BACK/TOP/NEXT

第六章 わがままの末に 2


「ヒノトは悪くありません。叱咤は私が引き受けます」
 そう主張して引かない皇后に、エイは頭痛を覚えざるを得なかった。荷馬車の中に、こともあろうか皇后と、自分が後見をしている少女がもぐりこんでいたのだ。手引き自体がヒノトの手によって行われたということは明白だが、その準備の周到さといったら、怒りを通り越して呆れてしまう。
 宮城は大騒ぎになっているはずだと思い、すぐさま早馬を出せば、こちらに皇后が来ていないかとの宮城からの早馬とかち合った。ラルトの蒼白さが想像できて、エイは頭痛どころか、胃まで痛くなってくる始末である。
 ブルークリッカァの国境にも近い、ダッシリナの首都、その郊外の屋敷。
 到着して早々、館の一室で、勢いに任せてヒノトを叱り飛ばそうとした出鼻を挫いたのが、ご覧の通り、皇后その人だった。
「ティアレ様。そうはいってもですね」
 ヒノトを叱らないわけにはいかない。そう続けようとしたエイを、ティアレは遮った。
「私がヒノトに頼んだのですよ、エイ。連れ出してほしいと。ヒノトは私のその頼みをきいただけです。いわば、私の命令を聞いたに過ぎません。そのヒノトを何故咎められますか」
「ティアレ様……」
「判りましたか? エイ。咎められ、責められるべきは私です。ヒノトではありません」
 そう断言するティアレにかばわれるようにして佇むヒノトは沈黙を保っている。その少女を一瞥し、エイは嘆息した。
「……わかりました。裁き云々は保留にしましょう。どちらにしろ、私一人だけでは決めかねます。ヒノトへのお説教も、ひとまずなしです」
 エイの承諾に、ティアレの表情がふと緩む。思わずつられて微笑みそうになるのをぐっと堪え、エイは厳しい眼差しを彼女に向けた。
「ですが妃殿下[・・・]。こういったことは金輪際なしにしてください。我々下々からのお願いです。そしてまず身体を休められますよう」
「……エイ」
「部屋を用意させております。長旅は身体にこたえているはずです。どうかそちらに」
 丁度よく部屋の扉が開き、女官が部屋の支度が整ったことを告げてきた。ティアレがヒノトを一度振り返る。これから部屋へ、無論ヒノトは同行しない。エイと二人きりになるヒノトの身を案じているのだろう。
「気にするなティアレ」
 ヒノトの声音は明るい。彼女は本当に、怒られないことを微塵も疑っていないかのような朗らかさで、ティアレに接した。
「お叱りはなしじゃと、エイが言うておるであろう。今はひとまず、身体を休めることが大事じゃ。久々に寝台で眠れるぞ。ゆっくり身体を休めいよ」
「……ヒノト」
「また、後で薬を持っていくからの」
 まだ後ろ髪引かれる様子のティアレを女官と一緒にヒノトが追い出す。二人だけになったことを確認して、エイはさて、とヒノトと向き直った。
「ヒノト、貴方は先ほどからずっと黙っていましたが、本当にティアレ様が連れ出すように命令を下したのですか?」
 ティアレがあそこまで主張するのは、本当に彼女が命令したからか、それともヒノトを単純に庇うためか。
「いいや」
 ヒノトは首を横に振った。彼女の緑の目からはいつもの無邪気な笑みが消え、ただ大人びた、冷たい静謐がそこに宿っていた。
「妾が計画し、妾が彼女を連れ出した。ティアレに罪はない」
「ヒノト……! 貴方は一体どういうことをしたのか判っているのですか!?」
 言い方は悪いが、ヒノトはティアレを宮城から<誘拐>したのだ。それが、ヒノトにとっては悪戯程度のものでしかなかったとしても、許されることではない。
「判っておる」
 しかしヒノトは、恐ろしく冷ややかな声音でエイの問いに即答した。
「判っておる。妾は連れ出してはならぬものを城から連れ出した。それはどんな意図があれ、許されるものではないじゃろうて。もし、妾の後見をしておるおんしにまで罪が及ぶというのなら、今すぐ妾と縁を切れ、エイ」
「ヒノト――……!!」
 エイは愕然としながら少女の名前を呻いた。
 ヒノトが罪を犯したのならば、無論管理不行き届きということで、彼女の後見を行っているエイにも何らかの断罪が行われるだろう。今回ヒノトがもぐりこんだ一団が、エイの一団であったこともそれに輪をかける。
 ヒノトは、エイが指摘するまでもなく、そういったことを見越していたのだ。
 あまりに迷いのない、透徹しているといっていい少女の眼差しを見返しながら、エイは搾り出すような声音で尋ねた。
「……そこまで、判っていながら、何故ティアレ様を連れ出したのです?」
「それは妾が医者であるからじゃ」
 ヒノトの声は震えていた。
 ヒノトがエイに与えた回答は、この場にもし宮廷医の人間がいれば笑ってしまうようなものだった。
 ヒノトは、正確には医師ではない。
「ヒノト」
「判っておる。妾は所詮見習いじゃからな。そんな答えは馬鹿げているというのだろう」
 自嘲に似た笑みを浮かべて、ヒノトは言う。
「けれど、妾はできぬこともまだ多い未熟な医者じゃが、それでもティアレにはあの場所から離れることが、ほんの一時でも、必要だと思ったのじゃ。そうしなければ、身体よりも先に心が参る。周囲のものが彼女の立場をいくら説いて、彼女の重要さをいくら説いても、彼女は納得できんじゃろう。感情より理性でものを考えられるようになるのは、心が、安寧を保っているときに限られる。そうじゃろう? エイ」
「ヒノト……貴方は……」
 少女の思慮深さに感心しながら、エイは絶句していた。誰も、ティアレの身体と立場を考慮しても、ティアレの心を真っ先に案じたりはしなかった。ティアレが、不安定であるのは、体調が芳しくないせいであると。体調さえもとに戻れば、ティアレはいつもの彼女に戻るのであると。
 けれどヒノトは言う。
「身体なんて、本人が身体を本当に治したいと思わなければ、治りなぞせん。あんな、周囲から重圧をかけられて、ティアレが本当に、自らの身を治したいと思うか? 子供とラルトのことばかり頭にあって、ティアレは自分の身体を治すことを放り投げかけておったではないか」
「それで……ダッシリナに向かおうと?」
「星詠祭を見られたらよいなとは思って、それが考えのきっかけではあったが、実現するとは期待しておらんよ妾も。ダッシリナに到着するとも思っとらんかったわ。ただ、おんしらの馬車にもぐりこめば、運よければ確実に都の外に出られるであろうし、護衛を雇わんでもよい。その上、途中で見つかっても護衛をつけて城に送り返されるだけじゃろう。妾は、少し遠出して、幌の窓から景色を眺めて、自分の体調のことを、考えなおしてもらう。それだけでよいと」
 そう思ったのだと、ヒノトは言う。
 今度こそ、エイは言葉を失って、ヒノトを見つめ返すことしかできなかった。
 ヒノトが、ただ、本当に医者としてすべきことをしただけなのだということにも、驚愕した。
 だがそれ以上に、エイの一団の馬車を選びとったその豪胆さと聡明さに、愕然としていたのだ。
 思い出したのだ。
 ただ無邪気に、拗ねたり膨れたりするだけのように見える少女もまた、政治家である自分たちと同じように、人を救うという使命を背負って生きようとしている人間であるということを。
 彼女を慕っていた義兄弟たちや、彼女の養母の死。人を救えという最後の言葉。養母の裂かれた腹に止血の為に添えた手の震え。養母の、人を救えという、ヒノトに向けられた遺言。人を救いきれなかった少女の悔恨の背中。
 ほんの、二年半前のことが、鮮やかに脳裏に蘇る。
 それから今までの間に、彼女はこんなにも成長を遂げていた。
 ティアレとヒノトを馬車の中で見つけ、それからこの部屋に移動するまでに考えていた、たくさんの叱咤の文句は、エイの頭の中から綺麗さっぱり消え去っていた。
 ただエイは、この手のひらの中から、小さなひな鳥が巣立ってしまったようなもの寂しさを感じながら、微笑んで呟くことしかできなかった。
「あぁ、貴方は、本当に……」
 見習いなどではない。
 ただ、人を救うためだけに手立てを尽くすだけの、美しい存在。
 彼女は、その本分を全うした。技術の話では、ないのだ。彼女は、見習いなどではない。
「医者なのですね……」
 同じように人の幸福を祈りながらも、誰かを犠牲にすることを是とする自分たちとは、ヒノトの目指すところは全く別にあった。
 エイはそれ以上紡ぐべき言葉を失い、ただ彼女と対峙することしかできなかった。


 女官によって用意された部屋は小さくはあったが清潔だ。もともとティアレはさほど豪華な装飾や調度品に頓着するほうではない。
 昔――ティアレがまだ、傾国姫という源氏名で国から国へと売り渡されていた頃、不潔で、立ち上がることもままならないような石造りの牢に閉じ込められることも頻繁にあった。等身大の鳥かごに閉じ込められたこともあれば、豪華な調度品に埋もれるような生活をしたこともある。
 だがそのどれもをティアレは心底厭っていた。ティアレを喜ばせたのはただ一度。ラルトが与えた、簡素で、清潔で、風のよく通る、古い離宮の一室だけだった。
 実際、ティアレはある程度清潔で、人らしい生活が出来る空間であれば、何でもよいと思っている。だから女官が、この小さな部屋を本当に申し訳なさそうに指し示したとき、逆に喜んだほどだった。勝手についてきて、それでも豪奢な部屋を与えられたりでもしたら、気が咎める。もっともそれは、酷く勝手な言い分なのかもしれないが。
 部屋は静かだった。窓からは庭と、高い生垣と、その向こうに広がる瓦屋根がよく見えた。ダッシリナの街並みは、ブルークリッカァの街並みとよく似ているが、微妙に違う。朱塗りの瓦などはその典型で、屋根が軒並み朱だ。馬車から見た歩く人々の身につける衣服も、ブルークリッカァのそれよりも原色に近い。色彩豊かだった。
(遠くへ来てしまった)
 かつて、娼婦として旅した道のりよりもはるかに短い距離。それでも、ここ数年、ラルトの傍を離れることがなかったためか、彼の傍を離れての道程は、振り返ればとても長いものに感じられた。
 ヒノトが最初に、都に戻ることを提案したとき、自分は馬車に残り、そのまま行く道を迷わず選んだ。何故、そんなことができたのだろう。ティアレの選択は、ヒノトに罪を犯させ、ともすればエイの責任すら問う、重いものだと、今ならはっきりとわかるのに。
(どうして、そんなことが、出来たの?)
 ゆっくり休めと、朗らかな笑顔でティアレを送り出したヒノト。だが彼女の立場を考えれば、相応の罰は免れないだろう。
 もしかしたら、このまま医を学ぶことすら、危うくなるかもしれない。
 窓枠を握り締めたまま、ティアレはその場に腰を落とした。自分のあまりの軽率さに、血の気が引いたからだった。
 いつまで、屈みこんでいただろうか。
「ティアレ、入るぞー?」
 扉を軽快に叩く音と共に、控えめなヒノトの声が響く。間もなく姿を現した彼女は、ティアレの姿を見るなり血相を変えて駆け寄ってきた。
「ティアレ! 大丈夫か!?」
「ヒノト……」
「何をしておるのじゃ!? 貧血か!?」
「……いえ」
「誰か助けを」
 そういって、再び廊下に駆けていかんばかりのヒノトの腕を、ティアレは握り締めて押し留める。彼女に微笑みかけて、ティアレは言った。
「大丈夫、ですから」
 ヒノトは一瞬困惑の表情を浮かべ、そして盛大に嘆息を零した。
「立てるか?」
「えぇ」
 ティアレはヒノトの助けを借りながら、整えられた寝台へと歩いた。平気だと主張したいが、ヒノトの目が殺気立っている。大人しく寝台に収まらなければ縛り付けられそうだった。
 寝台の上に身を横たえたティアレを見下ろし、ヒノトが安堵にか、吐息を零した。
「全く、まさか貧血を起こしているとは思わないんだ。大人しく寝台で横になっておれ。身体を休めねばならんと言ったであろうが」
「そうでした」
「忘れるでない」
 そういってヒノトがティアレの頭を軽く小突く。その遠慮のなさに、ティアレはつい笑みを零した。そんな風にティアレに接してくるのは、ラルトを除けばこの少女ぐらいだ。
「……お叱りはうけませんでしたか?」
 エイと二人きりになってどんな会話を交わしたのか。ヒノトが酷く叱られていなければいいけれど。
 いや、それ以上に、彼女に何の罰もなければいい。
「ティアレの命令は絶対じゃ!」
 満面の笑みを浮かべ、ヒノトが応じる。
「本当に……本当に何もなかったのですか?」
 全く何もなかったといわんばかりのヒノトの態度に、ティアレはそんなはずはないと思わず上半身を起こしていた。そのティアレの様子に驚いたのか、ヒノトが僅かばかり身を引いた。
「そりゃぁお小言は言われたが、エイの物言いが多いのはいつものことじゃ。慣れておるよ」
「本当に?」
「本当じゃって」
 ヒノトは頑として主張して譲らない。彼女はティアレの顔をしばらく覗き込み、したり顔になると、口端を吊り上げて両手を腰に当てた。
「ははぁ、ティアレ。おんし妾が何か罰をうけたのかと思うておるのじゃろ」
 図星をつかれ、ティアレは押し黙る。
「安心せいよ」
 ヒノトは言った。そして眉根を寄せて、小さく頬を膨らませる。
「ちょーっとばっかり、作文を書かねばならなくなっただけじゃ」
「……作文ですか」
「そうじゃ! ひどいじゃろ。これから毎日、朝から晩まで反省文! 城の全員に宛てて書く勢いじゃぞ! 酷いと思わんか!?」
「……え? えぇ……」
 ぐ、と顔を近づけてくるヒノトに、ティアレはたじろぎながら頷く。ヒノトは笑って、再び身を引いた。
「その程度じゃ。じゃから、ティアレが案ずるほどではない。ゆっくり、休んで、ティアレはただ体調を整えることだけを考えいよ」
 な、と念押しされて、ティアレはもう一度、頷くことしかできなかった。何も、致命的な懲罰は今のところないのだと、ヒノトは主張する。これも宮城に戻ればわからないが、現在は、全てが保留にされたのだと。
「……ヒノトが、私を診るのですか?」
 これから、ブルークリッカァの都に戻るに十分なティアレの体力が回復するまで、ここに留め置かれるのだろう。その間、誰がティアレの体調を診るのか。
「んー」
 ティアレの問いに、ヒノトが人差し指を顎に当て、思案の表情を浮かべる。
「多分エイにくっついてきておる医者であろうが、もし許されるのなら妾も定期的に様子を見に来る。多分、一緒にお茶するぐらいなら大丈夫であろ」
「……私も、一緒にお話できる体力がつくよう、しっかり休んでおきますね」
 冗談めかしにティアレが言うと、ヒノトが笑った。
「そうじゃよ。しっかり休んで、食べて、よくせぬと、お腹のお子にもよくないからな」
 産むためには、体力をつけなければと、ヒノトは言う。
 そんな風に、いうのも、ヒノトぐらいだ。
 もしティアレが産みたくないといえば、安全に堕胎するために、身体を労わらなければと彼女はいうだろう。その、ただティアレの身を案じるだけの打算のなさに、ティアレは泣きたくなる。
 できることなら、この館にいる間、ヒノトに自分を診ていて欲しいと思う。
 ヒノトは医者だ。紛れもなく。
 ティアレの身を案じている、医者だ。彼女になら、この身を預けてもいいと、ティアレは思った。
 そして同時に感じる。
 ならば我侭を貫き通し、他人に迷惑をかけ、こんなところにいる自分は果たして何なのだろうかと。


BACK/TOP/NEXT