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第七章 五日目午前 4


 仕事の合間に奥の離宮に足を運ぶことが習慣となってしまっているように、会合が入っていないかぎり、食事をイルバと共にすることもまた習慣づいてしまった。最初は酒の席を設けるだけであったのだが、ティアレに続いて食が細くなりつつあるラルトが、しっかり食事を取るための見張り役として、シノがイルバを選んだのだ。
 部屋に歩み寄れば、見張りの兵士が扉を静かに開ける。イルバの部屋は平民であれば一家が過ごしてもおかしくないような広い部屋だ。そこの居間、綿の詰められた長椅子にくつろいだ様子で本を読みふけっている諸島連国からの客人は、本から視線を動かさず、軽く手を上げた。
「あーわりぃ、もうちょっとなんだ」
「何を読んでるんだ?」
「告解、っつぅ、ディスラの全盛期について書かれてる独白本。ホントかどうかはしらねぇが結構面白い」
「あぁ、機械の王国を併合するまでの話だな」
「読んだことあんのか?」
「御伽噺にもなってるからな。子供向けの本もあるよ。その内容についてだけならば」
「へぇ……」
 イルバは生返事をして、再び読書に戻っていく。ここにシノがいれば、今頃青筋浮かべて彼の頭を叩き倒していそうだが、この気兼ねのなさがラルトは気に入っていた。
 イルバの横には本が山積されている。時折兵士に混じって運動したり、見張りをつけて釣りにいったりすることを除けば、彼は大抵読書に明け暮れていると報告を受けていた。彼の読破した書籍の名前を全て把握しているわけではないが、大半が政治や経済に関するものだ。長く政の世界から離れていたとはいっても、結局この男も政治馬鹿なのだと知って、ラルトは妙な親近感を覚えていた。
 ラルトが腰を長椅子に落として即、台車を押した女官が部屋に足を踏み入れた。ラルトたちの間にある楕円形の卓の上に、彼女は手際よく昼餉の品を並べていく。今日の品は春の山菜と共に炊き込まれた飯と、白魚の吸い物、鹿肉に山菜のおひたしを添えたものだった。
 最後に湯飲みと急須、玻璃製の高杯と水差しが置かれる。そのこつりという硬質の音を合図に、イルバが本を閉じた。
「あーここにいたら太りそうだ」
 並べられた昼餉を前にして、イルバが相変わらず豪勢な食事だと呻く。ラルトは苦笑した。それなりに復興を遂げた国の皇帝がとるものとしては、この食事がかなり質素なものだと、彼は知っているだろうに。
「今日は何冊ぐらい読んだんだ?」
 ラルトはイルバの高杯に水を注ぎいれながら尋ねた。
「そんな大した数はよんじゃいねぇよ。まだ昼だし、シノが来てたからな」
「シノが? あぁ……抜糸したからか」
 その報告の為だろうと、ラルトは思った。そうでなくとも、シノはちょくちょくイルバの部屋を訪れているようである。もともとイルバはシノが連れてきた男であるのだから、責任感の強い彼女のこと、見に来ることは不自然ではない。だが、イルバの話を聞いていると、様子を見に来るというよりは、息抜きしにきているようだった。若年にして女官の最高の地位を得た彼女にとって、単純に我侭な年下を演じられるイルバの元は楽なのだろう。
「あのよ。普通は抜糸してから最低数日は休むもんじゃねぇのか?」
 イルバがラルトに水を注ぎ返しながら呻いた。
「なんであいつはあんなにあくせく働いてやがるんだ。一応休暇中なんだからもうちっと大人しくしろっていってやれ」
「その科白は女官長に直でいってやってくれ。あいつには俺から何をいってもきかないんだから」
「……皇帝のいうことをきかねぇ女官長ってどうよ?」
「俺に言うな」
 はぁ、と二人分の嘆息が重なって、ラルトは笑った。イルバもかかかと喉を鳴らしているようだった。
「さぁて、食べようぜ。せっかくの飯が冷める前によ」
「そうだな」
 嬉々として箸を手に取るイルバに習って、ラルトも手を動かした。精神をすり減らすばかりの会食や、一人で取る食事では進まない食も、目の前に楽しげに食事を取る人間がいればまた違ってくる。ティアレのことを思えば食事は味気なくとも、その雰囲気で満足することはできた。
「朝の仕事はどんなんだったんだ?」
 吸い物をすすりながら、イルバが尋ねてくる。ラルトは茶碗を卓から取り上げながら答えた。
「メルゼバの使者との会合。その結果結ばれた調停についてのあれこれで、午後は潰れる予定だ」
「調停?」
「あぁ」
 口の中のものを咀嚼して、急須から茶を注ぎいれながらラルトは言葉を続けた。
「国境の兵を、増やすことになった」
「……ダッシリナか」
 まだ公式発表されていないことだが、別に答えても差し支えない。通達するための馬は、ダッシリナに向けて既に出発した。今日の午後には兵たちを一同に集めて、部隊の再編が行われるだろう。
「ハルマ・トルマの情勢が危うい。ダッシリナ経由で入ってきた浮浪民や傭兵たちに感化されているようだから」
「数年前併合したばかりのところだっけか?」
「そう。ダッシリナに面している上に、情勢が常に不安定だから注視してはいたが……近隣の地域にも被害が及びそうだったんで、国境警備兵を増強することにした。今回はこの比率に関して。多すぎるとメルゼバが五月蝿いんだ。こちらに攻め込む気じゃないかとかアレコレ」
「メルゼバ共和国っていうのは大国だろうが。斜陽だな、そんなところで五月蝿く口を挟むようになると。ジジイが年を取るたびに小うるさくなるのと一緒だ」
「ジジイっていうと、うちの国のほうがはるかにジジイだけれどな」
「違いない」
 くすくすと笑い合いながら、さて、と真剣な面持ちになる。ラルトは箸を一度置き、長椅子の背にもたれかかりながら腕を組んだ。
「ハルマ・トルマで先日小さな宗教団体が摘発された。ハルマ・トルマの独立運動を行う宗教団体だ。案の定、こんな本が見つかった」
 これだ、とラルトはこの部屋に持ち込んだ数冊の本の間から、冊子を引き抜いた。
「きちんと製本までしてある。内容はイルバがこちらに持ち込んできたものと同じだな」
「民主化教本の写本か」
「予想していたことが現実になりつつある。ハルマ・トルマで独立運動を起こされるのは、こちらとしてもあまり嬉しくないことだ。あそこは住民自体、腕っ節が強いものだから、最悪、兵を派遣したとしても制圧に時間がかかるしな」
 ハルマ・トルマは因縁ある地だった。あそこを併合するにあたって、ティアレが自分の下に献上されてきたのだ。ティアレが幽閉されていた古い城――かつてのハルマ・トルマ城は、今は閉鎖されて誰も足を踏み入れることはない。
 しかし堅牢な城だ。城塞都市と銘打っていたほどなのだから、街自体も。
 独立運動の為にあそこに立てこもられでもしたら、前回併合したときのように安易には行かないだろう。前回は、半ば奇襲に近かったからこそ簡単に併合することができたのだ。
 できれば、避けたい事態だ。
「こっちに飛び火するぐらいなのだから、ダッシリナの情勢は危ういだろう」
「奥方を案じてひやひやなんじゃねぇのか?」
「馬車は今日の夜に到着するだろうと連絡があった。予定では明日だったが……明日の朝には、ダッシリナからこっちに引き戻せる。気はぬけないが、ひとまずは」
 安心、とはいえないが。おそらく、大丈夫だろう。ティアレを襲撃するような動きも、今のところない。ハルマ・トルマは不穏だが、ダッシリナは祭事の前とあって警備も強化されている。何か行動を起こすとなれば、人の動きが警備で押さえつけられなくなる星詠祭に入ってからだろう。
 ダッシリナに滞在している間のティアレの調子はすこぶる良いとのことだった。
 一度距離をとったことが、幸か不幸か、お互いの精神状態によかったことは確かだ。ティアレの顔を直接みなくて済む分、政治の問題にかかりきりになれるし、ティアレもまたただ身体を癒すだけに専念できたのだろう。
 ダッシリナのことがある間はおそらくティアレに構えない。頭が政治で一杯一杯になってしまう。だが、全てのことが落ち着いたら、もう一度ティアレときちんと話をして――……。
 命一杯、甘やかしてやろうと思っていた。今度こそ。
「うちの馬鹿弟子はどうなっている?」
「あぁ……そうだった」
 ラルトはイルバに渡そうと思っていた報告書を一枚、書籍の間から引き抜いて彼に渡した。言われていた男の捜索報告書。そこには、目撃報告や当人確認の為の特徴、簡単に、人物の顔を書きとめてもある。
 報告書に目を落としたイルバの表情が変わるのを、ラルトは酒の杯に唇をつけながら見た。
「間違いないか」
「……間違いねぇな」
 イルバは嘆息して言った。
「うちの馬鹿弟子だ」
 最後の目撃報告はハルマ・トルマで。
 ダッシリナで騒ぎを起こそうとしているのなら、何ゆえハルマ・トルマまで足を伸ばす必要があるのか。それはラルトにも判らない。だがイルバが追いかけている彼の弟子は、確かにハルマ・トルマに足跡を残し、火種を撒いて、姿を消している。
 特徴は黒髪に、切れ長の紫の目。浅黒い肌に、怜悧な美貌。片眼鏡。目立つ容姿だ。だが丁寧に、足跡は消されていた。
「うちの馬鹿な弟子が、本当に迷惑をかけていると思っている」
 そう呟くイルバの手は、膝の上で拳を作り震えていた。
 ラルトは杯を置いて言った。
「あんたの弟子一人が民衆をかき回しているわけじゃぁない。火種はそこここにあった。ただそれだけだ」
「何か手伝えることはあるか」
「もちろん。エイから聞かなかったか? あんたの弟子との戦いの際には、存分に働いてもらうさ」
「その他に」
「今は?」
「……俺が、倒れないように見張ることかな」
「……ったく、歯がゆいばかりだ。身一つの人間が、できることの限界だって知っててもな」
 イルバは低く呻き、下唇を噛み締めて、瞼を下ろした。
「俺は、後悔してるんだ」
「後悔?」
 鸚鵡返しに、ラルトは尋ねた。あぁ、とイルバが低く頷く。
「あいつが、規模は大きくなくとも、似たようなことをあちこちでやらかしてきたことは知ってる。今回だってそうだ。あいつの馬鹿馬鹿しい狂気に、誰かが付け入ったんだろう。だが、こうなる前にどうにかできたんだ。できた、はずだった――俺たちは、逃げたのさ」
 長椅子の肘置きに頬杖をついたイルバの声は、低くくぐもっていた。その眼差しは遠く、ラルトにはそれが過去を見ている眼差しだとわかった。
「俺は自らの選択の過ちによって最愛の妻子を失ってしまったという事実から、全てに対して自暴自棄になり、あいつは自ら率いた革命によって、国が崩壊し、何万という人々の命と生活が失われたことの責任から逃げた。そしていまだにしがみ付いている――証明できなかった。自らの、理論に」
「皆の意見が本当に反映されて、一つの国が運営できるというのなら、どれほどいいだろう」
 ラルトは呻いた。
 イルバの過去は聞き及んでいる。バヌアという島国が滅んでしまった顛末はあまりに有名だが、彼とその弟子が、どのようにしてその崩壊に関ったか詳細を知るものは少ない。
 食事や酒を媒介とした交流を通じて、イルバがラルトの現在の状況を把握しているように、ラルトもまたイルバの過去を把握した。
 一人の王に重圧が集中し、それをきっかけに、王の精神が破綻した。
 王の暴挙に民人は立ち上がった。国の政治を、わが手に、と。
 文章にすればあまりにあっけない、一つの国の崩壊の理由。
 だがそれは、この世界のどこでもおきうる事態なのだ。
 この世界の国のほとんどが、誰かを頂点として頂いて成り立つ。ラルトも感じることだ。玉座に腰を下ろした瞬間に感じる、吐き気をもよおすような重圧。
 王はその重圧に慣れるか、その重圧をふりきるか、ないものとして扱うかの三択しかない。
 重圧を軽減するために、民人全てに政治というものを分散させてしまえばいい――それが民主化だ。民人もまた、政治に関ることによって意見を反映できる、という利点がある。
 しかし、民主化は可能なようで不可能な、政治の世界の夢だ。
 民主化の為には、人は無知であってはいけない。世界の人々全てが政治を学ぶ必要がある。そして人は禁欲的でなければならない。自らの欲望に釘をさす度量がなくてはいけない。政治と共に、己の生活も見ていかなくてはいけない。
 世界は、そんな人ばかりではない。皆無知で、皆できることは限られ、欲望には限りがなく。
 ラルトですら、政治以外のことになると、お手上げだ。政治の世界ばかりに生きているからこそ、ようやっとその仕事をこなすことができる。それだけなのだ。
「あいつだって、わかってるはずなんだ。バヌアが滅びちまった時点でな。あいつが追い求めているのは夢だ。いつか、達成されることがあるのかもしれねぇ。けれどそれは今じゃねぇ。この世界にはどの国にも王っていう重しみたいなものが必要で、未熟なんだ。達成されるとしたら、はるか、遠い、遠い、未来だ。それが判ってるっつうのに、過ちを繰り返す」
「今回で、全てに終止符を打たなきゃならないな」
「さっさと殴りにいきてぇよ。そのために何も出来ないのが歯がゆい」
 すまない、という謝罪の言葉を、ラルトは胸中で口にした。彼に直接件の男の捜索に関ってもらいたいのは山々だが、彼の立場上不可能だ。
 彼はあくまで、客人だ。その身分で、国の暗部まで立ち入ってもらうようなことはあってはならない。
「……数多くの偽名を、やはり使っているようだ」
 ラルトはイルバの手元から、報告書を再び引き取り、視線を落としながら呟いた。
「彼の本名は?」
「あん? 馬鹿弟子の名前か?」
「そう。どれが、彼の本名だったか」
 報告書には、数多くの名前が記されている。偽名だろう。
「そこに載ってる名前の中に、本名はねぇよ」
 イルバは再び、水の入った高杯に手をつけながら言った。
「シルキス・ルスだ」


 がらがらがらがら
 馬車の車輪が土埃を上げて疾走し向かった先は、首都郊外にある館だった。林に囲まれた広大な敷地の中に、古い館がある。馬は[いなな]いて脚を止めた。館の前に予め佇んでいた男が、恭しく馬車の扉を開け一人の男に手を差し出す。馬車の中から姿を現した男は、静かに地に足をつけ、歩き出した。
 日差しに、片眼鏡の玻璃が鈍く光る。
 彼は黙々と足を進めた。扉は彼が到達する前に、順々に開かれていく。紫色の絨毯が足音を殺す中、目的の場所にたどり着くまで、結局彼は一度も足を止めることなかった。
「やぁ、お帰り」
 男の到着に面を上げ、朗らかに微笑んだのはこの館の主だった。
 黒髪黒目、衣装まで黒尽くめ。趣味が悪いと常々思うが、仕方がない。彼は男の雇い主だった。
「遅かったね」
「色々と仕掛けの仕上げをしてきました」
 男は微笑み、小脇に抱えていた黒い本を掲げて見せた。ダッシリナの首都を中心にばら撒いた本の原本。それは、もとは自分の著作だった。
 しかし、これにもう用はない。
「リアス」
 男の声に反応して、部屋の奥で一人何かの手遊びに興じていた男が面を上げる。
「燃やしてください」
 目元涼やかな黒髪の男は、前髪をかきあげ、さも面倒くさそうな表情を浮かべた。
「俺は別にあんたとは契約した覚えはないんだけど」
 片眼鏡の位置を掌の部分で直しながら、男は彼に微笑みかけた。
「えぇ知ってます。ですが周囲に影響を及ぼさず、一瞬にしてこういうものを灰にできるのは、世界広しといえど貴方ぐらいなものなのでしょう?」
「さてね」
 男は肩をすくめて、指を鳴らした。刹那、男の手の中で本が燃える。だが男の手には火傷どころか温度すら届かなかった。真っ赤に燃え上がり灰と化す本を間近で見つめながら、彼はリアスの不機嫌そうな声を聞いた。
「まったく、あんたたちに魔術のことを漏らすんじゃなかったよ」
「計画の為に必要な技だ」
 口を挟んだのは自分たちの契約者だった。
「私のところに君みたいな存在がいてくれることを感謝するよ、リアス――ラヴィ」
 契約者、ソンジュ・ヨンタバルは微笑んで言った。しかしリアスと呼ばれた男は笑わなかった。男に燐寸代わりに使われたことが腹立たしかったのかもしれないし、軽々しく本名を呼ばれたことが気に食わなかったのかもしれない。リアス・ラヴィア。本名をラヴィ・アリアス。今の姿は仮の姿だというが、最初自分たちの前に現れたときの姿も、おそらく仮の姿なのだろう。
 あんな、禍々しい姿が真の姿であってはならないと、思っている。
「……そして君も。シルキス・ルス」
 名前を呼ばれ、再びシルキスは片眼鏡の位置を正した。この国で権力だけはそれなりにある愚鈍な青年は、目的を達成するための契約者には、おあつらえ向きだった。
「祭りが始まるね」
 ソンジュは窓の外を眺めながら言った。その出来の悪さから長い間日の目を見なかった、気だけ大きい男は、恍惚の表情を浮かべながら言葉を続けた。
「その前に、私たちだけのお祭りを、始めようか」


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