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第四章 休暇の終わり 2


「もう当分はないかもしれねぇなぁ」
 斡旋場の窓口で、男は紙束をめくりながらそう言った。
「何せ、今の時期仕事がほしいっていう野郎共がわんさか押し寄せてるからな。お前たちの腕がいいのはもう知れてるし、俺だってお前に仕事を紹介してやりたいが、この近隣に限定しちまうと、どうしてもなぁ。ここに腰を据えねぇっていうんだったら、いくらでもあるんだが」
 男はめくっていた紙束の表紙に判を押すと、手早く署名してそれを背後の箱の中に放り込んだ。箱の中ではその束と同様、仕事と精算が終了した書類が括られて積み上げられている。
「どうする? ジン。他の大陸の仕事もいくつかあるぜ。この大陸に限定するなら、いまんとこ一番近いのはフレスコ地方辺りだな」
「そうすると、二月はこっちには戻れないね」
「そうさなぁ」
 男が近隣の仕事を探してくれようと、仕事人待ちの棚に収められた書類をめくり始める。ジンは慌てて彼を押し留めた。
「いいよ。ありがと。しばらくは懐も暖かいし、急に仕事をいれなきゃいけないっていうわけでもないしね。また来るよ」
「そうか? わりぃなぁ。……お嬢にもよろしくな」
「伝えとく」
 窓口の男に愛想のよい笑いを返し、ジンは踵を返した。斡旋場はひどく込み合っていて、抜け出すだけでも一苦労だ。霧の節が明けるとこの国は急激に人が増える。この国に長期滞在するきっかけをつくったマリオの宿も、目が回るほどの忙しさで、シファカが時折手伝いに借り出されるほどだ。
 この国に滞在して早二ヶ月が経つ。もうすぐ三ヶ月目も終わる。見たいと思っていた近隣諸国は回りつくし、冊子も何冊か幼馴染の下へ送った。
 そして今のこの状況。当分、この国を中心に回れるような仕事はないという。
「……そろそろ、潮時かな」
 ジンは、外への扉を押しやりながら呟いた。


 ジンがマリオの宿に戻ってきたのは、夜もすっかり更けた時間だった。一階の食堂に集っているのは酒が入った客ばかりで、その片隅でマリオの一人娘アネッサと手遊びに興じていたシファカは、ふと頭上に差した影に面を上げた。
「ジン」
「ただいま、シファカ」
 彼は甘く微笑み、引いた椅子の上に、気だるげに腰を落とした。彼の傍に、アネッサがとことこと歩み寄る。彼女は水の入った高杯をジンに差し出し、満面の笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、おじちゃん」
 高杯を受け取りながら、ジンが項垂れる。
「あのさーアネッサちゃん。俺をおじちゃんっていうのやめようって何度いったらわかるの」
「おじちゃん」
「……いいけど、もう」
 どうせ三十路超えましたよ、とぶつぶつ呟くジンに、シファカは堪えきれず笑った。けたけた笑い声を上げるシファカを、ジンが恨めしそうに睨め付けてくる。やがて、シファカの笑い声を聞き取ったらしいマリオが、店の奥から姿を現した。
「あぁ、ジン、おかえり」
 彼女は前掛けで手を拭きながらこちらに歩み寄ってくる。卓の傍で立ち止まったマリオに、ジンが机に突っ伏したまま応じた。
「ただいま。ねーマリオ。俺おなかすいた。なんかある?」
「軽いものでよけりゃね」
 残り物ばかりだが、と付け加えて、マリオは笑う。満足げにジンは頷き、シファカに向き直った。
「シファカは食べた?」
「うんごめん食べた」
 あまりにジンが遅いものだから、簡単ではあるが食事は既に済ませてしまった。遅くなりそうなら、先に食べていてもかまわないと言い置いたのはジンだ。咎められることはない。
「じゃぁマリオ、それ頂戴。あと、鶏肉の香草焼きを少しと、酒を」
「判った。シファカはなんか食べるかい?」
「なんか、さっぱりした甘味があれば」
「了解」
 マリオは軽く片目を瞑ると、足元にいたアネッサの手を引いた。子供は眠る時間だまだ起きていたいという親子の攻防を繰り広げながら、彼女らは厨房の方へと消えていく。
(まだ、子供なんだよなぁ)
 アネッサは随分と大人びた子供だが、遊びたい盛りだ。時折振り返ってはシファカに視線を投げかけてくる幼い娘の背を見守りながら、シファカは忍び笑いを漏らした。
「斡旋所、どうだった?」
 卓の上にぐったり伏したまま動く様子を見せないジンに、シファカは問いかけた。それに反応をし、彼はもそりと面を上げる。
「うん。疲れた。すっごい人」
「やっぱり? 私がいけばよかった?」
「シファカがいったら余計に迷子になったりとかして大変だよ。俺が行って正解なの」
「ちょっとまった、迷子ってなんだよ迷子って」
 ジンは笑い、ようやっと面を上げた。ぼさぼさになった髪を、一度解いて、紐でもう一度縛りなおす――初めて出会ったころに比べると、彼の髪は随分と長くなっていた。
「それにしても、あれだ。当分この近場の仕事はないっていわれたよ」
「近場の仕事?」
 鸚鵡返しに問い返す。ジンが高杯の縁に口をつけながら、頷いた。
「この国を中心にして動ける仕事ってこと。一番近い仕事場がフレスコ地方じゃ、やってられないね」
「フレスコ地方って、学術都市[ラセアナ]のほうだよね」
 学術都市ラセアナ。そして都市が位置するフレスコ地方。西大陸の移民も数多く見られた地方は、遠い昔、機械[からくり]の王国クラフト・クラ・フレスコがあった場所だ。その名残か、鉄や鉛を始めとする様々な鉱石がむき出しのまま数々の巨像として群れを成す、特殊な風土の地方。
 グワバにくる前まで、シファカたちはそちらのほうに滞在していたのだ。北の大陸の中では西に位置する。
 ジンが、空にした高杯を弄びながら言葉を続けた。
「そう。逆戻り。もし北の大陸を制覇するなら、フレスコ地方をぬけて大陸最北西まで行ってみるのもいいけど、そっちは船の数が少ないし、今の時期行くのはあまりよろしくないもんね。この時期あっちは食べるに困る頃合だから。同じ距離なら南下して、陽の藩国[ソアラ]まで行ってみるのもいいけれど、どちらにしろ、往復二月。へたをすると三月」
「この国を、拠点にして動くことはできない距離」
「そういうこと」
 ジンの言葉の意味を理解することは容易かった。それはつい先ほども、マリオとの会話の中で予想していたことだったからだ。
「この国から、移動する?」
「君が、嫌でなければ」
「お待ちどうさまぁ!」
 顔なじみの店員が、マリオに頼んでいたものを全て運び込んでくる。彼女がそれらを卓の上に手際よく並べ、そしてその場を去るまで、シファカはジンの目を見ていた。
 彼の眼差しは穏やかだ。もしシファカがここにいたいといえば、本当に、この場に留まってくれるのだろう。
 シファカは笑った。
「嫌じゃないよ。色々な国を回るって、最初からそういう話だったじゃないか」
 少しでも、のんびりできたことは本当に嬉しかった。
 それだけは真実だ。だが、その時間が一月を越えたとき、いつ出立するのだろうと勘繰るようになった。二月を越えたとき、そろそろだろうとは思っていた。
 ジンが微笑む。
「ありがとう」
 家族を置き去りにし、国をでて、彼の背中を追いかけ始めたその日から、ずっと旅は続いている。
 覚悟していたことだ。たとえ彼に追いついても一箇所に留まる人生は、送れないだろうと。
「じゃぁ次はどこにいくかなんだけど」
 ジンは牛乳で煮た粥の入った皿に、匙を差し入れながら言った。
「西大陸にいってみようかなぁと思ってるんだけど」
「西大陸へ?」
 ジンは頷いた。
魔の公国[メイゼンブル]が滅んで、一体どうなってるのかちょっと確認しておきたいっていうのもあるし。南大陸は俺シファカと会う前に一度見てるし、この数年で劇的に変わったような噂も聞かないからね。なら順当にいけば西かなって思ってさぁ。俺の都合で申し訳ないんだけどね」
「それはかまわないけど……」
 西大陸は、ジンの母の出身の土地だという。それゆえ、ジンもまた生粋の東大陸生まれというわりには、西大陸の色合いが濃い。ジン自身も一度訪ねたことがあるらしく、十年かそれくらい前には存在していたはずの西大陸の大国メイゼンブルは、花に彩られた常春の美しい国であったと聞く。魔の造詣が深い大陸。いってみたいねという話をしたのも、最近だったような気がする。
 しかし。
 シファカは躊躇いがちに、ジンに尋ねた。
「東大陸はいいの?」
「東?」
 ジンは眉をひそめる。
「あそこには急いで俺が見なければならないようなことはない」
「でもジンの生まれた大陸だろう? 私はそっちのほうが気になるけど……」
 ジンが昔語った、四つの季節が廻り、結果作られた美しい風景や、東大陸独特のシファカの持つ刀のような一風変わった意匠。なにより、ジンが時折口にする、「幼馴染」の人にも会ってみたかった。
 ラルト。
 ジンが胸苦しそうに、けれど慕わしげに口にする、彼の親友だという人。
 ジンは寂しげに微笑み、それはないねといった。
「シファカがいきたいっていうなら、何時かはいってみてもいいと思う。でも今は駄目だ。戻れない」
「どうして?」
 シファカは少し苛立ちを覚えながら問い返した。
「どうして、今は駄目なんだ? いつかって何時だよ。別にジンが西大陸にいきたいって言うのはそれでもいいけれど、絶対東大陸はだめだっていう根拠は教えておいてほしい。ジンの言い方は、まるで自分が罪人か何かで、東にいくことは許されていないんだっていってるみたいだ」
 戻れない。
 戻りたくないではない。戻れないと彼はいう。
 夜半、時折起きて、故郷のある方向を見つめるくせに。
 遠い眼差しで、故国に思いを馳せていることを、こちらが知らないとでも思っているのか。
「その通り」
 ジンは酒に口をつけながら密やかに嗤う。
「俺は罪人なんだよ、シファカ」
 さすがに、かちんとくる。
「ふざけた答え方するなよ!」
 ばん、と卓を勢いよく叩き、シファカは激昂していた。苛立ちに口元を引き締めて、ジンを睨み据える。対してジンのほうは哀しげに微笑するばかりで、しばらくするとシファカの苛立ちも急にしぼんでいってしまう始末だった。
「……ごめんね、シファカ」
「いいよもう……。マリオも今日、部屋の更新どうするのかって訊いてきてたから、移動の話はこっちからもしなくちゃって思ってたし。……次は、西大陸でいいんだよね? ジン」
「うん。ごめんね」
「謝らないでジン。なんか、私が悪いことをしてしまったみたいだ」
 実際、してしまったのかもしれない。
 シファカは自嘲の笑みをこっそり浮かべた。ジンの傷には、触れないように注意を払っているつもりなのだが。
 けれどこんな風に、真っ向から説明も何もなく、彼の懐に踏み込むことを拒絶されると、物悲しくなってしまう。
 自分の存在は、ジンにとって、きちんと価値あるものなのだろうか。
 こうして時間を彼と共有すればするほど、彼との間の隔たりを強く感じるのだ。ジンはシファカを踏み入らせないようにしている部分がある。東大陸、水の帝国、ジンの過去、国から出られないという、彼の、幼馴染。それら全てを、断片的にしかシファカは知ることができない。それが、歯がゆくもどかしい。
 傍にいられるだけで幸福だった時のままで、どうしていられないのだろう。
 ジンの手が、ふとシファカの頬に触れる。相変わらず、ひやりとした手だ。その手に己の手を添えながら、シファカは瞼を閉じた。


 シファカは目を閉じて、ジンの手の平に頬を押し付けてくる。ジンはやりきれないような感情に胸苦しさを覚えながら、小さく微笑む娘を眺めていた。
 一度ばっさりと切られた髪はようやっと肩甲骨に届くほどになって、出会ったばかりの面影を思い起こさせる。真っ直ぐで、強くて、そして脆かった。笑わせたいと強く願った。彼女を幸せにしたい。強く願った。
 今も、願っている。
 彼女は、愛しく、何度でも口付けたいと想う自分の宝だ。ジンは思った。なのにどうして、自分はいつもこんな風に彼女を傷つけることしかできないのだろう。
 自分が出生を隠すことをシファカが不満に思っていることを知っている。それでも、いうことが躊躇われた。シファカが何も知らぬ街娘の出自ならばそこまで躊躇うこともなかったのかもしれない。たとえ本当の生まれを口にしても、あまりに実感のわかぬことに冗談だと思う人間のほうが大半だ。
 けれど、シファカは違った。
 シファカ・メレンディーナという人間は、小さな国だとはいえど、その双子の妹を皇妃に持つ娘なのだ。王族に長年付き従ってきた人間である。彼女の故国である湖の王国は閉ざされた国ではあったが、他国と国交を全く持っていなかったわけではない。護衛団の筆頭に立っていた彼女が、他国の王族を公式の場で目にする機会もあっただろう。
 ジンの出自を口にしても、疑いなく、納得するだろう。実際彼女はジンが水の帝国でもかなり高位の位置にあったという認識を持っているようだ。わかる人間が見れば、所作からも推測できる。なによりジンは一度、彼女に侍女という言葉を使ってしまっていた。侍女を持つ人間なぞ、国の中でもたかが知れている。
 ジンの出自を言って、それを信じる彼女には、どうして他国を供もつけずに放浪しているのか理由も経緯も全て語らなくてはならない。もともと、ジン一人が背負うべき贖罪の旅だ。こうしてシファカを引きずりまわしているだけでも気が咎めるというのに、同じ過去を背負えとはどうしてもシファカにはいえなかった。
 シオファムエンという銘。
 宰相という地位。
 皇帝という身位に腰を据える、幼馴染。
 彼の為に闇に葬り去ってきた人間の数。愛した女レイヤーナ。その死に纏わる顛末全て。
 彼女にそれら全てを背負わせることに、罪の意識を覚える。
 けれどそれ以上に。
 怖いのかもしれない。
 全てを知って、この、何よりも愛しい娘が、自分から遠ざかるかもしれないということが。
 いつか。いつかは。
 話さなければならないのだろうけれども。
「ジンは、帰りたくないの?」
 静謐なシファカの声音が、ジンを視界の海から引き上げる、焦点の合った視界に、澄んだ紫金の双眸が見えた。
「帰りたいよ」
 ジンは正直に答えた。嘘をついても、シファカが傷つくだけだと思ったからだ。
 帰りたい。
 そう、帰りたいのだ。
 国を出て、世界を放浪して、そしてようやくわかった。やはりあそこは、自分の国だ。生れ落ちた瞬間から、国を苛む呪いによって血塗られた人生を送ってはいても、悲しい思い出ばかりであったわけではない。母や祖父や、同じ意志を持って国を変えていこうとした仲間たち、そしてレイヤーナが生き、眠る土地。幼馴染が今も治めるあの水の土地は、やはりジンの唯一無二の国であることに、違いはないのだと。
 シファカにも見せてやりたかった。
 棚田に張られた水の美しさ。緑と青に彩られる稜線。
 控えめな色づきをもって世界を艶やかに染める春の薄桃。清冽な流れる水とそこに枝を落とす夏の新緑。燃えるような赤と黄に染められる秋の山。冬の、世界を塗りつぶす銀。
 そこに息づく力強い人々。
 世界の美しさ全てが凝縮されていると思うのは、きっと贔屓目だ。
 けれど、どの世界を回っても、あれほどまでに鮮やかに色づく国を、ジンは知らない。
「そう」
 シファカは頷き、いつかね、といった。
「西大陸かぁ」
 シファカは間延びした声をあげ、ジンに微笑む。
「楽しみだね」
 ジンは、彼女の頬に触れる手に力をこめ、瞼を下ろして微笑み返した。
「そうだね、シファカ」


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