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第七章 五日目午前 2


 がしゃぁぁあぁん……
 出航のときに鐘が鳴らされたように、入港の際には平たい金属を打ち鳴らすらしい。船の甲板から見えた楽器を銅鑼というのだと、ジンが説明した。
「銅鑼?」
「こっちとか南大陸の楽器かな。西大陸では入港のときは普通に鐘だよ」
「へぇー」
 シファカは甲板から身を半分乗り出しながら、目の前を通り過ぎていく鐘楼を見つめた。[あかがね]色の平たい円盤が地面に向かって垂直になるように吊るされている。それを、布を巻いた棒で叩いていた。
 叩く男たちが身につける衣装は、北大陸のものより色が鮮やかだった。派手な色だねぇとシファカいうと、この国のものは特にね、とジンが応じる。どうやら、東大陸の衣服は国ごとでも色合いが異なっているらしい。
 北大陸は人種が多彩であるために、肌の色や髪の色もばらばらだ。しかしダッシリナという国は船から見下ろすかぎり、黒髪の人間がほとんどであるようだった。
 どきどきした。
 シファカは衣服の胸元を握り締めながら、頬を紅潮させた。
 ジンが言っていた通り、北の大陸よりも空気は湿り気を帯びている。択郷の都と同じ潮の匂いに混じって感じられる、雨に似た匂い。濃厚な水分が肌を通して感じられるが、不快ではない。
「もう春だ。これから夏に向かうから、どんどん湿度が高くなる」
 ジンが目を細めながら言った。
「へぇ?」
「……ん、まぁ、滞在してみないとどんなものか判らないだろうけどね、四季っていうものは」
「……だね」
 一度、大きく船が揺れて、止まった。波止場に到着したのだ。
 橋が船にかけられる。乗客がそれぞれ荷物を持って動き始めた。
「いこうかシファカ」
 ジンが彼の荷物を持ち上げ、外套を目深に被りながら微笑む。
「うん」
 シファカは荷物を持って彼の手をとり、ふと怪訝に思って、彼に訊いた。
「ジン、今から町に入るのに、どうしてそんなに外套を深く被っているんだ?」


「やばいのう」
 屋根の軒にぶら下がりながら、ヒノトはため息をついた。
 うっかり足を滑らせて屋根の上から落ちてしまった。いっそそのまま落ちたほうが楽だったかもしれない。持ち前の運動神経のよさが変に仇になった。
 それでもヒノトは、落下することに対しては危機感を覚えてはいなかった。すぐ近くに背の高い植木がある。枝はそれなりにしっかりとしていて、それを伝って降りれば怪我をすることもないだろうとヒノトはふんでいた。
 問題は、この下に集まってきた女たちである。
「ヒノト様!」
 現在ヒノトたちが滞在している館には大使が常駐している。そのせいか、決して多くはないが侍女がいた。水の帝国の宮城に仕える女官たちほどではないにしろ、よく教育された世話役の女たちは、呆れるほどにお節介だ。
 彼女たちは屋根にぶら下がったままのヒノトを見つけると、悲鳴を上げて人を呼び始めた。これはよくない傾向だとヒノトが思ってすぐに、見回りの兵士たちがヒノトの足元にやってくる。
(あぁ馬鹿め。そんなところに集まりおっては、妾が飛び降りれんじゃろうが)
 着地地点として想定していた場所に人が集まってきたものだから、すぐに飛び降りることが出来ずに、ヒノトはどうしたものかと空を仰いだ。
 ここまで大騒ぎになれば、確実にエイの耳にも入るだろう。それはよろしくない。大変、よろしくない。
 ただでさえ押し掛けたような形で自分はここにいるのだ。それに関して、書物数冊に匹敵するほどの反省文を既に提出している。これ以上、部屋に缶詰になって白い紙と向き合うのは御免願いたい。
(うぅ。さすがにそろそろ手が痺れて)
 何せこの五日間、起きている間はほぼ物書きに費やしていた。酷使して疲労の溜まった手で、長時間身体を支えることはできないだろう。
(うむぅ、どうしたものかのぅ)
 ひとまず、自分がきちんと着地するまで、エイには戻ってきて欲しくはない。彼は早朝から会合に出かけているが、そろそろ戻る頃合だ。こんな騒ぎがあったんですよ、と結果だけ報告するのと、この状況を目撃されたのでは、彼にもたらされる衝撃の度合いが違う。
「あぁぁもーそこをどいて欲しいというておるのに何故どかんのかっ!!」
 必死に叫ぶが、地上では侍女や兵士たちが騒いでヒノトの主張どころではないらしい。はしごを抱え、どこにそれを設置すべきか談義している男たちに、ヒノトの苛立ちも頂点だった。
 だが彼らに意識を払っている余裕も、ヒノトから失われつつあった。体重に耐えかねて、手が痺れる。ヒノトはなるべく身体に負担の掛からない着地方法を懸案すべく、ざっと周囲を見回し。
 そしてそこで、あぁ、と頭を抱えたくなった。
「ひ、ヒノト!?」
 伴を連れ、蒼白な面持ちでこちらに駆け寄ってくるエイの姿が、ヒノトの視界を過ぎった。会合から戻ってきてしまったようである。
「一体何をしているんですか貴方は!?!?!?!?」
 ヒノトの苛立ちが頂点ならば、エイも怒髪、天を衝く勢いである。彼の叫びは半ば悲鳴じみていて、それがなおさらヒノトの胸中に焦りを生んだ。
 予想していた最悪の事態だ。
 ヒノトが渋面になりながら彼のほうに面を向けた瞬間。
 ずっ
「あ」
 手がすべり、ヒノトの身体はとうとう地面に落下を始めたのだった。


 館に戻る前に、調査の為にとエイと分かれてウルが向かった先は港だ。ここに<網>のひとつの中継地がある。港の一角にある土産物屋の老婆と、暗号を使って会話を交わし――傍目から見れば、観光客と店番の世間話としか認識されない――、手土産に魚の干物を購入してウルは、次の中継地に向かっていた。
 ダッシリナの不穏な噂は他国にも広まっているだろうが、星詠祭を前にして、港近くは観光客でごった返していた。また、新しい船が到着したらしい。銅鑼があちこちで鳴らされている。
「やれやれ。忙しくなりそうだ」
 ウルは苦々しく呻いた。現在ウルが引き受けているのはヨンタバルを筆頭にした三人の調査と、盟主の捜索、そして民主化教本の著者の捜索だ。前の二つはどうにかなるにしても、居所のわからない民主化教本の著者の捜索は、国に人が増えれば増えるほど難航する。
 嘆息しながら、ウルは人ごみを掻き分けて歩いていた。
 時折、人々の間に貧しい物乞いの子供たちが見える。変わらないな、とウルは思った。
 元々ウルはダッシリナの出身だ。彼らと同じように物乞いをしているところを、この国の貴族に拾われて英才教育を受けた。暗部として様々なことに手を染め、最終的には水の帝国の宰相に拾われて、今はあの国に居着いている。
 水の帝国は、変わったのに、この国は今も変わらない。
 故郷に対する感傷はもはやないが、変わらぬものに対する哀れみのようなものを感じて、ウルは自嘲の笑みを浮かべながら頭を振った。
 さぁ早く、仕事をこなして館に戻らなければ――……。
 緩んでいた歩調を再び速めた、その時だった。
「ジン!」
 女の、声だった。
 まだ若い女の声だ。その声は雑踏の中にあるにも関らず、よく通った。ウルは無意識のうちに、面を上げ、声の主を探していた。
 人ごみに混じって、ひょこひょこと動く黒い頭が見える。ジン、とその頭が再び叫んだ。
(……なんだ?)
 ウルは無意識のうちに呼吸を整えるべく息をついていた。ジン、という名前は決してない名前ではない。だが、珍しい名前ではあった。特にこの大陸では。高位の人間に同じ名前の人があるとき、同じ名前を名乗ることを避ける習慣が、この大陸の民にはあるからだ。ダッシリナは他国だから同じ名前は皆無でないにしろ、多くはないだろう。ウル自身も、耳にしたことがない。
 ウルが知っている、ジン、という名前はひとつ。
 姿を消した、水の帝国の、宰相。
 ジン・ストナー・シオファムエン。
 馬鹿な、と。
 こんな場所にいるはずがない、と。そう思いながら、ウルは手のひらにじっとりと滲む汗に、不快感を覚えざるをえなかった。
 目は、群集に今にも消えてしまいそうな女の頭を注視している。
 彼女を先導していた男の手が一言二言言葉を交わし、女の外套を引き上げた。女の黒髪が隠される。男も、外套を頭から被っていた。かなり、深く。
 その外套の裾を。
 突風が、揺らした。
 人々が風の悪戯に悲鳴を上げる。あるものは屈みこみ、あるものは帽子や外套を押さえつけ。
 ウルはただじっと、人の流れの向こうにいる、男と女を見つめていた。
 零れる、亜麻色の髪。
 金にも見える、亜麻の目。
 西大陸の民の血を色濃く反映した、端整な顔立ち。
 再び外套によって、その顔は隠される。
 しかし、間違うはずがなかった。
 ウルは、無意識のうちに、叫んでいた。
「――――っっ!!!! 閣下ぁあぁ!!!!!!!!!!!!」


 とうとう、戻ってきてしまった。
 まだ水の帝国に足を踏み入れてはいないとはいえ、東大陸の土を踏んだ時点で、ジンを占めた感情はなんとも言えぬ罪悪感だった。戻ってきては、ならなかったのに。明確な理由はない。それでも、この大陸に戻ってきてはならなかった。
 同時に、胸を占めたのは郷愁だった。大陸の匂いは、ひどく優しくジンを包み、肌に馴染む。行きかう人々の姿もどこか馴染みのある顔立ちで、自分の顔立ちはそれからかけ離れているというのに、親近感を覚えるのだ。
「ジン!」
 ジンは振り返って、名を呼んだ娘を見返した。シファカは人ごみに流されそうになりながら、ジンの背後をついてきている。ジンは笑った。この娘は別にさほど背が低いというわけでもないのに、妙にちまちまとしていて、よくこんな風に群集に流される。
「シファカ、だから手を繋ごうっていったのに」
「うー」
 シファカはジンに追いつくと、すごすごといった様子でジンの手を取った。
「この人たち、北の人たちよりも体格そんなによくないし……大丈夫だと思ったんだけどなあ」
「シファカは無防備なときになると、とたんに人に流されるよね」
 戦闘中ならば、彼女の身のこなしは常人では真似できぬほどに軽い。だというのに普段はこんな風だから、ついその差がジンの笑いを誘うのだ。
「あぁ、まったく髪もくしゃくしゃにして」
 ジンはシファカの髪を撫でつけ、外套を引き上げた。唐突に頭から被せられた外套に、シファカが顔をしかめる。口元を小さく突き出す彼女に微笑みかけたジンは、突如吹き抜けた突風に目を細めた。
 風が衣服の裾を巻き上げる。周囲の人々はあるものは屈みこみ、あるものは荷物や帽子などを押さえ込んで風の悪戯に不平を漏らしていた。
「もー。なんなんだ?」
 シファカも例外ではない。彼女はぶつぶつ言いながら外套を引き上げ、そしてふと、弾かれたように面を上げた。
「誰か、何かを叫んでるね」
 シファカが言った。
 ジンは外套を目深に被りなおしながら、彼女の視線の方向を見つめた。誰かが、叫んでいる。
 風の悪戯に足を止められた人々が動き出す。彼らの間を掻き分けるようにして、一人の男が駆けてくる。
 彼が、必死の形相で、叫んでいる。
「閣下――――っ!!!!!」
 ぞっと。
 背筋を駆け抜ける何かがあった。
「シファカ」
「え? うわ!」
 ジンは彼女に了解をとる間も惜しんで、彼女の手首をとり、その場を駆け出した。また船が到着したのか、より一層港は込み合い始める。背後を横切る人の川に感謝しながら、ジンはただシファカの手を引き、人ごみを突っ切った。
「ど、どうしたんだよ、ジン!?」
 シファカが怪訝そうに叫ぶ。だが、彼女の問いに答えてやる余裕がなかった。
「かっ……ジン、様――――!!!!!!!!」
 背後から追いかけてくる叫びは、雑踏に紛れてやがてかき消される。
 ジンは、呼吸することも忘れて、シファカを率いながら、ただ、走った。
 走りながら、人の群れの中でただ一心に叫んでいた男の姿を反芻する。彼の姿は、瞼の裏に焼きついていた。
(ウル)
 忘れるはずもない。
 彼は、ほかでもないジン自身が、幼馴染の為に引き抜いて、そして諜報という裏方を任せた男だったのだから。


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