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第八章 邂逅 2


 店内は蝋燭の火がともされて明るい。その橙を照り返して煌く珠の簾は、まるで光の滝のようだ。
(綺麗……)
 ティアレはぐるりと見渡しながら、感嘆の吐息を漏らした。広い店内には客の姿も見える。店に並べられているのは簾だけではなく、玻璃や玉の細工物もあった。童女が、母親に鼈甲[べっこう]の簪を強請っている。
 ティアレはそれを微笑ましく思いながら、無意識のうちに自らの腹部に手を当てていた。ここにも一つ、小さな命がある。それが、あの童女のように生まれ育って、ティアレに簪を強請ることがあるのだろうか。
(おそらく、ないでしょうね)
 この子供は生まれ出でることはないだろう。それだけはなく、もうこの腹から子供が生まれることもないだろう。
 ヒノトは、治療の方法を探すと、言っていたけれども。
 どのような病なのか、正確にティアレは知らない。ただ、それが<滅びの魔女>として生を受けた自分の背負うべき業なのだとは理解している。そしてたとえ命と引き換えにしても、この子供が無事生まれてくる可能性が酷く低いということも。
 理解、しているのだ。
 それでも、欲しかった。
 ラルトとの、家族。
 一人ぼっちの彼に、かけがえのない何かを作ってあげたかった。彼は一人ではないのだということを、わからせる意味合いでも。血のつながった誰かになら、ジンでは打ち明けられない心中を、漏らすことができるのではないかと思った。
 ティアレには、彼と同じ政治の世界を見ることができないから。
 しかしこのままティアレ一人のわがままを突き通して、周囲に迷惑をかけていくことがいいとは決して言えないことはティアレにも判っていた。ラルトを救うどころか、逆に彼に心労ばかりをかけて。
 一時、宮城を離れ、ラルトの傍を離れられればいいと思っていたのだ。自分と彼の間には、互いに頭を冷やす時間が必要だった。
だというのに。
「ティアレ、みてみぃ。この細工、よく出来ておるのぅ」
 ヒノトの笑顔は明るかったが、同時にいたわりにも満ちていた。年下の少女は、罪を背負う覚悟でティアレをこんなところまで連れ出してくれたのだ。そしてエイが短い間だけでもと外出の許可を出し、ウルがカンウ様には内緒ですといって、そっと街歩きを許してくれた。そのウルは護衛として、ティアレの斜め後方に控えている。
 この短くも貴重な時間は、ティアレを労わってくれた皆が、相応の覚悟を背負って作ってくれたものだった。
 自分の我侭がこんな風に多くの人をかき回すものだと、ティアレは改めて――もしかすると、初めて――自覚した。
 昔、まだラルトの元に物珍しい娼婦として献上されて間もない頃、ティアレの世界はあの小さな奥の離宮の中だけだった。付いた女官はシノを含めて五人。そしてラルトとジンだけが、ティアレの中で明確な名前と意味を持つ、<世界>だった。
 ティアレが誰かの人生を左右するかもしれないとは常々理解していたが、それは己の滅びの呪いの為か、ラルトを通じて水の帝国の国民の人生を左右するだろうという認識だった。ラルトの正妃となった今でさえ、自分の振る舞いがラルトを左右し、それが多くの人々の人生を動かしてしまうのだという認識だった。
(……あぁ)
 ティアレは、低い棚に並べられた飾りを見るふりをしながら、うつむいた。
(……違うのですね)
 違うのだ。
 ティアレの行動一つ一つが、こんなにも他者を左右する。
 ティアレの世界はラルトばかりではない。自分の身を案じるものも、あの、奥の離宮の人間たちばかりではない。
 自分の身を本当に案じてくれているヒノトたちの為に、真っ先に頭を冷やさなければならなかったのは、自分のほうだった。
 ラルトに家族を作ってあげたいというのも、自分の我侭だ。ラルトの為に作りたいという思いは確かに存在しても、双方が納得したものでなければ、ティアレの我侭と自己満足に過ぎない。
 もう、自分は、自分の命ひとつと呪だけを背負っている娼婦ではない。
 ラルトに背負われている人間でもない。
 こんな風に、たくさんの人々に支えられて生きる、女なのだと。
(子供は生みたい)
 けれど、産めなくても、いいと思った。
 優しい人々の心を踏みにじるようにして我侭を突き通した末、無事に子供が生まれたとして、その子供は果たして幸せだろうか。
 もしかして、生み落とした後で、自分はこの世界にいないかもしれないというのに。
今はただ感謝すべきだと思った。
「本当に綺麗ですね」
 そして、この貴重な時間を命一杯楽しまなければと思った。
 ただ、自分を案じてくれた人々の為に。
 そして帰ろう。
 ラルトの元へ。
 ヒノトたちが作り出してくれた貴重な時間に体験したことを、土産として。
 ふと、椿の花を模した髪飾りが目に留まった。
 鼈甲か、琥珀か。何にせよ、透明度の高い黄金色の柄の先端に、施された椿の玻璃細工は青みを含んだ濃い赤だ。それは蠱惑的な炎の色にも似ていたし、熟成した葡萄酒の色にも似ていた。
 ラルトの瞳の色だ。
 くすりと、ティアレは笑った。髪飾りの色を見て、彼の柔らかな眼差しを、泣きたくなるほどに切望した自分に対して込み上げた笑いである。
 無意識のうちに、ティアレはその髪飾りに手を伸ばし。
 そして、温かな手に、触れた。


 入店した珠の簾の店には、簾のみならず、様々な細工も置かれていた。択郷の都にあった玻璃工房にも、見事な玻璃の細工物が並んでいたが、それとはまた違った細工や色合いのものが、古い樫の戸棚に所狭しと並んでいる。その中の一つ、何かの花を模した髪飾りにシファカが目をとめたのは、その花の赤と細工があまりに美しかったからというのもあるし、その柄が、故郷の砂地に落ちる夕陽を思い起こさせる、見事な黄金だったからだった。
 素材は金ではないだろう。琥珀か、黄金色の玻璃か。
 その色は、ジンの瞳の色でもあった。
 宿を出たときの、ジンの寂しい微笑と、その笑みに困ったように細められた彼の瞳を思い返して、思わず髪飾りに手を伸ばしていたシファカは、手の甲に触れたひやりとした手に、驚きに目を見開いて面を上げたのだ。
 白い手。
 シファカの手を握るわけでもなく、かといって引くわけでもなく、ただ、時を止めたようにシファカの手の甲に重ねられた手は、白く、柔く、ひやりとしていた。
 上げた視線の先には、その手の主が、シファカと同じく驚いた様相で目を見開いて立ち尽くしていた。


 少し腰を屈めたままこちらのほうを見ている女は、重ねられたままの手を振りほどこうともしない。
 ただ、時が止まったかのように、お互い微動だにしなかった。


 年は、ティアレよりも幾つか年下だろうか。
 肩甲骨の辺りまでの真っ直ぐな黒髪が、さらりと揺れている。肌は小麦色。少し吊った大きな目には印象的な紫金の瞳が収まり、ティアレの姿を映し出している。華奢な身体はすらりとしていて、黒い鞘ごしらえの刀を腰にさしている。それが、妙にしっくりと彼女の腰に納まっていた。
 武人だ。
 しかし。
(可愛らしい人……)
 刀を持っていることに違和感を覚えたくなるほど、その女は魅力的で、愛らしい顔立ちをしていた。


(き、れいな人……)
 手を突然見知らぬ他人に重ねられたことも驚きだったが、それは単純に、同じ品物を取ろうとして偶然手が重なったのだと理解できる。
 手が重なったこと以上にシファカを驚愕させたのは、白い手の主の美貌だった。
 頭から薄紫の薄布を被っているのは、緩く波を描く、その鮮やかな赤の髪を隠すためだろうか。
 そこから覗く肌はまさしく陶器のそれだった。整った目鼻立ち。薄桃色の唇。その造作一つ一つは神の指の跡が感じられるほど精緻だ。
 そしてその瞳。
 銀が、様々な色に変化して移ろっている。鋼に、七色の光を順々に当てると、このような色になるのだろうか。雪に移った虹を閉じ込めたかのような、摩訶不思議な色だったが、女のあまりの美しさに、不自然さは感じなかった。
 こんな美貌の人間が、世界にはいるのだ。
 世界って、広いんだなぁと、呆けたことを思いつつ、シファカはただその女の美貌に見とれた。


 吹き込んだ風に揺れて。
 珠の幕が、さらさらと音を立てている。
 入り込んだ陽光に、煌く、数々の珠。
 店主が奥で古い本をゆっくりと繰っている。人々が、店内を出入りする。そのたびに揺れる鮮やかな衣服の裾。帯。髪。綺麗だったねという人々の囁き。
 そういった全てが、非常に緩慢に、ヒノトの目には映っていた。
 時間が、歪んでしまったかのような。
 ヒノトの目の前では女が二人、きょとんとした面持ちで見詰め合っている。一つの髪飾りの上で重ねられた二つの女の手。一つは白く、一つは小麦の色をして。
 二人とも、互いを見つめたまま、動こうとしない。
 ヒノトはすぐ傍に立っているはずのウルを仰ぎ見た。彼もまたティアレと、彼女の手に触れるもう一人の女に視線をやったまま動こうとしていない。本来ならば護衛として、ティアレを真っ先に女から引き離さなければならない立場であろうに。
 彼もまた、ぼんやりと、女二人の邂逅に目を奪われていた。


 のちにこの瞬間を思い返すとき、ヒノトはいつもこう思う。
 これは、運命の出会いの瞬間であったのだと。
 男と女のそれはよく昔語りにあれども、女と女のそれは稀有だ。しかし確かにこの出会いは、在るべくして用意されたものだった。そう思わざるを得ない。
 そう、この出会いは、水の帝国の運命を決定付ける一つの出会いだったのだと。


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