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第五章 誤った針路 3


 彼は高笑いしながら人ごみの中を歩いていた。彼の笑いに周囲の人間が目をむきながら距離をとる。だがそれすらも気にならぬほど、彼は気分がよかった。
 ささいな偶然によって手に入れた券が、彼の報復に一役買うとは、あの紙切れを拾ったときには思いも寄らなかった。
 女が乗ろうとしていた船とは別の船。スリの要領でぶつかった拍子に素早く女の券一枚をすり替え、異なる券を面にして女に手渡した。女は一枚がすりかえられたとも気付かず、その券を眺めながら船を確認していた。あぁ、いい気分だ。女の片割れは女の乗る船には現れない。女と男がどういう関係であるのか、彼にはどうでもいいことであったが、彼らを引き裂く悪戯が成功したことに気分は高揚していた。
 彼は小心者だった。逆恨みし、正面から勝負を挑もうなどという考えは毛頭なく、悪戯で溜飲を下げるあたりが小物だと、自覚はしていなかった。
 彼は笑った。笑い続けた。そして何事もなく、人ごみの中に埋没していった。


 こうも立て続けに故郷に関わる話題を耳にすると、気味悪くすら思えてくる。
(何なんだ)
 ジンは人ごみかきわけ、港を早足で進みながら、胸中で独りごちた。
 旅を始めてから四年――そろそろ五年目に入る。あの花舞い散る春から、もうそれほどの月日が流れた。その間、東大陸の噂を耳にすることは本当に数えるほどだった。水の帝国の復興の足音は時折聞こえていた。その周辺諸国の噂も。だが、本当に、風の戯れのように耳に入るだけであったのに。
 この数日で、立て続けに。
 暁の占国ダッシリナ。
 ジンがこの択郷の都での平和な日々に現を抜かしている間に、あちらではじわじわときな臭いものが漂い始めていたらしい。
(何なんだ今更)
 胸中で呻きながら、ジンは歯噛みする。
(どうこういったって、俺はあちらには戻れないのに)
 東の大陸には――無論、ダッシリナにも、ジンが自らの手で引いた諜報のための網がある。あの春にその網の長はラルトに譲り渡されている。今も完璧に機能しているだろう。
 万が一、ジンが東の大陸に舞い戻れば、どこにいてもジンの姿をその網は拾い上げる。彼らは、何故ジンが水の帝国を去ったか知らないし、ラルトも語ってはいないようだ。何も知らぬ網は、すぐさま現在の主――ラルトに、ジンの居場所を報告する。そうして、ラルトはどう動くのだろう。未だに、宰相不在などと公表している馬鹿な幼馴染は。
 戻りたい。
 戻れない。
 戻る決心が、付かない。
 ただ、恐ろしい。
 何が恐ろしいのか、明確に口にすることはできないけれども。
「……シファカ?」
 待合所にたどり着くと、ジンは相方の名前を呼んだ。待合所はジンが入り込めそうにないほど込み合っていて、いくら視線をめぐらせても、娘の姿は見当たらない。ジンは、そこで初めて焦燥を覚えた。
 この場所にシファカがいないのは明らかだ。この群集のせいで、中に入れなかったのだろうということは安易に想像がつく。外で待つことも難しいだろう人の群れ。ならば彼女はどこへいったか。ほかに待ち合わせ場所などは打ち合わせてはいなかった。
 券売所か、それとも事務所のほうか。別の待合所か。この場所で待つことができないとなったとき、どこならば自分がシファカを見つけると、彼女は想像するのだろう。万が一の別の待ち合わせ場所を指定しておけばよかった。迂闊だった。
 様々な予測を考慮して、ジンは船着場のほうへとつま先を向けた。他の場所を一通り廻るにしても、時間がなさ過ぎる。船の出発の時間は差し迫っていた。
(いない)
 視線を巡らせ、気配を探りながら歩くが、往来する人々の中にシファカの姿は見当たらなかった。たとえ気配や後姿だけであっても、周囲にいれば気付く自信はある。だがどこにも彼女の黒髪は見当たらず、ジンは歯噛みしながら道を進んでいった。
 暑苦しさに一度外套を脱いで丸め、小脇に抱える。そうして再び歩き出し、とうとう船着場についたが、それでもシファカは見当たらない。
 巨大な桟橋の人通りはまばらだ。こちらに来た人々はまるで吸い込まれるようにして船に乗り込んでいくからだろう。数人が待合の為の長椅子に腰掛けている。おそらく、見送りかなにかだ。
 一度桟橋を往復したが、やはりシファカは見当たらない。既に到着し、出航の時間を待っている乗るべき船の係員にシファカの容姿を説明して尋ねたが、彼は力なく首を横に振るばかりだ。
 一度、施設が集中している通りのほうへと戻ってみるかと、ジンは考えた。それは埠頭の入り口へ逆戻りすることを意味し、また確実に船に乗り遅れるということでもある。しかし、船に乗り遅れる云々よりも、シファカとはぐれることのほうが恐ろしかった。既に、一度身を引き裂かれそうな別離――もっともこれは、自業自得であるのだが――を経験した身であるので、二度目の別れは確実に耐えられそうもないと判りきっている。
 そうして、踵を返しかけたその時。
 ぎゅむ
 長椅子に腰掛けていた老婦人の手が、唐突にジンの衣服の裾を掴み、ジンは驚きに目をむきながら首を傾げていた。
「……え?」


 シファカは船の中を駆け回っていた。本格的に船が港を離れるまでもう時間がない。二度目の鐘を鳴らすために船の傍らにある鍾台に待機している男は、鐘突き棒を天高く掲げ構えている。
(どうしていないんだ!?)
 ジンが先に乗り込んでいるという目撃情報に従って、船に乗り込んだわけだが、どれだけ乗客の中を駆け回っても目的の人物は見つからなかった。あの情報は人違いだったのだろうか。だがそれにしても、ジンと似た容姿の男さえ見つからない。
 シファカは焦っていた。泣き出しそうだとも思う。ここに来てまた彼と別れるのだろうか。そんなことはもう二度と御免だ。
 故郷の国で、ジンとすれ違ったまま別れてしまったとき、どれだけ後悔しただろう。あの、胸を鷲づかみにされるような喪失感は、もう二度と味わいたくない。
 シファカは最後にもう一度、と外に繋がる橋がかけられた一階の甲板に下りた。
 そしてそこで、目を疑った。


「……俺が?」
 シファカを見たという老婦人の説明に、ジンは首を横に振った。
「馬鹿な。俺があの船にのってるだなんて。誰だそんなこといったの。俺はついさっき、こっちについたばかりだっていうのに……」
 その言葉は老婦人に向けて、というよりも思考を整理するための独白のようなものだった。しかし苛立ちが濃く滲んだジンの口調に、老婦人は気分を害したらしい。彼女は少しむっとした表情を見せて、でもね、と言葉を続けてくる。
「確かに、貴方が乗ったって言った人がいたのよ。ちょっと濃いめの金の目、金の髪。西大陸民族の容姿。その男が、あのお嬢さんを探していて、そして一足先に船にのったのだって。あなたみたいな目立つ容姿、間違えないわ。説明を聞いただけの私が、すぐに判ったぐらいですもの」
「俺の容姿を知っていた?」
「そうよ」
 ジンは思わず渋面になった。ジンとシファカを引き裂こうと、画策した輩がいるようだ。一体誰が、と思いかけ、どうでもいいことだ、と考え直した。ひとまず、シファカと合流しなければならない。
 かん、と。
 鐘がなって、ジンは戦慄しながら背後を振りかえった。シファカが乗ったという七番の船の脇にある鐘楼の上で、男が出航の合図を打ち鳴らしている。二度目の鐘は離港の合図だ。船と桟橋を繋ぐ架け橋が、ゆっくりと離れていく。
 ふと、声がした。
「ジン――――!!!!」
 桟橋を繋ぐ架け橋の脇の甲板に、声の主はあった。
「シファカ…………!!!!!」


 ジンだ。
 ジンがいる。
 だがシファカはどうすべきか逡巡した。ジンはいるにはいたが、そこは船の下、桟橋の上だったからだ。
「ジン、どうして」
 シファカを探して、船に乗らなかったのか。
 だがジンがこちらに向かって駆け出しながら、シファカの予想とは違う回答を叫んでいた。
「シファカ――!!! その船はっ……!!!! 違うっっ!!!!!!!」
「……え、えぇええぇ!?!?」
 だが確かに、券にはこの船の番号が書いてあったではないか。
 シファカは慌てて架け橋に向かって駆け出したが、甲板の手すりを越えようとしたところで周囲に取り押さえられてしまった。
「何をしているんだ!?」
「ちょ、は、放してっ……!!!!」
 屈強な船員に背後から羽交い締めにされたシファカは、どうにかしてその腕を振りほどこうとした。だがそうしている間にも、架け橋は船から徐々に遠ざかっていく。
「暴れるな! おい! 誰かこっちへ!」
「なんだ!? どうしたんだよ!?」
「ちょ、お願いだから放せってば!!!!!」
 シファカは叫んだ。
「ジィィ――――ンッッッ!!!!!」


 無我夢中だった。
 老婦人に礼を言う間もなく、ジンは直ちにその場を離れ、船の上部へと続く橋を駆け上っていた。鐘は既に鳴り終わっている。船はゆっくりと、しかし確実に港から離れている。速度が出れば、無補給船はあっという間に海上に出てしまうだろう。それまでに、なんとしても船に飛び移らなければ。
 船と橋の間には既にかなりの距離が開いていた。ぱん、という炸裂音が耳に届く。確認せずとも、帆が張られた音だということはすぐに判った。一度帆が張られると、船は加速する。ジンは肺が引き絞られていく感覚を味わいながら、常人ならまず躊躇するだろう距離を跳躍した。
 刹那、身体にかかる、重力。
 さらに手首に括りつけている荷物一切が、ジンの身体を大地のほうへと強く引っ張る。
(駄目か)
 そう諦めかけた瞬間。
 温かな手が、ジンの手首を取った。


「うっ……つぅ!!!!」
 シファカは身体に掛かる負荷に悲鳴を上げそうになりながら、どうにか踏ん張った。気が緩めば、そのまま海に落下してしまいそうな重さ。もっともこの手の先に繋がっている相手がジンであれば、二人で落ちるのも悪くはないかもしれないが。
「だれかー!!!! 誰か縄もってこぉいー!!!!!」
 シファカの背後で、慌しく人が動く。彼らは離れていく橋に飛び移ろうとするシファカにも驚愕したようだが、それ以上に、実際に橋を飛び出してしまったジンにも度肝を抜かれているらしかった。シファカを羽交い締めにしていた船乗りが、シファカの真横から支えに入る。彼がシファカと共にジンの腕をとったお陰で、幾許か負担は軽くなった。
 しかし一番表情を歪めているのは、宙吊りの状態になったジンだ。船はシファカも驚くほどの速さで港を離れつつある。風にあおられ、彼の身体は右へ左へと振り子のように揺れていた。
「こっちをつかめー!!!!」
 船乗りの掛け声と共に、シファカの背後から人の腕ほどもある太さの縄が、ジンの元へと投げ入れられる。ジンは苦悶の表情を浮かべたまま、どうにかもう片方の手でその縄を掴んだ。反動で、ジンの身体が前後に大きく振られる。それに引きずられ、落ちると思った瞬間、シファカの手から重みが消えた。ジンの手が、離れたのだ。
「ジン!?」
「いるよ」
 思わず身を乗り出して手すりの外を覗き込んだシファカは、突如眼前に現れたジンの顔に瞬いた。
「ごめん、シファカ、どいて」
「あああぁ、そうだねごめん!」
 男たちが縄を引き上げ、それに引きずられる形で、とうとうジンの上半身が姿を現す。シファカは慌てて飛びのいた。ジンが、手すりに手をかけ、先に荷物を投げ入れる。どっがしゃっ、という鈍い音を立てて、彼の獲物である青龍刀と着替えなどが詰まった皮袋が甲板の床の上に落下した。
「引き上げろ!!!!」
 縄から手を放した船乗りたちが、ジンの身体を掴んで引き上げる。ジンは転がり落ちるようにして手すりを越えた。その反動で彼を引き上げていた船乗りたち数人は尻餅をつく。ジンは甲板の上で受身をとった体勢のまま、荒い息を繰り返して動こうとしない。
「じ、ジン……!」
 シファカはジンの傍に膝をついて、彼の顔を覗き込んだ。ジンは空気を求めて喘いでいる。その髪が汗で首筋に張り付いていた。軽く咳き込んですらいて、彼の背をゆっくりとなでながら、シファカは何を言うべきか迷った。
 ジンが、シファカの手を握った。汗ばんだ手は相変わらずひやりとしていて、故郷の夜を思い起こさせる。荒野の夜は酷く冷えた――ジンの手は丁度、夜の荒野の砂の温度だった。
「あぁ……」
 彼はシファカの手を引き寄せながら、呻く。
「はぐれなくて、よかった」
 彼の声音には、心からの安堵が滲んでいて、シファカは彼の手の温度を噛み締めながら、頷いた。
「……うん」
 よかった。
 本当に。
 だがそんな感傷に浸っている暇もなく、背後から船乗りたちが割り入った。
「何やらかしやがるんだてめぇらは!!!!」
「す、すみません!!!」
 反射的に立ち上がり、振り返りながらシファカは頭を下げていた。シファカの目の前で仁王立ちになっているのはジンの引き上げに真っ先に取り掛かってくれた体躯のよい船乗りだ。彼は憤怒の色を明らかにして、諸手を広げてまくし立ててくる。
「いいか!? 港を離れる無補給船に飛び移ろうなんて正気の沙汰じゃねぇ。船から飛び降りようとするのもだ!」
「すみません!」
「ごめん、この子を怒らないで」
 頭を下げるシファカを庇うように、いつの間にかジンが立っていた。あれだけの無茶をした後でも、涼しげな表情を見せるジンに、船乗りは呆気に取られたらしい。毒気を抜かれた表情をした男に、ジンが畳み掛ける。
「俺が迂闊だった。この子は船に初めて乗るんだ。先にいかせるんじゃなかったよ」
 はぁ、と嘆息するジンを見て、シファカは申し訳ない気持ちになった。傭兵として、剣を振るう腕は遜色なくとも、やはり世界の常識についてはジンのほうがぬきんでている。彼と行動していると、時折こんな風に、間違いをやらかしてしまう。そして庇護される子供のような気分になるのだ。
 ジンは船乗りたちを見つめながら続ける。
「船に間違えて乗ってるなんて。でもそれはそっちの過失でもある。船券は、確認しなかったの?」
「確認しなけりゃ船にはのせねぇ」
 船乗りはようやく口を開いた。
「券は確認した。この船の券に、間違いはなかったはずだ」
「ジン、券は確かに七番だ」
 シファカは懐から二枚の船の券を出して、ジンに手渡した。渡す寸前に一瞥したが、上の券に書かれている番号は七番だ。それらを一枚ずつ順番に眺め、彼は僅かに顔をしかめる。
「シファカ、こっちの券は、三番だよ」
「……え?」
 ジンが、券のうち一枚をシファカに返した。ずっと下に重ねていたほうの券である。ジンからそれを引き取って視線を券の上に落としたシファカは、血の気のひく音を聞いた。
「私、間違った?」
「君は間違っていない」
 ジンは断言した。
「けれど発券の段階で間違ったんだろう。多分。でなければ一枚が正しい券だというのはおかしい」
「ちょっと見せてくれ」
 そういって船乗りはシファカの手から正しい船券を引き取った。彼はその券を眺め、眉間に皺を刻み、ため息を零しながら、再びそれをシファカの手の中に戻した。
「こちらの落ち度だ。海船協会のほうにはこちらから連絡しておく。二枚、きちんと券を見てなかった俺たちも悪かったからな。……何はともあれ、あんたら二人とも無事乗船してなによりだ」
 己に非があると認めた船乗りが、態度を改めるのは早かった。彼は面から怒りを消すと、背後に控える船乗りたちに、部屋と飲み物を用意するように指示を出した。様子からすると、船長ではないようだが、彼はそれなりに地位のある船乗りであるらしい。
「申し訳ないがな」
 後片付けまで指示を出し終わると、彼は再びシファカたちに向き直り、一言言い置いた。
「この船は止まるには時間がかかる」
「無補給船なら……そうだろうね」
「こんだけ港から離れてもいる」
 船乗りの言葉に、シファカは背後を振り返った。いつの間にかつい先ほどまでいたはずのグワバの港は姿を消し、地平も既に水平線に溶け込んでしまっている。広がっているのは空と海の青ばかりだ。そこに、絵画として描かれたかのような雲が、くっきりとした陰影を刻んでいる。
(なんて、速い)
 無補給船は速いと聞いていたが、こんなに速度が出るものだと思っていなかった。よく、ジンは振り落とされなかったものだと改めて思う。
「一度止まって港に戻っても、結局あんたらの船はもう出港しちまってるだろう」
 船乗りは言った。
「三番の船は、確か西大陸行きだったな。ペルフィリア?」
「いや、ゼムナム」
 船乗りとジンの会話を聞きながら、シファカはジンの分の船券に視線を落とした。桟橋の番号は三番。行き先として、西大陸の小さな港町の名前が記載されている。確かその町のある国の名前が、ゼムナムだった。
「不幸かもしれねぇが、船長がよしといわねぇかぎり船はもどらねぇし、マナメラネアにもよらねぇだろうよ。この船の客は、その大部分が、急いでいるから高い金払って乗ってる奴らだ。たった一組の為に船が止まるっていうことは、人命に関るとかでねぇかぎりまずねぇだろう。悪いな」
「……マナメラネアってどこ?」
 聞き慣れない地名を耳にし、思わず尋ねたシファカに、ジンが振り返って応じた。
「諸島連国だよ、シファカ。普通の船は必ず寄る、海上の船の中継地」
「無補給船も進路によっちゃ停泊するんだが、この船は目的地に直接進路をとってるからな。マナメラネアには寄らねぇ」
 残念だったな、と船乗りは漏らし、ジンが首を横に振った。
「それでも、部屋は用意してくれるんだよね?」
「券の一枚はこの船のもんだし、一室広めの二人部屋が空いてるから、そこをあんたら二人に割り当てるようにしよう。こちら側の落ち度だ。船長もそこらへんは文句はいわねぇ。協会に、料金は払ってくれてるわけだしな」
 ならかまわないとジンは言った。シファカもまた安堵した。なんにせよ、船に乗ってどこかへ辿りつくことには変わりがないのだ。いく先の予定が少し、変更になるだけで。
 野次馬と化していた船の客は既にシファカたちには興味をなくし、方々に散っている。船乗りたちも持ち場に戻っていた。船の甲板の上には出店のようなものが並んでいて、小さな市が立っている。船の上に市というのは奇妙なものだ。他にもシファカにとっては物珍しい大きく張られた帆や、忙しない船乗りたちの動きに、つい目を奪われる。その脇で、ジンと船乗りの男はいくつか確認のやり取りを行っていた。
「――最後に」
 会話の終わりのジンの言葉に、シファカは面を上げた。
「この船は、どこに向かってんの?」
 ジンの問いは、何気ない普通の問いだった。そういえば、まだこの船の目的地について知らなかった。ジンと並んで、シファカは船乗りの男の回答を待った。
 男は持ち場に戻ろうと踵を返しかけており、白い歯を笑った口元から覗かせて、問いに答えた。
「ダッシリナだ」
 刹那。
 凍りつく。
 彼の、顔。
「……ジン?」
 シファカは思わずジンの顔を覗き込んでいた。シファカだけではない。船乗りの男から見ても、ジンの顔色の変化は明らかだったのだろう。返しかけていた足を止め、船乗りの男は怪訝そうな面持ちで首を傾げる。
「……どうした?」
「……ダッシリナ?」
 ジンの唇から、問いとも呻きとも取れない声が漏れる。
「暁の、占国?」
 ジンの唇は震えていた。血の気を失っているといっても過言ではない。
ジンの言葉に、男が頷く。
「そうだ。ダッシリナの首都に、この船は入る」
「……ダッシリナって、どこ、なんだ?」
 呆然と足をすくませているジンの前に身を乗り出して、シファカは船乗りの男に尋ねた。彼はシファカとジンの顔を見比べ、そして僅かにジンの表情が気に掛かった様子をみせながらも、シファカに向き直った。
 そして、彼は答える。
「東大陸だ」
 暁の占国ダッシリナ。
 世界最古の帝国、水の帝国ブルークリッカァの隣国。
 この船が進路をとるのは、まもなく年に一度の祭りが始まる、占い師たちの国に向かってだと、船乗りは言った。


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