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第九章 神に近き者の啓示 2


 窓の開け放たれた部屋は陽光が差し込んで明るく、鳥のさえずりすら聞こえてくる。さらさらという水の流れる音も心地よい。その白い石造りの内部は、見慣れた母国の執務室――ラルトの執務の為の小さな部屋――のそれに似ていると、エイは思った。
 さして広くはないその静かな空間に座しているのは、六人の占師だ。皆、揃って頭から白い布を被り、白い長衣を身につけている。リヒトのようだ、と思った。今は亡きリヒトは、ヒノトの養母である。彼女も自らを隠すために、このような服装をしていた。
「エイ・カンウ」
 一人が水盆を眺めながら、口を開いた。しゃがれた女の声だった。空気を奮わせる波紋が見えるかのような、余韻を含んだ声音だった。
「ここにおぬしの求める答えはない。早々に、立ちさられるがよかろう」
「私の用件を聞かずに、私の問いを存じていらっしゃったのですか?」
 エイはここに来た理由を、取次ぎの女に告げてはいない。この国に入り込んだ水の帝国側の手のもの、数人の力を借りてようやく占師と連絡を取り付けたときも、占師はただ二つ返事でエイの謁見要請を受けたのだ。
「さよう」
 占師の一人が札を並べながら頷く。男の声だった。
「しかしあなた方は知っているはずです。今回、この国を揺るがしているものの首謀者は誰なのか」
 ダッシリナ、ブルークリッカァ、メルゼバの国境には、既に兵が配置されたと聞いた。
 このままダッシリナが落ち着かなければ、戦争もありうるだろう。
 そもそもこの国が荒れ始めたのは、この占師達の宣下と現実の差に端を発する。占いが外れ、不信感を持った人々に付け入った人間が、事態の首謀者だった。
「それは既にお主が答えを持っているはず」
 占師たちの返答は酷くあっさりしたものだった。自分たちの占いの末に、国がどうなろうと知ったことではないと、いわんばかりだ。
「ではこの国の盟主は一体どちらへ行かれたのですか?」
 ソンジュ・ヨンタバルが現在盟主としての仕事を行っているが、彼が代行になった話も、盟主が病に伏したという話も、水の帝国領内では聞かなかった。
 実に、唐突な話だったのだ。
 まだ盟主は死んではいないだろう。しかし軟禁されている可能性もありうる。
「盟主はご存命である」
 各々の道具を通じて、ことの行く末を見つめながら占師たちが答える。
「お主も近々、あいまみえるであろう」
「盟主は殺されぬ」
「ただ、この舞台の為の人間ではない」
「よって姿を消した」
「ソンジュ・ヨンタバルもまたそのうちの一人」
「哀れな男。この舞台を用意したにも関らず、この舞台は彼の為に用意されていない」
「そして我らも舞台の外」
「舞台の上であるお主は、我らに会う必要などどこにもない」
「ただ、答えが来るのを待てばよい」
「答えは、すぐそこにある」
 占師たちは独白とも、エイに対する返答とも付かない言葉を次々と口にして沈黙した。
「舞台……?」
 何のことかわからず、エイは鸚鵡返しに彼女らに尋ねた。しかし占師たちは口を噤んだまま、答えようとはしない。
 舞台というのは、政治思想を書き連ねた黒い本や、月光草を元とした水煙草が蔓延する、この国のことだろうか。
 嘆息を零したエイは、もういいと首を軽く振った。国の根幹である占師たちは、どこまでも、国の事に関して部外者であるという雰囲気を漂わせたままだ。彼女たちには、国を左右する占いを行っているのだという自覚が、まるでないように見えた。
「あなた方が部外者だということはよくわかりました。それでも、あなた方に誇りはないのですか? あなた方の占いが、外れ続けていることで、この国の政治基盤が緩み、国が荒れようとしているのですよ。あなた方に、占い師としての、誇りは」
「この国は倒れませんよ」
 エイの言葉を遮ったのは、鈴を転がしたような、軽やかな若い女の声だった。
 その女は、先ほども一言も口を利かなかった、一等小柄な占い師だ。一番上座に座しているところを見る限り、彼女が最上位の占師のようである。
 彼女は立ち上がると、衣服の裾を揺らしてエイのほうへゆっくりと歩を進めた。周囲の占師たちが一斉に地に頭を擦り付ける。
 エイは、思わず一歩、後ずさった。
「私たちの占いは、外れてはおりません。ただ、膨大な魔力と神の手が、世界を歪めてしまったが故に、私たちの知る未来から世界が外れてしまったのです」
「……どういうことでしょう?」
英雄の末子[・・・・・]
 女はエイの眼前で立ち止まるとその手でエイの頬にそっと触れた。彼女の滑らかな指先には温度というものがなく、エイはまるで女が幻であるかのような錯覚を抱いた。
 白い布に阻まれて、女の表情は見えない。
「外へ戻りなさい、エイ・カンウ。私たちは未来を知るものとして口を閉ざす。私たちは沈黙する。しかしこれだけは、お教えしましょう。今回のことは非常に稀有なことなのです。私たちは私たちの占いが外れたわけではないことを知っています。だから私たちは慌てない。私たちの国では戦争は起きない。今は荒れていても、私たちの国は、また豊かになる」
「未来が、そう見えると?」
「今の私たちに占う力はありません」
「ではなぜ、そう断言できるのです」
「この舞台は、あなた方の為に用意されたから」
「だから、その舞台とは、何なのですかっ!?」
 エイは、思わず女の肩を掴もうとした。
 掴んだ、はずだった。
 ひゅ、と。
 女が掻き消える。
 女だけではない。頭を地にこすり付けていた占師が次々と、幻のように姿を消していった。一人、二人、三人。
 やがてその空間にエイ一人となったとき、再び女の声がエイの耳に届いた。
『この国は倒れません。なぜなら、そう、お約束になられたからです[・・・・・・・・・・・・]

 だからこちらのことなど案ずることなく、ただ選び取った道を行きなさい。
 かつて、永劫の繁栄と裏切りを約束されていた、今は銘なき土地の民よ。


「エイ・カンウ様」
 そう名前を呼ばれ、エイははっと我に返った。
 気がつけば、そこは占師たちの館の入り口。門の前である。その事実に愕然として周囲を見やる。傍らには、エイの名を呼んだ案内役の女が立っていた。
「謁見は終わりです」
「え……。えぇ?」
 女の言葉に、エイは激昂しかけた。何を、まだこの館に来たばかりではないか、と。
しかし胸中を吐露しかけたエイは、開いた口を閉じるのも忘れて、愕然とした。
 謁見は終わり。
 女の言うことは正しい。
 そう、認識してしまったからだった。
(そんな馬鹿なことがありますか……)
 エイは口元を手で覆って、胸中で呻いた。
 確かに占師たちと謁見した記憶などないのに、エイが占師に尋ねようとしていた問いに対するいくつかの答えが、明確なものとして脳裏に残っている。
 例えば、盟主は、無事であり、占師の助言を受けて身を隠している。
 例えば、この国は、一時的に荒れてはいても、またもとの通りになる。
 馬鹿げている。しかし誰かに刷り込まれたとしか思えない、この館に来るまで抱いていた懸念に対する答えが、エイの胸の中にあった。
 がしゃん、と。
 鉄柵の門の閉まる音がした。
 はっとなって振り返る。そこには鉄柵どころか、門すら見当たらない。高い木立がそびえて、いつの間にか占師たちの館からすら、締め出されてしまったようだった。
(……何が、起こったのか……)
 エイは口元を押さえたまま、木立に背を預けた。
 確かにここに到着したときよりも、太陽の位置は移動していた。陽は既にひどく傾いでいる。この場にたどり着いたのは、太陽が中天を少し過ぎたころだったから、少なくとも一刻半程度はこの場にいた計算だった。
 何はともあれ、迎えの馬車の嘶きが聞こえるまで、深層意識に刻まれた占師たちの宣旨について考える程度のことしかできないようである。しかしこの場でただ馬車を待つのは、エイにとって苦行のように思えた。季節は春へと本格的に移動し、気温はこれから夏に向けて高くなっていくばかりだ。日中はぽかぽかとした陽気でも、日が沈み始めれば気温は急に下がりゆく。
 どうしたものか、と、再び嘆息を零しかけたエイの耳に、ふと。
 がらがらがら……ざざぁっ!
 砂利を踏みしめ、砂煙を上げながら止まる、車輪の音が届いた。


「ったくエイもウルも揃いに揃って……妾を一体なんじゃと思っておるのじゃ」
 占辻の端に位置する甘味所。
 ウルに案内され、古めかしい店の中で席を確保する。品書きをじっくりと検分し、注文した甘味が席に運ばれてくるのを待つその間、ヒノトはウルの彼女に対する扱いが気に入らないらしく、ぶつぶつと文句を口にしていた。一方のウルはそしらぬ顔でヒノトの横に座っている。その様子に、ティアレは傍らの席に着くシファカと顔を見合わせて苦笑いした。
「毎回毎回、子ども扱いばかりしおって。妾をいくつじゃと思うておる。いっとくが、十八じゃぞ。甘いものさえ与えておれば大人しくなると思うておる時点で侮辱じゃよ」
 水で満たされた玻璃製の高杯に口をつけながら、ヒノトが呻く。ウルはヒノトにまともに取り合うつもりはないようで、お通しとして出された金平糖に手をつけていた。
「ヒノト、この場は一端、怒りをおさめましょう?」
 仕方なく、ティアレは言った。
「妾は怒ってはおらぬよティアレ」
 ヒノトが口先を尖らせながら応じる。
「いつまでたっても子供扱いされる理不尽に、腹を立てておるだけじゃ」
「それを、怒ってるっていうんじゃないかなぁ」
 少しばかり呆れた様相も見せて、シファカが口を挟む。違う、とヒノトは即座、否定した。
「だってな、だってな。何か理不尽な気がしてならぬのじゃ。どう考えても、もう二年以上経つのに、妙齢の婦人として扱われておらぬ。エイは判るぞ。もうあいつの鈍さといったら国宝ものじゃからの。じゃがウル、おんしまで妾をまるでわがままばかりの小娘として扱うのはやめい。もう少し妙齢の婦人への対応の仕方とかあるであろうに」
「もうすこし空気を読んで、しとやかな身の振る舞いをなさるようになられましたら、私も存分に貴方様に一角の敬意を払って、妙齢のご婦人として対応させていただきますよ」
 ウルの浮かべる微笑は、ティアレの目から見ても意地が悪い。にこりと微笑むウルを見て、多少は子供っぽさを自覚しているらしいヒノトが、悔しさからくる呻きを上げて卓の上に伏した。
「……さっきから、気になってたんだけどエイって?」
 金平糖を口に放りこみながら、シファカが小首をかしげる。ティアレは軽く思案し、言葉を選びながら彼女の問いに応じた。
「エイはヒノトと一緒に暮らしている人なんです。ヒノトは好きなんですけれど……」
「ちょっとばかり色恋沙汰には鈍い方なのですよ」
 肩をすくめながら、口を挟んだのはウルだ。
「はぁ」
 曖昧な生返事でシファカが応じる。が、ひとまず彼女はエイとはヒノトの思い人なのだということだけは納得したようだった。ヒノトの嘆きやこちら側の表情から、事情を察したらしいシファカが、同情混じりの笑みを浮かべる。
「なんか、苦労してるっぽいね」
「二年以上ももう一緒に暮らしてらっしゃるのに、エイは全く気付いていないようですから」
 ヒノトのエイへの懸想は、傍目から見れば誰の目から見ても明らかだ。しかし当事者であるエイだけが気付いていない。
「……気付いていない振りをしてるわけじゃなく?」
「そんな芸当のできる男か。あ奴が」
 ヒノトが頬を膨らませて呟く。全くその通りだとティアレは思った。彼は、ヒノトを完璧に“恋愛対象である女”という類から除外していて、それが演技ではないということはよく判る。
 判りすぎるから、逆にヒノトが痛々しい。
「全く腹立たしい限りじゃ。あの激鈍い馬鹿は、常に妾をゾンザイにあつかいよる。幾度、この男に罵詈雑言を浴びせて、出て行こうと思うたことか」
 頬杖をつきながら、ヒノトは言った。
 そんなことを思っていたのか、と思いながら、ティアレはヒノトを見返した。確かに、エイもまたラルトに並ぶ政治馬鹿であるので、仕事を理由にヒノトを頻繁に放り出す。
 しかし、とティアレは思った。
 しかし、エイは――……。
「じゃが」
 ヒノトもまた、ティアレの胸中をなぞるように、言葉を続けた。
「あ奴が、妾の我侭を何よりも優先するとき」
 その彼女の眼差しが、窓の外へと向けられる。
「そして、いつの間にか傍にいて」
 今頃、ラルトの命に基づいて東奔西走しているだろう左僕射の面影を探した視線は、普段の子供じみた言動など想像も付かぬほど大人びて見えた。
 ヒノトが、静かに瞼を伏せる。
 時折、ティアレは思うのだ。
「妾の手を握るとき」
 ヒノトの子供じみた言動。天真爛漫さ。
 それらは確かに、ヒノト生来のものかもしれない。
 しかしこんな風にひどく大人びた表情を見ると、ヒノトの普段の言動は、故意のものなのではないかと思えてくる。
 暗く重たい何かを、払拭するようにして、ヒノトは笑うのだ。
「あぁ、逃げられんなぁと、そう思うのじゃよ」
 困ったように。
 しかたがないというふうに。
 諦めが混じった。
 けれどどこか誇らしげな。
 ヒノトの微笑は明るい。痛さ全てを跳ね除けるような彼女の笑顔は眩しい。
 知れず、ティアレは目を伏せた。
「あぁ、判る」
 ヒノトの言葉に賛同を示したのはシファカだ。彼女もまた円卓の上に頬杖をつき、ヒノトに笑いかけていた。
「ゾンザイっていうか、男の人ってさぁ、都合のいいときだけ、こっちを甘やかしたがるよね」
 シファカの目は笑みに細められて、何かを思い返しているようだった。
「そうそう! そんな感じじゃ!」
「本当にさ。男の人って、自分にとって都合の悪いことはいっつも口を噤むしさ」
「ホントですね」
 口先を尖らせ、少し拗ねたシファカの物言いに、ティアレは思わず頷いていた。男の人は皆そうだとは思わない。しかしラルトにはシファカの言葉に通ずるところがあったのだ。
「失礼ですが……シファカさんには?」
 シファカの口から恋人がいるようなことは聞いていない。無論、出逢ってからのこの短時間で、彼女の内情に踏み込むような真似を、ティアレはしていなかった。そもそも、そのようなことを誰かに尋ねるのは、ティアレにとって初めてのことだった。奥の離宮では女官たちが誰それの文官と女官の仲が怪しいと色恋沙汰について口にするものの、ティアレ自ら尋ねたことはない。
「えーっと、旅の連れがそういう風に、なるのかな」
 照れた様相で、シファカは言った。
「年は近いのですか?」
「んーと……いち、に、さん……九つ上?」
「相手の方が?」
「そう」
 シファカが頷き、口先を尖らせながら付け加える。
「口論にしてもなんにしても、てんで敵わないよ。経験が違うんだ。だからヒノトの子ども扱いっていうこともよくわかる。なんか時々、所有物か何かみたいに扱うしさ」
「そう! その通りじゃ!」
 ヒノトが興奮からか、身を乗り出しながら大きく頷く。
「全く、あの唐変木。もう少しこちらの心中を読めというのに。妾を所有物かなにかと勘違いしているとしか思えん。妾は、振り回されてばかりじゃ」
 ティアレはヒノトの言葉につい噴出しそうになった。エイがヒノトを子ども扱いすることに異論はないが、振り回されてばかりなのはむしろエイのほうだと思う。
 シファカも笑い、だけどね、と、先ほどよりも幾分柔らかな声音で、言葉を続けた。
「いて欲しいときには、必ずいるんだ。そこに」
 彼女の伏せられた瞼を飾る睫毛が震える。シファカの口元を彩る微笑は幸福に富んでいた。おそらく、宿に置いてきているという相方の姿を思い浮かべているのだろう。
「いて、ほしい、とき」
 ティアレは無意識に、シファカの言葉を反芻していた。唇から零れ落ちた呻きは、誰に聞きとがめられることもなく虚空に霧散する。ヒノトがシファカの言葉に大きく頷く様が、ティアレの視界の隅を過ぎった。
「あぁ、そうじゃな」
 ヒノトが笑う。その、はにかんだ微笑は、振り回される己を仕方ないと諦めながらも、それを幸福として受け入れたもののそれだった。
「なんだか、当然のようにそこにいて、手を握る。馬鹿馬鹿しいと思うのじゃが、だからこそ、離れられんのじゃろうなぁ……」
 いてほしいときに。
 傍らに立って。
 いてほしいときに。
 手を握って。
 ティアレは、溢れそうになる熱さを押し込めるために瞼を閉じた。
 夜、凍えそうになりながら敷布の冷えた感触を確かめる。そこにいるべき人の温度はない。
 昼、口さがない貴婦人たちが立てる悪評や、古い因習にしがみ付く侯爵たちの嘲笑や好色の目にさらされながら背筋を伸ばし、けれどそこに、繋ぐべき手はない。
 夢現の狭間で感じる手の感触と、時折共有する食事の時間が全てだった。ここのところ、政務が立て込んでいる上に、互いに憔悴の色が見えて、労いの言葉をかけるだけで終わってしまう。
 悟ってしまったのだ。
 自分が本当は何を一番望んでいたのか。
 ラルトに、傍にいて欲しかった。
 いて、欲しかったのだ。
 今でも十分すぎるほど忙しい合間を縫って、彼は奥の離宮に足を運ぶ。けれどそういう形ではなくて。街を見て回ったり、花を愛でたり、山歩きをしたり、遠駆けに出たり。そんな風に時間を過ごしながら、たわいのない会話を繰り返して過ごしたかった。お互いの憔悴ぶりを見て、大丈夫か大丈夫でないかの応酬をするのではなくて。
 ただ、ティアレは知っていた。
 ラルトにそのことを望んではならない。なぜならティアレ自身が、彼からそのようにするだけの余裕を奪い去ったのだから。
 ラルトに家族をつくってあげたかった。それは彼からジンという家族を奪い去ったことへの償いの意味も含んでいた。ラルトの立場を理解するものを作って、その孤独を癒してあげたかった。
 しかしそれ以上に。
 ほかでもないティアレが、彼の子供がほしかった。
 ラルトという存在を、より近く深く感じるために。
 ティアレ自身が、孤独に溺れてしまわぬように。


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