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第九章 神に近き者の啓示 1


 ダッシリナの一角に、暗く小さな林がある。ぐるりと白い壁で囲まれたその奥に、この小さな国の心臓部は在った。
 エイの一歩先を歩くのは白い長衣に身を包んだ女だった。占師たちに仕える使用人だ。歩く速度はゆっくりで、子供でも追い抜いてしまいそうなそれに、エイは歩調を合わせる。
 高い柱に支えられた神殿内部は、ひどく空虚だ。螺鈿の細工の施された色鮮やかな壁画に視線を沿わせながら、エイは歩いていた。
 螺鈿の壁画に描かれているのは、一つの神話だった。一柱の神がいる。それに対峙する一組の男女。やがて彼らは神を討ち取る。神は眠りにつき、幻の大地と共に空の彼方に消える。やがて女は処刑され、男はこの、東の大地を賜った。
 幻の大地の下では、白い衣装に身を包んだ女たちが、宴を開いている。おそらく壁画は、その宴を開いて神をなだめる女たちこそ、この神殿の主たちの先祖だといいたいのだろう。
 ここは、東の大陸で唯一、主神を崇める神殿だった。
 東の大陸の民は信心深いが、定められた一柱を奉ることはほとんどない。ダッシリナもその例外ではないが、この神殿だけは違った。
 ここは、神に力を賜ったと信じて疑わぬものたちの住まう場所なのだ。
 薄暗い回廊から、光に彩られた中庭へ。
 中庭には噴水が設けられ、春に芽吹いた緑が日の光を受けて宝石のように煌いている。
 湿った土の匂いが、エイの鼻腔をくすぐった。
 やがて、目の前を歩く女が立ち止まった。彼女がゆっくりと振り返る。女の白の被り物は目深で、彼女の表情は見えない。女のすぐ前には、六角形をした東屋があった。
「お待たせいたしました」
 女の口元が、かすかに笑みを浮かべる。その薄ら笑いに不快感を覚えながら、ウルは女の声を聞いた。
「占師様方がお待ちです」


「大事無いです。近い将来、全てが安泰となるでしょう」
「……ありがとうございます」
 ティアレは礼を言いながら手を引いた。先ほどまでティアレの手相を見ていた占い師の女性は微笑んで、次の客の応対に移っていった。
 ウルに付き添われていそいそと列を離れる。ヒノトと、黒髪に紫金の瞳をした娘――シファカは、ティアレより一足早く占いを終えて、距離を置いたところで待っていた。
「どうだった?」
 シファカの問いに、ティアレは答えた。
「近い将来に、全てが安泰となる、といわれました」
「ヤブじゃのうあの占い師!」
 ティアレの回答を聞くやいなや、ヒノトが腰に手を当てて鼻を鳴らした。
「近い将来、全てが安泰になる! 妾たち三人、同じ回答もが!!」
「しーっ、ヒノト様、声が大きいですよ!」
 ウルがヒノトの口元をその手で押さえ込んで、慌てた様子で彼女を叱咤する。
「確かにね」
 じたばたと暴れるヒノトに同情の視線を送りながら、シファカが言った。
「三人とも同じ回答だなんて、絶対手抜きしてるよな」
「けれど幸先いい言葉ですね。全てが、安泰だなんて」
「……ティアレさんって、結構楽天家だね」
「あら? そうですか?」
 シファカの言葉に、ティアレは小首をかしげた。シファカがそうだよ、と笑って言う。
「私は将来全てが安泰だなんて、到底思えないな」
「私も、全てが安泰だとは思ってなどいませんよ。ただ、そうなればいいと思っただけです。三人とも将来が安泰ならば、素敵ではないですか」
「あーうん。言葉訂正するよ。ティアレさんって、前向きだねぇ」
 見習わなきゃ、とシファカが肩をすくめる。ティアレは微笑みながら、胸中で呟いた。
(前向きというほどでも、ないような気がするのだけれど)
 前向きに考えているわけではない。
 むしろ、祈っているだけのような気がするのだ。
 全てが、良い方向へと、進みますよう。
「失礼いたしますお二方」
 暴れるヒノトを押さえつけたまま、ウルが口を挟んだ。
「そろそろ、場所を移動しましょう。ヒノト様に甘いものでも与えて、大人しくさせたいので」
「甘いものに妾がつられるとおもぅてかぁぁもががが」
「あーもう大人しくしてください!」
 ヒノトを占い師たちから引き離すべく、彼女を半ば引きずるようにして、ウルが歩き出す。ティアレとシファカは顔を見合わせ、笑いながら彼らの後に付いていった。
 シファカと共に観光することが決定したものの、彼女と回れる時間はごく限られている。どこを見て回るべきか、四人で思案して、占い師たちの通りを見て回りましょうといったのはウルだった。
 占国という通り名を名乗っているのは、何も政治の中枢が占師たちにあるからだけではない。ダッシリナという国には、占い師たちが数多く存在するらしい。
 ティアレたちが歩いてきた目抜き通りと並行するもう一本の通り。そこには、ありとあらゆる種類の占いの看板が軒を連ね、占いを生業とする老若男女が通りのそこここに立って、人を呼び込んでいた。
 占い師の通りを見なければ、ダッシリナに来たというのは嘘になる。
 ウルが肩をすくめて、そのように提案したのだ。
 この占い師たちの通りは、ダッシリナの特色を凝縮したかのようだった。目に痛い紅や青、黄色に染めぬかれた布が翻り、同じように賑やかな衣装を身につけたものたちが練り歩く。占い師たちのほとんどが、魔術の意匠を肌や衣服に施していた。占い関連のものも多く並んでいる。羅針盤や砂時計、水盆、玻璃球、玉。
 時折、ティアレにとって怖いものもある。それらは過去、ティアレの身を封じるために使われた呪具に似ていた。占いも魔術も、根底は同じところにあるからだろう。
 つい立ち止まってそれらを見つめていたティアレの目の前で、シファカの手が動いた。しなやかな、けれど苦労を知っている彼女の手が、簡単に、その腕輪のような呪具を取り上げた。
「腕輪? 結構きれいだね」
「え? えぇ……そうですね」
「でもこれをどうやって占いに使うんだろう。宝石の色が変わったりするのかな」
 店主は売り物をつまみあげるシファカに意識を払っているようには見えたが、咎めることはしなかった。かもしれませんね、とティアレは微笑んだ。何事もなかったかのように、シファカの手によってもとの場所に納められたそれは、もう単なる腕輪のようにしか見えなかった。
 ヒノトとウルもまたいつの間にか立ち止まり、数歩先の露天を覗き込んでいる。彼女らに追いつくと、ウルが面を上げた。
「何か珍しいものでも見つかりましたか? お二方」
「いえ。珍しくは」
「腕輪みたいなのが一杯籠の中に詰まっていて、どうやって占いに使うんだろうね、って話してたところだよ」
「さようでございますか」
「ヒノトは何をみているのですか?」
 ティアレの質問に、ヒノトが店先の壺の中身に視線を落としたまま応じた。
「珍しい丸薬が並んでおるので……」
「ここにあるもの、薬なの?」
 シファカが露天に並べられたものをぐるりと見回しながら誰ともなしに尋ねる。彼女につられて、ティアレも露天に並べられたものを見渡した。
 小さな露台に並べられているものは、朱や黒に塗られた粒の入った小さな壺、砕かれた骨らしきもの、貝殻に納められた透明な練薬、干からびた茸、干して吊るされた人参。
 ヒノトが立ち上がりながら頷いた。
「うむ。全て結構よい品物ばかりじゃ。これらもどのようにして占いに使うのか、妾にはさーっぱりじゃがの」
「人参と茸が?」
「立派な上薬じゃぞ」
「上薬?」
 シファカの鸚鵡返しの問いに答えず、いこう、とヒノトは促して歩き出す。すこし露天を離れたところで、彼女が再び話を切り出した。
「副作用の全くない薬のことじゃ。高麗人参と霊芝。胡麻や桂皮などもそうじゃよ。煎じて飲んだり、軟膏の原料にしたりもする。……ま、あそこにあったのは単なる飾り物じゃろうがな」
「詳しいんだね、ヒノトは」
「シファカさん。ヒノトはお医者様なのですよ」
「え!? そうなの!?」
「……まだ、見習いじゃがの」
 ヒノトが控えめに付け加えるが、シファカの耳には届かなかったようだった。彼女はすごい、と連呼してすこし興奮したように早口で言葉を紡いだ。
「お医者さんっていうことは、ティアレさん専属のお医者さんか何か?」
「え?」
 シファカの言葉に動きを止めたのはティアレだけではない。彼女の言葉に耳を傾けていたヒノトとウルもだ。ウルが自分たちの警護を担っていることは明らかだろうが、ヒノトとティアレの間が一種の主従関係であることまでは明言してもいないし、態度に出しているつもりも一切なかった。
「あ、私の勘違いだったら御免」
 シファカが両手を振りながら、慌てたように付け加える。
「ウルさんも、ヒノトも、ティアレさんを労わってるように見えたし、ティアレさんはその……あまり、身体丈夫そうに、見えなかったものだから」
「……判りますか?」
 沈黙するウルやヒノトに代わって、ティアレは尋ねた。今日は久方ぶりにすこぶる体調はよく、顔色も悪くはないはずだ。ヒノトも、またティアレを見ている医者も、早朝には太鼓判を押したほどである。
「私の、母上も、そんなに身体が丈夫じゃなかったんだ」
 シファカの声は、僅かに痛みを含んで擦れて響いた。
「……でも、ティアレさん、顔色はよさそうに見えたし」
 ティアレの身体があまり丈夫でないことを悟りながら、休憩を促さなかったことを恥じてか、具合悪そうにシファカが呻く。
「そうですね。私も今日はとても気分がよいのです」
 久方ぶりに外の空気を吸った為か、それとも見知らぬ街を見る興奮の為か、今日はとても身体が軽い。
 シファカの気遣いは無用だと、ティアレは微笑んで見せた。
「やはり、早く休憩しましょう」
 そう口を挟んだのは、ウルである。
「この通りには占い縁の茶屋もあるので。そこで占い通りならではの甘味を味わってみるのもまた一興でしょう? 歩きながら話されるのもよいかと思います。が、せっかく新しく出来たご友人です。お茶を囲んで、のんびりとお話されてはいかがですか?」
 彼はティアレにそう提案し、シファカにも笑みを一つ投げかける。
「それはよいですが、ウル。馬車は大丈夫なのですか?」
 迎えの馬車があと如何ほどで待ち合わせとなっている場所に戻ってくるのか、ティアレは知らない。この通りもさほど距離があったわけではない。しかしのんびりと露店を覗いている間に、かなり時間が経っているのは間違いないのだ。
「大丈夫ですよ」
 ウルは明言し、それ以上は口にすることはなかった。ただにこにこと、人のよい笑みを浮かべている。
「ウルがこういっておるし、そこにいこう、二人とも」
 少し前を歩いていたヒノトが振り返り、立ち止まって言った。
「それに占い通りならではの甘味とかいうのも、酷く気にならんか? 歩き回って、甘いものが食べたくなってきたしの」
「甘いものを食べれば、ヒノト様も少しは大人しくなるでしょうしね」
「……ほんっとうに、おんしはその毒舌どうにかならんのか、ウル」
「カンウ様にも注意されて直らないのですから、諦めてくださいヒノト様」
「そ、それでは行きましょうかっ」
 ウルとヒノトが本当に険悪な雰囲気になることはない。終わりのない軽口の応酬だとはわかってはいるが、今はひとまず時間が惜しかった。
 ティアレ達のほうならば多少都合は付く。しかし、ウルとヒノトの会話に微苦笑を漏らすシファカは、宿に待たせている連れがいる。彼女の都合もあるだろう。彼女が日の暮れるまでといったならば、それまでなのだ。
 ティアレの意味を汲み取って、シファカが後押しする。
「そうだね! ウルさん案内してくれる!?」
 ウルがこちらとシファカを振り返り、複雑そうな面持ちで笑って、ではいきましょうと道を指差した。


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