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第十章 受啓者たちの散会 2


「あぁ、美味しかったね!」
 お腹の部分に手を当ててシファカが笑う。そうですね、と応じるのはティアレだ。その表情はここ最近の中で一番と言い表せるほどに明るい。
 ウルは少し前を行く彼女らを見つめながら、その楽しげな様子に自然に口元が緩むのを感じた。
 日も地平線に沈んだ。空には太陽の名残が僅かにあるばかり。群青に染まるのは時間の問題だろう。点灯師たちが走る時刻だ。それに気がついて、慌てて茶屋を出たのはつい先ほどのことだった。現在、馬車の停留所に向かって歩いている。そこで、シファカとは別れる予定だった。
 時間が経てば経つほど、ティアレとシファカの二人は気が合うことを確認しているようだった。出自は同じ北の大陸であるらしいが、かといって同じ土地で生れ落ちたわけではない。シファカは先だって彼女が述べたようにアントニア地方。そしてティアレは――今回ウルも初めて知ったのだが――ディスラ地方。同じ大陸であっても、気候も文化も全く別のものだ。
 性格も似てはいないだろうと、会話からウルは推察していた。ティアレは一見おっとりとしてはいるが、何事に対しても非常に細やかな神経を払っている。一方、シファカのほうはしっかりして見えるが、やや粗野な部分があった。話し方も立ち振る舞いも、全く違う。
 しかし。
『似ているだけでしょう』
 短時間で、ひどく気が合うものだと感心するヒノトに、ほかでもないウルがそう言った。ティアレとシファカは、似ているのだ。おそらく、空気というものが。
 いや、もしかして彼女らが持つのは異なる空気なのかもしれない。しかしそれは一対の歯車のように、とても綺麗に噛み合うのだ。
 時折、いる。人には時折、ほんの稀に、神がそう定めたかのように、ぴたりと噛み合う誰かが現れる。それは永遠の伴侶かもしれない。それは永遠の盟友かもしれない。
 ただそういった存在とは、出会いからの時間など関係なく、他者とは分け合えない“なにか”を、共有することができるのだ。
 ラルトとティアレはそうなのだろう。彼らは出逢って間もなく恋に落ちた。一目見たときから惹かれていたのだろうと、ラルトが酒の肴として、昔ウルに語ったことがある。彼ら二人が並ぶと、何か掛けていたものが埋まったということを認識させられる。彼らは、二人で一つの空気を、分かち合うのだと。
 そしてウルはもう一組、同じ空気を共有する人間たちを見たことがある。
(陛下と、閣下)
 ラルトと、ジン。水の帝国の皇帝と宰相もまた、同じ空気を共有する人間たちだ。
 そしてティアレとシファカの間に流れる空気は、ティアレとラルトのそれよりも、皇帝と宰相のそれに似ている気がした。
 そう、似ているのだ。
 シファカが。
 ジンに。
 無論、容姿がではない。空気が似ているのである。シファカの纏う空気はラルトのそれに似ているが、何気ない立ち振る舞いが宰相の面影を、ウルに思い起こさせる。食事を取るときの些細な作法。微笑み方。
 だからこんなにも簡単に、警戒を解くことができてしまったのだろう。本来ならば、こんなにも簡単に見知らぬものに対する警戒を怠るべきではなかった。
 しかしシファカに対しては、どうしても、ウルは警戒することができなかった。
 ジンの面影をそこはかとなく匂わせる彼女に対して、どうしても。
(閣下を、お見かけしたから、そう思うのでしょうかね)
 ウルは自嘲気味に独りごちた。偶然に見かけた宰相の姿が、動揺を引き起こしていることは間違いないからだった。
 数年ぶりに、見かけた水の帝国の宰相。彼は網の監視をすぐに撒いて、どこかに身を隠した。しかしこの国にいることは間違いない。確かに、彼はこの地の土を踏んでいるのだ。
 何かにつけて、彼と関連付けて考えたくなる。このように意識を散らしていては、諜報方の長失格だと、再度ウルは自嘲をこめて喉を鳴らした。
 これほどまでに、自分が宰相を切望するのにはわけがある。
 自分はラルトの元で働けることを誇りに思っている。彼の政治の才能と人柄に心酔している。そして自分の直属の上司であるエイ。あのお人よしの青年の成長を見守っていくことに、喜びを覚えている。
 今の生活には、かつてウルの覚えたことのない充足がある。
 それらすべてのきっかけを与えたのはほかでもないジンだ。
 苛立っているのだと、思う。
 何故、宰相は帰ってこない。何故、皇帝を一人にする。この五年足らずの月日、どれほど皇帝が憔悴したか。それを支えるために、どれほど后妃が、女官長が、左僕射が、彼を愛する少女が、皇帝に追随する全てのものが、神経を、笑顔を、すり減らしたか。
 何故、自分たちを置き去りにして、平気でいられるのかと。
 きっと、腹を立てている。
 だからこんなにも、苛立ちをぶつける相手を切望している。
「うん平気。帰ったら謝っておくから」
 シファカの声が、唐突にウルの意識に滑り込んできた。
「本当にすみませんでした。長い間引き止めてしまって」
「いいんだよ。私が自分でいるって決めたんだし。それにしても、こんなに楽しい時間は初めてだった。本当にありがとう」
 シファカは満面の笑顔を浮かべ、ティアレもまたそれに応じる。本当なら、シファカはもっと早くに茶屋を出なければならなかったはずだ。彼女は、宿で待っているという相方と約束をしていたはずだった。
「怒られませんか?」
 ウルはシファカに問いかけた。シファカは肩をすくめる。
「どうだろう。多分大丈夫」
「心配しているかもしれませんね」
 ティアレの言葉に、シファカが笑いながら頷いた。
「かもね。彼、心配性だから」
 過保護なんだ、とシファカは言う。
「大事にされているというのですよ」
 ティアレはシファカの言葉を訂正し、ふと思い立ったように、問いを口にした。
「シファカさんたちは、水の帝国には来られないのですか?」
「行かないと思う」
「どうしてです?」
 シファカのやけにきっぱりとした物言いに怪訝さを覚えたウルの口から、つい問いが零れ出た。
「お出でになられたら、よいと思いますけれどね。相方のお生まれも、私たちの国なのでしょう?」
 シファカの相方は水の帝国の出身だという。しかもこうやって縁を得たのだ。聞けば急ぐ旅ではないというし、立ち寄るぐらいはよいのではないかと思う。
「そんなにも、早くこの国を出る必要があるのですか?」
 もう明日にも、ダッシリナの都を出立せねばならぬとシファカは言う。そこまで急がなければならない理由が、ウルにはどうしてもわからない。またそれはティアレも同じらしく、ウルに賛同するように大きく頷いて見せた。
「せっかく、お知り合いになれましたのに……」
「私も、おんなじ意見だよ」
 こちらの追求に、困惑顔でシファカが笑った。
「本当は、私も水の帝国にいきたいんだ。いっぱい聞いてるんだ。水の帝国のいろんな話を。彼の生まれ育った土地を、見てみたいんだ。ティアレさんたちの話を聞いていたら、ますます見てみたくなった」
「それでは」
「でも多分、彼が駄目だっていうと思う」
「……お連れの方がですか?」
「うん」
 悄然と肩を落として、シファカがティアレの言葉を肯定した。
「最初、私たちは西大陸に向かう予定だった。北の大陸をあらかた回ってしまって、別の大陸に回ろうっていう話になったとき、私は東の大陸に行こうよって言ったんだ。でも、駄目だって、即答だった。いろんな偶然が重なって、今私たちはここにいるけど、でもこの場所にいたらいけないって思ってるみたいなんだ」
「この場所にいたら、いけない?」
「罪人みたいだねっていったら、罪人なんだよっていうんだよ。もしかしたら本当に、なにかやらかして逃げてるのかもって、私思うから」
 罪人。
 かなり物騒な言葉に、ウルは思わず唇を引き結んだ。ティアレもおそらく同じ理由からだろう。複雑そうに沈黙している。
「あ、もしかして、罪人とかそんなこというべきじゃなかった!? ごめん。捕まえにこないでほしいんだけど!」
「大丈夫ですよ」
 口元に手を当て、慌てた様子で声を上げるシファカに、ティアレが笑い混じりに応じた。
「罪人だなんて。そんなはずはありません。シファカさんがこんなに良い方なのですから」
「えぇ? そう?」
「お人よしの周りにはお人よしが、善人の周りには善人が集まる。これは世界の理というものですよ、シファカ様」
 ティアレの言葉に困惑した様子のシファカに、ウルは片目を瞑って笑ってみせた。ぷ、とシファカが笑いに噴出す。
「でも、うちの相方はきっと極悪人だよ」
「そ、そうなのですか!?」
「笑顔で毒吐いてばっかだしさ。西方人の、すごく綺麗な顔してるのに、よく、満面の笑顔で人の傷を楽しんで抉るし」
「え?」
 シファカの言葉に、ティアレが足を止める。ウルもまた、無意識のうちに歩みが止まっていた。息を呑んで、シファカの顔を見返す。シファカはそんなこちらに気付いた様子もなく、歩みを進めていた。
「ずかずか色々言われても、彼なら結局許せちゃうっていうような、なんか変な人徳持ってるんだよね。本人がそれを自覚してるところが、極悪人っぽいだろ? ……あれ、どうしたの?」
 足を止めているこちら側を認めて、シファカが驚いたように立ちすくむ。
ウルはティアレと顔を見合わせた。シファカの相方に、おそらく、同じ人物を連想したのだろう。
「……いえ、シファカさんのお連れの方は、水の帝国のお人なのですよね?」
「う、うん。それがどうかした?」
「今、西方人と仰ったものですから」
 西方人といえば、一般的には西大陸出自の人間のことを指す。水の帝国は世界の東の端に位置する。そこを出自とする人間は、東方人と呼ばれるはずであった。無論、例外はある。ティアレやヒノトのような、移民もその例外の一つだ。
「あ、うん。えーっと、こっちの人、黒髪が多いみたいだけど、彼はお母さんか誰かが西大陸の人だったらしくて、顔はまるきり西方人なんだ」
「そうなのですか……」
 ティアレが傍らで何かを思案するように、視線を地に落とす。だが、彼女は確認を取らない。気のせいかもしれない、と、自分に言い聞かせているのかもしれない。
 そんな偶然が、都合のよい偶然が、あるはずないと。
 しかしウルは違った。
 こんな都合のよい偶然があってもいいのか[・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・]
 ウルは確信を持っていた。その何者かの意志を感じさせる偶然の綺に、肌全体が粟立っている。戦場に立ち、死線を潜り抜けたとき以上に、興奮し、戦慄していた。
 シファカの言葉を引き金に、記憶が引っ張られているかのように撒き戻される。
 エイの命を受けて、諜報の一環として<網>の中継地へ連絡を取りにいった帰り。人の波押し寄せる波止場。突風に煽られ揺れた外套の裾。覗き見えた亜麻色の髪と瞳。
 その手が、しっかと握り締めていた、別の誰かの手。
 黒髪の女の。
 逸る気持ちを押さえつけながら、ウルはシファカにことを確認すべく口を開いた。
「シファカ様、その、お連れの方の名――……」
「あれ?」
 しかしウルの問いかけは、他でもないシファカの呻きによって遮られた。
 シファカの顔色が蒼ざめていく。どうしたのか、と問いかける間もなく、彼女は慌てたように周囲を見回し、そして叫んだ。
「ヒノトは!?」
 ウルは我に返って傍らを見た。つい先ほどまで、ヒノトは確かにウルの傍らを歩いていた。しかしそこには、彼女の影も形もない。背後を振り返る。その向こうを行き交うのは、見知らぬ誰かの姿ばかりだ。
 ティアレが口元を押さえながら、顔から色を失っていく。
 ウルもまた、背を伝い降りる冷たいものを感じながら、息を呑んだ。


 ヒノトは狂乱しそうな胸中を押さえつけ、周囲を見回した。
(どこへ、いったのじゃ?)
 ティアレとシファカ、そしてウル。馬車が迎えにくる時刻となり、彼女らと共に馬車の停留所へと向かって歩いていた。つい先ほどまでティアレたちの笑い声は確かに聞こえていたし、ウルは傍らを歩いていた……はずだった。
 彼女らを見失ってしまったきっかけは何であっただろう。とん、と、誰かの身体がヒノトの肩にぶつかった。占い辻は辻というほどに狭くはないものの、往来する人々の数が多く、気をつけていないと頻繁に身体が触れ合う。ヒノトの身体は東大陸の人間と比べても小柄で、ほんの僅かぶつかっただけでも簡単によろめいた。
 そして、体勢を立て直し、周囲を見回したときにはすでに、ティアレたちはいなくなっていたのだ。
 くすくすくす、という笑い声がふと聞こえ、ヒノトは通りの暗がりへと視線を移した。ヒノトが今立っているのはそれなりの広さを持つ目抜き通りの一つ。しかし路地裏では命の保障がないという点では、他国と差が無い。
 樽や酒瓶の詰まれた暗い裏路地には、星詠祭を前に浮き足立つ町人や旅人たちと対照的な、みすぼらしい身なりの人影がある。彼らの虚ろな眼だけがヒノトの姿を映し出していた。いや、何も映してはいないのかもしれない。涎をたらしながらも笑みに歪んだ口元、手元には煙草の煙管。
 ヒノトは視線をそらした。見覚えのある光景だ。エイやウルが言っていた。最近この国では、リファルナで流行っていた水煙草――月光草が、流行っているのだと。それに付随するように、他の麻薬の類も蔓延しているらしい。
(……そんな、時間は経っておらぬはずじゃが)
 一人でいるのは危険だ。早く、ティアレたちと合流しなければという焦燥が身を焦がす。
 ティアレたちは馬車の停留所へ向かっているはずであるが、そもそも土地勘のないヒノトにはその場所自体が判らない。ここまでは全てウルの案内に従って動いていたのだ。このまま真っ直ぐ追いかけていくより、じっとしているほうが得策だろう。むやみやたらに動けば、余計に迷子になる。
 それにウルには人の動きを掴む手立てがある。どのようにして探り出すのかはわからないが、諜報の為の力がウルにはあるのだ。場所を動かなければ、間もなく彼はヒノトを見つけてくれるだろう。
まったく、どうしてこんなことになったのか。
(まぁ、妾が腑抜けていたのが悪いのであろうがの)
 ウルたちには心配を掛けているだろう。館に戻れば、エイの雷が落ちることは決定だ。あれほど、離れてはならないとウルから注意を受けていたのに。そもそも馬車から街をみるだけだったのだ。それを、ウルから決して離れないという条件で街歩きを許可してくれた。
 館に戻ったら、本当に、今度こそは当分大人しくしていよう。リョシュンの宿題を一心不乱にこなすのだ。ヒノトはそう決めた。
 自分の役目は終わったのだ。シファカと離れてしまえばティアレはまた元のように気が塞ぐだろうか。しかしあれほど仲良くなったのなら、城に招いてもかまわないはずだ。大体ヒノト自身、エイに拾われて連れて行かれたようなものなのだから。
 ティアレが、堕ちていかぬように、引き止める役は、おそらく終わった。
 それが、酷く寂しい。
 ティアレとシファカが気を許していくに連れて気がついたことがある。
 何故自分はこうも必死にティアレを励まそうとしていたのか。
 ティアレの為でも、医者としての大義のためでもない。ティアレを励まし続けたのは、そうすることでヒノトの寂しさが少しでも薄れるからだった。
 リファルナで育ての親と家族を失ったヒノトを救い、水の帝国へと招いてくれたエイは、ヒノトに本当によくしてくれる。着るものも食べるものも不自由がないし、勉強も存分にできた。遊ぶこともできる。労働に手を傷めることもない。薬代を値切ろうと農具を振り回してヒノトを追いかけるような輩もいない。
 エイだけではない。ウルもスクネも、リョシュンも、医師団の皆も、女官たちも、皆優しい。
 けれど、ヒノトが一番ではない。
 皆、ヒノトをすり抜けていく。エイでさえ、仕事が主で、ヒノトを顧みることはほとんどないのだ。人のいい青年だ。罪悪感を抱いているということは判っている。しかしそれだけだ。ヒノトだから、ではない。
 沢山の豊かなものに囲まれているのに、リヒトや血のつながらぬ姉妹たちに囲まれていたころよりも、今はずっと寒い。
 ティアレを励まし続けることで、ティアレの目に自分が映るのではないかと思ったのだ。
 しかしそんな考えは浅はかだ。人は定められたかのように特定の誰かを目に映し、そのほかの誰かは、流れ行く日々の欠片としてしか映らない。ヒノトが死ねば、皆哀しむだろう。それは本当にヒノトの喪失に嘆くのだろうか。それとも当たり前の日々の一部が失われることに対して覚えた寂寥感に嘆くのだろうか。
 ヒノトは嘆息して見知らぬ人々の行き交う雑踏から逃れるように、路地裏から距離のある通りの端に身を寄せた。道の真ん中に立っていては、往来の邪魔になる。
 エイの手が欲しいと思った。
 悲しみに凍えているとき、ただ黙ってヒノトの手を温めてくれていた彼の手が。
「……寒いのぅ」
 春だが夜になれば気温は下がる。今のヒノトの衣装では、凍えてしまうだろう。
 僅かな暖を閉じ込めるように、自らの腕を掻き抱く。
 そして吐き出そうとした息が口の中に押し込められるのを感じ、胸中で悲鳴を上げたのだった。
 意識の隅を、先ほどの占いの紙に書かれていた一文が過ぎる。
『一人に、気をつけろ』


 色々、ことがややこしくなってきたと、エイは帰りの馬車の中でため息をついた。ユファ達と分かれ一路街へ。そこで迎えの馬車と合流し、今は館に向かっている。
 ソンジュ・ヨンタバルを、水の帝国側で裁いて欲しいと、ユファは言った。
 彼女の言い分はこうである。
 ソンジュは確かにユファの暗殺を企てたが、頭の切れる側近二人のお陰でその証拠が何一つ残っていない。今はユファが唐突に姿を消したということになっている。しかしユファ自身はソンジュを追放したい。彼女は今まで甥ということで、ソンジュに温情を掛けてはいた。しかし殺されかけたとあっては、親族の情もそこまで、ということだろう。しかし、ソンジュを追放するだけの、決定的な証拠が、ユファの手には何一つ残っていないのだ。
 ただ、ソンジュの側近二人は、水の帝国に対して並々ならぬ関心を抱いているということだった。この国を荒らしているのも、水の帝国へのあてつけともいえると、ユファは言った。近いうちに、ソンジュは側近たちに引きずられて水の帝国へ足を踏み入れることになるだろう。
 そこを、水の帝国側で捕らえて欲しいと。
『正規の使者としてではなく、侵略者として足を踏み入れたというのなら、私たちも、あなた方の国との関係を保持するためという、ソンジュを切り捨てる口実ができます』
 ソンジュは正規の使者として水の帝国に足を踏み入れるだろうが、無論ユファはそれを認めていない。いくら代行といえども、正規の盟主の命令なくして、他国に使者として足を踏み入れることは大罪だ。
 近々、ユファは宮廷に盟主として戻るだろう。おそらく、星詠祭の頃合に。
「はぁ……」
 それにしても、長い一日だった。日はとうとう暮れた。地平にわずかばかり橙の明りが見えるが、やがてそれも群青に侵食されて消えるだろう。
 夜が、訪れる。
 しかしゆっくり休める夜とはいえないはずだ。早朝にはティアレとヒノトが水の帝国に向けて館を出る。大方の準備は館の者たちによって終えられてはいるだろうが、それでもエイがやらなければならぬこともあるだろう。星詠祭の準備も。ウルからの報告にも耳を傾けなければならない。
「間もなく、館に到着いたします」
 御者の声が小窓を通して幌の中に響く。そっと幕に指を差し入れると、確かにここ数日で見慣れた外交の拠点が見えた。
 忙しい夜が来るとわかってはいても、一息はつける。
 そう思っていたエイは、到着した館が騒然となっていることに、驚きを隠せなかった。
「……何の騒ぎですかコレは?」
「カンウ様」
 歩み寄ってくる家人の紙よりも白い顔を見たエイは、げんなりとした。
「何ですかまたヒノトですか?」
 ヒノトが屋根から滑り落ちそうになって、館の侍従全てを巻き込んで大騒ぎとなっていたのはつい今朝の話だ。このやり取りに既視感を覚える。
 しかし家人の携えてきた報せは、エイの想像以上に深刻なものだった。
「馬車の消息が途切れ――マキート様、ティアレ様、そしてヒノト様……皆、この時間になっても、まだお戻りになられておりません……!」


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