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第一章 過去の枷 1


 ティアレの顔色は悪く、寝台から起き上がることはできそうになかった。
「陛下」
 彼女の傍らで涙ぐんで佇むのは、奥の離宮で最年少の女官である。ラルトは労いも込めて、彼女の名前を呼んだ。
「レン」
 スクネからは報告が上がっている。元々の仲間を裏切ってまで、ティアレを暗殺の手から守ったのだと。
 その現場にいることはラルトには叶わなかった。が、ラルトは、彼女の張り詰めた表情を見て、ティアレは賭けに勝ったのだと思った。
『レンは私を殺せませんよ』
 レンがティアレに差し向けられた暗殺者であろうとの見解を、彼女に話したとき、ティアレはそういって微笑んだのだ。信じてみたい、と。
 その賭けに、彼女は勝った。
「ティアレ様は……」
「大丈夫だ、レン」
 少女があまりに悲痛そうな表情を浮かべていたので、ラルトはそういって微笑まざるを得なかった。
「お前こそ、疲れているだろう。今日はもう休んだほうがいい」
「いえ、私は」
「下がれ。この上お前まで倒れられたら、ティーのほうが泣くだろうからな」
 ラルトの命令に、レンはしぶしぶといった様相で了承する。彼女はそのまま会釈に腰を折った。
 後ろ髪引かれるのだろう。ちらちらと、こちらを振り返りながら、レンは退室していく。その彼女を目線で見送っていると、入れ替わりに老人が一人の少女を伴って姿を現した。
「陛下」
 小柄ではあるが、背筋を伸ばし、きびきびと歩く老人の名はリョシュン。この宮城の御殿医だ。
「リョシュン、と、ヒノト」
 リョシュンの傍らで医療器具の入った鞄を携えて佇んでいた少女は、ラルトの呼びかけに応じてにこりと笑った。銀の髪に、褐色の肌。瞳の色は夏の太陽に透ける肉厚の葉を思い出させる、美しい緑。榕樹の小国リファルナ出身の彼女は、ヒノトという名の医師見習いだ。
「陛下。妃殿下の世話はヒノトに任せて、少しお時間をいただけますかな?」
「ティアレの容態についてか?」
 つい先ほど、ティアレの容態を確認したリョシュンは、ラルトの問いに小さく頷いた。その瞳に浮かぶ色は暗い。あまり、よい報せではないようだ。
「大丈夫じゃラルト」
 一方、ティアレの傍の席を陣取った医師見習いの少女の表情は明るかった。
「ヒノト」
 リョシュンの厳しい叱責が、少女に飛んだ。
「陛下とお呼びしろと、何度いったら判るのか」
 だが師の言うことに悪びれず、少女は屈託なくラルトに笑いかけてくる。
「いいさリョシュン」
 ラルト自身は、身分に囚われず、ラルトを単なるティアレの恋人、もしくは、年上の友人のように語り掛けてくるこの少女を気に入っていた。ヒノトの頭に軽く手を置いて、ラルトは彼女に微笑みかける。
 そして立ち上がり、リョシュンに言った。
「話を聞こう」


 目を覚ますと、傍らにいたのは年下の友人だった。
「具合はどうじゃ? ティアレ」
「ヒノト……」
 呼びかけに応じて、少女は柔らかく微笑んだ。
 左僕射エイ・カンウが後見をする、医師見習いの少女。現在は医師団の長であるリョシュンについて、医学を学んでいる。ティアレに対して対等に物をいう数少ない友人だ。時間が空いた際には、よく共にお茶とおしゃべりに興じる少女である。
 ヒノトはティアレの傍らの椅子に腰を下ろし、ティアレの手首で脈を診ている最中だった。
「脈も大分落ち着いたな」
「私は……」
 一体、何故寝台に。
 ティアレが寝かされている部屋は、奥の離宮にある寝室だ。この国に、ひいてはこの奥の離宮に足を踏み入れてから、ずっと使い続けてきた部屋。
 だがティアレは、裏庭にいたはずだ。裏の、林の奥にある、庭園にいたはずだ。
 途中で、記憶が途切れている。頭が、軋むようにひどく痛んだ。
「発熱で倒れたのじゃ」
 鞄の中から聴診器を取り出しながら、ヒノトが言った。ということは、この頭の中に鈍く居座る痛みは、発熱の為らしい。
「大分熱も引いたようじゃがの。少し胸元をくつろげるぞ」
「はい」
 ヒノトはティアレの胸元に手を伸ばし、夜着の襟元を緩めた。何時の間に夜着に着替えたのか。おそらくは誰か、女官が着せ替えたのだろう。
 聴診器の、ひやりとした金属を胸元に感じる。浅い呼吸を繰り返しながら、ティアレは天井を見つめた。
「私、何か病気なのでしょうか?」
「ティアレがか?」
 聴診器をゆっくりと移動させていきながら、ヒノトが訊き返してくる。ティアレは頷いた。
「最近……物が食べられなくなりました」
 目に見えて、食が細くなった。
 それはラルトに指摘されるまでもない。ティアレもまた自覚していた。
 だが、食べられないのだ。食べようとすると、腹ずわりが悪くなる。常に、むかつきがついて回る。貧血や眩暈を起こして、その場に蹲ることもしばしばだ。
 いくら自分があまり丈夫な質ではないからといっても、こうも理由なく、身体の不調を訴える時期が続くというのは。
「大丈夫じゃティアレ。病ではない」
 やけに自信たっぷりに断言するヒノトを、ティアレは怪訝の眼差しで見つめた。少女は満面の笑みで言葉を続けてくる。
「なぜなら、ティアレは」


 本殿の中にある、リョシュンに与えられた個室は、医学書で埋め尽くされている。この部屋を与えた当初、かなり広い部屋であったと記憶しているが、いまでは小さな円卓と椅子、そして寝台が窮屈そうに肩を並べるのみだ。天井に届くほどに積み重ねられた書籍は何時崩れるとも知れない。見苦しい部屋ですが、と言い置かれて案内された彼の部屋で席を勧められたラルトは、躊躇いがちに奏上された報告に驚愕しながら呻いていた。
「……こ、ども?」
「はい」
 子供が。
 いるという。
 ティアレの腹の中に。
「一つ確かめるが、それはあれか。妊娠とかいうやつか?」
「ほかに何がございましょう陛下」
 リョシュンはようやっと厳しい目元を緩めて、小さく笑った。こちらの動転し具合がおかしいらしい。ラルトは椅子の背にもたれ、額に手を上げながら、あちこちに飛びそうになる意識を繋ぎとめることに必死だった。
「子供……」
 ということは。
 自分の、子供だ。
 前の后レイヤーナは、懐妊することはなかった。まだ生まれてきてはいないとはいえ、ラルトにとって初めての子供ということになる。
 唐突の報せに、動転しないほうが、おかしかった。
「妃殿下のご懐妊に気付くことが遅れたのは、私の失態でございます陛下」
 リョシュンは、円卓にこすり付けんばかりの勢いで、頭を下げた。
「いい。謝るな」
 リョシュンに面を上げろと示唆して、ラルトはふと思い立った。
「……じゃぁ最近、食が落ちていたのも」
 ティアレはここのところ、食がひどく細っていた。発熱や貧血も頻繁だった。季節の変わり目ということもあるし、シノの失踪という心労もある。てっきり、精神的なものかと思っていたが。
「はい。つわりですな」
 リョシュンは、ラルトの胸中を肯定した。
「妃殿下のつわりは、どうやら重いもののようです。貧血や、食は、その結果でしょう」
「そう、か」
 ラルトは呟いて、安堵の吐息を漏らした。
「……よかった」
 リョシュンがあまりに厳しい顔をしてラルトを呼び出すものだから、心配していたのだ。
 何か、病が見つかったのでは、ないかと。
「よかった――……」
 これでティアレを失うようなことがあるのなら、自分は壊れるだろう。
 それは、恐怖以外の何者でもない。しかも懐妊とは、逆にめでたい報せではないか。
 思わず笑みを零しかけたラルトは、予想外に厳しさを残したままのリョシュンの表情に、唇を引き結んだ。
「陛下」
「どうした、リョシュン?」
 尋ねながらラルトは、そういえば、リョシュンはまだ一度も祝辞を述べていないと、思った。
 皇族に、新たなる一員が加わる。そのことを、喜ばぬ御殿医ではないのに。
「大変申し上げにくい、ことなのですが」
リョシュンは、口重たく、嘆息しながら言葉を続けた。
「私は、妃殿下に、堕胎をお勧めいたします……」


「子供……」
 ティアレはヒノトから告げられた事実に、思わず腹部に手を当てていた。そこに、小さな命が宿っているのだという。
 ラルトの、子供が。
「子供が……」
 ティアレは呟きながら、唇を綻ばせていた。
 ずっとずっと、ほしかった。
 ラルトに対して、口にすることこそなかったけれども。
 ずっと欲しかった。
 彼の子供。
「本当なのですか? ヒノト」
「うむ」
 ヒノトは使い終わった聴診器を鞄の中に仕舞いこんで、しっかりと首を縦に振った。
「兆候は確かに出ておるし、リョシュンが言っておったからな。間違いはないであろう」
「そう、ですか」
「嬉しそうじゃな、ティアレ」
「もちろんです」
 ティアレは少女に頷いて、掛け布団ごしに手を当てた腹部に視線を落とした。
「これで、彼に、家族を作ってあげることが、できる」
 裏切りの呪いにさらされて、この広い宮城の中、皇帝は血族全てを失っている。
 たった一人残った宰相も、ティアレが奪ってしまった。
 子供ができたら、と思っていた。
「作って、あげられるんです……」
 喜びに、泣いてしまいそうだ。
 布団の布地を握り締めながら、歓喜に微笑むティアレに、ヒノトが少し拗ねた表情を見せた。
「ヒノト?」
「羨ましいのぅティアレは。ラルトにきちんと愛されておって」
 彼女は椅子に腰掛けたまま、長い足をぷらぷらと揺らした。
「エイの奴も、あの鈍さ、どうにかならんものかのぅ」
「本当、もう二年も経っていますのにね」
 ティアレは口元に手を当てて忍び笑いを漏らし、ヒノトに同意を示した。
 ヒノトの想い人は彼女の後見人であるエイだ。彼がヒノトをこの国に連れ帰ってきて、二年半が経過しようとしている。当時は噂好きの女官たちが、とうとう生真面目な青年も、妻を娶る気になったのかと騒いだものだが、エイは何時までもヒノトを子ども扱いしていて、女としては決して見ていないようだった。彼の鈍さには、ラルトもまた呆れ返っていて、よく笑い話の種になる。
「よかったのう、ティアレ」
 ヒノトが再び満面の笑顔を、ティアレに向けた。ティアレは枕に頭を埋めながら、彼女に取り上げられる手のひらを見ていた。
「妾は、自分のことのように、嬉しい」
 ヒノトはティアレの手を彼女のそれで柔らかく包み込む。茶葉のような、薬草の匂いが、ふわりと香った。
「……ありがとうございます、ヒノト」
 この少しだけ年の離れた友人に、ティアレはあまり愚痴たことはない。
 だが、彼女はひどく聡かった。ティアレが何に苦悩しているのか、気取っている部分もあっただろう。
「さて、これから妾は忙しくなるな!」
 ヒノトが、椅子から勢いよく立ち上がる。ぐ、と拳を握り締め決意をあらわにする彼女に、ティアレは尋ねた。
「ヒノトが私に付くのですか?」
「どうであろう。じゃが、リョシュンが忙しいということは、妾も忙しくなるということじゃ。ティアレはつわりがひどいようであるし、それ用の薬草や薬の調達に奔走することにはなるじゃろうて」
「そうですか」
「じゃが気になることもある」
 腕を組んだヒノトが、むぅ、と口元を曲げた。
「気になること?」
「そうじゃ。実はリョシュンが、この懐妊の報せは、ティアレ以外に知らせてはならぬと……」
「公式に発表する日まで、ということではないですか?」
 もしくは、また、ティアレの命を狙う輩がいるか。
 皇帝に嫡流が生まれることを厭う人間もいるはずだ。そういう輩にとって、ティアレ懐妊の報せは危険を増やすもの以外の何ものでもない。リョシュンのヒノトへの口止めは、それを、危惧するがゆえのものだろうか。
 しかしヒノトは、ティアレの考えに納得がいかぬようだった。
「じゃが、それにしたって、奥の離宮の女官たちぐらいはよかろう?」
「彼女たちも駄目なのですか?」
 それには、ティアレも驚いた。奥の離宮の女官たちは、ティアレに最も近しく世話を焼く人々だ。懐妊の報せがなくとも、体調不良が続けば、同じ女同士、薄々気付くものもいるだろう。
「一体、何故」
「ティアレ」
 ティアレは、呼びかけに応じて視線を上げた。戸口を見れば、ラルトが立っている。
「ラルト」
 ティアレは彼に微笑みかけた。脳裏に、子供のことが過ぎったからだった。
 が、ラルトの表情は暗く、ティアレは怪訝さに柳眉を寄せた。
「……どうか、したのですか?」
「ヒノト、悪いが、席を外してくれるか?」
 ラルトはティアレの問いに答えることなく、ヒノトに請うた。
「かまわぬが……」
 ヒノトは一瞬首をかしげたが、追求はしなかった。彼女は笑顔を取り繕い、鞄を壁に寄せて、ラルトに尋ねる。
「では、茶でも淹れてこようか?」
「あぁ頼む」
「判った」
 またな、とヒノトはティアレに手を振り、ラルトの横をすり抜けていった。とたとたという足音が居間を通り抜け、廊下の向こうへと消えた頃、ラルトは先ほどまでヒノトが座っていた椅子に、腰を下ろした。
「……子供のことは、聞いたか?」
「……はい」
 ティアレは頷きながら、どうして彼はこんなにも厳しい表情をしているというのだろうと思った。
 ティアレの腹の中で、少しずつ成長しているだろう命は、ラルトにとって初めての子供のはずだ。ラルトは子供が好きなほうであるし、この報せを聞いたというのなら、ラルトは喜んでいるものと思っていた。
 しかしラルトの表情はあくまでも暗く、どこか悲愴さすら漂っていた。夜の炎の色の双眸に、苦渋の色。ティアレは、彼の膝の上で震えている彼の拳に手を伸ばして、呼びかける。
「ラルト……?」
 ラルトは、やがて重苦しく口を開いた。
 堕胎、してほしいと。


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