第七章 五日目午前 3
現在エイに貸し出されている、小奇麗な丁度で纏められた個室。
「あ、な、た、は!!!! どうして大人しくしているとかいうことができないんですかっっっ!!!!!」
ぺぺぺぺぺっと、まさしく唾吐く勢いで、エイはヒノトにまくし立てた。いつもは豪気な少女も、今日ばかりは弱気で、椅子にちんまりと腰を下ろし、項垂れている。
当然だ。せめて叱られているときぐらいは本気で反省してもらわなくては困る。
エイは執務の席に乱暴に腰を落として、頬杖をつきながら盛大にため息をついた。
「いいですかヒノト。判ります。貴方がじっとしているということが苦手だということもわかりますし、反省文をずっと書くだなんてそんなまね貴方にとってはさぞや苦行だったということもわかります。退屈なのも判ります。ですけど、ですけれどね」
「……どうして、大人しくしていられないのか、か?」
「判っているなら大人しくしていてくださいっっ!!!!」
エイは思わず机を叩きながら立ち上がっていた。
「本当に、心臓が止まるかと思いましたよっ!! 幸い大事に至らなかったからよかったもののっ!!!!!」
叫びながら、エイはつい先ほどの一幕を思い返した。ウルと別れて戻って早々、館が騒がしいことに気がついた。蒼白な面持ちで駆け寄ってくる兵士の報告を聞けば、ヒノトが屋根から落下しそうになっているという。現場に急いで駆けつければ、丁度ヒノトが丁度手を滑らせて地面に吸い寄せられていくところだった。その先の悲劇を想像して、エイは倒れんばかりだったのだ。
結局、彼女自身が持ち前の身の軽さで、壁や近くの植木を伝って落下の衝撃を殺し、最後に屈強な兵士が受け止めたことで、大事に至らなかったのだ。ヒノトを受け止めた兵士も怪我ひとつなく、元の仕事に復帰している。
「……エイ、その辺りにしてあげましょう?」
控えめに口を挟んできたのは、長椅子に腰を下ろす水の帝国の皇后だった。
緋の髪を軽く結い上げ、濃い緑の衣服に袖を通している。その表情に苦笑は滲んでいるものの、纏う雰囲気は穏やかだ。
ティアレの姿を確認するたびに、ヒノトの判断はあながち間違いではなかったのだと思い知らされる。
彼女がヒノトについてダッシリナまでやってきてしまって五日。ティアレの顔色はずいぶんとよくなった。ブルークリッカァからの随行者はともかく、この館の人間の大半はティアレの素性を知らされていない。一角の地位にある婦人だという認識しかされていない。その気兼ねのない環境のせいか、ティアレも食が随分と回復し、顔色もよくなった。屋敷や庭を散策して、気のいい侍女たちに混じって談笑している。
今日も彼女は昼食の準備が整ったことを知って、自分たちをこの部屋に呼びにきたのだ。
「ティアレ様、ヒノトをあまり甘やかさないで下さい」
ティアレがヒノトを庇いたくなる気もわからないではないが、非難するようにエイは呻いた。
「じゃないとこの子は付け上がります」
「付け上がりなどしておらん」
「こんだけ思う存分騒ぎを起こしておいて、何が付け上がりなどしていないですかっ! 今度という今度ばかりはさすがの私も堪忍袋の緒がきれますよっっ!!!!」
「エイ」
怒りに肩を揺らすエイを、ティアレが微笑んでなだめた。
「確かにそうかもしれませんが、大騒ぎしたのはおそらく皆のほうでしょう。ヒノトの身の軽さはエイも知っているでしょう? おそらく人が集まらなければ、ヒノトも一人できちんと降りられたのだと思いますよ」
「ティアレ様、ひとつ言わせていただきますが、猿も木から落ちると申します。もし、服の袖なんかが引っかかって、宙吊りになんかなりでもしたら、それこそ誰かが見つけてくれなければヒノトは助からないわけですし、そもそも頭がいいんですから、足を滑らせて誰かが大騒ぎするかもしれないとかいう危機意識はしっかり持っていただかなくては困るんです!」
再び机を叩きそうになる衝動をエイはぐっと堪えた。相手は何せ皇后である。ティアレはどこまでも相手の心証を汲み取って胸を痛めるような婦人だ。
「……言葉が過ぎました」
冷静になり、エイは自らの失礼な発言を恥じて頭を提げた。
「……そうですね。貴方の言い分も最もです」
ティアレは微笑み、ヒノトに向き直った。
「ヒノトも、これ以上危ないまねはよしてくださいね。私が言えたことではないのだと思うのですけれども」
「すまんかった……」
ヒノトは、ティアレに対しては基本素直だ。頭を丁寧に下げる彼女に、エイは嘆息した。
「助けてくださった人たちにはお礼と謝罪をしにいってくださいよ」
「判っておる」
本当だろうか、とエイは天井を仰ぎ見た。明日には迎えの馬車にくるが、それまでに彼女は大人しくしていられるだろうか。ダッシリナの館に缶詰という状況は彼女の自業自得とはいえ、これでも十分大人しくしていたほうだろう。
この館に缶詰になっているというのは、ヒノトが起こした行動の結果だと、彼女も自覚しているからこその大人しさだった。今回も気分転換に屋根の上に昇って、たまたま足を滑らせてしまったのだろう。気分転換したいなら、庭を散歩するだけに留めておいて欲しいと、心から思うことは確かだが。
ティアレとヒノトの姿を眺めながら、エイは嘆息した。ダッシリナの情勢もそうだが、こちらに帰ってきたら帰ってきたでやはり頭が痛い。彼女らはそのまま宮城に戻らず、一度王家の別宅へ彼女たちを連れて行く。これから彼女らはどうなるのだろう。
ラルトとティアレはいつ、また向かい合って話をするようになるのだろう。
「どうして屋根の上にのぼろうとしたのですか、ヒノト?」
憂鬱な方向へ持っていかれそうになっていたエイの意識を引き戻したのは、ティアレの穏やかな声音だった。
「退屈が理由なのではないのでしょう?」
「だって屋根の上からならば、窓からとは違う、この国の様子が見られるじゃろう?」
「……国の様子、ですか?」
エイの問いに、少女は満面の笑みで頷いた。
「そうじゃ。やっぱり同じ大陸といっても、国が違えば色々違うのじゃなぁ。街の様子も屋根の上からのほうがよく見える」
「えぇ、まぁ……そうでしょうね」
エイは執務の椅子に再び腰を下ろしながら生返事をした。
この館は防衛の為にも高い垣根で囲ってある。二階からも街の景色は見えないこともないが、それはやはりほんの一部だ。屋根からの景色はさぞや壮観だろう。エイは断言できる。ここは、小国とはいえどそれなりの歴史を抱える国の都なのだから。古い寺院や星観の為の塔など、ため息ものの建築物が多くある。
「この辺りにも人通りが増えたし……あれじゃな。馬車から見たときも思ったが、こちらの皆は、けっこう派手な色を着るのじゃな」
ヒノトの言葉に、ティアレが相槌を打つ。
「侍女の皆さんが召してらっしゃるものも、とても綺麗な色ですしね」
「あれはどうしてなのじゃ? エイ」
「染色に使う水の影響でしょう」
エイは微笑んで答えてやった。
「北大陸から鉱物由来の染め粉も入りますし。あれは結構綺麗に染まるので」
水の帝国では、染色の顔料の大部分が草木由来のものだ。対して年中他国からの船が入るこの国では、鉱物由来の顔料を使う。この国の衣服は、どれも色鮮やかだ。
『へぇ……』
興味津々、といった娘たちの様子を見て、エイははっと我に返った。こほん、と咳払いを一つ。
「ともかく」
「もう、みなまでいわずともわかっておるよ」
ヒノトが口先を尖らせて、エイの言葉を制する。彼女はにっと口元を笑みに引き結んで言葉を続けた。
「きちんと明日の朝まで大人しくしとればよいのじゃろう?」
「えぇ」
本当に、それが貴方にできるのですか。
エイは、慌ててこぼれそうになった皮肉を慌てて唾と共に嚥下した。最近彼女に対して小言めいたことしか口にしていないような気がしたからだ。元々は彼女に理由があるとはいえども、彼女ばかりを責めるのはお門違いのような気がしたし、当人が大人しくしていると主張しているのだから、それを皮肉っても意味がないだろう。
「ティアレ、昼食を終えて部屋に戻ったら、屋根から見た景色について話そう」
ヒノトが椅子に腰掛けたティアレの手を取って笑った。
「けっこうな、面白かった。多分、話を聞くだけでも楽しいと思うぞ」
ティアレは嬉しそうに、そして少し寂しそうに、彼女に頷き返している。そんなティアレに、ヒノトは手足を大きく動かし、百面相をし、努めて明るい声で、今日は昼からあれをしよう、これを話そうと計画を口にしている。
ティアレの憂慮を少しでも軽減しようとする、ヒノトの行動に、エイはふと思った。
あぁ、ヒノトは。
(ティアレ様の為に、屋根の上に上がったのだ――……)
ヒノト以上にがんじがらめの生活を送り、その息苦しさを甘んじて受け入れるティアレに、少しでも明るい話題を吹き込み、違う世界を見せるために。
ただ、それだけの為に。
「何、いつかまたこられるよ」
「えぇ」
ヒノトの行動はいつも筋が通っている。エイはそのことを知っていた。彼女は短慮をしでかすが、そこに理由は必ずある。馬車の中にもぐりこんで、エイの度肝を抜いたこともそうなら、今回のこともそうだ。
エイは嘆息しながら、視界の焦点をヒノトからティアレに移した。
ティアレの素性をエイは詳しく知らないが、元々は平民の暮らしをしていたと聞いている。しかし彼女は長い間、自分たちに彼女が平民出であることを忘れるほどに完璧な皇后だった。公私両方にわたって皇帝のラルトを支え続けてきた。わがまま一ついわなかった。平民の出だったというのなら、その過去の自由さが、恋しいときもあったであろうに。
子供を生みたい。
彼女が、自分たちの前で口にした、初めてのわがままなのではないだろうか。それを頭ごなしに否定されて、彼女はどんな気持ちだったのだろう。
城から抜け出すことが、他者にどれほどの迷惑をかけるか考えられない婦人ではないのに、それでもあの場所から離れようとするほど、ティアレは病んでいたのだ。
それを本当に思いやっているのは、おそらくヒノト一人だったのだろう。
このままでいいのか、と、もう一人の自分が囁く。
こんな、何らかの形で誰かを犠牲にして成り立つような国で、あっていいのかと。
裏切りの帝国と呼ばれた母国。多大な躯の上に成り立っているあの国。
誰一人、犠牲にすることなく、誰もが笑い合える国が欲しくて、自分は、政治の道を選び取ったのだと。
「……外に、出てみますか?」
その言葉は、エイの口から知らず零れていた。
「外は祭りのこともあって、他国からも流れ者が入っていますし、安全ではありません。それでも、厳しい護衛をつければ、見て回れないこともないでしょう」
驚愕したのは、目を見開いてこちらを見ている娘たちだけではない。エイ自身こそ、自らの発言に息を詰めんばかりだった。口元を押さえるのも忘れて、一体何を口にしているのかと自問を繰り返しながらも、エイの口は滑らかに言葉を紡ぎ続ける。
「もちろん、長い時間は無理です。ほんの一刻程度かとは思いますし、治安の良い場所を少し見て回る程度になるかとは思いますが……」
「エイ、それは妾だけの話か?」
「ティアレ様を含めての話です」
今度こそ、部屋に張り詰めた空気が満ちた。エイは顔の筋肉が引き攣るのを自覚したし、相対するヒノトと后妃も、表情を驚きに強張らせていた。信じられない、とその目が言っている。
エイこそ、たった今滑らかに口を動かした自分自身の胸倉に、正気かと叫んで掴みかかりたい。
自分が、何を口にしたか、判っているのか、と。
一歩間違えれば、エイの首が飛ぶどころではない。
下手をすれば、国一つが滅びる。
ティアレは、水の帝国が生き延びるために決して欠けてはならない、皇帝という存在を背負っている。
背筋を、冷たいものが伝い降りていった。
強張ったエイの表情が判ったのだろう。ティアレがエイを案じるように、おずおずと話しかけてきた。
「エイ、無理なことを口にしなくともよいのですよ?」
「無理ではありませんよ」
「私たちにあまり手勢が割けぬことぐらい承知しています。私たちは、予定外の、いわば招かれざる客なのですから。私はこの館にいるだけで、十分なのです。私がどれだけ軽率なことをしてしまったか知っています。城と少し違う空気を吸えただけで、私は十分に満足です」
「ティアレ様、普段から遠慮してばかりなのですから、こういうときぐらいは羽を伸ばされたほうがいいのです」
「ですがエイ。でしたらヒノトだけで。私では、足手まといになるでしょう」
「何故足手まといなのですか? 無理にとは申しませんが、ティアレ様は少し外の空気を吸われたほうがよいと思われます。今のところ、お体には触りがないようですし、見て回ること自体は、半刻それ以下で切り上げられてもかまわない。馬車で、見て回るだけでもかまわないのですから」
そう、馬車だ。
馬車で見て回ればいい。
それならば、悪漢に絡まれたりするような事態も防げるし、ティアレの存在を目立たせることもない。
エイは少し冷静さを取り戻した自分自身に、そろりと息を吐き出した。
「馬車、ですか」
ティアレもまた、馬車ならば、と少しだけ緊張を緩めたようだった。だが、まだ外に出ることには抵抗があるらしい。出たいと思ってはいても、遠慮がそうさせるのだろう。実際問題、エイにも、彼女たちの為に割ける人員がそうそうあるわけではない。
「いこう、ティアレ」
躊躇を見せるティアレの手を引いたのは、ヒノトだった。
「エイがあぁいっているのじゃ。またとないことではないか。馬車から外をみるだけでも、気分転換になるし、またラルトへの土産話にもなる」
こんなときに皇帝の名前がでて、エイはぎょっと目を剥いた。思わずティアレのほうに視線を戻す。すれ違ったまま、距離を隔ててしまったラルトのことを思い出すのは、つらいのではないかと思ったからだ。
だがティアレは小さく噴出して、そうですね、と頷きながら笑っていた。
「仲直りの為に、お土産の一つでも、持って帰らないといけませんね」
「そうじゃよ。ラルトだって、ティアレが楽しかったのじゃと知れば、そんなに咎めたりはせぬよ。なにせ、いつも男は約束破りじゃからのぅ」
ヒノトがエイを一瞥する。にやりと吊り上った意地悪げなその口角に、エイは苦笑せざるを得なかった。あそこに連れて行ってやる。あれには付き合ってやる。こんどはあれをしようこれをしよう。
そういった彼女との口約束を、叶えてやったことはほとんどない。
ラルトは、自分以上に反故にしているだろう。
それでも、この后妃はわがまま一つ零すことはなかったのだろう。
ティアレもラルトとエイを慮ってか苦笑いを浮かべていたが、小さく頷いて、エイに言った。
「では、手配を、頼めますか? エイ」