BACK/TOP/NEXT

第五章 誤った針路 1


 行き先が決まると、行動は早い。
 ジンは空いている時間に行っていた司書の仕事の引継ぎを手早く終えて、シファカもシファカで、部屋の引き払いの為の手続きや荷物のまとめ、買出しなどに奔走することになった。部屋は出発よりも数日前に引き払うことになってしまい、綺麗に掃除を終え、もともと備え付けられていた家具以外なにもなくなってしまった部屋を見て、泣きたくなった。ここは、自分が得た初めての家だったのだと、シファカは思った。しかし別の誰かに、それはすぐに引き渡される。
 シファカとジンは国出立までの数日を、マリオの宿で過ごすことになった。
 マリオの宿に部屋をとったはいいものの、出発までの忙しさは加速度的に増していくばかりだった。もともと時間が空いていた際にはマリオの宿を手伝っていた。以前滞在していた夜の王国[ガヤ]で、モニカの宿を手伝っていたときに培った杵柄が生かされるためだ。それでも混乱するほど、マリオの宿はますます忙しくなっていった。客を入れては吐き出す。食堂も盛況で、特にシファカやジンの顔なじみが旅で有益なもの――質のよい招力石や、雨具、砥石など――から、その場で消化できてしまう食べ物や酒を携えて顔を覗かせるものだから、日々祭りめいた様相になった。
 特に別れのときを予感したらしいアネッサは、シファカから離れようとしない。彼女を足元にまとわりつかせたままずるずると廊下を移動することもしばしばだ。アネッサが苦手であるらしいジンは苦笑するばかりでシファカを救出する気はないようである。
「うん。寂しいんだって多分。だからくっつかせてあげてたらいいよ」
「でもそうしたらマリオの手伝いができないじゃないか」
「マリオの仕事は俺にも手伝えるけど、アネッサちゃんの子守はシファカにしかできないでしょ」
「ジンって本当アネッサちゃん苦手だよね。意外に」
「苦手ってほどでもないんだけど……」
「やっぱり、おじちゃんっていわれるから?」
「……」
「言われるから?」
「……べつにいいよおじさんだろうがジジイだろうが。こういうときに年を感じるんだよね」
「あはははは」
 そんな会話を交わしたりしつつ。
 出立までの半月程度は、多忙ではあれど、比較的穏やかに流れていったのだ。


 彼は、一枚の書類を拾った。
 それは船の予約の書類だった。金銭が既に払われたことを意味する書類だった。しかもかなり高額の金額。船は、招力石を動力とする大型船だった。
 日程は未定となっている。しかしこの書類を券売の窓口に差し出せば、一枚の券が手に入る。しかしこの書類で片道の船の権利を手に入れて何になるだろう。彼の仲間たちは、この町の冷たい監獄のなかだった。
 別の大陸に渡るつもりは毛頭ない。船代を払い戻すことも、このままではできない。
 しかたなく、彼はその書類を懐に差し込んだ。そしてそのまま、それを忘れた。


「ダッシリナで?」
「そうだな」
 馴染みの情報屋は煙管で煙をくゆらせながら頷いた。先日まで東大陸にいたという情報屋は、北の大陸にやってきてから知り合った男で、大陸を旅する間、いく先でばったりと再会してから懇意にするようになった。
 西大陸へと渡る船の券を手配しに、港の事務所に出かけたその先で、背後から親しく声を掛けられた。警戒しつつ振り返ると、そこにいた男が彼だったのだ。
「きな臭いな。最近あそこの国の噂はよくない。月光草とかいう変な水煙草は流行るし、ブルークリッカァのお陰でそっちが落ち着いたと思えば今度は変な本が出回ってる。占師たちの占いの精度が落ちて、政治に影響がでてるっつう話だ。盟主も気を揉んでるらしいが……政治的干渉力がないっつうからな。あそこの女公は」
 船の予約を終えて、港から少し離れた街角にある茶屋だった。卓を挟んで向き合いながら、情報を交換している最中にでた話題が、水の帝国ブルークリッカァの隣国、暁の占国ダッシリナの話題だったのだ。
 ジンは眉をひそめた。ジンがブルークリッカァを出た際にはそれほど荒れた様子もなかった。水の帝国から船に乗って出国する際に寄航し、確かに水煙草の話を聞いた。その後すぐに南大陸のウル・ハリスに寄って、水煙草の出所を調べたのはジン自身だ。どうやらラルトはジンが南大陸を離れたあとに出所と断定されたリファルナに特使を派遣し、処方箋を手に入れたらしく、水煙草の騒ぎが落ち着いたということはジンの耳にも既に届いている。
 だが、その後も落ち着いていないということは初耳だった。
 暁の占国ダッシリナは、占によって政治の方向性を決める少々風変わりな国だ。だがそれでも治世は四百年以上。占い師の起源をさかのぼるだけなら、さらに五百年。
 その占いの精度は、折り紙つきである。
 国の政治は占師たちの指導の元、選出された公爵が務める。その頂点、君主として頂かれるのは盟主と呼ばれる一人の女。ジンも無論会ったことのある人間だ。女性というよりは女王と呼ぶに相応しい気品を身につけた恰幅のよい女性で、美しい青い目を細めて笑う妙齢の婦人だった。
 彼女がいるかぎり、あの国が腐敗することはないと思っていたが。
「これからアンタはどこへいくんだ?」
 情報屋が尋ねてくる。
「船を手配してたっつうことは、アンタこの国から出るんだろう。東か?」
「いや、西に行く」
 ジンは即答した。
「メイゼンブルがどうなっているのか知りたくてね。あの国がなければ、西はかなり荒れているだろうと気になってはいたんだけど、全然見てなかったから」
「確かになぁ。知り合いの話じゃ、何がどうなってあんなふうになったかわからんっつうぐらい壊滅してたらしいからな、メイゼンブルは。あそこまでの大国の庇護を唐突に失って、立ち上がれるっつう国も少なかろうさ」
 魔の公国メイゼンブル。魔術の技術は世界に類をみず、その気になれば覇権も握れただろう。だが、かの国はそうしなかった。かの国も、水の帝国と同じように呪いに苛まれた国だったからだ。
 ただメイゼンブルは、周囲の国を庇護しながら、西の大国としてあり続けた。
 メイゼンブルが倒れて、困惑した民は国内ばかりではない。国外にもいる。メイゼンブルの後を追うようにして倒れた国もいくつかあると聞いた。
「まぁ気をつけていくこった。今のとこあっちで安定してるのは、ゼムナムとペルフィリアだな」
「船もゼムナム行きになってたよ」
「どちらも西の玄関口だ。藩国だったが、今はどっちも小国に格上げされてる。ゼムナムは宰相、ペルフィリアは女王が傑物だ。西大陸の最北と最南だなんて、喧嘩がなさそうでいいこった。あと、見所ありそうなのはドッペルガム。元々はメイゼンブルのちぃっせぇ、歯牙にもかけられてなかった属国だな。国だったかどうかすら怪しいが。森林のど真ん中にあるもんで、行くには少々骨が折れるが、ここ数年で急激に成長してる。領土を広げすぎてないっつう堅実ぶりもいいな。俺がアンタに教えてやれるのはそこまでか?」
「ありがとう」
 ジンは懐から紙幣を何枚か取り出し、男に手渡した。男は煙管を加えたまま紙幣を数えていたが、その中から僅か二枚を抜き取ってジンに戻してくる。
 ジンは驚きながら名も知らぬ情報屋を見返していた。
「何故?」
「いいだろう。大した情報でもねぇよ」
 情報屋はそういうが、そんなはずがなかった。西大陸の情報は、メイゼンブルが滅びたせいで酷く限られてしまっている。ゼムナムとペルフィリアは船が寄るため、内情を知ろうと思えば不可能ではない。だが、西大陸の内奥――ドッペルガムなどという国については、知りたくてもなかなか知れない類のものだ。ジンもようやっと、かつてのメイゼンブルの地図を脳裏に広げて、その角にある村のような規模の領土に記載されていた名前を思い出した程度なのである。
「俺はアンタを気に入っていてだな」
「いっておくけど、俺は男を抱く趣味とかそういうのはないよ」
 金品の代わりにそういうものを要求する情報屋が、いないわけではない。
 情報屋は苦笑した。
「まぁ、俺の話を最後まで聞け。なんてったって、アンタの容姿は目立つ。俺は人の顔をおぼえることは特技だが、それでもアンタのやつはとりわけな。容姿だけじゃない。立ち振る舞い、所作、言葉の音調。そして、そんな風に人目を引く空気を纏う人間なんて、そんなにいない。いるとしたら、そうあるように訓練を受けたかどちらかだ」
「何が言いたい?」
「東大陸で、俺はブルークリッカァにも足を運んだ。有名な話だぞ、外交に出たまま戻らぬ宰相の話。容姿は亜麻色の髪に瞳。東大陸の人間のくせに、西大陸の面差しを持つ男。有能な皇帝の、有能な右腕。消える要素がひとつもない。なのに姿を消した――死んだとすら噂されている、ジン・ストナー・シオファムエン」
 ジンは沈黙し、男を見つめ返していた。身を乗り出し、真剣な面差しでジンを見返していた男は、ふと表情を緩めて椅子の背に重心を預けた。
「が、俺はアンタの名前なぞ、しらん。アンタがどんな出自をもとうが、俺には興味がない。ただ、アンタは、その宰相さんとやらと同じ目の色髪の色をしてるそっくりさんだ。ならばどこともしれん宰相に寄付するような気持ちで、情報をやっておいてもいいだろうと思ってだな」
「なんでその宰相に、寄付したいなんて思ったのさ」
「水の帝国に戻ってやってほしいからさ」
 男は煙管に新たな火をいれながら言った。
「何故?」
「宰相がもどりゃ、水の帝国はもっと安定するだろう。今も十分すぎるほどに、復興してるがな。あれには俺も驚いた。俺が若いころにゃ、あの国は目も当てられん有様だったつうのにな」
 旨そうに煙を吐き出して、男は続ける。
「ダッシリナは荒れるぞ」
 それは、現状を直に目にしたものの率直な意見だった。
「メルゼバもブルークリッカァも、国境付近に兵を置いた。ダッシリナは今祭りだとかで大賑わいだが、何か起こるならその最中だろう。国の隅々までに浸透した麻薬。得体の知れない、宗教臭い政治思想が新たに民の間にはびこり始め、農業はここのところ不作が続いて輸入物の値段が跳ね上がる一方だ。その上、出来のよくない国内の麦には値崩れが起きてる。対策を講じない国に対する不信感も強いな。なんかこんなに急に事態が動くのか? っつう、違和感みたいなもんも覚えるんだが、だが長くは持たん。なにかしら騒ぎが起きて、下手をすれば戦争が起きるかもしれん」
「そんなに酷いの?」
「俺たち旅の情報屋に見えるぐらいだから相当だろう。メルゼバも栄えて安定しているが、斜陽に差し掛かっている。攻撃されれば動くが、あちらさんは守りに徹するだろう。ここはぜひとも、伸び盛りのブルークリッカァには安定して、この事態を抑えておいてほしいと思ってだな」
 男は煙をくゆらし続ける。紫煙は天井まで立ち上ると、霞のように掻き消えた。それを眺めていたジンは、男の悪戯げな声を聞いた。
「何せ西でも大国、東でも大国がばたばた倒れてもらっちゃ、俺たちは旅先で旨い酒が一つも飲めんからな」


 後日、出立の朝は、よく晴れた。

「いい? 絶対、絶対、絶対、絶対、間違えちゃだめだよシファカ」
「判ってる」
「絶対だよ?」
「判ってる」
「絶対だから」
「ああぁあぁぁぁもぅー! わかってるってば! 乗り場ぐらいまで一人でいけるし、迷子になったりもしないから! 手続きもちゃんと窓口にきいてやるから!」
 痺れを切らして、シファカは叫ぶ。しかしそれでもジンは、不安そうにシファカを見下ろしていた。
 とうとう、出国して、西大陸へ向かう。その当日の朝である。シファカとジンはマリオの宿の食堂で朝食を取りながら、こんなやり取りを延々と繰り返していた。朝食を取り終わり、さぁ宿を出ようとした段階でもこれである。シファカはそんなに自分は頼りないのだろうかと、少し自己嫌悪にも陥った。
 船は昼過ぎに港を離れる船だ。西大陸へたどり着くまでに十日ほどあるという。それほど短い日数で渡れるのかと驚けば、無補給船だからだという回答が帰ってくる。一見作りは普通の帆船だが、動力に招力石を備え付けた大型船で、追い風が吹けば二月ほどで世界を横断してしまうのだという。無論、どこにも補給を受けなければの話で、実際は寄航しながら世界を横断するとなると、最低三月はかかるらしいが。その足の速さから、大抵の船は目的地までに途中で寄港して、食糧等の補給を受ける必要がない。よってこの船を無補給船というのだ。
 なにはともあれ。
 シファカは、初めて船にのるのだ。
 問題は、それなのである。
 出国のために関所までいかなければならないが、時間の都合で船の手続きのために同時に港の事務所にもいかなければならない。すなわち、シファカはジンと別行動せざるをえなかった。本当ならば船のことを熟知しているジンが港で手続きすればよいのだが、入国の手続きをジンがしてしまっているために、関所へはジンが赴かなければならない。入国の手続きを自分がしてさえいれば、とシファカは思ったが後の祭り。そもそも、入国の際は月の障り騒ぎでそれどころではなかったのだ。
 マリオたちは宿が忙しすぎて港までは見送りに出られそうにない。これにはマリオが一番悔しそうにしていた。他の顔なじみたちも皆今日は仕事があるということで、昨夜のうちに別れを済ませている。
 誰一人、シファカには付き添いがない。それが、ジンにとっては不安で仕方がないようだった。
「過保護もいい加減にしときなよ、ジン」
 呆れた眼差しを投げかけて、そういうのはマリオだった。
「シファカも阿呆じゃない。手続きぐらい一人でできるだろう」
「それでも結構手続き複雑だから心配してんの」
「まぁいいけどねぇ……ほら、これ今日の飯。船の上で食べな」
 マリオが突き出したのは、茶色の布で包まれた包みだ。麻の手提げに入れられたそれを受け取ったシファカは、思わず泣きそうになった。
「ありがとうマリオ」
「ま、あたしにできるのはこれぐらいさね。本当はついていってやりたいんだけどねぇ……店がこれじゃぁ」
 そういって、マリオはちらりと店の中を振り返る。まだ店が開いて間もないというのに、店内は人で込み合っていた。馴染みの店員たちが、シファカたちに視線を寄越してくれながらも、慌しく右往左往している。
「この状態で、アタシだけでちゃだめだろう」
「気にしなくて良いよ、マリオ」
 シファカは微笑んだ。
「ジンも、シファカを甘やかしてやるんだよ」
「これ以上どうやって甘やかそうか、いつも試行錯誤してますよ」
 ジンは嘆息し、小さく首を傾げる。
「マリオも、元気でやってて。これだけ繁盛してるなら、霧の節だって出稼ぎにいかなくたってすむでしょ」
「でも暇なんだよ、人の少ない宿にいるとね」
「アネッサちゃんがかわいそうだ」
 ジンはマリオの傍らに佇む幼い娘に視線を投げながらさらりと言う。その言葉に驚愕したのはシファカだけではないはずだ。シファカは目を見開いているマリオと視線を交わして、思わず呻いていた。
「信じらんない。ジンがアネッサちゃんを可哀想だって!」
「ジン、あんたうちの娘嫌ってたんじゃないのかい?」
「俺ってなんか酷い言われよう? 別に嫌ってるわけじゃないよ。当たり前じゃないか。ただあまりにシファカにべたべたするし」
 ふてくされたジンの物言いに、シファカは思わず肩の力を抜いた。
「女の子供に嫉妬するなよ……いい年した男が」
 その横ではマリオが顔を片手で覆いながら、天を仰ぎ見ている。
「あーあーおあついこっていいね! なんか馬鹿馬鹿しくなってきたよ」
「……馬鹿馬鹿しくなってきたのはこっちのほうだ。で、子供の傍にいてやらなけりゃ、可哀想じゃんね。傭兵なんて何時命を落とすかわからないような仕事、別にきちんとした仕事もってるんだったらやめちゃいなよ。俺からの忠告」
 ね、とジンはアネッサに微笑みかけた。彼女は意味は理解していないだろうが、なぜか大きく頷いて、ジンに笑いかける。
「またね、おにーちゃん」
 ジンは、嬉しそうに笑った。
「でもおねーちゃんは置いていって」
 が、アネッサの発言に、すぐにその顔が凍りつく。
 シファカはその様相にお腹を抱えて笑った。マリオも胃を痙攣させて、その場に崩れ落ちんばかりである。こんな見送り、例がないよ。ジンの呻きが聞こえた。
 こうして、離別の悲しみといったもののへったくれもないやりかたで見送られたシファカとジンは、マリオの宿を後にしたのだった。


BACK/TOP/NEXT