も求めず血相を変えて飛び込んできたのはスクネだ。その尋常でない様子に目を剥きながら、努めて冷静に、ラルトは問い返した。
「なんだ? どうしたんだ?」
「今、連絡が……緊急の、連絡が……ダッシリナから」
「だから、どうしたっていうんだ!?」
 スクネは言い募ろうとするが、よほど急いできたのか呼吸が乱れ、咳き込む有様だった。彼の報告をじっと待つ。瞬きする程度の時間が、酷く長く感じられた。
 嫌な、予感がした。
 とてもとても、嫌な、予感。
 呼吸を整えたスクネが、しゃくりあげたかのような声で悲痛に叫んだ。
「ひ、妃殿下が、行方、不明に……!」


 そうして、時は動き始める。
 全ての、呪いに終止符を打つために。


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