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第十章 受啓者たちの散会 3


「ひとまず、馬車のところへティアレさんを返そう」
 そう提案したのはシファカだった。ティアレは私もヒノトを探したいとシファカに訴えかけ――やめた。自分は運動神経というものを、親の腹の中にか落としてきている。昔、ラルトと共に街へ出かけ、デュバートの手の者に襲われたときも、散々足手まといになった。そのことを思い出したからだった。
「ティアレさんだけでも先に返して、それからヒノトを探そう」
 シファカの提案に、ウルは一も二もなく頷くのかと思っていた。しかし彼は険しい表情で眉間に深い皺を刻むと、静かに首を横に振った。
「馬車は、来ないようです。……ティアレ様、どうか私の傍から離れませぬよう」
「ウル?」
「ヒノト様は……置いていきます」
「ウル!!!」
 ウルの言葉に、ティアレは思わず信じられぬと声を荒げていた。しかし彼は険しい表情を浮かべたまま、いいですか、と囁いてこちらに向き直る。
「まず、ティアレ様の御身のほうが大事です。ヒノト様を見捨てるとは言っておりません。また、戻ってきます」
「ウル、ヒノトはどうしたのですか?」
「判りません」
 ウルは即答し、緊急事態なのです、と呻いた。
「この一角の<網>が、動かないのです。こんな状態あっていいはずがない。強大な魔力に取り込まれてしまっているとしか思えない」
 ウルのいう<網>とは、彼の行う諜報活動の要だ。
 その仕組みを、ティアレはよく知らない。しかし魔術のようなものなのだろう。それを通じて、ウルは遠方のことを、まるで見てきたかのように知ることができるのだ。
 その<網>が、効力をなさない。つまり、遠方の情報を知りえないということだ。強大な魔力に取り込まれる――つまり、<網>を動かす魔術の構成を破壊するほどの魔力が、この周辺には渦巻いているということだった。魔法具も魔術も、より強大な魔力に触れると、一切の効力を失ってしまう。
「馬車が来ないっていうのは、どういうことなんだ?」
 幾分か引き締めた表情で、尋ねてきたのはシファカ。彼女の問いに、ウルが毒づくかのように答える。
「何者かの奇襲を受けたようです。御者も殺され……ここにはきません」
 ティアレは、驚きにしゃくりあげ、口元を押さえながら息を呑んだ。馬車が何者かの奇襲を受けた――それは、ティアレたちも奇襲を受ける可能性を示唆している。
「私がヒノトを見てくるよ」
 そう申し出たのは、シファカだった。
「こんな緊急事態、放り出して私のほうが帰るわけにはいかないよ。ヒノトを見つけだすまで付き合うよ」
「いいえ、シファカさん」
 ティアレは首を横に振った。シファカを巻き込むわけにはいかないという意識が強くあった。
 それは、滅びの魔女としての記憶が呼び起こされたからかもしれない。たまさかに差し伸べられる優しい手を、己の呪いが業火の炎で焼き尽くしてきた、記憶が。
 呪いは消えた。あの、美しい銀の粒子が舞う春の夜に、始まりの魔女が全てを引き受けていった。――本当に?
 本当に、呪いは、消えたのだろうか。
「何が起こるか判らない状況ですし、お連れの方も待っていらっしゃるはずです。早く、お帰りください」
 脳裏の片隅で、何かが警鐘を打ち鳴らしている。
 シファカを、巻き込んではならないと。
「大丈夫だよ」
 ティアレの懸念を吹き飛ばすかのように、シファカは朗らかに笑った。
「連れにはちゃんと謝っておくから。よくわからないけれど、ティアレさんの命が狙われるかもしれないっていう、そういうことなんだろう? 私、自分でいうのもなんだけど、結構強いよ。ティアレさんを守りきる、っていうのにはちょっと自信がないんだけど、自分の身ぐらいは守りきれるよ」
「シファカさ」
「だから、私にもヒノトを探させて」
 お願いだ、と、ティアレの瞳を覗き込む紫金の瞳は真剣だった。しかしシファカを巻き込んでよいかどうか、判断を下すのは自分ではない。
「ウル」
 彼だ。
 ティアレはウルを仰ぎ見た。彼はシファカとティアレの顔を一度見比べ、微笑んで小さく顎を引いた。
「手伝ってくださるというのなら助かります。……やはり、戻る前に、一度だけ、皆でヒノト様を探してみましょう」
 ウルの言葉に、シファカが微笑んだ。
「とりあえず一度来た道を引き返しましょう。おそらくはぐれた場所で、ヒノト様は待っていらっしゃると思います」
 ヒノトは決して頭の悪い少女ではない。むしろその逆だ。緊急のときにおいては、おそらくティアレよりもよほど冷静な判断を下す。むやみやたらに動くのは得策ではないとして、その場から動かぬほうを採るだろう。
「シファカ様、前を歩いていただいてもいいですか?」
「いいよ」
「ティアレ様は私の傍から離れませんよう。腕をお取りください」
 ウルの指示通り、ティアレはウルの左腕に自分の腕を絡めた。シファカは左手を腰に下げた刀の鞘に触れさせている。いざとなれば、いつでもその刃を抜きさることができるのだろう。
 今、ティアレにできることとはせいぜい足手まといにならないことぐらいだ。
 こんな風になるのなら、やはり、大人しく館で水の帝国からの迎えを待っていればよかったのかもしれない。
 ぐっと口元を引き締めていたティアレは、ウルの掛け声を耳にした。
「さぁ、参りましょう」


 苛立つ神経をどうにか押さえつけながら、ジンは歯噛みして窓の外を見た。
 時は既に夜。星詠祭を前にしているせいか、夜になっても街には人の気配が残る。しかしそれも夜の空が闇を深めていくにつれて少なくなっていった。
(遅い……)
 夕方には戻るといった。
 しかし日が暮れて、夜の帳が完璧に下りても、シファカはまだ、宿には戻らない。
 シファカは安易に約束を破るような娘ではない。夕方に戻るといえば、きっちり日が暮れる前には戻る。そんな娘だ。万が一遅れる場合には、連絡を寄越す。
 しかし、今日に限ってシファカからなんの音沙汰もない。
 まず脳裏を過ぎった可能性は、迷子、であった。
 ダッシリナの都は碁盤目状に区切られて、判りやすい構造にはなっている。しかし北の大陸の一般的な町の構造とは一線を画しているものだ。なれぬ構造に迷子になったのかもしれない。シファカとて、見知らぬ街を遠方までふらついていたりはしないだろう。もし迷子ならば、おそらくこの周辺にシファカはいるはずだった。
 もう一つの可能性は、何か厄介なことに巻き込まれたのかもしれないということだった。
 シファカは、正直で騙されやすい。騙されても身を守るだけの強さは備えているが、騒動に巻き込まれやすいことにはかわりがないのだ。
 ジンは一度瞼を閉じ、呼吸を整える。
 そして青龍刀と外套を手に取ると、急く気持ちを押さえつけながら部屋を出た。


 完全に日が落ちると、占い辻では急に人通りが減り始める。店が閉められていくからだろう。これから人々の賑わいは、夜の街へと移行していくのだ。
 石畳に街灯の橙の光が落ちて、頼りなげな影を作る。その中を茶屋のほうまで引き返したが、ヒノトの姿はとうとう見つからなかった。
「一体どこへ……?」
 三人分の影しか落ちぬ通りに立ち尽くし、口元を押さえてティアレが呻く。仕方がありません、とウルが呟いた。
「ティアレ様、適当な馬車を捕まえて、館へと戻ります。ヒノト様は後ほど皆で探しましょう」
「でもウル」
「お分かりください、ティアレ様」
 ティアレの悄然とした様子は、シファカの目から見ても痛々しいほどだった。彼女は何か責任を感じているようだ。彼女は口元を引き結び、ウルの言葉に頷くと、仕方がありません、と呟いた。
「ティアレさんたちを見送ったら、私がひとまずもう一度探しておくよ」
 シファカはそう申し出た。しかしウルが、それはなりません、と、大きく首を横に振った。
「何故ヒノト様が消えられたのかは判りません。ただの迷子ならばいい。……ですが、馬車の襲撃のことがあります。もしかしたら、シファカ様まで襲われてしまうかもしれません。それはなりません。真っ直ぐに、お連れの方のところまでお帰りください」
「でもさ」
「シファカ様」
 シファカの抗弁を、ウルの鋭い眼差しが制止した。出会ってから半日足らず、ウルは常に笑顔を絶やさぬ好青年であった。しかし今のウルは傍に立つこちらの肌を焦がすような緊張を身にまとっている。墨色の瞳には静かな意志。あぁ、戦うものの目だと、シファカは思った。
「シファカ様には地の利がありません。真っ直ぐに、お戻りください。よろしいですね」
「……判った」
 確かにウルの言う通り、自分が襲われ囚われでもしたら、足手まといになるだろう。出逢ってほんの僅かな間しかいなかった人間だ。切り捨てるときは切り捨てておいてくれるとよいが、ティアレもウルも、情に厚そうだった。ウルのいうとおり、大人しく帰ったほうがよいだろう。ティアレもウルも、滞在場所に戻れば、ヒノト捜索の為の人員を確保することはできるようであるし。
「馬車を捕まえるためには、大通りまで出なきゃいけないんだよね。そこまで、送っていく。そこまでなら大丈夫だろう?」
 シファカのこの申し出に対しては、ウルは安堵したように目元を緩め、感謝の言葉を口にした。
「助かります」
 では急いで場所を移動しようと、大通りの方角を確認した、その刹那だった。
「ヒノト!」
 ティアレの、甲高い叫びが夜の通りに響き渡る。ウルと同時、弾かれたように面を上げたシファカは、ティアレの視線の先、細い路地に横たわる見慣れた少女の姿を認めた。
「ヒノト」
 街灯の明り届かぬ細い路地の暗がりに少女の浅黒い肌は沈んでいて、無事か否かは確認できない。肩口までの美しい銀の髪が石畳の上に散らばって、瞼は下りている。
 気を、失っているのか。
 シファカはヒノトに駆け寄らなかった。それは彼女が心配でなかったからというわけではない。彼女を死体だと思ったわけでもない。
 積み重ねてきた経験が、足に歯止めをかけたのだ。ざわりと肌が粟立った。脳裏に幾重にも閃く警告の光が、シファカの手を刀の柄に触れさせる。そして同じものを、ウルも感じているらしい。彼もまた、倒れているヒノトに駆け寄ることをしなかった。
 例外はただ一人。
「ヒノトっ……!」
 頭を覆っていた薄布がふわりと風に踊る。そこからこぼれ出たのは、磨きぬかれた赤銅の色の髪だ。
「ティアレさん駄目だ!」
 駆け出したティアレに、シファカは手を伸ばした。しかしその手が掴んだのは宙に踊った薄布だった。舌打ちし、それを投げ捨て、もう一歩強く踏鞴を踏む。空いた左手でティアレの襟首を乱暴に掴んで引き寄せながら、同時に刀を抜いた。
 白銀の一条が夜に煌き、金属音を響かせる。暗闇からまるで影法師のように現れた男は、シファカに肉薄しながら、その口元を笑みに歪めた。
「手を引け、さもなけば殺す」
「最初から殺す気、満々じゃないか!」
 男の短剣を弾き返しながら、シファカは叫んだ。背後でも金属音が響いている。ちらりと視線をやると、ウルがティアレを庇いながら、暗殺者と攻防を繰り返していた。
(五人)
 暗殺者たちの数を目算しながら、シファカは刀を握りなおした。ちゃり、という鍔鳴りの音と己の呼吸音が耳に届く。
 何故、ティアレたちが狙われなければならないのかを考える。おそらく、ティアレたちはシファカが想像していたよりもずっと高位の身分なのだろう。本来ならば、大人数の護衛を引き連れていてもおかしくないような身分。
 その彼女らが何故、こんな風に街歩きをしていたのか、わからないけれども。
 自分ひとりならば五人という人数は捌ききれない人数ではない。殺しきることは不可能でも、煙に巻いて逃げ切る自信はある。しかしシファカのすぐ背後にはティアレがいた。ウルもいるが、彼はティアレが逃げるために必要だ。暗殺者がここにいる人数で全てということは考えにくい。人を遠ざけるためや見張り、いざというときのために二、三人は近場に潜んでいるだろうと予想する。ウルは護衛として不可欠だった。
 彼女ら二人の為に道を切り開いて、という条件は、なかなか難しい。
 しかし、躊躇っている暇はない。どうすれば、上手く二人を逃がすことができるか。シファカは襲い来る刃を打ち払いながら思案する。
 機会は、案外早くに訪れた。
「ぐっ……」
 男の呻きにシファカは視線のみを動かした。移動した視界の端で、暗殺者の一人が肩を抑えながら数歩よろけ、踏みとどまろうとしている。その足元に、赤子の頭ほどの大きさの煉瓦らしきものが、細かな破片を散らしながら落下していた。ごっ、という石と石がぶつかり合う鈍い音。
 その傍らを、一つの影が駆け抜ける。
「ヒノト!?」
 どうやら、単に気絶していただけらしいヒノトが、暗殺者めがけて煉瓦を投げつけたようだ。位置からすると後頭部を狙ったようだが、先方も不意をつかれて素人に気絶させられるという事態は防いだらしい。
 しかし、ヒノトが作り出した隙は、彼女がティアレの手を取って逃げ出すに十分なものだった。
「ちっ……!」
 数人が舌打ちをして踵を返しかける。しかしすかさずウルが彼らに攻撃を仕掛け、追っ手が掛かるのを防いだ。
 シファカはヒノトに攻撃されてよろめいていた暗殺者に向けて一歩踏み出し、隙を突いて一閃した。街灯の明りに、赤黒い飛沫が影を落とす。どしゃり、とその場に崩れ落ちた男の手足が痙攣しているのを確認し、シファカは一歩、背後に後ずさりながら次の標的を確認した。
 まずは、一人。
 ティアレたちを追いかけるよりもまず先に、暗殺者たちはシファカたちの始末をつけることに決めたらしい。
 さて、どうやってウルにティアレたちを追いかけさせる時間を稼ごうか。
 思案しているうちに、ウルの背中が軽くシファカの背に触れた。


 背後でシファカが刀を構える気配を感じ取りながら、ウルは己が一種の興奮状態にあると知った。冷静さを失ったわけではない。ティアレたちの身を案じて、焦燥に駆られていることも確かだ。
 だが胸のうちに宿った一種の確信から、興奮を感じずにはいられないのだと、ウルは思った。
 西方人の面差しを持った東大陸の男が、連れであると耳にしたときから、確信を抱いてはいた。そして、今シファカの刀の扱いを見て、確信は揺ぎ無いものとなった。
 武具の扱いは、教えた人間の癖が出るものだ。本人の生まれ持った体格から生み出される癖を加味しても、拭い去ることが出来ずいつの間にか染み付いてしまう癖が、師の癖である。
 例えば、剣の扱いかた、足運び、視線運び、立ち姿。
 視線の端に動く娘の影に、昔戦ったことのある男の残像が見える。
 閣下――……!
「ウルさん」
 背を預けている娘が、呼吸音と聞き間違うほどの声量で囁いた。
「合図したら、走ってティアレさんたちを追いかけて。多分、暗殺者はこれだけですまないから。見張り役として何人かが潜伏しているのが定石だ。ティアレさんたちだけで逃がすのは危険すぎる」
「貴方はどうなさるのですか?」
「私はどうとでもなるよ」
「しかし……」
「貴方が心配しなくちゃいけないのは私じゃなくて、ティアレさんたちのほうだろう? 暗殺者が狙ってくるほどなんだ。ティアレさんって、結構大変な身分の人なんじゃないか?」
 ウルは押し黙った。シファカの言葉は概ね正しい。唯一訂正を入れたいのは、“結構大変な身分”などではなく、“一つの国の運命を揺るがすような身分”であるという点ぐらいだろうか。
「私のことは切り捨ててくれていい」
「そういうわけにも参りません」
「私は所詮流れ者だから。私が死んでも、哀しむのは私の相方ぐらいだ。ティアレさんの背に乗っているものと比べるな」
「シファカ様」
「それぐらいの気分でいなきゃだめだろう。上に仕えるものの義務だ。大丈夫、私、死ぬつもりは毛頭ないから」
 やけにものの判ったシファカの物言いに、ウルは嘆息した。彼女の言う通りだ。何を切り捨てても、ティアレは守り抜かなければならない。
 思い返せば、護衛が自分ひとりで街を歩かせるなどという事態を作ってはならなかったのだ。甘すぎた。
「傭兵の方に、そんな叱咤をされるとは思いませんでした」
「色々経験してるからね。王宮勤めもしたことあるよ」
「ほぅ」
 ならば彼女の事情の飲み込みの早さは、経験に裏打ちされたが故か。若いというのに。一体どんな人生を、この朗らかな娘は歩いてきたのだろう。
「一つ、教えてください」
「何?」
「……貴方の、お連れの方の、お名前です」
「どうして?」
「はぐれた後、お礼と、お詫びに行かなければならないでしょう。大切な方を騒動に巻き込んで、申し訳ありませんでしたと。名前がわからなければ、探しようもありません」
 シファカが苦笑して、一つの名前を囁いた。確証は、正しかった。水の帝国出身者で、その名を持つものはたった一人だ。高貴な生まれの人間と同じ名前を避ける、東大陸独特の習慣の為に。
「……では、ことが終わって、もし私が貴女様を見つけられぬようでしたら、お手数ですが、お連れの方を連れて、水の帝国の宮城までおいでください。よい就職先をご紹介いたします」
「あはは」
「約束いたします」
 ウルは断言した。本当に、ウルの確信が正しいのならば、就職先は紹介する必要もないのだが。
 皇帝は、今もその座を空けて、宰相の帰りを待っている。
 宮城と言った時点でティアレがどの程度の位にあるのか、シファカには想像が付いただろう。彼女は聡い娘だ。この短い時間のやり取りで判っている。だからこそ、背負うものの何もない自分の身など捨て置けとシファカは言う。
 彼女が、刀を構えなおしながら、囁く。
「ティアレさんたちを守って」
「どうか、ご無事で」
 ウルは短剣を構えなおし、身を落とした。
「行って!」
 シファカの合図を機に場を飛び出す。ウルを追いかけようとした暗殺者は、シファカの刀の一閃によって阻まれたらしかった。追いかけてくる足音はなく、ただ、剣戟だけが遠く響く。
 どうか無事で。
 暗い夜道を駆けながら、ウルは祈らずにはいられなかった。
 ティアレの身の上を悟った上で命をかけて送り出してくれたシファカは、人よしが過ぎる。普通ならばいらぬ厄介には口を挟まぬと、他人のふりをするだろう。しかしシファカはそれをしなかった。それは、半日足らずの時間に作った女の友情というよしみの為だろうか。ただ、彼女がお人よしなだけだろうか。
 ただ、彼女に無事でいて欲しかった。
 ウルは駆けた。
 ティアレを守らなければならない。ティアレが失われれば、国が傾くだろう。それだけは避けなければならない。ようやっと貧困と混乱から抜け出したばかりの、国の為などという大義名分のためではない。長く蝙蝠のような生活をしていた自分が、ようやっと決めた終の棲家。良き上司。崇拝できる君主。それらを失いたくはなかった。
 ヒノトを守らなければならない。自分を気にかけるお人よしの上司が、唯一選び取った大切なものだ。ウルにとってもヒノトは欠けてはならない、姪かなにかのような存在だった。ウルには無論家族がいない。水の帝国に居ついて、出会った人々は皆、家族に等しく愛しい人々だ。
 二人を守り抜き、館に帰り、そして報告する。
 シファカのことを。
 そして。
 ジンのことを。
 幾重にも張り巡らされた偶然の糸がもたらした必然に、皆が歓喜するだろう。想像するだけで胸が打ち震える。長い、長い間、皇帝も皇后も、空白の椅子の主の帰りを待ち望んでいたのだから。
 自分たちも、四年以上も待たされたこの怒りを、ぶつけることができる。
 ティアレたちにはすぐに追いついた。前方に手を取り合って走る二人が見える。目に見えて追われてはいないようだが、警戒する必要がある。注意深く周囲の気配を探って――……。
 いた、つもりだった。
 どどっ……
「ぐっ……!」
 背に突き立った鋼の感触と、刹那襲い来る血潮の熱さ。絶叫することは堪えた。気配に身をよじったお陰で、急所は外した。しかし均衡を崩した身体は、ウルの意思とは関係なく傾いでいく。
 背に突き立ったのは矢だ。目認するまでもなく、二本の鏃が背の筋肉に食い込んでいると認識する。
 背に刺さった矢の角度から相手のいる方向を割り出したウルは、踏鞴を踏み、振り向きざまに、暗具を放った。鈍色に輝く太い針状の武具が、空気を切り裂く音を置き去りにして闇に呑まれていく。間もなく闇夜に響いた肉塊の落下音にウルは満足したが、深く肉に食い込んだ鋼はウルの足取りから明確さを奪った。
 数歩よろめいた後、足場が唐突に消える。身体に掛かる浮遊感。
 天に伸ばした手は何を掴むこともなく。
 そのままウルは、街の通りを流れる水路の濁流の中に、その身を落としたのだった。


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