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第五章 誤った針路 2


 シファカを港のほうへと一足先に送り出し、乗合馬車に乗り込んで、関所へ向かう。何故港で出国の手続きをしてくれないのだろうと、ジンは苛立ちを隠せなかった。大抵の国では、どの門から入国しても港で出国の手続きを終えられるはずだが、なぜか択郷の都ともあろうこの町ではそうなっていない。入国した場所で出国手続きを行うことになっている。理由は、絶え間なく人が出入りする場所で、手続きの場所を限定しなければいつどこの門を通って入国したか、確認がしづらいからであるらしい。だったら前日に手続きをさせてくれてもいいだろうに。それも駄目だということだった。どうやら少し早めに出国手続きを終えてから、犯罪に手を染める輩が後を絶たなかったらしい。
 乗合馬車は込み合っている。乗客の半分はこの土地の住人で、残り半分はいかにも別の国からやってきたばかりらしい人々だった。皆粗末な衣服に、一抱えの荷を膝の上に乗せている。向かいの席に腰を下ろしている母子もそうだった。
「すみません」
 入国の際の門と、役所が遠くに見えてきたころだった。そわそわと落ち着かない様子の母子が、ジンに声を掛けてきた。
「亡命の、手続きは、こちらの馬車が向かう役所でよいのです、よね?」
「亡命の手続き?」
「はい」
 婦人のほうは年の頃五十ほどの女で、明らかにこの近隣のものではない衣服を身につけている。子供のほうはまだ年端もいかないような童子だった。
「そうですねぇ。俺もあまり詳しいほうではないんだけど、多分この馬車とは違うと思いますよ?」
 ジンの回答に、親子の顔色が変わる。だがそ知らぬふりをして、ジンは言葉を続けた。
「街の中央に、短期の住民として登録する役所があります。多分そちらのほうかと」
「あの……ここからは歩いてどれぐらいでしょうか」
「歩いて…そうだな。一刻……ぐらい、かな」
 馬車で行けばほんの僅かな時間でいける距離だが、徒歩となると話は別だ。この街の通りは整然と舗装され、歩きやすいとはいえど、徒歩でいけば二刻はかかるだろう。
 だが正確な距離を知らせれば、あまりに彼女らを落胆させてしまいそうだった。
「一刻、ですか」
「誰かがこちらだろうって言ったんですか?」
「え、えぇ……通りすがりの方にお伺いして」
「気をつけたほうがいいですよ」
 ジンは微笑みかけながら、親子に忠告してやった。
「この時期、この国の人口の半分以上を他国からの人間が占める。場所なりなんなりを訪ねたいなら、きちんと役所や、店を構えている人のところへといって尋ねたほうがいいですね」
「では貴方はこのお国の方なんですか?」
「いや、俺は今からこの国を出国するところ」
 見ての通りの旅人だというと、夫人は僅かに顔をしかめた。正直な女だ。
「今日、ついたんですか?」
「え。えぇ……船で」
「国は?」
 黒髪黒目の親子は、どうみても東大陸からの人間であった。身につけている衣装にしても、ジンのよく知る形だ。案の定、女は東大陸から、と答え、少し置いて出身国を補足した。
「……ダッシリナという国をご存知で?」
「えぇ」
 ジンは頷いた。そしてある意味予想していた回答だった。先だって、情報屋からダッシリナの荒れ具合を聞いたばかりで、亡命という言葉を耳にすれば予想できる国はひとつだった。メルゼバ共和国はまだ繁栄を謳歌しているし、東大陸の西側の国々も安定した小国ばかりだ。民が逃げるような状況ではないはずだった。
「……ダッシリナがきな臭いという噂は本当だったのですか?」
「そんな噂が流れていますか?」
「どうでしょう。ただ俺はもともと水の帝国出身で。東大陸の情報には耳聡いんです」
「まぁ、そうなんですか?」
 ジンが隣国出身だとわかると、女の顔は驚きと安堵の色に彩られた。警戒が解かれ、女の顔に笑顔が浮かぶ。彼女は誰かに伝えたかったのだろう――早口で、ダッシリナについて話始めた。
「ダッシリナはまだそんなに酷いところだとは、私にも思えないんです。一昨年ぐらいから不作は続いていますし、生活は確かに苦しいですが……ただ、なんか気味悪くて」
「気味が悪い?」
「えぇ」
 女は頷き、子供の頭をゆっくりとなでながら頷いた。
「最近、なんか、皆村の人たちがとても変で……。とっても殺気だっていて。亡命っていうのは焦燥なのかもしれませんし、大げさなのかもしれませんが、それでも怖くて」
「何故、わざわざ海を渡ってこちらに?」
 ジンが仮にダッシリナの人間で亡命するなら、隣国のメルゼバ辺りへ逃げるはずだ。同じ大陸内はやはり風土習慣が似通っているし、自国が落ち着いたときに戻りやすい。あえて海を渡る道理もない。
「私、夫がこちらの出身でしたの」
 婦人は微笑んだ。懐かしむように細められた眼を見て、ジンは眉をひそめる。
「失礼ですが、ご主人は?」
 婦人は、子供に視線を落としてひっそりと呟いた。
「死にました」
 その声音は、憎しみを押し殺した冷たい響きを伴っていた。
 先だって、殺気だった役人と農民の小競り合いに巻き込まれて、殺されたのだと、婦人は言った。


 彼は女を見つけた。女は自分を覚えてはいないだろう。だが彼は彼の仲間が冷たい監獄で生活するようになってから、女の顔を忘れたことはなかった。あの圧倒的な強さを見せられた後では、正面から喧嘩を吹っかける気力もわかない。誰かを雇って襲わせようにも、元手となるような金はまったくなかった。
 彼は女の後を追いかけた。混雑する人の波をかきわけて女の後を追うには骨が折れたが、それでもどうにか後を追い続けることができた。女はどうやら船の券を受け取ろうとしているようだ。女が向かった先は港の事務所で、ここにもまた船の券を手に入れるべく押し合いへしあう人々がひしめいている。女が窓口の前に立ち、一枚の紙切れを出したところで、男はふと己の胸元に手をやった。そこに、同じ形の紙が一枚、皺だらけのまま収められていることを思い出したからだった。
 男は、その紙切れの感触を手で確かめながら、そうだ、と嗤った。
 そうだ、あの女に、ひとつ悪戯を仕掛けてやろう。


 通りを歩いていると、通りがかった大柄の男とぶつかった。その場に数人を巻き込みながら転倒し、その際に受け取ったばかりの船の券を取り落としてしまう。ぶつかった男は親切にも券を拾い上げてシファカに差し出した。券がきちんと二枚あることを確かめ、男に礼を言うと、シファカは再び歩き始めた。
 ジンが心配するほど、手続きは煩雑なものではなかった。ただ彼の間違えてはならないという意味はよくわかった。この手続きの段階で船を間違えてしまうと、乗るべき船すら誤ってしまうからだ。
 そして港は今日も今日とて恐ろしいほどの混み様だった。ジンとの待ち合わせ場所に指定されていた待合所へ向かうにしても一苦労であったし、場所に着いたら着いたでシファカの入り込む隙間がない。親とはぐれたのか、子供が大人の足元で立ちすくみながら火がついたように泣き叫んでいる。その子供をひとまず保護しようとしたものの、目の前に立ちふさがる壁のような人々がそれを許さなかった。
(どうしよう)
 シファカは顔をしかめながら、欠乏する空気に喘いだ。人がひしめき合い、待合所へ足を踏み込めそうもない。シファカとは逆に、中にいる人々もどうやって出ようかと思案している様子だ。結局、逡巡している間にシファカは外のほうへと押しやられ、人の波に流され、気がつけば船着場のほうに吐き出されていた。
 事務所や待合所、検問などが並ぶ埠頭の中でも、そこは混雑していないほう。むしろ人通りが少ないといったほうが正しい。見当たるのは船の出発を待つ人々や、乗組員らしき男たちと抱擁を交わす母子。浮浪者の体をした老若男女が、通りの入り口の片隅に身を寄せ合っている程度だった。
 ようやく一息ついたシファカは、懐から乗船券を取り出して自分たちの乗る予定の船を探した。
 船に繋がる架け橋は合計で三十ある。桟橋の両脇に橋が並び、まるでそれが縄のように船と繋がれていた。街の大通りほどもある一本の巨大な桟橋の両側を、巨大な船が整然と並んでいる様は圧巻だった。この船全てを合わせると、故郷の城程もありそうだ。冗談抜きで。
「大きい……」
 船の大きさは様々だが、それでも無補給船とよばれる類の船はとりわけ巨大だった。小さな村ひとつがすっぽりと入ってしまったのではないか――船というと、子供たちが遊ぶ小舟程度しか知らないシファカは、その大きさに眩暈を起こしそうになった。巨大な柱が幾本も天を貫かんと伸びている。それに巻き付いている白い布は、帆だ。先日ジンに説明を受けた船の簡単な構造について思い返しながら、あれが帆なのだと確認した。柱の上には見張り台。垂らされた、シファカの胴ほどもありそうな太さの縄。船の脇に括りつけられた二艘の小舟――その小舟にしても、シファカが知る舟よりも二廻りほど大きかった。
 桟橋の中央には長椅子が並んでいて、船を待つ人々が腰を下ろしている。シファカも空いている席に腰を下ろし、ジンを待つことにした。待合所にシファカがいないとわかれば、ジンはこちらにやってくるだろう。乗るべき船も、きちんと彼は把握している。
「西大陸、か」
 シファカは、出航のときを待つ巨大な船を見上げながら、ぽつりと呟いた。
 とうとう。
 自分は大陸を渡るのだと思うと、感慨深いものがあった。ジンに出会うまで、国を出ることすらほとんど考えなかった。湖の王国を出た回数など指折りで数えられてしまうほどだ。それもいく先は隣国の二国だけで、どちらも湖の王国と似たり寄ったりな風土と風習を持つ国だったから、こんなに世界には様々なものがあるのだと、知識とは知っていてもどこか遠い絵空事のように思えていたのだ。
 だが、現実にはこうして様々な土地があり、様々なものが存在する。
 砂の吹雪かない土地、緑あふれる土地、水晶の樹木が並ぶ土地、雪に閉ざされた土地、鉱石がむき出しのまま連なる土地。
 地平の彼方までを埋める水。それを渡る、村ほどもある巨大な船。歩む人々も様々だ。湖の王国ではあれほど異質だった、シファカの髪や肌の色の組み合わせは珍しくはあるが全くないというわけではない。似通った色合いの人ならばよく見かける。もっと珍しい肌の色もある。花々もなにもかもが、シファカが思っていた以上に極彩色だ。
 それでも、こんな世界の中で、東の大陸は――水の帝国は、もっとも極彩色なのだと、ジンは言う。
 贔屓目だと、笑いながら。
 あぁそんなにも、かの国を愛しく思って。
(ジン、それで、いいの?)
 シファカは瞼を閉じて男の横顔を思い描いた。何時だったか、夜明け前、砂浜で遠く水平を見つめていた男の横顔。
(それで、いいの?)
 西の大陸にも、様々なものがあるだろう。それを彼と見て回れることを幸福に思う。
だが、本当に、それでジンはよいのだろうか。
 痛切に、戻りたいと願っているのではないだろうか。
 今、すぐにでも。
 カンカンカンカンカンッ…………!!!!!
「っ!?」
 唐突に鳴り響いた鐘の音に、シファカは飛び起きた。慌てて周囲を見回せば、人々が忙しなくシファカの目の前の船へと吸い込まれていく。桟橋を駆け上っていく人々を一目見て、シファカは手元の券を確かめた。七番。目の前の橋も、七番。
「……え?」
 シファカはもう一度券と橋の番号を照らし合わせたが、きちんと合致した。鐘の音はまだ鳴り響いている。嫌な予感が過ぎって、シファカは隣の長椅子に腰掛けている老婦人に尋ねた。
「すみません、この、鐘の音って」
 前触れなく話しかけられたことに驚いた様子を見せたはものの、婦人は微笑んでシファカの問いに応じた。
「え? あぁ……出航の合図だねぇ」
「出航!?」
「どうしたの?」
 シファカの声に、さらに老婦人の隣に座っていた壮年の男が、シファカに歩み寄ってくる。
「え? いやあの、どうも乗る予定の船が出港……みたいなんですけど」
 シファカの言葉に、男と老婦人が手元の券を覗き込む。券の番号と橋の番号を確認した彼らは頷きあって、シファカの背を押した。
「早くいきなさい。でないと船に乗り遅れてしまうよ」
「そうだ。船を逃しても、払い戻しはきかないんだぞ?」
「いや、でも、あの、私待ち合わせしてるんですが」
「待ち合わせ?」
 老婦人の問いに、シファカは頷いた。
「つれがいるんですが、待ち合わせ場所であえなくて。船の前でひとまず今待ってる最中なんですけれど」
「そろそろ来る予定なのかい?」
「えぇ……多分」
 シファカは周囲を見回しながら答えた。ジンの姿はない。やはり、待ち合わせの場所に戻ったほうが無難だ。だが船は老婦人たちの言う通り、今にも出港しそうな按排で。
 最後の乗客と思しき親子が慌しく船へ続く架け橋を上っている姿が見えた。
「おい、そこで何を騒いでいるんだ!?」
 船に先に乗るべきか乗らざるべきか、シファカの目の前で老婦人と男が相談している姿を見つけてか、とうとう船のほうから係員らしき男が歩み寄ってきた。
「ちょっとこの子がその船に乗るみたいなんだけど、お連れさんがまだ着てないんだって」
「どうやらはぐれてしまったみたいだぞ。船の出港を遅らせることは出来んのか?」
「出港を遅らせることは出来んが……連れが?」
 制服を身につけた男が、シファカに向き直って声をかけてくる。我が事のように係員に食って掛かっていた壮年の男と老婦人の勢いに圧倒されていたシファカは、我に返り、そうなんです、と頷いた。
「本当は待合所で待ち合わせしてたんですけれど、凄い人ごみで」
「あぁ……あそこでは逆にはぐれるな。だからこっちへ?」
「どの船に乗るか、彼はきちんと把握していたから、あちらに私がいなければこちらに来るだろうと思ったんです」
 ジンに言われたとおり、予約票を窓口に渡して手続きを行ったシファカとは違い、実際手配全般を行ったジンは乗る船もきちんと把握している。万が一の待ち合わせをこちらに指定していたわけではないが、ジンならばこちらに様子を見に来るはずだとシファカは踏んでいた。
「券を拝見しても?」
「どうぞ」
 そういってシファカは、自分の分の券を差し出した。それを受け取った係員はシファカの券と橋の番号を確認して、ひとつ首を縦に振った。
「確かにこの船だな。お連れさんは券を持っているのかい?」
「いえ、私が持ってます」
「じゃぁ……どうだろう。券がないのなら中に先に入ったとは考えにくいが、もしかしたらということもある。ひとまず船には乗りなさい。あともう一回鐘が鳴ると、船は港を出る」
「でも……」
 ジンが先に、安易に船に乗ったりするだろうか。
 言いよどみ逡巡するシファカの背を押したのは、割り込んできた男の声だった。
「あぁ、お嬢さん。探していましたよ」
 面を上げると、老婦人と男の背後に、日に焼けた褐色の肌を持つ男が立っていた。
「私を探してた?」
 男の柔和な――けれど目だけが微妙に笑っていないような気のする――笑顔を見返しながら、シファカは問い返す。男は頷いて、にこやかに言葉を続けた。
「お嬢さんのお連れさん、西大陸の人でしょう。ちょっと濃い目の金色の髪と目をした、背の高い」
「そうだけど……彼を見たの?」
 ジンの出身は西大陸ではない。だが、彼の容姿から一見しただけでは間違えられることはしばしばだった。彼の亜麻色の髪と目は、見る人が見れば確かに濃い金色だ。そしてそのような色合いの組み合わせを持つ人間を、ジン以外にシファカは知らない。
「貴方を探していらっしゃいまして、先に乗っているかもしれないと、先に船の中に上がっていかれましたよ」
「まぁ、よかったわね!」
 男の説明に、まず歓喜の声を上げたのは老婦人だった。皺の刻まれた小さな手で、シファカの背をぽんぽんと叩いてくる。
「早く船に乗って、探してあげなさいな」
「よかったな」
 老婦人と並んでシファカに微笑みかけてきたのは壮年の男。
「船にも間に合いそうだし、一件落着じゃないか」
「そうと決まれば早く乗りなさい。もう少しで、二度目の鐘がなる」
 係員がシファカを誘導すべく、一歩踏み出す。何か釈然としないものを感じたままだったが、まったく見ず知らずの男がジンの容姿を知るはずがない。
「あの、ありがとうございました」
 シファカは老婦人たちに礼を言って、慌てて係員の後を追った。にこやかに手を振る彼女らの背後、最後に声をかけてきた男の笑わぬ目だけが、最後まで、シファカの気を引いたままだった。


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