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第四章 休暇の終わり 1


「俺たちに逆らうなんざ、いい度胸じゃねぇか」
「誰のお陰でお飯食ってけると思ってるんだ。俺たちゃぁ客だぞ客!」
 そう喚く男たちの呼気からは、濃密な酒の匂いがする。大の男が数人、昼間から酒に浸るのはあまりよいとはいえなかった。が、彼らは客だし、行儀よく杯を傾けているというのなら、何の問題もないとマリオは思っている。
 しかしこんな風に、暴れ始めるというのなら話は別だ。彼らはマリオの店の従業員である少女に手をだし、少女が拒絶したとみるや酒瓶を振り回して暴れ始めた。
 マリオはやんわりと店からの立ち退きを要求したが、無論、酔っ払いに交渉など通じるはずがない。彼らはさらに激昂し、マリオの娘を人質にとってさらに酒を要求する。
 どうしたものか、とマリオは天井を仰ぎ見た。
 この店では今現在、力に覚えのあるものはマリオ一人だった。用心棒たちはこの手の騒ぎが起きやすい夜間には常駐しているが、昼間はいない。マリオは女とはいえども、男以上に無骨な体格をしている。鍛え抜かれた筋肉は、多少の相手ならば威圧するには十分だ。実際、客の少ない<霧の節>には傭兵まがいのことをしているぐらいで、昼間の些細な問題は、マリオのみでも対処できた。
 しかし、今回は状況が異なっている。相手は十人近くいて、どうやら今朝港についたばかりらしい船乗りだった。しかも腰にはきちんと武器を携帯している。いくら腕がたつとはいっても、マリオ一人では分が悪かった。
 さらにいえば、手習いから帰宅したばかりの娘を人質に取られたのは迂闊だった。だから店からではなく、裏口から帰宅するように、いつも厳しく言い置いているのに――昼間、店から戻れば、なじみの客から甘いものを奢ってもらえるだろうという、こずるい知恵が回るのだ。自分の躾がなっていないことに舌打ちしながら、マリオは人質にとられている娘を見つめた。
「その子を放すんだ!」
「どうすっかなぁぁ」
 男たちは下卑た笑いを浮かべて、抱えたままの、年端もいかぬ娘に呼気を吹きかける。娘は泣いてこそいなかったが、明らかに顔をしかめた。
 客の数人が店を出て、既に警備を呼びにいっている。だが、人々で賑わうこの時節、彼らも異常なまでに多忙だ。きちんと、来てくれるかどうか。
 一度激した彼らは、酒が大量に入っていることもあって、どう考えても他の提案に乗ってくれそうにない。酒をさらに奢ろうといった提案も、既に突っぱねられた。
 どうやって時間稼ぎをしようかと頭を痛めていた、そのときである。
「……なにやってんの?」
 場にあまりにそぐわぬ、のんびりとした声音が、緊迫した食堂の空気を破った。
 食堂の入り口に佇んでいたのは、年の頃三十前後、西大陸の民族的特長を色濃く残す、見目麗しい美丈夫だった。
 日に透けると金に見える亜麻の髪と瞳。白い肌。背は高く、体格は中肉で、ただし鍛えて絞られたものであると、外套の上からでもわかる。片手には彼の獲物の青龍刀。もう片方の手には丈夫そうな麻の袋。
「ジン」
 マリオは彼の名前を呼んだ。
「やぁマリオ」
 床に袋を置いて、ジンが微笑む。
「なんか立て込んでるみたいだけど、何コレ?」
 彼は男たちに一瞥もくれず、マリオに小首を傾げてみせる。その顔には人好きのする笑顔が浮かんでいて、全くといっていいほど、緊張が窺えない。
 彼の雰囲気に呑まれて、誰もが立ちすくんでいる。マリオは思わず上ずった声で、彼に尋ねていた。
「お前、帰ってくるのには十日かかるっていってなかったか?」
 彼は相方を伴って、商隊の護衛に出ていた。近場の藩国までの護衛である。普通にいけば往復七日程度の日数だが、商隊はゆっくりと進むから、往復十日はかかると見積もっていたのだ。
「仕事が存外早く終わったんだよね。だから、早く帰ってきた」
 彼はそういって、ふいに後方に視線を移した。そこには、野次馬たちが集って中の様子を窺っている。マリオはジンの視線の先を注視し、野次馬をかきわけてやってくる娘の姿を認めた。
「ちょ、ごめ、どいて! っと……!」
「はい、御疲れ」
 野次馬たちを押しのけるあまり、勢い余って飛び出そうになった娘を軽く支えて、ジンが娘を労った。
「ありがと」
 そういって、微笑む娘の名前はシファカ。ジンの相方だ。
 年は二十歳前半。艶やかな黒髪を頭の後ろでひとつに束ねている。釣りぎみの大きな目は紫金色。外套を小脇に抱え、日に焼けた肌をさらしていた。その腰には一本の刀を差し、空いている手には、ジンと同じように丈夫そうな麻袋を携えている。
「……何コレ」
 ジンに並んだシファカは、店内を見回し、彼と同じような感想を漏らした。
「な、なんなんだおめぇらは!?」
 激昂したのは、マリオの娘を抱える男だった。今にも剣を抜かんという勢いである。だがその男への、ジンの態度はまるで挑発するかのように冷ややかだった。
「いやそれは俺の科白なんだけどね?」
「あれ! アネッサちゃん!?」
 シファカがマリオの娘を認めて声を上げた。
「お、おねえちゃぁぁん」
 よく懐いているシファカの姿を認めて、とうとう堪えきれぬようにアネッサが涙をこぼし始めた。
 息を詰めて周囲がことの運びを見守る中、シファカがひらりと手を振って、アネッサに微笑みかけた。
「あ、うん大丈夫。いい子だから、泣かないで」
 シファカがアネッサに手を振る傍らで、ジンが、まず動いた。
「え……?」
 酒瓶を振り回していた男の一人が、呆然としながら呻きを漏らした。彼の傍らで、仲間が一人、ゆっくりと倒れていく。円卓と椅子を巻き込んで倒れる盛大な音がまるで始まりの銅鑼の音のように店内を満たし、そこで初めて悪漢たちも、そしてマリオたちも我に返った。
 ジンが倒れていく円卓を踏み台に跳躍する。彼はそのまま、倒れていく仲間を呆然と見つめていた男の背中を、文字通り踏み抜いた。がぎ、という鈍い音は、背骨が折れた男だろうか。そのまま苦痛に顔を歪めて悶絶する男を顧みもせず、ジンは次の男に向き直る。
「きさま……!」
 アネッサを抱えていた男が怒りに頬を紅潮させて腰元の剣を抜いた。アネッサは男がジンに気を取られている隙を見て取って、あたふたとマリオの元にかけてくる。幼い娘を抱き止めたマリオは、金属が床に落下する音を聞いた。
「……え?」
 ジンに向かって振り上げたはずの剣は、なぜか男の背後に落ちる。彼は呆然としながら振り返り、そして己の手の先がなくなっていることを認めたらしかった。大きく目を見開いて、手首から先をなくした腕を見つめる男に、ばさりと大きな布が被せられる。シファカの外套だった。
「マリオ! 後で外套買って!」
 シファカは携えた刀を一振りして血糊を飛ばしながら言った。彼女の外套は男の血を吸って黒く変色している。彼女はそのまま円卓で身を支え、倒立すると、外套によって視界も奪われた男の顔の側面を落下の速度を生かして蹴り飛ばしていた。
 すとん、と降り立ったシファカの周囲を、剣を抜いた男たちが取り囲む。だがそれよりも早く、ジンの青龍刀の柄が、男たちの脇腹や顎下に、順当に食い込んでいくほうが早かった。次々に倒れていく仲間に酔いも覚めたらしい男たちが、愕然として足を震わせる。
 最後にシファカが男の懐に踏み込んで、刀の柄尻で男の顎を勢いよく突く。喉笛も合わせて掠めただろう衝撃にもんどりうって倒れた男は、やがてその痛みからか悶絶した。
「いち、に、さん」
 シファカが気絶した男たちを順番に指差し、首を傾げる。
「あれ、一人逃がした?」
 シファカの問いに、ジンが間延びした声で応じた。
「みたいだねぇ」
 店内の騒動に収まりがついたのだと、マリオを含む皆が気付いたのは、それからかなり時間がたってからのことだった。


 彼は野次馬の足元から転がり出るようにして通りに出た。野次馬たちの視線は皆店内の顛末に釘付けになっている。だからこそ影の薄い彼は逃げ出すことができたのだ。
「ちくしょう」
 通りを駆けながら、彼は胸中で叫んでいた。
 なんだ、なんだ、なんなんだ――!!!!
 明らかに多勢に無勢だった。たった二人の一見非力に見える男女。彼らに、屈強な船乗りである彼らが圧倒されてしまった。彼の酔いは覚めていた。彼を除く全員があのまま警備に引き渡される。自分たちは船を降ろされ職を失うだろう。酒に鈍く痛む頭でも、それぐらいのことは判っていた。
 全員が上手く逃げ出していたならば、ちょっと悪酔いしてしまったと、笑い話になってしまうはずだった。
 だというのに。
 ちくしょう。
 彼は歯噛みしながら駆けて、気の弱い男らしく己の罪を忘れて、ただ、報復を決意した。
 いつか、報復してやる。
 いつか。
 いつか――……。


「あぁ……疲れた」
 湯あみから上がって、食堂の一角に腰を下ろしたシファカは、盛大に嘆息しながら呻かずにはいられなかった。店内は店員の涙ぐましい努力によって既に片付けられ、夕刻の客がちらほらと見える。剣を振り回しそうだった男の手首を切ってしまったので、その血痕が床に残りはしないかと心配したが、とっさに外套を被せたことでどうにかひどく汚れることだけは避けられたようだった。お陰で、外套をだめにしてしまったが。
「お疲れさん」
 そういって声をかけてきたのはマリオ。この宿と食堂の女将だ。だがそのように紹介して、信じるものは少ない。短く切られた赤髪に、筋骨隆々とした体躯。常連客以外は大抵、彼女をこの店の用心棒だと思い込んでいる。
 彼女はシファカの目の前に、冷やした炭酸水の入った高杯を置いた。
「悪かったね。仕事から帰ってきて早々、とんだ騒ぎに巻き込んで。でも助かったよ」
「あーうんいいよ。むしろごめん床、血で汚して」
「大丈夫。あんたらがいなければ、もっと血みどろで、当分休業しなければならなかったとこさね」
 だから、気にするんじゃないよと、マリオは笑った。
 この、碧の藩国グワバに一時的とはいえども腰をすえて、二月が過ぎた。流れ者であるシファカたちがこの町に小さな部屋を借りて暮らすようになったのは、この宿屋の女将の提案が始まりだったらしい。もともとマリオはシファカたちがこの国に入国するきっかけとなった仕事に、傭兵として参加していた仕事仲間だった。択郷の都として名高いグワバの首都で宿屋を経営している彼女の伝手もあって、破格の待遇で部屋を借りているのだ。現在はこの街を中心に、この近隣に点在する藩国へ足を伸ばしている。
「ジンの奴は遅いね」
「多分長引いてるんだと思うよ。最近人が増えたし」
 今、ジンは仕事の報酬を受け取りに斡旋場という日雇いの仕事を傭兵に斡旋する場所へ出かけている。夕飯の刻限までには戻ると彼は言ったが、戻ってこないところをみると、相当込み合っているようだ。
「霧の節が完璧に終わったからね。流れ者が陸からだけでなくて、海からもやってくるから、仕方ないさね」
「もう、そんな時期なんだ……」
 炭酸水に口をつけながら、シファカは呻いた。シファカとジンが入国したとき、この国は霧の節という季節の変わり目だった。海流の関係で霧が立ち込め視界を塞ぎ、入れる船の数が限られてしまう時期だ。夜の王国ガヤにジンと滞在した日数は一月程度。ジンと共に旅をするようになって、月単位で長居している場所は、この土地が初めてである。
「二月過ぎたしね」
 マリオが指を二本折りながら言った。
「これからどうするんだい? 四月目もこの国にいるんだったら、住宅の契約も更新するように言っておくけどさ」
「あーうーん……どうなんだろう」
 シファカは頬杖をつき、視線を天井に投げながら低く呻いた。
 今は三月目。今借りている部屋は一月単位で契約が更新される。今借りている部屋は実際マリオの伝手あって、かなりいい部屋だ。次に借りたいといっている者も、どうやらいるらしい。このままこの国に残るならば、マリオに言って部屋を押さえておいてもらわなければならない。
「残らないのかい? そういう話は出た?」
「いや、出てないんだけど。何だろう。そろそろ、次の土地に移りそうな感じがするんだ」
「次の土地に?」
 マリオの問いに、シファカは頷いた。
「この周辺の土地は、あらかた見て回ったし、ジンはこの国の本も、ほとんど読んでしまったみたいなんだ」
「あれだけの蔵書、たった二月で全て目を通すなんて離れ業、どうやったらできるのか聞いてみたいねあたしゃ。……それで?」
「ジンにしてみれば、もうこの土地に、用はないっていうことなんだ」
 そういうことだ。
 盛大にため息をつきながらジンの旅の目的について考える。彼が何故、旅をするのか。それは未だにシファカにも判らない。一見、目的がないように見える。それほど次の目的地を決める際は、実にいい加減なのだ。シファカが決めることもしばしばなのである。
 しかし彼は初めての土地に足を踏み入れると、必ず熱心に国の様子を書きとめる。王城を見学できる際は見学し、国にある施設や特産などを見て回る。風土気候はもちろん、時には商品の値段まで書きとめている。
 それは単に、見聞や物見遊山といった域を超えている気がするのだ。
 調査。
 そう、あえていうならば調査だ。彼は調査するために旅をしているといっても過言ではない。
 そして、見るべきもの全てを見て、必要な情報全てを書きとめ終えた彼にとって、この土地はもう無用のものだ。留まるための、理由がない。
「あんたがこの国に留まりたいっていえば、留まれるんじゃないのかい?」
「無理に引き止める理由が私にはないんだ。確かにこの国は好きだし、マリオたちがいる。知り合いだって増えたし、全然、不都合は感じない。だけど」
 二月。
 その間、ジンは自分を存分に甘やかした。帰るべき場所があるという生活は、一年の間一人旅を続けるうちに疲弊していたものを優しく癒した。本来なら、ジンはもっと違う土地も見て回りたかったのだろう。それでもシファカを甘やかすために、この場所に部屋を借り、ままごとのような生活を与えてくれた。
 それで、十分だ。引き止める理由が、もうシファカにはない。
「無欲な子だねぇ」
 マリオが呆れたように半眼になった。
「そうかな」
 シファカは首をかしげた。自分はひどく欲張りな人間だと、思っている。
「マリオー!!!」
「あいよー!」
 店の奥から、店員が叫んでいる。それにマリオは一度応じて、シファカを振り返った。
「ま、そろそろこの先どうするのか、ジンが帰ってきたら訊いといておくれよ。でないとこっちも、行動起こしようがないからね」
「わかった」
 シファカは頷いた。マリオは満足げに微笑み、人や卓の合間を縫って、店の奥へと消えていく。
 どうするのか。
 この先。
 マリオに言及されなくとも、シファカもまた、ジンに問いたださなければならないと思っていたことだった。
 シファカはしばらく物思いにふけり、小さく嘆息すると、既に気のぬけた炭酸水を一息にあおった。


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