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第六章 わがままの末に 1


 瞼の裏に射した光が眩しく、ティアレは無意識のうちに手で目の上に庇を作っていた。
 しかしどうしてこんなに光が眩しく差し込むのだろう。夢現に瞼を擦り、上半身を起こしながら首を傾げる。
「うぅ……なんじゃ、朝か?」
 傍らで眠っていたヒノトもまた、ティアレと同じように眠たそうに瞼を擦って、舌足らずに呟いた。
 ティアレは目を開けた。今まで幾度か朝と夜を繰り返したが、こんなに眩しい光が差し込むことはかつてなかったのだ。これは果たして太陽の光だろうか。寝起きで霞がかった脳裏で思考する。
 しかし視界の焦点が合うにつれて、ティアレは後ろめたさに息を呑んだ。
 焦点を結んだ視界の中で、戸布を引いた姿勢のまま、男が立ちすくんでいる。よく見知った顔だ。黒髪黒目の人のよさそうなその顔は、水の帝国の左僕射のものである。
 彼の背後には数人の兵士たち。いずれも似たり寄ったりの形相だ。彼らは一様に、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべていた。
 やがて左僕射は、顔色を文字通り紙よりも白くさせ、絶叫したのである。
「何をしていらっしゃるんですかっっっ!?!?!?!? 貴女方は――――っっっ!!!!!!!」


 奥方が姿を消しても、皇帝の私人としての感情の揺れをみせないところはさすがだとは思った。
 レンと呼ばれた女官からの報告を受け取った皇帝は素早く衣服の裾を翻して、事情を知る数人の側近を集め、緘口令を敷いた。と、同時に馬車をイルバの知れぬどこぞに走らせ、皇后は病の療養のため、宮城を離れたかのように偽装した。実際、女官を一人代役に立てて離宮にやったらしい。その判断は一瞬だった。実に鮮やかだった。
 あれから数日を経ているが、皇帝は見かけるたびに憔悴の色を濃くしていた。彼の顔色は部外者であるイルバからみても、悲痛だった。
 ラルトの疲れの色が濃くなると、息抜きしろとばかりに、シノがイルバの部屋に彼を叩き込む。会話しているほうが気が紛れるということもあってか、この部屋にいる間、皇帝は饒舌だった。
「ちゃんと飯はくってんのか?」
 この頃になると口調も態度も砕けて、イルバはラルトを年下の青年程度にしか扱わなくなっていた。それを望んだのはほかならぬラルトだ。夜半には酒と肴をつまむことが慣例である。イルバは落花生を蜂蜜で炒ったものを摘みながら、皇帝に尋ねた。
「食べてるよ」
「本当かよ」
「五月蝿い女官長がいるんだ。知ってるだろ?」
「あぁ、なんつーか納得だ」
 ラルトが誰を示唆しているのかわかって、イルバは天井を仰ぎ見た。ラルトを気遣い、気丈に振舞う女官長は、今日もラルトを鼓舞し、女官たちに采配を揮っている。ラルトはシノの剣幕を思い出しているのか、くすくすと笑っていて、イルバもつられて笑みを零した。
「エイたちを追いかけさせた早馬からは連絡は届いたのかよ?」
「いいやまだだ。多分豪雨に捕まったんだろう。彼らがエイに追いつくには少々時間がかかるはずだ」
「あっちにいりゃぁいいがな」
「あぁ」
 頷く皇帝の表情は、痛々しい。城内も国内も、内々に手を伸ばして行方不明となった皇后を探させているが、それらしい姿は一向に見当たらないのだ。
 皇后ティアレ・フォシアナ・リクルイトの姿が見えなくなり、最初に誰もが危惧したのは彼女の誘拐、もしくは暗殺だった。先日、古株の大臣の謀反によって、后妃の暗殺未遂事件が起こったばかりだったというから、なおさらだ。
 そういったことを想定して、捜索の指示を出す皇帝に口を挟んだのが、イルバだった。
『もしかしたら、ちがうかもしれねぇぜ』
 たまたま報告の場に居合わせ、半狂乱になりかけたシノを落ち着かせる意味でも、事情を知らされることになったイルバは、ラルトに提案をしたのだ。
 皇后が行方不明になった刻限に、暁の占国ダッシリナへと出発したエイ・カンウの後を、追いかけてみてはと。
『エイを追いかける?』
 提案を聞いたラルトは、怪訝そうな顔をして首をかしげていた。そのときイルバの心中にあったのは、一人の少女の横顔だった。ティアレと共に姿を消しているという、医師見習いの少女の横顔。
 ヒノトという彼女がティアレのことについて酷く悩み、イルバに相談を持ちかけたのは、彼女らが姿を消した前日の夜だ。何をそんなに悩むことがあるのかと、相談を聞いているときはさほど深刻に捉えていなかった。
 だがアレが、ほかならぬその少女の手による、ティアレの誘拐だとしたら。
 それを実行すべきか否かを、悩んでいたとしたら。
 その考えをイルバがラルトに打ち明けたとき、彼はそんな馬鹿なと立ち尽くしはしたが、すぐにエイに早馬を送った。エイが引き連れた馬車には人も乗らぬ荷馬車も幾台かある。幌の片隅に隠れて都を出ることは不可能ではなかったのだ。
 だが早馬はエイにすぐ追いつくことはなかった。豪雨に足止めされたと、遣いから連絡があったのである。エイたち特使は豪雨を上手く切り抜けてしまったらしかった。
「ここまで長い間連絡がないとなると、やっぱりエイの馬車にはいないのかもしれない」
 ラルトの杯に注がれた酒は、一向に減る気配をみせなかった。喉の渇きを覚えているだろうに、イルバの部屋にやってきてから、彼は一滴の水、ひとかけらの食べ物すら口にしていない。
 膝の上に手を組んで、虚空を睨み据えるようにして、皇帝は言葉を続ける。
「いくら早馬が足を止められたからといって、これほど長く連絡がないのはおかしい。エイの馬車にティーとヒノトが隠れているといっても、見つからないはずがない。荷台は人が乗るために作られているわけじゃないんだ。隠れているといっても限界があるだろう」
(確かに)
 ラルトの言葉を聴きながら、イルバは胸中で呻いた。
(見つかれば馬がこちらに来て、かち合うはずだしな)
 ラルトの言う通りだ。人の乗る馬車は眠ることも配慮して内装に手を施してある。だが荷馬車のほうはそうではない。身重な上に病で弱った后妃と、左僕射の手厚い庇護を受けているらしい一介の医者見習いの少女が、果たして誰にも見つからず何日も隠れ続けることができるだろうか。
 可能性として、答えは否だ。
 見つかればエイはすぐにこちらに連絡を取ろうとするはずだ。そうすれば早馬同士がかちあって、連絡が来ることもありうる。
 が。
「もしかして、互いに行き違ってしまったのかもしれねぇだろうが。そう気を落とすな」
「それはそうだが」
「大丈夫だ、ちゃんと見つかる。どんな形であれ、生きているにちがいねぇんだ」
「どういう意味だ?」
「后妃が姿を消したっつうことは、いきなり死体で見つかるっていうことはまずねぇっつうことだ」
 シノがここにいれば、そんな物騒なことを口にしないでくださいと、烈火のごとく怒っただろう。だが、婉曲な慰めはこの皇帝にはいらない。この国で最も聡明な政治家なのだ。ラルト・スヴェイン・リクルイトという男は。
 慰めたところで、彼はただ冷静に状況を受け止めようとするにすぎない。
「だってそうだろ?」
 イルバは肩をすくめてラルトに微笑みかけた。
「犯行勢力が殺したんじゃなくって、誘拐したっつうなら、何か思惑があるっつうことで、生きたまま利用しようとするだろうし、そのうち連絡がくるだろうぜ。俺の予想が正しく、あのヒノトのお嬢ちゃんが妃殿下を連れていってっちまった、もしくは二人で共謀して、ちょっと姿を隠したぐらいなら、すぐ見つかるだろ」
 イルバの解説に、ラルトは頷く。彼もイルバと同じ考えに至っているに違いないのだ。それでも先行き暗い予想を口にしてしまうのは、心配だからだろう。
 それにしても、と思う。
 イルバのかつての主、ワジールと異なって、ラルトは有能で信用できる部下を幾人も抱える男だ。なのにどうして、こんな状態の彼を支える人間がいないのだろう。彼の周囲に、政治の経験が長い人間がいないことも気になった。彼の側近とも言えるエイ・カンウはまだ二十代前半。そして右僕射の椅子は不在ときている。宰相は外交という名目で穴を開けているが、どうやらここ何年も姿を見せていないらしい。
 宰相のことを口にする際のラルトやエイに抱いた、違和感の正体はこれなのだ。
(どうにもおかしい国だ)
 復興したと名高い、古き帝国。
 だがその内情は、酷く危ういものなのではないだろうかと、イルバは感じていた。


 かくれんぼをしていたのだと、女官たちは言う。
 最初はヒノトが提案した、ティアレの気分転換の為の遊びだったのだという。最近つわりと心労のせいでティアレは奥の離宮に引き篭もりがちだった。その彼女を見かねてヒノトが提案し、そしてティアレもその案に乗った。ほぼ半日を使って、彼女らは気分転換に興じ。
 その終わりの遊戯だったという。
 徹底的に調べさせたが、攫われたような形跡はない。イルバの言う通り、ティアレたちは自分で姿を隠した可能性が高かった。
(どちらでもいい)
 ラルトは瞼を閉じながら胸中で呻いた。
(生きていれば、どちらでもいいんだ……)
 生きて、きちんとラルトの元に戻ってくるのなら。
 まずは、母だった。
 その次は共に国の復興を目指した仲間たちであり、そして自分を孫同然に見守ってくれていたジンの祖父だった。そしてレイヤーナ。次は、生きているだろうけれども、一向に戻る気配を見せないジン。
 皆、誰もが、この手のひらから零れ落ちていった。
(何が、間違ってるんだ)
 ラルトは己の膝の上で拳を形作る両手を見つめた。血の気を失って震える手は、まるで自分のものではないかのようだ。力をこめて、指を閉じる。開く。その一連の動作が非常に緩慢に視界に映った。
 何が間違っているのだ。繰り返し胸中で自問する。この国を立て直そうと決めたのは、もう誰一人として失いたくないからだった。だというのに、一人、また一人と手のひらから零れ落ち行く。
 そして、ティアレだ。まだ零れ落ちると決まったわけではないが、それでも喪失に慣れた思考が最悪を予想する。
「大丈夫か?」
 声をかけられて、ラルトは自分がこの場所に一人でいないことを再び思い出した。
 イルバは眉根を寄せて、少し腰を浮かしている。対面に腰を下ろすこちらの顔色がよくなかったのだろうか。決して血色がよいわけではないという自覚はある。十ほど年の離れた異国の客は、もともとはその筋では有名な政治家であるだけ、話が通じ、こちらの内情に深く踏み込まず、よくラルトを気遣ってくれていた。
 実際、酷く助かっていた。
「シノにも言われてるんだろうし、自覚もしてるんだろうから、俺はあんま口うるさくいいたかねぇんだけどよ、飯は食えよ」
 イルバはそういって、まったく手のつけられた形跡のない、ラルトの分の酒と、肴を指差した。
「最近どんどん食が細くなってっだろお前。俺はシノと留守の左僕射殿に、あんたがぶっ倒れないように見張りを言い渡されちまったんだからな。洒落にならねぇだろ? 皇后と皇帝が揃ってぶっ倒れてちゃ」
「あぁ……その通りだ」
 ラルトは頷いて、箸に手をつけた。
 この男と酒を酌み交わしながらたわいもない話に興じる間は気が紛れる。食事もここで取ることが多くなっていた。一人で食べると、どうしても胃が受け付けない。大臣たちとの会食で口にしたものも、吐くことが多くなった。
「人に言ったことが自分に返ってくるっていうのは本当だな」
 呟きながら、箸先を黒豆の煮つけに触れさせる。
「ティーも最近随分と食が細くなっていた。俺もお前と同じことを彼女に言ったよイルバ。胃が受け付けないっていう彼女の言葉がよく理解できる。本当に何も食べたくないんだからな」
「それでも食べなきゃやってられねぇ皇帝を、アンタは選んでやっているんだ」
 イルバの言葉にラルトは苦笑して頷いた。
 世界の国のほとんどが封建主義や君主制をとった国家だ。皆、皇帝や王を頂点に戴いている。そのうちどれだけの王が、自ら執政を行っているのか。日がな狩猟に興じ、後宮に篭る王も少なくはないはずだ。
 王が怠惰でも、世界は回る。
 それでも、ただ、国を守ることに従事する政治家としての道を選び取ったのは、他でもないラルト自身だった。
「こういうとき」
 ラルトは口の中に煮しめを放り込みながら言った。よく味付けられているはずのそれは、まるで砂のような感触しかしなかった。
「皇帝という職が嫌になる」
 イルバは黙って聞いていた。それをいいことに、一度開いた口は、なかなか閉じようとしなかった。
「時折、考えることがあるんだ。……俺が、皇族に生まれなかったら。田畑を耕し、誰かに虐げられながら、それでも自由な身であれるのなら、自分は誰も失わずに、いられたんじゃないか、と」
 血の河を渡らずに、すんだのではないだろうか。
 親しかったものたちがある日、牙をむく。心を磨耗させながら、一人、また一人と手をかける。
 それでも、手の中に残ったものさえ、少しずつ、指の隙間から零れ落ちていく。
煩悶するラルトに、イルバが一言だけ口を挟んだ。
「どんな生まれであったとしても、苦難と喪失は平等に降りかかるだろうさ」
 彼が酒の杯を置いて、暗い窓の外に視線を移す。
「飢えに親を失うガキもいるだろうし、あんたみたいな立場の奴もいるだろう。幸せであったとしても、ある日手立てのしようのない病や事故で、愛するものを失う奴もいるだろうさ」
「……そうだな」
 イルバの言う通りだ。
 どんな生まれであったとしても、苦難と喪失は平等に降りかかる。
 そんな心中を口に出すことは、自分を皇帝として仰ぎ、付き従うものたちを馬鹿にすることに等しい。
 判っていた、はずなのに。
 それを口に出してしまうということは、自分が酷く弱っている証左だろうか。
 それとも、このイルバという男の持てる何かのせいだろうか。彼には、人の弱みを吐露させる何かがある。
「けどまぁ」
 彼は肩をすくめ、玻璃でできた杯を静かに傾けて言った。
「人間、どんな職についていても、辞めたくなる瞬間っつうのはあるもんだ。この職についていなければ、こんな生まれでなければ、そんなのは、人間誰しも、思うことだろうよ」
 そしてそれはお前にすら例外ではない。
 あまりにも当然というふうに、そう言われたので、ラルトはなんだか肩透かしを食らった気分を味わった。そうだな、と笑って、再び並べられた酒の肴を口にする。
 今度は、きちんと調理されたものらしい味がした。
 そうやって、時折会話を挟みながら、小鉢をいくつか平らげた頃だった。
 扉を叩く音が激しく部屋に響き、ラルトとイルバはほぼ同時に面を上げた。入室の許可を与える間もなく、開いた扉から人影が滑り出る。ラルトたちの前に膝をついたのはスクネだった。
「無礼をお許しください。ただ、ご報告をさせていただきます」
 元暗部出身の文官は、黒目にラルトたちを写して、かすかに微笑んだ。
「たった今、妃殿下発見の報が、左僕射より届きましてにございます……!!!!」


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