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第九章 神に近き者の啓示 3


 シファカは目を剥いた。目の前のティアレの頬を、突如透明な雫が伝い始めたからだった。
 ティアレの様子に狼狽を見せて、唐突に立ち上がったのはウルだ。がたんという椅子を引く音に、周囲の客もまた驚きの様相で身をすくませる。
「だ、大丈夫?」
 言うべき言葉が見つからぬらしいウルやヒノトに代わって、シファカは躊躇いがちにティアレに尋ねた。ティアレは一瞬、何を言われたか判らぬといわんばかりに呆けた表情をした。
「え……? あ」
 ティアレが周囲の反応と己を見比べ、ようやっと事を把握する。彼女の瞳から溢れる涙は、途切れる様子を見せない。しかしティアレは己の頬に触れ、鼻をすすると、泣き歪んだ顔のまま小さく頷いた。
「えぇ、大丈夫です」
「大丈夫な訳なかろうが」
 間髪いれずにティアレの言葉を否定したのはヒノトである。
「なにか理由があるから、泣いたのではないのか?」
「いえ、本当に、なんでもないんです」
「もしなんか嫌な思いさせちゃったんだったら、言ってくれたほうが嬉しいよ」
 シファカは言った。ティアレが泣いてしまった理由に、無論心当たりがあるわけではない。泣かせるような言動を取った覚えも、シファカにはない。それでも、知らぬうちに自分たちの言動がティアレの心を痛めたというのなら、謝らなくてはならないとシファカは思った。
「違うのです」
 ティアレが涙を手の甲で拭いながら、空いたもう一方の手を軽く振った。
「本当に、大丈夫です。すみません、びっくりさせてしまって……」
「じゃぁ何故?」
 ティアレは大丈夫と繰り返すが、ヒノトが問えば口を閉ざす。シファカは嘆息すると、軽く彼女の方へ身を乗り出した。
「どうしてもいえないって言うんだったら、追求はしないけど。でも本当にびっくりしたからさ。相談できるような内容なら、言って欲しいな」
 ティアレの顔に浮かぶのは困惑だ。己が涙したことの理由に対して、心当たりはあるのだろう。
 それを言うべきか、言わざるべきか、迷っている。
「泣きたいって思って零す涙より、なんか無意識に泣いちゃうときのほうが、きっとしんどいことなんだって思うから」
 昔、まだ故郷で兵士として働いていた頃。
 シファカは泣かなかった。最後に泣いたのは子供の頃で、働き始めてから泣いた覚えなどまったくない。
 けれどジンと出会って、いつの間にか涙が我慢しきれなくなった。泣くことを、我慢していたのだと知った。無意識に零れてしまう涙は、そういう涙だと、シファカは知っている。
「……たいした事では、ないんです」
 ティアレが躊躇いを見せながら、そう前置いた。
「ただ、シファカさんと、ヒノトが、とても羨ましく思えて」
「羨ましい?」
 ティアレの思いがけない言葉に、シファカは思わず鸚鵡返しに尋ね返していた。ティアレが憂いに目元を伏せた。
「……そんな風に、好きな人に、思われていること。そんな風に、好きな人と、一緒に、いてもらえること」
「何をいうておるのじゃ!?」
 ヒノトが驚愕と呆れの入り混じった表情を浮かべて、声を荒げた。
「おんしだって十分想われておるじゃろうティアレ。唯一無二の女子と大事にされて。腹の中にいる子がその証拠ではないか。子は授かりものじゃぞ。想いが通じ合わねばできぬときく」
「え? ティアレさん赤ちゃんがいるの!?」
 そちらの事実のほうがシファカには衝撃的だった。しかし言われてみれば合点がいくこともある。ヒノトやウルがティアレの体調をしきりに慮っていたのは、彼女の身体があまり丈夫でないからだろうと推測していた。表面的には、ティアレは確かに健康そうに見える。しかし元気溌剌といったようには見えなかった。病弱なもの特有の気配がそこには存在していた。故国の前王、ウルムトや、シファカの母と、同じ気配だ。ティアレを見てすぐに判った。
 だが、それだけではなかったのだ。妊婦によくあるという不安定さや、体調の不具合が、余計に彼女をそう見せていたのだろう。
「……えぇ」
 シファカの問いに、ティアレが控えめに頷いた。
「それでも、産めるかどうか、わからない子です」
「……どうして?」
「産めば……母子共に生死に関るそうですので」
 ティアレの声は今にも消え入りそうだった。病気なんです、と言って、彼女は泣き歪んだ顔で笑った。
「今は生むかそうでないかで、夫と喧嘩中なんです」
「……ティアレさんは、産みたいんだよ、ね?」
 ティアレはシファカの問いに答えない。静かに微笑んだままだ。
「今回諦めて、次、とかは?」
「おそらくないでしょう。子供が育つ器官自体に問題がありますから、堕胎しても二度と子供は望めません」
 ティアレは口調滑らかに答えた。静謐な眼差しから、彼女の悲しみの深さが見て取れる。どちらが産むなといっているか明白だった。ティアレの身を案じている夫は、彼女に堕胎を勧めているのだろう。
 そこで初めて、シファカはティアレたちが観光目的でこの国にいるのではないことを気取った。彼女らは水の帝国から来たといった。おそらく、ティアレの夫――そして彼女らの上下関係を察するに、ウルやエイの主人――は、水の帝国にいるのだろう。
 ティアレは、逃げてきたのだ。
 頭に血が上ると、喧嘩相手の顔など見たくもなくなるものだ。それが、どれほど愛している男の顔だとしても。
 ジンと二人きりで旅をする。何も仲良しこよしばかりだったわけではない。シファカ自身、何故この男を命がけで追いかけたのだろうと思ってしまう喧嘩も、既に幾度か経験済みだった。
「そんなに、酷い、病気なんだ……」
 シファカはまだ、子供を生むことについて考えたことがない。
 ジンが今のような形で旅を続けるのなら、子供は持てないだろう。子供を抱え、二人きりで世界を回るには無理がある。
 そもそも、ジンが子供を望むのかどうかもわからない。
 彼に、そこまで愛されているのかも、判らない。判らなく、なりかけている。
 彼の素性すら、話してもらっていない自分は――……。
「……シファカさん?」
 シファカはティアレの呼び声に我に返った。軽く頭を振って思考の整理に努める。今は自分のことではない。ティアレのことだ。
 子供を産めなくなるだなんて。子供を産まないと産めないとの狭間には、これ以上ないほどの明確な差がある。
「……ごめん」
 初対面、知り合って間もない人間が踏み入っていいような事情ではない。だというのに遠慮なく足を突っ込んでしまった自分に気がついて、シファカはティアレに謝罪した。ティアレは軽くかぶりを振って、いいのですと笑顔を見せた。
「子供、産みたいですけれど、でも、どうしても無理だというのなら……諦めようと、そう、今は思っていますから」
「ティアレ? それでよいのか?」
 事情を知っていて、ティアレについてきているだろうヒノトが、彼女に念押しをする。
「えぇヒノト」
 そのヒノトに対して頷くティアレの表情には、何かを振り切った気配があった。
「私は大丈夫です。……きっと無理をして産んでも、誰も幸せになれないと、気付きましたから」
「治せるような、病気じゃないんだね……」
 そういった類の病は、どんな女に付きまとうものだ。貧しく女が売り買いされるような国では、発症するものも多い。シファカもならないという保証はない。他人事には思えなかった。
「ティアレの病は」
 ヒノトが口元を軽く紙で拭いながら、唐突に話を切り出した。
「子宮と呼ばれる、子供が育つ器官の病じゃ。下腹の奥に、茄子のような形のゆりかごがある。それを子宮と呼ぶ」
「へぇ」
 男女が睦みあえば子供ができることは知っていても、どのような原理でできるのか、シファカは知らない。シファカは無意識のうちに下腹部に手を当てながら、そんな器官があるのだなと、シファカは思った。
「月の障りもまた、この器官が起こしておるのじゃが、今はその話は置いておこう。重要なのは、この器官が酷く伸びるということじゃ。赤子は突然赤子の大きさにはならぬ。この中で目に見えぬほどの小ささで生まれて、肉の塊になり、徐々に人の形を取っていく。無論、子宮は最初から赤子の大きさではない。平時は小さく、それが妊娠し、子供が育ち、子供の身体が内側から押し開く。けれども破れない。とても柔軟な筋肉の束によってできておる。それが子宮じゃ」
 普段聞くことのない内容に、シファカは真剣に聞き入っていた。そんなものが自分の身体にあるのかと、改めて認識すると不思議な感じがする。
「じゃが、これは平時、そこまで柔軟なわけではない。妊娠に備え、ある時期を境に女子には月の障りが訪れる。それと同じように、子供が宿った時点で始めて、柔軟になるように身体が変化するのじゃ」
 しかし、とヒノトは嘆息一つ零して続けた。
「ティアレの身体は、なぜかその変化が起こらん。このままでは赤子が腹の中で成長したときに、子宮を突き破ってしまう。子宮の成長が不完全だとすると、子供も成長しきるかどうかわからん。ティアレの病とは、そういう病じゃ」
 そんな病があるのかと、目から鱗が落ちる思いだった。やはり、同じ女ということで、他人事とは思えない病だ。ティアレはそんな病と知りながらも明るく振舞っているのかと、感心の眼差しでシファカは彼女を見た。
が。
「……そんな、病気だったのですね」
「……ティアレさんも知らなかったの?」
 ヒノトの説明に対し、感慨深げに頷いてみせたティアレは、今初めて己の抱える病の詳細を知ったという風だった。シファカの問いに微苦笑を浮かべてみせるティアレは、お恥ずかしい話ですが、と前置く。
「詳しい話は、一切。そういった話を聞く前に、口論になってしまったものですから」
「というか、妾はリョシュン辺りが説明しておるのかと思うておったわ」
 ふん、と鼻を鳴らし、ヒノトが憤然と呻く。リョシュン、という聞き慣れない名前にシファカは首を傾げたが、おそらく話の流れから察するに、医者の誰かだろうと察しを付けた。
「ねぇヒノト、その病気って、治らないの?」
「治る」
 シファカの問いに、ヒノトが断言する。
「あぁ薬とかあるんだ?」
 今回の問いに対しては、ヒノトは答えない。口元を引き結ぶその様子が、この世に確かな治療法が存在しないことを雄弁に物語っていた。しばし黙りこくった後、彼女は言った。
「じゃが、いつか、きっと」
 静かに、熱の篭った口調で呟くヒノトに、ティアレが微笑む。シファカもまた微笑んだ。
「そうだね」
「それにしても呆れたわ。ティアレに一切説明をしておらんかったとは」
「機会がなかっただけでしょう」
 そのように言って彼の上司たちを擁護したのは、今まで無言であったウルである。ヒノトは彼をじろりと睨め付け、一度口元を引き結んだ。
「機会なぞ、いくらでも作れる」
 何も言わずただ微笑むばかりのティアレの静かな怒りを、ヒノトは代弁しているかのようだった。その様子を見たウルが、再び黙り込む。
「男はいつもそうじゃ」
 彼女は言った。
「肝心なことは何もいわぬ。いわぬことが、女を傷つけない方法だとでも思うておるのじゃろうか。……馬鹿共が」
「ヒノト」
「何も全てを語り合えといっておるわけではない。全てについて事細かに話しておっては疲れてしまう。妾だってエイに仕事の話を全て話せとはいうておらん。そんなことをされても妾には理解できんし」
 ヒノトは一度言葉を切る。卓の上に乗せられた彼女の拳に、小さく力が入った。
「じゃが……話さなければならぬことを話さんのは悪い癖じゃよ」
「ヒノト」
 たしなめるように彼女の名を呼んだのは、ティアレだ。しかし思うところがあるのか、ヒノトの言葉を否定はしなかった。
 ただ、黙って、微笑むだけだ。
 その様子が、居たたまれない。
「確かに、話して欲しいよね」
 シファカは目の前の高杯の中で揺らめく水に視線を落としながら呟いた。ティアレたちの視線が一斉にシファカに向けられる。小首をかしげるティアレに、シファカは微笑んで見せた。
「本当、話して欲しいよね。肝心なことはいっつもだんまりだと、この人に、私信頼されてるのかな、とかって、思うよね」
 シファカは、ジンを思った。
 自らのことになると、口を噤む。彼のことについて尋ねるシファカに対して向けられる彼の眼差しは、いつも哀しげで、謝罪の色を含んでいる。
 謝らなくてもいい。
 語れないのなら、せめて何故話せないのか、それだけでも教えて欲しい。
 けれど彼はいつも、沈黙するのだ。
 ただ、哀しげな眼差しだけシファカに向けて。
「……シファカさんも、なにか……?」
「相方が、水の帝国の人なんだって、言ったよね?」
 シファカの問いに、三人が静かに頷く。こんなことを、出逢って間もない人間に話してもよいのかどうかと思案しかけ、それはお互い様だと、シファカは思い直した。
「でも私が知ってるのはそれだけなんだ。出逢ったのは私の国で、一緒に旅を始めてから時間はたったほうだと思うんだけど、彼が水の帝国のどこからきて、小さい頃どんな生活をしていたのか、そういったことを一切教えてもらえない」
「記憶がないのではなく?」
 ウルの問いに、シファカは首を横に振った。
「水の帝国の出身だっていうことも、うっかり口にしちゃったみたいだから。本当はどこの出身かすらも、いいたくなかったみたいだ」
「それは何か事情でもあるのですか?」
「判らないよ。訊いても訊いても、事情も何も、話してくれないんだ」
 もし、前もってジンがシファカに水の帝国の出身であることを告げていなかったならば、彼はウルが思いついたような内容の言い訳を考えただろう。どこから来たのか、覚えていない。傭兵暮らしをするものの中には、そんなものも多くいる。たとえジンがそのように嘘をついたのだとしても、シファカは疑わなかった。
 しかしジンは、まだ不毛の王国[ロプノール]にいるころにシファカに水の帝国の出身だということを何気なく明かしてしまった。それに加えて、幼い頃に経験したとしか思えないような、たわいない話も。
「馬鹿だと思うんだよね。嘘をつけばいいと思うんだ。もしくは、どうして教えられないのか、話してくれればいいと思うんだ。なにもなんにもいわない。……どうしていえないのか、そこにはきっと重たい事情があるんだっていうことも、わかるのに」
 ジンは語らない。
 ただ寂しそうに笑うだけで何もいわない。
「愛してるっていうけどさ。重荷を分かち合おうとしないのは、愛してるっていわないよ」
 傷つけないように、大事に、大事に。
 沈黙を保ち、蚊帳の外に置く。
 それは愛から来た行為なのかもしれない。
 けれど。
 信頼、していないではないか。
「何も話さないのは、私が信頼できないっていうことだよね。私を信頼してないってことだよね。そんなのって、愛っていわないよね」
「ねぇシファカさん」
 居住まいを正したティアレが、唐突にシファカの手を握った。その柔らかな感触と、ふわりと薫った甘い匂いに、心臓が跳ねる。場違いも甚だしい心臓の音にどきまぎしたシファカは、ふとかち合ったティアレの視線に、喉を鳴らした。
 その眼差しが、とても真剣なものだったからだった。
「信頼されないのは、何よりも辛いです」
 静謐な声で、彼女は言った。
「私は守られるばかりではないのに。守る力も持っていると思うのに。頼ってくれない、その一点が何よりも哀しい」
 ティアレの手は冷えていて、その温度はジンのそれに似ていた。
 人のぬくもりを宿しながら、どこか、凍えているような。
 寂しさに、凍えているような。
「哀しいね」
 シファカはティアレの手を握り返しながら同意した。
「哀しくて、寂しい」
 ジンが過去を話すことができないというのなら、それでもいい。
 ただ、シファカが哀しかったのは、ジンに信頼されていないという一点だ。
 全く頼られないことは、まるで、シファカがいてもいなくても、同じだとでも言われているようで。
 寂しい。
 寂しいよ。
 寂しかったのだと、シファカは思った。
「どうしてでしょう。二人でいても、見詰め合っていても、まるでその眼差しが、私の向こうにすり抜けていってしまうように思えてならないのです」
 シファカは、はっとなってティアレを見上げた。彼女はほんの少しだけ目を細め、窓の外に視線を投げている。銀を宿し七色に移り変わる摩訶不思議な彼女の双眸は、憂いを含んで遠くを見つめていた。
「……ティアレさんも、なんだ?」
 その問いは、知れずこぼれ落ちていた。
 ジンと二人でいても、その眼差しは、シファカをすり抜けていく。その心がすり抜けていく。何があったの。どうしてそんなに凍えているの。私がいるのに。ここにいるのに。
 寂しさを、この人は知っているのだと思った。
「シファカさんも、なんですね」
 ティアレが、寂しげに微笑んで独白ともつかぬ呟きを続ける。
「あの人は、幸せで在ればあるほど、まるで幸せであることが罪であるように、遠くを見る」
 そう、その通りだと、シファカは思った。
 ティアレの言葉に賛同しながら、シファカは唇を噛み締めた。
 ジンのその眼差しに初めて気付いたのは、何時だっただろう。
 きちんと認識したのは、択郷の都にいた頃だったと思う。喧嘩もしたけれど、それでも当たり前のようにジンがそばにいて、きちんと温かな場所で眠って、友人たちに囲まれて、幸せで楽しくて。
 その瞬間、ジンがふいに見せる、海の彼方へ向けられた眼差しが、遠くて。
 寂しくて。
「寂しくて寂しくて……」
 ティアレが、ぽつぽつと言葉を落とす。
「だからそばにいたいのに、それも許されなくて……」
 シファカは視線をティアレと合わせて、ふと込み上げてくる笑いを感じた。
 どうかしているのかもしれない。本当に、出逢ってまだ一日も経っていないというのに、こんな風に自分たちは、真剣に語り合っている。
 それがおかしかったからだった。
 そして同時に、哀しくもあった。
 出逢って間もない誰かに自分は、訴えたかったのだと――……。


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