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第八章 邂逅 3


「全く、呆けてしまったのかと思ったぞ」
 馬車の方向にむかって通りを歩きながら、ヒノトが言う。ティアレは苦笑しながら、すみませんと謝罪を口にした。
「一瞬、何かされたのかと思いましたよ」
 嘆息しながら、そういうのはウルだ。
「何せ二人見つめあったまま、ずっとぼうっとしているのですから。突然刺されたりすると、そのことが判らずに動きを止めたりすることもありますからね。背筋が凍りましたよ」
「ウル、そんな物騒なことを言うでない。相手はただの観光客であったのじゃからな」
「はいはい。私が神経質になりすぎていただけです」
 ヒノトに咎められて、ウルが投げやりに返答した。その返答具合に腹を立てたらしいヒノトが口先を尖らせる。しかしウルは綺麗にそれを無視し、にこりとティアレに微笑みかけてきた。
「何事もなくてよかったです。なるべく、私から離れないようにしてくださいませ。ティアレ様」
 本当だ、とティアレは思った。
 もし彼女が暗殺者であったのなら、ティアレの命はこの世になかった。
「ふん。妾のほうが先に動いたというのに。本来なら、おんしのほうが真っ先にティアレの元に向かわなければならんかったであろうにの」
「うっ……」
 ヒノトの皮肉に、ウルが押し黙る。その様子に、ティアレは口元に手を当てて忍び笑いを漏らした。
 もっとも、ごめんなさいとかなり照れた様相で繰り返し頭を下げ、ティアレたちよりも一足早く、逃げるように店を出た女の立ち振る舞いから、暗殺者のような後ろ暗い臭いは全くしなかったのだが。だからこそ、ウルも全く反応しなかったのだろう。
 それにしても。
(可愛らしいひとだった)
 印象的な、娘だった。
 珠の簾の店で出会った娘は、強く惹きつけられる眼差しをした娘だった。美しい紫金の瞳に、豊かな表情が宿る。手足をぱたぱたさせてティアレに必死に謝り、店を出て行ってしまったけれど。
 酷く心惹かれる娘だった。
 くすりと、ティアレは笑った。娘を思い返す自分が、まるで一目ぼれの相手に思いを馳せる女のようだったからだ。
 その間、傍らでは、ヒノトとウルの軽口の応酬が続いていた。
「ただの観光客のようだったから、私も反応できなかったんですよ!」
 と、抗弁するウルに、ヒノトが意地の悪い笑みを浮かべている。どうやら、ウルを救う意味でも、早く馬車に戻って館に帰ったほうがよさそうだった。
 疲労は感じていない。それどころか、祭りを前にした人々の浮ついた空気に当てられているのだろう、足取りは軽かった。今度はラルトと来て、祭りそのものを見たいものだ。たとえ、仕事でもいいから。
「あー少し甘いものが食べたいのぅ」
 ウルをどうやら言い負かしたらしいヒノトが、満足げに笑みを浮かべた後、腹を撫でさすって呻いた。
「甘いものですか?」
「うむ」
「林檎飴でも食べますか?」
 ウルが通りの一角を指差して尋ねてくる。その指先の屋台には、女子供が列を作っていた。屋台に並ぶのは、飴で包まれた赤い林檎である。
「おぉ、うまそうじゃのぅ!」
「ヒノト様、うまそう、だなんて言葉遣いしたら、カンウ様に怒られますよ。……ティアレ様は、お好きですか?」
「林檎飴?」
「えぇ」
「はい。とっても」
 ラナに連れられて参加した春待ち祭りで食べたのが最初。
 以来、時折奥の離宮の女官たちと共に、こっそり嗜んでいたりする。ラルトには内緒である。
「では、参りましょう」
「やった!」
 ヒノトが歓声をあげ、一足先に駆け出して、屋台の列に並ぶ。
「カンウ様に子供扱いされるのがお嫌なのでしたら、ヒノト様にはあの辺りを直していただかないと。そう思いませんか? ティアレ様」
「そうですね」
 このダッシリナでの数日間は、エイがいかにヒノトを恋愛対象としてみていないかわからせるに十分だった。本当に、彼は保護者気取りなのだ。気取りというか、まさしく保護者なのだけれども。
 それはあのヒノトの無邪気さ故であるということも、否めない。
「さ、ティアレ様も」
 ウルに促され、ティアレは頷く。そうして、彼の傍から離れぬように注意深く気を配りながら、歩を進めた。


「お、なか空いて来た……」
 昼も結構食べたんだけどな、とシファカは独りごちながら街を歩いていた。通りは賑やかで、そこかしこから食べ物の甘い匂いが漂ってくる。北の大陸でいう、お茶の時間らしい。通りを行く人たちも皆何かしら、手に食べ物や飲み物を抱えていた。
 宿に帰ってもいいが、ジンと顔を合わせるにはまだ少し気まずい感じがする。戻るのは日が暮れる寸前にしようと、シファカは決めていた。その刻限には、まだ早い。
 様々な、シファカの目に新しいものが並ぶ通りを、もう少し堪能したい。
 本当は、ジンと共に見て回りたかったけれども。
 暗い方向へ走りそうになった思考を、頭を軽く振って追い出し、シファカは歩を進める足に力をこめた。
(それにしても)
 綺麗な人だった。
 思い返すのは珠の簾の店であった婦人だ。薄布を頭から被っていたのは、多分あの美しさを隠すためだろうと思った。あれでは、あまりに目立ちすぎる。
 不思議な瞳は魔力の証。強い魔力を宿す婦人なのだろう。しかし怖さは全く感じなかった。謝るこちらに、こちらこそすみませんと、静かに笑って手を振る婦人の所作全てが優雅で、シファカはため息をつきたくなったものだ。
 強く印象に残る婦人だった。
 あれほどの美貌なら当然だろう。
 彼女の柔らかい笑みを思い返して、シファカは紅潮した頬をぺちぺちと叩いた。女の人に陶然となるなんて。男の人でもあるまいし。
 ジンなら、彼女を見てどう思うのだろう。
 シファカは己の手を見下ろしながら、唇を引き結んだ。剣を握る、女としてはひどく無骨な手がそこにある。
 手を擦りながら面を上げたシファカは、暗い思考にすぐ走ってしまうのは、空腹のせいだと結論付けた。さきほどから、くうくうと腹の虫が鳴っている。さっさとこの音を止める意味でも、何か口に放り込んだほうがよさそうである。
「んー何が美味しいんだろう」
 ダッシリナの屋台に並ぶ食べ物は、どれもシファカが見たことのないものばかりだ。ジンがこの場にいれば、美味なものを見繕ってくれるだろうが、そういうわけにもいかない。うーんと首を捻ったシファカは、ひとまず子供たちが列を成す屋台に足を向けることにした。


「あら」
 ティアレの声につられて面を上げたヒノトは、つい先ほど珠の簾の店で会った女が、自分のすぐ傍らに佇んでいることに気がついた。彼女もヒノトたちと同じように、店員たちから林檎飴を受け取っているところである。店員に貨幣を渡して林檎飴を胸元に引き寄せた女は、照れくさそうに笑ってこんにちは、と言った。
「奇遇ですね」
 そういって、柔らかに微笑んだのは、三人分の飴が入った紙袋を抱えたティアレだった。
「貴方も林檎飴を?」
 列から離れながら、ティアレが女に尋ねる。女もまたこちらに倣ってか、同じ方向へ歩を進めながら頷いてきた。
「たくさん人が並んでいたので、美味しいのかなって思ったんです。林檎飴っていうんですか? これ」
「なんじゃおんし、知らずに買ったのか?」
 手元の林檎飴に視線を落とした女に、ヒノトは思わず尋ねていた。東の大陸において、林檎飴といえば綿飴と並んで縁日の代名詞的食べ物だが、知らぬものがその外見をみると、「なにこれ」である。ヒノトがはじめてエイにそれを買い与えられたとき、玻璃細工か何かと思ったものだ。食べ物には見えない。
 美味しいのか、という限りは、食べ物と思って買ったのだろう。わかりもしないものを、よく買ったものだ。
 女は羞恥心にか頬を赤らめ、この通りに並んでいる食べ物は全てわからないのだと言った。
「この大陸に来たばかりで、よく判らないんです。お腹すいたから、何か食べたかったんだけれどわからなくて。それで結構人が並んでるところに並んでみたんですけど」
「そいつは正解じゃな。甘くて旨いぞ」
「食べにくいですけれどね」
 口を挟んだのはウルだ。何気ない一言だが、それがいつも飴の欠片をぽろぽろ落としながら食べるこちらへの皮肉だとわかって、ヒノトはひとまず鬼の形相でもって彼を睨み付け、女に向き直った。
「祭りを見に来たのか? 観光?」
 国外の人間のみならず、大陸の外からの観光客もこの時期ならば珍しくない。ヒノトの問いに、女は首を横に振った。
「そうじゃないんですけど……今は、一人観光中です」
「一人観光」
「傭兵業なんです。多分この街は通過するだけになりそう。本当は西大陸に行く予定だったんだけど、私が船を乗り間違えちゃって」
「それは……災難でしたね」
 ティアレが労わりの篭った声音で女を労う。大陸を渡るにはそれなりにまとまった金銭が必要だし、無補給船でない限り時間もかかる。船を間違えても払い戻しはきかないのだから、懐に余裕がないかぎり、目的地への船券を帰る金が溜まるまで、この大陸で仕事を見つけるしかないだろう。
「いいんですよ」
 女は笑った。
「間違えた私が悪いし、目的地も定まらない、当てのない旅ですから。急いでもいないし……のんびりしたものです」
「この街にはどれぐらいおるつもりなのじゃ?」
「多分、明日まで」
「明日?」
 女の返答を怪訝に思ったのか、ヒノトのやや後方で沈黙を守っていたウルが声を上げた。
「随分と急ですね」
 彼の言葉に、ヒノトは同意の意味をこめて首を縦に振った。今、ダッシリナにいる外国人は星詠祭見学を目的とする人間がほとんどだ。とはいえど、自分たちもまた星詠祭を見ずに水の帝国へ戻るのだから、女が星詠祭を見ずにこの街を出たとしても、人のことは言えないのだが。
「ん。連れが、あまりこの街にいたくないみたいだから」
 女が、ウルの問いに応じて、すこし寂しそうに笑う。
「私は、結構見たいんですけどね」
「お連れの方は今?」
 ティアレの問いに、彼女は少し逡巡してみせた。
「……宿で休んでるんです」
「そうか、それは残念じゃのぅ」
 祭り自体を体感せずとも、祭りを前にして浮き足立った街を見るだけでも、ずいぶん楽しいものだと思うのだが。それとも彼女の連れは、人の群れが苦手なのだろうか。
「……ティアレ様、そろそろ」
 このまま、会話が続いていきそうな気配がしたのだろう。警備の都合上、そろそろ馬車のほうへと移動したいらしいウルの耳打ちが、ヒノトの耳にも届く。珍しく恨めしそうなティアレの一瞥を、ヒノトは見逃さなかった。
 次の瞬間には、ティアレは笑みにかすかな名残惜しさを残すばかりだった。その気配を悟ったのか、女が先に口を開く。
「そろそろ私いきますね」
「あ、はい。……お話できて、嬉しかったです」
 ティアレの言葉に、女は微笑んで頷いた。
「私も、嬉しかったです」
 そこに流れる、ふわりとした空気。
 ヒノトはそこに何かひっかかるものを感じて、知れず腕を組んで首をかしげた。しかし何が心に引っかかったのか理解できない。まぁいいか、と思いなおし、ヒノトはティアレと並んで女に手を振った。
「良い旅を」
「ありがとう」
 女の黒髪が、人の流れに紛れて消えていく。
 それを見送って、さて、とウルがこちらを促した。
「早く行きましょう。御者が待ちくたびれているかもしれない」


 屋台が軒を連ねる通りからすぐの広場。そこに置かれた長椅子に腰掛けたシファカは、ついさきほど買ったばかりの林檎飴を取り出した。つやつやとした赤い林檎が、琥珀色の硬い殻に覆われている。林檎飴とはつまるところ、林檎をまるまる飴で包んでしまったものらしいが、初めてみる食べ物だった。
 同じものを購入している子供たちは、それを匙でがしがしと砕いて食べている。それをまねしようと試みて……あまりの飴の崩れ具合に、仕方なくシファカは、林檎飴の頭からかじりついた。
 飴は普通の飴だった。美味しいことは美味しいが、北の大陸のものと大差ないような気もする。
 しかし、ようやく林檎にたどり着いたとき、人が並ぶ理由がわかったような気がした。
 さすが、出逢った少女と婦人が、太鼓判を押すだけのことはある。
「おいしいー」
 小さな林檎の甘酸っぱさが、飴の甘さを緩和する。素朴な味だが、後味をひく。二つ目を食べたら、腹が膨れすぎるだろうが。
「二度も会うなんて、不思議だなぁ」
 一度目は珠の簾の店。二度目は林檎飴の屋台。
 見知らぬ広い街で、二度も会うだなんて。
 すこし変わった三人組だったが、悪人ではなかった。男一人がこちらを警戒していたのは、彼が警護の役を担っているからだろう。おそらく女二人は、それなりに高貴な人間であるに違いない。しかしそれにしては、彼女らは纏う雰囲気からして酷く気さくだった。
 もう少し会話を続けてはいたかったが、こちらは警戒されている身。無理に引き止めることもしなかった。こんどこそもう、会うことはないのだろうが。
 シファカは林檎飴の欠片を咀嚼しながら、広場の外を見回した。
「やっぱり、違う大陸なんだな……」
 故郷のロプノールを出奔してから様々な土地を見て回った。どの土地にも固有の文化があり、ロプノールとは違った様相を見せてはいたが、どこか共通のものがあった。
 しかし、ダッシリナは明らかに、北の大陸のどの町とも一線を画している。それは建物の建築様式が全く異なるためかもしれないし、人々の顔立ちのせいかもしれない。立ち並ぶ屋台からもれる、独特の香辛料の香りのせいかもしれない。
「できることなら、この街をもっと、みていきたいな……」
 この国、この街だけではない。
 彼の故郷を、見てみたい。
 ずっとずっと焦がれていた。彼が語る、四季移り変わる美しい国。
 しかし、水の帝国に向かうことは、おそらくないだろう。東には向かわず、このまま西にぬけて、最終的には西大陸に入るのではないかと思っている。
 ジンは、故郷に帰らない。
 それとも、帰れないの、だろうか。
 彼の生い立ちを、彼の思いを、聞く日は、いつくるのだろう。
「観光ですか?」
 ふいに掛けられた声に、シファカは弾かれたように面を上げ、周囲をぐるりと一瞥した。すぐ斜め後方に、少女が立っている。年の頃は十代半ばほど。あどけない面差しをした少女だった。地元の少女だろうか。光沢のある白地に、裾を赤で縫いとった袍を身につけ、黒塗りの簪で髪を団子状に結い上げている。大きな瞳は空の色。けぶるような長い睫毛に覆われた瞼を瞬かせ、少女は笑った。
「街を見てまわりたいのでしたら、観光馬車なんかもお勧めですよ」
「観光馬車?」
 少女に向き直り、シファカは鸚鵡返しに繰り返す。少女は小さく頷いた。
「観光用の乗り合い馬車です。有名な寺院とか、美味しい食事を出してくれるお店とかだけに停まるんですけれど、短い時間で街をみてまわることができるので、便利ですよ」
「へぇ……そんなものがあるんだ」
 バヌアのような大都市になれば乗合馬車は頻繁に見られるが、観光の為の馬車、というものは初めてだ。シファカは空を見上げて、太陽の位置を確認した。――まだ、日が落ちるまでには時間がある。
「どこで乗れるの? それ」
 もし、短時間で見て回ることのできる類ならば乗ってみても悪くはない。そう思ってシファカが尋ねると、白い少女の指がすらりと道の向こうを指した。
「あちらのほうに、馬車の待合の為の広場がありますから。観光用の馬車は、外観がにぎやかなんです。すぐに判りますよ」
「ありがとう」
 シファカは少女に礼を言うと、食べかけの林檎飴をひとまず紙袋の中に仕舞おうと、懐を探った。紙袋と共に、林檎飴のおまけとしてもらった鼈甲飴が転がる。それを宙で受け止めたシファカは安堵のため息を漏らし、そして思いついて面を上げた。
「あ、ねぇお礼にこの飴……」
 広場には、老若男女が往来していた。老人たちが談笑し、子供たちが親に屋台の食べ物をねだっている。
 そこに、先ほどの少女の姿はない。
「……いっちゃったのかな」
 仕方なくシファカは鼈甲飴を林檎飴と共に紙袋の中に放り込んで、踵を返した。
 少女のことはすぐに意識から消えた。
 ジンの過去の気配が残るこの街を、少しでも楽しむことで、シファカの頭は占められていたからだった。


 すぐ目の前にさした影に、彼女は微笑んで小首をかしげた。
「お仕事は終わりですか」
「仕事は今からだよ」
「あらそうなのですか」
「全てが始まるのはこれからだろう。お前に動いてもらうのは、もう少し後になりそうだけど」
 目の前の影の主は、申し訳なさそうに言う。魔封じの姿の上にもう一つ、別の姿を上塗りした彼は、彼女のよく知る姿とは似ても似付かぬ姿だったが、魔力の粒子を読み取れば、彼だということはすぐに判った。
「悪いな。こんな遠くまでつれてきてしまって」
「いいのです。こんな風にお役に立てるのなら、地の果てでも。それが私たち一族の役目。……ご親戚との対話はできそうですか」
「多分上手くいくだろう。その前に、魔女とも対話したい」
「魔女はもう魔女ではありませんと、貴方がおっしゃったのですよ」
「当人が呪に囚われているうちは、魔女は魔女で、呪われた皇帝は呪われた皇帝のままだ。最後まで、世話を焼かせる国だよ」
「あら、それでも貴方は嬉しそうですわ」
「そりゃそうさ。遠い昔の罪を、それなりの形で償える機会は滅多にないから」
 彼は言い、彼女は微笑んだ。そうですねと、頷く。
「それでは、お仕事頑張ってくださいな。私はもう少し観光を楽しみます。お土産も頼まれているものですから」
「もしかして、それを運ぶのは俺の役目か?」
 げんなりとした彼の物言いがおかしくて、彼女は笑いながら頷いた。
「あら、当然ですわ、将軍」


「申し訳ございませんでしたティアレ様」
 ウルがティアレに声をかけたのは、馬車との待ち合わせ場所に向かって歩き始めてからしばらくしてのことだった。
「何故?」
 ティアレは彼の言葉に面を上げ、小さく首を傾げて見せた。
「謝るようなことを、何かしたのですか? ウル」
 ウルが困ったように笑って、静かにかぶりを振る。ティアレは彼に微笑み、再び正面をむいて歩き始めた。
 彼の謝罪の理由はわかっている。ティアレがまだ会話を続けたそうにしていたというのに、彼が打ち切ってしまったからだろう。
 だが彼が焦るのもよく判る。彼は自分たちの身を案じているだけなのだ。
 さきほど別れた娘が本当にティアレに危害を加えるつもりだったのならば、最初に出会ったときに一刺しにしているだろう。本当の暗殺者は、わざわざ声をかけて周囲に印象付けることをしないといっていたのは誰だったか。しかし警戒しないに、こしたことはないのだ。
「それにしても、びっくりすることが世の中にはあるものじゃのぅ」
 ヒノトの声が明るく響く。ティアレは微笑んで同意した。
「本当ですね。二度も偶然に会うだなんて、そんなこと、あるんですね」
「傭兵をしているというておったが、全然そんな感じのせん人じゃったの」
「とっても可愛らしい人でしたね」
 そういうティアレに、ヒノトは腰に手を当て嘆息した。
「おっさんの科白じゃなぁティアレ」
「あら、そんなことはないんですよ。私、ヒノトに初めて挨拶したときも、ラルトにきちんと、可愛らしい人が来ましたねっていいましたから」
「べつに羨ましがっておるわけではなくて……うーん」
「ヒノトは可愛いですよ。エイもそのうち気がつきますから」
「……妾が可愛いか可愛くないかは置いておいて、あやつは永遠に妾を子供扱いしていそうな気がするが……」
「ふふふ」
「うむ? 何か、話をそらされておるような気がするのは妾の気のせいか?」
 首を捻るヒノトに、ティアレは笑い声を立てた。ティアレと視線を合わせたヒノトは、すこし拗ねた様子で口先を尖らせる。
 ティアレは、こちらの手を握る彼女の手を握り返した。少しかさついた手は、苦労を知る手だった。エイがこの手を優しくとって、彼女を幸せにしてほしいとおもう。当の左僕射は、ヒノトを恋愛対象に見る云々の前に、色恋沙汰の話の欠片もないようで、ラルトにつまらないと言わしめているのだが。
「……ただ」
 正面に向き直ったティアレは、かすかに目を細めた。
「……とても、なんだか」
 出逢った娘は酷く印象に残る娘だった。
 それだけ、だが。
「……なんだか?」
 ヒノトの問いに、ティアレは小さくかぶりを振って、なんでもありませんと微笑んだ。この、心に引っかかる感じをどう説明したらいいのか、判らなかったのだ。
 短い観光の時間も終わりに近づいている。明日の朝には水の帝国に一度戻る。馬車は宮城に直接戻らずに、城が持つ別宅に移るということだった。もちろん、ヒノトも一緒に。
 ラルトの顔をすぐに突きつけられないことに安堵しながらも、彼に会えないことを寂しく思った。あぁ、自分は、何時になったら彼ときちんと向かい合って対話をすることができるのだろう。
 思い返せば、ラルトと長い間、向き合っていなかったような気がする。彼と最後に向かい合い、きちんと言葉を交わしたのは何時だっただろう。たわいのない、けれど真剣な、日々の言葉の積み重ね。
 それをいつから、しなくなったのか。
 ふ、とティアレは笑った。
 彼に、土産話を沢山持って帰ろう。
 玉座に、繋ぎとめられたままの彼に。
 馬車から見える景色一つ一つを、刻み込んで。
 帰ったら、子供のことも、真剣に話し合わなければ。
 ふと、ウルの足取りが唐突に停まった。
「どうしたんじゃ? ウル」
 ティアレの傍らを歩いていたヒノトが足を止めて首を傾げる。ウルが前を見たまま彼女の問いに応じた。
「馬車がおりませんね」
「……あら、本当ですね」
 待ち合わせに指定していた場所は乗り合いの馬車の発着場で、ここには個人所有の馬車も人を乗降させるためによく停まる。ティアレたちが最初に馬車を降りた場所なのだから、間違えるはずもない。しかしそれなりに広い見通しのきく場所に、見知った馬車の姿は見当たらなかった。
「待たせすぎて、どこかを走っているのではないか? この場にあまり長い間停まっていても怒られるのじゃろう?」
 ウルは、ヒノトの言葉に頷きもしなければ相槌を打つこともない。彼は一度目を閉じ、瞑想すると、小さく嘆息を零してみせた。
「どうやら、そのようです。憲兵が哨戒に来ていたようですね。目立つのも得策ではないとして、馬車を一度どこかへ移動させたようですが……」
「ここで待つ?」
「待っていてもかまいませんが、時間が少々掛かるようです。どこかの茶屋にでも入りますか?」
「そうじゃのぅ……」
「ティアレ様は」
「私は、どちらでも」
 ティアレがそう応じると、ウルはでは手短な店を、と周囲を見回し始めた。それに習ってティアレもまた周りを見回す。雑多な、人々の待合場所。
 到着して、人々を乗降させてはまたどこかへと走り去っていく馬車。中には、美しく装飾の施されたものもある。どういう人々を乗せて走る馬車なのか。
 かつっ
 間近で響いた足音に、ティアレはふと目線を上げた。誰かが、ティアレのすぐ傍で、足を止めたように思ったからだった。
 すぐ傍に、さした影。
 その主の姿が、目に入る。
「え……?」
 呟きは、自然と口から零れていた。
「……あれ?」
 影の主もまた呟きを漏らした。その声に、ウルとヒノトが同時に振り返る。彼らは呆然とした面持ちで、その影の主を見つめた。
 黒髪に、紫金の瞳をした娘もまた、驚きを隠せない様子でその場に立ち尽くしていた。


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