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第八章 邂逅 1


(……見張りは、ついていない、か)
 ジンは窓の外を用心深く窺った結果、そう結論を出した。
 ウルのことだ。すぐに網を張るかと思っていたが、それらしき人物はこの周囲には見当たらない。網を張られると気配でわかるものだ。ジンは安堵半ば、これからどうするか頭を痛めなければならなかった。
 ジンがとった宿は、都で一番賑々しい目抜き通りの一角にある宿だ。宿自体は古いが手入れは行き届いていて、旅人が宿泊するには十分すぎるものだった。誰かが宿泊を取り消したということで、偶然部屋を押さえることができたのである。
 裏通りに入ったほうが隠れやすいと思われがちだが、大通りは身なりの小奇麗な人間が多い分、ジンの持つ育ちのよさを誤魔化すことができる。下手な場末の宿を選びたくなかったため、この幸運には感謝していた。
「ジン。お昼ご飯買ってきたよー」
 ぱたぱたという足音が部屋の外から聞こえて程なく、扉を開いてシファカが飛び込んできた。
 ジンの代わりに買出しに出てもらっていたのだが、頬を紅潮させて目を輝かせているところをみると、ダッシリナの風景は彼女の気に入るところだったらしい。扉を閉めて駆け寄ってきたシファカは、見て、と抱えていた紙袋の中をジンに披露した。
「おいしそうなのを見繕って買ってきたんだけど、こんなの初めてみるよ! いい匂い!」
「あー、点心か」
「点心?」
「うん」
 ジンは頷きながら、紙袋の中に詰まっている大小さまざまな白い素包を指差した。
「こういうのまとめて点心っていう。こっちのやつはその中でも素包っていって、中には多分、肉とか野菜とか、棗餡とかが入ってるよ。こっちの葉っぱで包まれているやつはチマキね。もち米を肉とか野菜とかと一緒に炊いたやつなんだけど……シファカ、もち米ってわかる?」
「……えへへ……なんか、全部わかんないや。えーっと、美味しい?」
「どれも美味しいとおもうよ。ま、食べてみなければ君の口に合うかどうかは判らないけれどね」
 判った、と頷いて、彼女は改めて部屋備え付けの小さな卓の上に、それを広げた。椅子を引いて、席に着く彼女に習って、ジンもまた食卓につく。ふわりと鼻腔をくすぐる香りは、懐かしさを孕んでいた。
 点心を頬張るシファカの様子に思わず微笑みながら、ジンも彼女が買ってきたものを一つ、指で小さく千切りながら口にする。慣れた味だ、と思った。東大陸独特の調味料の味。
「これからどうするの?」
 指先についた肉汁を舐めとりながら、シファカが尋ねてくる。ジンは窓の外に視線を移しながら、そうだねぇ、と生返事をした。
「とりあえず、明日の朝にはこの街を出ようと思ってる」
「明日の朝!?」
 性急さに驚いたのだろう。シファカが目を見開いて声を張り上げる。頷きながら素包を食していたジンに、シファカが眉根を寄せながら、低い声で尋ねてくる。
「祭りは見ていかないのか?」
「見ないよ」
「あまり面白くない?」
「どうだろうね。ただ、俺自身は何度もみたことのあるものだから」
「何度も見たことがあるんだ?」
「うん」
 星詠祭の折には、祝辞を述べるための使節が派遣されると決まっている。ラルトが即位してから、母国を離れるまでの毎年、その使節を率いるのはジンの役目だった。
「……ねぇ、見ていくのはだめかな?」
 食事の手を止めたシファカが、控えめな声音で尋ねてくる。ジンは予想通りの彼女の反応に、内心嘆息しながら尋ね返した。
「見ていきたいの?」
「うん……」
 小さく頷きながら、だってさ、とシファカは言葉を続けた。
「せっかく東の大陸で初めてたどり着いた町で。しかも年に一度しかないお祭りだっていうし。移動したら、次に何時この街に来られるかわからないだろう? 祭りの日取りはすぐだって聞いたし」
「うん」
「だったらせめて一日だけでも、見ていけたらなって思ったんだ、けど……」
「うん……」
「……駄目、なんだね?」
 本音をいうならば。
 早くこの街から、もっといえばこの大陸から、離れたかった。
 おそらくダッシリナでなくとも、この大陸にいる限り、ことあるごとに郷愁の匂いに胸苦しくなるのだろう。だが、まだ水の帝国へ戻ることはできない。自らの整理がまだつかないのだ。
 星詠祭は盛大に執り行われる。異国情緒に溢れる、賑々しい祭りはシファカに見せてやりたいものの一つだ。しかしウルにジンの姿を一瞬でも確認されてしまった今、なるべく早めにこの町から出たいと思う。港を降りた足ですぐさま街の門をくぐろうとしたのだが、無理だといわれてしまった。人の出入りが激しすぎるので、ある程度の制限を行っているとのことだった。
 船での長旅はシファカにとってなれぬものだ。骨休めと観光をかねて、この街に滞在してやりたいが、そうすることもできない。かといって彼女の期待溢れる表情を見ると、すぐにこの街から出ようときっぱり宣言することもできず、二の次の言葉を探していたジンは、椅子の引かれる音をきいた。
「……シファカ?」
「ん。星詠祭は、今回は諦めるよ」
 立ち上がった彼女は、そういって少し寂しげに笑った。
「シファカ」
「夕方に、街を出るための手続きにでるんだよね。じゃぁその前に少しだけ、街の露天見て回ってきていいかな。なんか、見たこともないものがいっぱいあるみたいだし」
「俺も行くよ」
 今にも飛び出していきそうな雰囲気をたたえたシファカに焦燥を覚え、ジンは立ち上がった。しかしシファカは首を静かに振って、大丈夫、と笑った。
「いいよ、ジンはここにいて」
「だけど」
「ジンの知り合いなんだろう?」
 ジンの発言と被る形で発せられたシファカの問いに、ジンは思わず息を呑んだ。シファカが誰について話しているのか、判ったからだ。
「港で、叫んでいた人。ジンの名前を、呼んでたね。ジンが早くこの街から出たい理由もそれなんだろう? 知り合いがたくさんいるから、あまり出歩きたくない……それぐらい、私にもわかるよ」
「……ごめん」
 結局のところ。
 彼女に対して言うべき言葉といったら、謝罪のそれだけしか見つからなかった。床に落とすように呟かれたこちらの謝罪に、シファカは困惑の表情を浮かべている。ジンは目を閉じて、もう一度繰り返した。
「ごめん――……」
「……あの人」
 ジンの横を通り過ぎるシファカの気配がした。目を開けて確認すると、彼女は窓辺に立って外を見下ろしていた。
「顔も見えなかったけれど、でもジンのことを罪人として捕らえるとか、そんな風に呼んではいなかったよね。もっと、探してた親しい人を、呼ぶような、そんな感じだったよね」
「そんなことはないよ」
「そんな風に、私には聞こえたんだ。……ジンは前、私に自分は罪人だから国には戻れないんだとか、そんなふうにいってたけど――本当は、違うでしょう?」
 ジンは、シファカの問いに答えることができなかった。
 自分は罪人だ――紛れもなく。他者にとってそれがどんなに馬鹿馬鹿しい罪に思えても、してはならない罪だった。幼馴染[ラルト]の、信頼に対する裏切りは。
 彼と再び会うために、心の整理を行う必要がある。覚悟を決める必要がある。けれど今の自分にはまだ無理だ。
 しかし事情を知るもの以外にとっては、シファカの言う通り自分は確かに罪人ではない。ただ、突然国を出奔し行方不明になった、宰相家の最後の人間。それだけだ。
 けれどそれら全てを、シファカにどのように説明すればよいというのだ。
「切実な――会いたい人に、ようやく会えた、人の叫びのように、聞こえたんだ。私には――……」
「そうだろうか」
「私が、ジンに会いたいって叫んでいたときも、きっとあんな叫び方だったよ」
 悪戯っぽく笑って、シファカは言った。手ひどく傷つけて置き去りにした彼女が、こともあろうに国を出奔して自分を追いかけてきた。ようやっと再会したのは、一年ほど前のことである。
 ジンは、シファカと再会したときの、彼女の呼び声を思い返した。
 そして自分が、どんな風に彼女の名前を呼んでいたか思い返した。
 会いたくて、会えないと思っていたのに、それでも会えて。
 あぁ、確かに、あんなふうに繰り返し、シファカの名前を呼んだかもしれない。
 心の中で、幾度も。胸苦しくなりながら。
 自分を呼ぶウルの心中は、当然それとは少し異なる形であっただろうが。
「ごめんって言う前に、いろんなこと、もっと話してくれたら、嬉しい」
 シファカが、ジンの横を再び通り過ぎる。彼女は椅子の背にかけてあった外套を腕に掛け、腰元に挿してある刀の柄尻に手を置き、部屋の扉のほうに歩いていった。
 部屋を出る寸前、彼女は振り返って笑った。
「日暮れ前には、戻るようにするから」
 ぎぃ、と。
 扉に取り付けられた古い蝶番がきしんだ音を立てる。
「シファ」
 扉の閉まる音がやけに大きく部屋に響き、ジンの彼女への呼び声は、あっけなくかき消されてしまっていた。


 ごとん
 小石を踏んだのか、馬車が大きく跳ねる。その都度、きゃぁ、と悲鳴なのか歓声なのか判別の付かない声を上げる娘たち二人を、ウルは馬車の窓枠に頬杖をついて眺めていた。
 昼に館に戻ると、エイがかなり憔悴した顔でウルを呼んだ。昼から予定されていた、占師たちとの会合についての打ち合わせかと思えば、エイがウルに告げたのは、これから街を見学するティアレとヒノトに護衛として付き添うようにという、なんとも突拍子もないことだった。
 これでティアレたちに何かがあれば、自分の首どころではない、と蒼白になる左僕射がどうして彼女らの町見学を許可したのかは知らない。だが皇后と薬師見習いの少女の、喜び様を見ていれば、エイが彼女らをあまりに不憫に思ったことは判った。館に閉じ込めておいても、娘たち二人の心身によいことなど何もない。
「すごいのぅ」
 ヒノトが、馬車の、玻璃のはめ込まれた窓に取り付きながら陶然と呟いた。
「ティアレみてみぃ。あんな寺院は、水の帝国にはない」
「本当ですね。朱塗りの瓦がすごく綺麗……」
「ティアレ、あっちには猿がおるぞ」
「猿ですか?」
「みたことのない猿じゃ。目がくりくりとしておる」
「人によく慣れていますね」
「多分、芸をするのじゃろうなぁ」
「とても小さな猿ですね」
「ブルークリッカァの猿は、もっとでかいしのぅ……あ! 火を噴いた!」
 きゃぁ、と歓声だか悲鳴だかをあげる二人は、実に楽しそうに見えた。せっかくの機会だから、無理やりにでも楽しまなければならないという意識は働いているに違いない。それを差し引いても。
 ウルは瞼を閉じて、<網>たちを動かし、周囲に不穏な動きがないものか確認した。今のところ、通りをいくのは観光客や商人たちばかりのようだ。一人でも、常軌を逸脱した行動を取るものがあれば、報告と同時に阻止を行うように指示を出す。是、という言葉と共に網は再び、それぞれの配置に戻っていった。
「あ」
 <網>の指示には集中力を要する。ひとまず安堵の吐息を吐いたウルは、皇后の口から漏れ出た声に、身を起こした。
「どうかなされましたか? ティアレ様」
 ティアレは窓に張り付いたまま。彼女の視線は、通り過ぎていく何かを追っていくようでもあった。
「綺麗でしたね」
 ウルの問いに対する答えではない。彼女の口から漏れたのは単純な呟きだ。その呟きを引き取って、ウルの代わりに同意を示したのがヒノトだった。
「綺麗じゃったのぅ」
「……何がです?」
「玻璃の簾です」
 ティアレがウルを振り返りながら、微笑んで答えた。ヒノトがやや興奮した面持ちで、ティアレの言葉に続く。
「玻璃だけではないじゃろうな。多分いろんな[ぎょく]の珠が連なっておったのじゃろう」
「珠の簾の店ですか……」
 玉の簾は、ウルも聞いたことのないものだ。どんなものであるのか、想像しかねる。
 馬車は比較的ゆっくりと進むが、それでも人の徒歩と比べればかなり早いものだ。その分景色もよく流れていく。しかしその僅かの間でティアレとヒノト、二人が心奪われるものだったのだから、珠の簾とやらは、ひどく美しいものであったのだろう。
 綺麗だったね、と言い合う娘二人の表情はまだ恍惚としている。間近で見たいという彼女らの意志が透けて見えるようだ。
 ウルは嘆息して、再度<網>たちに周囲の状況を確認した。安全を繰り返し確認して、さて、どうしたものかと天井を仰ぎ見る。
 もし何かあればと蒼白になりながらも、彼女たちに外出の許可を出した左僕射の心中を今、真の意味でウルは理解したような気がした。


「まったく、ジンの奴」
 見知らぬ街を踵の音高々に歩きながら、シファカは憤然と呟いた。
 この国に足を踏み入れてからのジンの警戒の仕様は、いっそ異常といってもいい。常に神経を尖らせていることがありありとわかる。彼の警戒の仕方は、冗談でなく、追っ手から逃れようとする犯罪者のそれだった。
 ジンと二人でいると彼の秘密主義には、ただただ寂しさが募るばかりだ。しかし彼と離れれば、この上ない苛立ちが込み上げてくる。どうして打ち明けてくれないのか。それほど、自分が信用に足らないのだろうか。
 ジンと知り合ってから、月日が過ぎた。けれど共に歩いた時間はまだ一年半にも満たない。
 愛してくれていると思う。慈しんでくれていると思う。ジンがシファカの名前を呼び、眼差しを寄越し、その指で触れる都度、痛感させられるのだ。
 あぁこの人は、どれほどの愛情で自分を包んでくれているのか、と。
 彼の傍に、相方として許されている。それが彼にとってすれば非常に稀有だということもわかるのだ。
 それでも。
 いくつ言葉を重ねても。幾夜身体を重ねても。
 すれ違っていくものがある。
 どうしてそんな哀しそうな目で見るの。
 どうしてそんな、追い詰められたような顔をするの。
 シファカは下唇を噛み締めて、手の甲で目元を擦った。気を引き締めなければと、己を叱咤する。全く足を踏み入れたことの無い土地で、女が一人ふらふらと歩くことは身の危険に直結するからだった。
 それに、ジンの様子を鑑みれば、この土地を自由に散策できるのはこれが最後だろう。せっかくの観光。楽しまなければ損だ。
 改めて周囲を見回すと、このダッシリナという国の首都は鮮やかな色彩に包まれていた。この大陸では、赤がめでたい色なのだという。屋根が朱に塗られているだけのみならず、祭事を前にして真紅の布があちこちに飾られ風にはためいている。人々が身につけている衣服も、シファカにしてみれば少し派手に思える。しかし衣服の裾に施された細かな刺繍は、見ているだけでも美しい。絵画のようだ。
(こんな土地で、ジンは生まれたんだ)
 水の帝国と暁の占国は、文化的にも多少の差はあると。
 水の帝国はもっと柔らかい色彩なのだと、ジンは言う。
 だが根ざすところは同じであるとも言っていた。北の大陸のものとは少し異なる土壁。木材をふんだんに使い、その木目すら装飾の一つであるかのように磨きぬく。素焼きの屋根。風変わりな獣の象が民家の屋根一つ一つに鎮座していた。通りの頭上には縄が渡され、看板がかけられている。それもまた、目に痛いような色を塗ったものばかり。ふちは魔術文字とも、まじないとも取れる文様で飾られて。
 主神を祭るのとも異なった、けれどどこか、宗教的な気配がする。
 北の大陸とは、明らかに違う空気だった。
 ふと、耳の傍で、しゃらりという涼やかな音が響いた。
 足を止めて、音源のほうに視線を向ける。そこにあったのは、小さな玻璃、もしくは玉を連ねて作られた簾だった。店は通りの中でも比較的大きいほうだろう。軒先に幾重もの簾の幕が作られ、その狭間に、冷やかしの客の影がちらちら揺れている。
(綺麗……)
 シファカは思わず息を止めて、その簾の幕を凝視した。胡桃ほどの大きさの玉を連ねて作られたものもあれば、小指の先ほどの玻璃を連ねた簾もある。色は様々で、虹の前に立っているかのような錯覚を受けた。
 シファカはふらりと、つま先を店の中のほうに向けた。店内にも又、見たことのないような色合いの簾がかけられていたからだった。


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