BACK/TOP/NEXT

第十章 受啓者たちの散会 1


 占師たちの館から一度郊外に向かう。寂れた家々が、夕暮れの地平線に点在していた。
 馬車の窓から、エイは対面に腰を下ろす男に視線を移した。白髪を綺麗に撫で付け、豊かな髭を蓄えた初老の男は、エイもよく知る男である。
「あそこは幾度足を踏み入れても不思議な空間ですよ、カンウ殿」
 男はそう言って、悪戯っぽく目を細めた。
「ソーヤ太夫」
「私も数え切れぬほど盟主に同行し、あの場に立ち会いましたが、やはりカンウ殿のようになる。なれぬものです」
 そんなに悄然となされるなと、男はエイを励ました。
 このソーヤという男は、行方不明である盟主の近習だった。エイも幾度か顔を合わせたことがある。彼曰く、盟主は無事とのことだった。これで、占師たちの言葉は正しかったと証明されたことになる。
「何故、私に会おうとなさったのですか?」
「貴方様は占師の力に疑問をもたれるでしょう。あの体験を素直に信じるようになるまでは、時間がかかる。だから盟主は貴方様とお会いになられるのです」
「盟主様は、私と占師が会うことをご存知だったのですね」
「無論、城に手のものを残さず身を隠したわけではありませんので」
「……これは、失礼を」
 連絡係を残さず、己の城を退去することなど、どんな王でもいないだろう。相手を侮った発言をしてしまったことに、エイは頭を下げた。
 このソーヤの馬車と出会ったのは、あの占師の館の前だった。まるで機会を見計らったかのように具合よく馬車は現れ、エイを迎えたのだ。このソーヤは盟主が傍から片時も離さぬ一番の近習である。盟主が幼少のころからの世話係であると聞いている。
「もうすぐ、到着します」
 ソーヤが窓の外を見つめながら言った。
 その視線の先にあるのは、盟主がいるとは到底思えないような、朽ちた廃屋だった。


「わぁぁあぁ……」
 シファカが声をあげ、ティアレの顔に喜色が浮かぶ。卓の上に運ばれてきた焼き菓子は、香ばしい芳香をまとってヒノトたちの胸を躍らせた。
 赤子の拳程度の大きさの、狐色に輝く表面は艶やかで、華奢な玻璃の器に盛られたその様は、金の財宝かなにかのようだった。
 品書きの中から選んだのは、結局は棗餡や干果の詰まった焼き菓子である。しかし異国からついたばかりのシファカにとっては初めての代物であるらしいし、ウルに言わせれば、占い辻の茶屋らしい趣向が凝らしてあるらしい。
「一体これにどんな趣向が凝らしてあるのじゃ?」
 焼き菓子を摘み上げながら、ヒノトはウルに尋ねた。
「まぁ、割ってみればわかります。あ、そのままかじりつかないでくださいね、ヒノト様」
「失礼な」
 そんなにいつもがっついていると思うのか。
 ヒノトはじろりとウルを睨め付け、彼の指示に従って焼き菓子を丁寧に割った。指先に力を入れただけで簡単に二つに別れた焼き菓子の中から、ひらりと何かが零れ出る。
「……なんじゃ、コレ」
「ねぇヒノト、これ何か書いてあるよ」
 ヒノトと同じように焼き菓子を割っていたシファカが、中から出てきた紙のようなものを引っ張り出す。軽く菓子屑を指先で払った彼女は、紙を目先に掲げてみせた。
 彼女の言葉に従って視線を動かしたヒノトは、ティアレと共にその紙を覗き込んだ。
「再会アリ」
「……なんじゃこれは占いか?」
「みたいですねぇ。あ、私の紙には提案にのれ、と書かれていますよ」
 ティアレが焼き菓子の紙を引っ張りだしながら呟く。ヒノトは自分の菓子に入っていた紙を見た。そこに書かれている言葉は、“一人に気をつけろ”。
「……わけが判らぬのぅ」
「この菓子一つ一つに占いが仕込まれているんです」
 ウルもまたそう言って菓子を齧った。彼は齧った後から紙を一枚引っ張り出すと円卓の端に置いた。彼には占いを確認するつもりはないらしい。
「この店は菓子作りが趣味の占い師がやっておりまして。同じ占いは二度とでないそうです。実際よく当たると評判です」
「本当かぁ? ならば何故ウルは見ぬのじゃ?」
「あとで確認しますよ」
「このお菓子は紙が入ってるだけだけど、他のお菓子は?」
 シファカの問いはもっともだ。ヒノトは品書きを引き寄せながら思った。この店には焼き菓子のみならず、糖菓子をはじめとした様々なものがある。
「そうですね。私も全て試したことがあるわけではないので判らないのですけれども、ここで土産として売られている飴玉には舐めると文字が浮かぶそうですし、色が変わるとか、いろいろあるそうですよ」
「へぇ。食べ物自体が占いか」
「まさしく、占い辻の茶屋じゃのう」
「占いが当たるかどうかはともかく、この考えが面白いですね」
 くすくすと笑いながら、ティアレが焼き菓子を齧る。そして彼女は驚いたように口元に手を当てた。
「わぁ、美味しいですね、これ」
「え? 本当? ……あ、ホントだ! 美味しいねぇ! さくさくでー!」
「ですね! なのにそんなに甘すぎなくて……」
 次の占い見てみよう。そうですね。そんなティアレたちの会話を聞きながら、ヒノトは自分の手元の焼き菓子の欠片を、口に放り込んだ。確かに、なかなかの味だ。水の帝国の宮城で出される菓子も、職人の作るものだから当然美味なわけであるが、それとはまた違った深い味わいがあった。
「ふむ。本当にうまいのぅ」
「……どうしたんですか? ヒノト様。やけに大人しくなってしまいましたね」
「妾はいつも大人しいわ!」
 肘で入れた突っ込みは、ウルにさくっとかわされる。桑原桑原と冗談交じりに呟く彼に、ヒノトは舌打ちして菓子の次の欠片を口に放り込んだ。
「……本当に、大丈夫ですか? 何か心配ごとでも?」
 占いの内容や、品書きを見ながら会話に没頭するティアレとシファカを見つめながら、ヒノトは首を横に振った。
「いいや」
「でしたら」
「ウル、エイの心配性が移ったか?」
 ヒノトはウルの言葉を遮り、にやりと笑って言ってやった。ウルは一度大きく目を見開くと、呆れ混じりの吐息をついた。
「ヒノト様……」
「なぁウル。ティアレは元気そうじゃな」
「え? えぇ……」
 ヒノトの問いの意図が読めないのだろう。怪訝そうに首をかしげながら、ウルが頷く。それに満足して、ヒノトは微笑んだ。
 ヒノトの目に映るティアレは、奥の離宮で臥せっていたころとは比べ物にならぬほどに健康そうであった。それはこのダッシリナに来て、ラルトと離れたせいかもしれない。いつもと違う空気を吸ったからかもしれない。ほんの少し我侭を言って笑うティアレは、人を寄せ付けがたい威厳や美しさといったものを身に纏ういつもとは異なり、ただ愛らしい女性に見えた。
 それは、ティアレがあまりにもごく普通に笑っているからだろう。
「違いますよぉシファカさん。そんなこと、いわないでください」
「えーそうかなぁ。だってね……」
 ティアレは笑っている。その口調こそ、いつも通りの丁寧な物言いだが、彼女の紡ぐ言葉一つ一つは、普段周囲に対して置く距離よりも一歩踏み込んだ部分で、彼女がシファカと接していることを匂わせた。
 奥の離宮にいるとき。
 否、水の帝国にいるとき。
 ティアレがあのような柔らかな雰囲気でもって笑うことを、ヒノトはいまだかつて見たことがなかった。
 シファカはほんの数刻前に出会った人物だ。この世界に存在していることすら知らなかった。
 なのに今は、まるで長年の友人であったかのように彼女らは笑う。
「ティアレ様とシファカ様は……」
 囁くようなウルの呟きに、ヒノトは彼を仰ぎ見た。
「似たような悩みを抱えているのかもしれません」
「似たような悩み?」
「例えば――恋の話ですとか」
 に、と笑うウルはそこはかとなく楽しげだ。
「いいですねぇ若いって。女の子のお話とやらを私見物させていただいちゃいましたけどいいんでしょうかね」
「助平が」
「いいんですよ、恋の悩みとかって若くないとできないと私思いますし」
「おんしがノウミソボケ老人なだけじゃろう」
「似ているだけでしょう」
「は?」
 唐突に話を変えられても困る。エイの側近は掴み所がない。この男もまた、政治に関る男達の一人。政治家なぞ自己中心で話を進める輩ばかりだと、ヒノトは苛立ちながらウルを見返した。
「突然話を変えるでない。一体なんの話じゃ、ウ、ル……」
 ウルはティアレとシファカの二人を、目を細めて見つめていた。
 彼の黒の瞳は深遠の闇に似ている。その瞳の焦点はどこか遠い。
「……ウル?」
「ティアレ様とシファカ様の話ですよ」
 再びヒノトを見下ろしてくる彼は、満面の笑顔で言った。
「人には、時折いるのでしょう。初めて会ったばかりでも波長が会う人が。まるで兄弟のように呼吸が同じ人が。もしかしたら、ティアレ様とシファカ様は、そのような間柄なのかもしれません。でないと、偶然に三度も、見知らぬ町で会うなどないでしょう」
「……そうじゃな」
 ヒノトはウルに倣ってティアレたちに視線を移した。
『初めまして、ヒノトさん』
 エイに連れられ、初めて水の帝国に足を踏みいれ、そしてティアレと対面したときのことだ。
『私も、別の土地から来たのです。仲良くしてくださいね』
 ティアレはヒノトの手を取って、柔らかく笑った。こんな女神のような女性が、この世界に在っていいのだろうかとも思った。その頃の水の帝国はまだ復興途中で、国内の整備にラルトは日々追われていたが、ティアレを気に掛けるだけの余裕があった。仕事に疲れたラルトが奥の離宮に戻り、ティアレがそれを迎え、話を聞き、眠り、そしてまた送り出す。二人で支え合って日々を重ねているときのティアレは幸せそうに笑っていた。
 それがいつから、歪んだのか。
 ヒノトには判らない。
 しかし今回ヒノトがティアレを無理やりに、奥の離宮から、ラルトの下から引き剥がしたのは、かつてヒノトの手を取ったときにティアレが見せたような笑顔が失われてしまう、そのことが酷く哀しかったからだった。今、ティアレが浮かべているのはその時以上に柔らかく、気を許した笑顔だった。ヒノトが願った通りだ。
「嬉しいのぅ」
 ティアレが、気を許せる誰かを見出しているというのなら、本当に嬉しく思う。奥の離宮で、ただ、我侭を殺して微笑んでいたティアレ。本当は、こんな風に笑っているべきだった。
 ほっとした。安堵した。ラルト以外、誰もティアレの心に入っていけないのではないかと思っていた。それほどティアレの世界はラルトばかりで、そのことはヒノトにも痛いほどに理解できた。
 今回の旅は、無駄ではなかった。
 沢山の迷惑をエイにかけたけれど、ティアレのこの顔を見れば、きっと彼もわかってくれるはずだ。
 ラルトにも判ってもらえるはずだ。
 けれど。
「……寂しい、のう」
 この哀しさは、何だろう。
 胸の片隅をちくりとさす痛み。見知らぬ町に取り残されてしまったときのような、言いようのない寂寥感。
「……ヒノト様?」
 ウルの声にヒノトは肩をくすめ、首を横に振った。
「なんでもないわ。気にするでない、ウル」


 無人となった村の片隅にある廃屋が、ソーヤの案内した場所であった。おそらく村長の暮らしていた館なのだろう。それなりに広い敷地に建てられた館は、かつての盛栄の名残を見せつつも、朽ち落ちた屋根や剥がれた土壁が、人がこの地を去って時間を経ていることを知らしめる。
 崩れた門をぬけた先、かつて人が集っていたであろう広間にて、二人の従者に伴われた一人の婦人が、エイを待ち受けていた。
 豊かな紅茶色の髪を結い上げた妙齢の婦人は、ソーヤに案内されたエイの姿を認めると、美しい海の色の瞳を優しげに細めた。土埃に汚れた生成り色の外套の裾からは、簡素な平民の服が覗いて見える。しかし貧相な身なりであっても、彼女の身に纏う気品と威厳が損なわれることはなかった。
 彼女が、この暁の占国ダッシリナの盟主、ユファ・ハン・ダッシリナだった。
「盟主。お久しぶりでございます。……ご無事であらせられること、心よりお喜び申し上げます」
 エイは腰を落とし、片膝をついて頭を垂れる。招かれた廃屋の床は土がむき出しになっており、枯れ草が膝を汚したが、気にしなかった。
「お顔をお上げくだされ、カンウ殿」
 婦人がエイに視線を合わせるためにか深く腰を落とし、神妙な声色で言った。
「このような場所にて貴公を迎えること、頭を垂れなければならぬのは、こちらのほうなのですから」
 さぁ、と促され、エイは腰を上げた。ユファは安堵したように表情を一度緩ませ、また口元を引き結んで言った。
「此度、貴方様にここまで内密においで願ったのは、私の甥について話しておきたかったからです」
「ソンジュ・ヨンタバル殿についてですか?」
 先日一度顔を合わせただけの、頼りなさげなユファの甥。代行と呼ばれた風采の上がらぬ男のことを、エイは思い返した。
「そう」
 ユファが大きく頷いた。
「この国の政治が今揺らいでいる。その首謀者が誰であるのかと、カンウ殿は占師たちから聞かれまして?」
 エイは正直に話すべきか迷った。占師たちから直接回答を得たとは言いがたいが、今この国の民を賑わせているのが一体誰なのか、明確な答えは胸のうちにある。しかしそれは、ユファの親族を攻め立てることと同義だったからだ。
 しかしエイの懸念は杞憂に終わった。ほかでもないユファ自身が、エイの胸中を見透かしたかのように笑ったからだった。
「いらぬ気は回さぬように、カンウ殿。ならば私から申しましょう。私を宮廷から追い立てたのは、ほかでもない私の甥、ソンジュ・ヨンタバル。この国を騒がせているのも、同じ男」
「盟主」
「情けない話ではありますが、私は今まで歯牙にもかけなかった甥に、宮廷から追い出されたのですよ。いえ、立ち向かおうとすればそれもできましたでしょう。しかし占師たちが、それを許さなかった」
「無駄に争えば、命を落とすだろうとも占師たちは言いました。……我々、ダッシリナの人間にとって占師たちの宣下は絶対です。ソンジュ・ヨンタバルによる盟主暗殺計画の確証を得た我々は、占師の勧めに従い、僅かな供を連れて身を隠し、今に至ります」
「……今は、どこに潜伏を?」
「都近くとだけお教えいたしましょう。今は、どこに隠れているかは、申せませぬよ、カンウ殿」
 ユファはそう言って密やかに笑い、そうですね、と、エイもまた納得に首を縦に振った。
「話がそれましたね。ソンジュのことです」
 ユファは外套の裾を捌き、窓のほうへと歩き始めた。木製の窓枠は腐りかけて、冷えた夕暮れの風を招き入れている。それに吹かれた彼女の紅茶色の髪が、土埃踊る宙になびいた。
「おそらくご存知でしょう。ソンジュは[まつり]に置いて、あまりに才がありません。いえ、政ではない。人の前に立つことにおいて、才が全くないのです。あまりに気弱く、しかし血筋から気位だけは高く……野心だけは、人一倍に持ち合わせる男、それが私の甥です」
「それが何故、貴方様を暗殺しようなどと企てることができたのですか?」
 エイの目からの情報と、ウルからの報告を総合すれば、ソンジュはあまりにも役者不足のように思える。初めは演技かも知れぬと思った、ソンジュの様子。しかしウルの報告を聞く限り、幼い頃からソンジュはあのようであったらしい。
 そのソンジュ一人で、ことを起こせるとは考えられない。
 それは――……。
「やはり、彼の側近たちの影響ですか?」
 ソンジュの周囲に、ここ一年ほどの間に急に現れたらしい二人の側近の存在については、既にエイもウルと議論を交わしていた。
「その通りです」
 ユファはエイの言葉を肯定した。
「あの二人は、それぞれ別々の目的を持って動いております。どういう目的なのか、私にはわかりません。しかしはっきりしているのは、誰もソンジュの為に動いてはいないということなのです」
「……側近二人が、盟主の地位を狙っていると?」
「いいえ。そうではないでしょう」
 エイの言葉を否定したユファは、思案するかのように口を噤んだ。彼女に代わって口を開いたのは、エイの傍らに立つソーヤだった。
「盟主の地位を狙っているのは、ヨンタバルだけと心得ます。あの二人は彼の人の野心につけこみ、何かを成そうとしている」
「何を成そうとしているのか、私にはわかりませぬ」
 ソーヤの後を引き取って、ユファが言う。
「……しかし、ソンジュと彼の側近たちはいずれ、あなた方の国にご迷惑をかけるでしょう」
「盟主」
「長き混迷の時代から抜け出さんと邁進していらっしゃる、リクルイト皇帝陛下には誠に申し訳なく。謝罪を、どうかお伝えくださいますよう」
 深く頭を下げる婦人の顔には、疲れの色が濃く浮き出ている。隠遁生活は、どんな人間の精神も疲弊させるものだ。慣れぬ身では粗末な身であること一つ、疲労のもととなる。
「そのように、頭をお下げにならないでください盟主」
 申し訳なくなり、エイは彼女を制止した。しかしユファは静かにかぶりを振って、頭を垂れたまま言葉を続ける。
「これから貴公に迷惑を承知で頼むことを思えば、頭を下げずにはいれぬのですよ、カンウ殿」
「頼み……と、申しますと?」
 エイの問いに、ユファがようやっと面を上げる。彼女は険しい表情で、真っ直ぐにエイを見つめて請うた。
「ソンジュを、貴公の国の名の下で捕らえ、裁いていただきたいのです」


BACK/TOP/NEXT