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第三章 決別 3


「鬼ごっこをしよう」
 朝、リョシュンとともに奥の離宮にやってきたヒノトがそう提案した。ティアレを元気付けたいがためのその提案は、実にヒノトらしいとシノは思った。
 彼女曰く、部屋にこもっているから、いらぬ不安に思考が廻りがちになる。遊びに興じ、身体を動かし、皆で笑えば、少しはティアレの気も紛れるからであろうと。その考えに、シノは賛成だった。今朝もティアレは見るからに憔悴していて、寝台から起き上がるものの、揺り椅子に腰掛けてぼんやりと庭先を見るだけに留まっていた。
 昼の暖かくなった刻限に、女官たちが数名集められた。遊戯の会場は奥の離宮ではなく、本殿の中庭になった。理由は、場所が開けて見やすいということだった。ティアレを遊びに興じさせることだけが目的であるので、鬼ごっこ自体は難しくなくてもいい。隠れる場所の少なさは度外視された。
 最初の遊戯は、「氷鬼」という種類の鬼ごっこで、鬼に触れられた人間は凍ってしまうというものだった。皆奇妙な形のまま動けなくなるので、皆腹を抱えて笑った。ティアレも例外ではなく、イルバやラルトにはまず見られたくないという格好を取りながら、シノは少し安堵していた。
 他にも、子供が興じるような他愛のない遊戯をいくつか選んで行った。女官たちはその間、職務に戻って場をぬけるものもいたが、それを補完するように休憩中の女官が新しく参加した。
 もっとも長く行ったのは、「だるまさんが転んだ」という遊戯で、これならば体調の優れないティアレも、そして怪我をしているシノもさほど動かなくてよいだろうというヒノトの提案だった。この頃にはティアレは真剣に遊戯の規約を自ら訊く様になっていた。
 日差しが傾き、夕刻に差し掛かった頃、最後にかくれんぼをしようとヒノトがいった。シノが鬼。ヒノトがシノを含めて女官を集め、体調の優れないティアレの為に、すぐ近場で隠れるようにしようといった。女官たちに異論はなく、無論シノも賛成だった。
 そして、遊戯が始まり。
 最後まで、ティアレとヒノトは、見つからなかった。


「では、後を宜しく頼むよ」
 エイは留守を預かる部下の文官たちに声をかけ、最後に少し離れた場所に控えるスクネの元へと歩み寄った。
「スクネ」
「はい、カンウ様」
 スクネもまた、城に残る。彼にも文官としての仕事も諜報方としてのそれもあるためだ。エイは声を潜めて、彼に言った。
「陛下をよろしく頼むよ」
 今朝方出発の挨拶に執務室を訪れた際、皇帝はさして変わった様子を見せなかった。午後の仕事が済めば、奥の離宮に戻るといっていたほどだ。ティアレと再び顔を合わせ会話する気になったのはよいことだが、ことが穏便に済むとは考えにくい。
 奥の離宮の女官であるレン曰く、ティアレの様子はあまりよいものではないようだ。妊娠に際して精神が不安定になっているのだろう。どこか鬱屈していると、女官たちも、そして御殿医であるリョシュンも述べていた。
 ティアレの不安定さは、そのままラルトのそれに直結する。
 周囲が、気をつけていていなければならない。
「はい」
 大きく頷いたスクネに安堵して、エイは周囲を見やった。宮城の門周辺には馬車が窮屈そうに並んでいる。城下に下りるだけ、もしくは荷が少ないならば水路を船で下るが、街を出るなら無論、馬車が必要になってくる。エイに随行する人間は最小限だが、それでも荷は決して少ないとはいえず、馬車の数はかなりのものとなった。
 夕陽の柔らかな橙を浴びて、人々が出立の準備の為に右往左往している。彼らの一人ひとりに、視線を投げながら、エイは首をかしげた。
「そういえば、ヒノトがいませんね」
 エイが後見についている少女とは、朝食は共にした。妙に大人しくはあったが、それでも見送りには出るといっていたのに。
「リョシュン様についてお忙しいのではないですか?」
 可能性を示唆するスクネに、エイはいや、と首を振った。
「彼女は見送りにくるといったらくるよ」
 確信を持って、エイは呟いた。彼女は、その手の約束を破ったことはないのだ。
 どうしたのか、と首を捻ったままのエイの傍らで、スクネが呆れた眼差しを寄越す。
「変な確信をお持ちでいらっしゃるというのに、本当に何故こんなにも鈍くいらっしゃるんでしょうね、このお方は」


 かつての后が取り返しもつかぬほど壊れていったのは、彼女の病み方が恐ろしくて、そして忙しさにかまけ、彼女と顔を合わせる時間を削っていったせいだった。
 出来る限り、ティアレと共にいる時間を取ろう――そう決めたとはいえども、すぐに実行できるほど予定に余裕があるわけではなかった。
 早朝に起きて欠伸をかみ殺しながら、調書に目を通すことがラルトの日課だが、今日はまだ日も昇らぬうちから仕事に取り掛からなければならぬほど、やらなければならないことが山積していた。それでも予定を詰めて、せめて、今日は夜の間は彼女の傍にいようと、ラルトは決めていた。いざとなれば、書類を持ち込んででも彼女の傍にいて、たわいのない話に興じるだけでもかまわないと思っていた。
 朝議を済ませて、今日星詠祭への使節団として出発するエイを労い、地方から参詣してきた州侯たちと会う。その後は大臣たちと先日から問題になっている教育関連の為の税率と、デルマ地方に派兵するか否かで協議だった。執務室の机に山積された書類を幾許か片し、窓から差し込む柔らかな橙に目を細めて初めて、一日の大半が終わっていたことに気がついたぐらいの多忙さだった。
(もうこんな時間か)
 嘆息して、ラルトは手早く残りの書類を纏めて席を立った。執務室は静かだ。外に出て、渡りを歩き、そのまま本殿の宮をぬけて、奥の離宮へと急ぐ。宮の中ではすれ違った官や兵が、丁寧にラルトに礼を取った。
 その中で一人だけ、礼をとらなかった人間がいた。
「お?」
 廊下の角で鉢合わせした男は、ラルトに道を譲らず、礼をとらず、その代り、笑顔に歯を見せて軽く手を上げた。
「ラルト」
 この宮城で自分を名前で呼ぶものなどたかが知れている。一人だけ世話役兼監視役の兵士を伴い、人好きのする笑顔を見せた壮年の男は、女官長の連れてきた客人だった。
「イルバ」
「早足だな」
「正寝に戻るんだ」
 ラルトの回答に頷きながら、イルバが視線をこちらの手元に移動させる。その藍の瞳はラルトの抱える書類を捉え、笑った。
「家に帰っても仕事か。熱心だな」
 俺だったら絶対にしない。そう述べる彼に、ラルトは苦笑を返した。
「熱心なんじゃなくて、単に落ち着かないだけだ」
 ラルト自身も仕事を持ち帰りたいわけではない。が、目を通していない書類が執務室に山積で放置されていると思うだけで、そわそわしてしまう。少しでも手元にそれらを置いておけば、安心してティアレとの時間が持てるというものだ。
「寝ても覚めても女抱いてても、政治のことが頭の中から離れないわけか」
「余計なお世話だ」
 ラルトは思わず半眼になって男を見返した。イルバは楽しそうに口角を上げている。だが壮年のこの男には、何を言っても言い負かされてしまいそうで、なんとなく反論を自粛しておいた。
「まぁそうむくれてもいいことないんだ陛下。けどたまには忘れておいたほうがいい。二兎追うものは一兎も得ずっていうだろう? 政治のことばっか考えてると、奥方の機嫌そこねるぞ」
「もう損ねてるよ。これからご機嫌取りにいくんだ」
 ラルトは肩をすくめて答えた。あれを損ねている、と表現することは的確ではないかもしれない。それでもティアレが精神不安定なのは、やはりラルトが彼女に不安を見せすぎていたのだろうと思う。大丈夫だと、彼女がいれば自分は大丈夫なのだと、ジンのことで己を責める必要は全くないのだと。
 これからそう告げにいくのだ。それをご機嫌取りというのかどうかはラルトには判らない。
「いいことだ」
 イルバは笑い、それじゃぁごゆっくりと身を引いた。ラルトも茶化されたことに苦笑いを堪えたまま、素直に彼の横を通り過ぎようとした。その刹那だった。
「陛下!!!!!」
 悲劇的な、女官の声が廊下の安穏とした空気を引き裂いた。
 廊下にいた人間は、ラルトとイルバ、そして彼につけている兵の三人。その三人とも、驚愕に身体を強張らせて叫びの方向へ顔を向けた――奥の離宮へと続く廊下の奥に、女が一人佇んでいる。
「レン?」
 ラルトは、女の名前を呼んだ。彼女は奥の離宮に仕える、新参の女官で――最近は、ティアレの世話に従事していた、元暗殺者。
 彼女は常に言葉少なく、よく通るがひっそりとした声音で話す。その彼女が廊下に響かせた悲鳴のような叫びに、ラルトは尋常でないものを感じ取って眉をひそめた。
「どうした?」
 獣が駆ける様に、ラルトの傍までやってきたレンの顔色は蒼白だった。だが彼女はイルバを一瞥し、口をつぐんだ。口にしてもいいのかどうか、迷っているのだろう。
 ラルトが視線を寄越した頃、イルバは既に踵を返していた。席を外そうとしてくれているのだ。そう判断するが早いか、ラルトはレンに命令していた。
「言え」
「ですが」
 イルバはまだ、声の届く範囲にいる。
「いいから言え!」
 焦燥に苛立ちながらラルトは叫んだ。レンがその場に膝を突いて、頭を垂れながら密やかな声音で報告する。
「ティアレ様が……」
 姿を消したと、彼女は告げ、それを耳にしたらしいイルバの振り返る際の靴音が、不気味なほどに大きく廊下に響いた。


 がたごとと。
 身体が揺れている。
 ティアレは軽く寝返りを打って、瞬いた。ゆっくりと視界に映るのは、見慣れた奥の離宮の天井ではない。布地の天井。
 馬車の、幌だ。
「え……」
 驚きに跳ね起きるようにして上半身を起こしたティアレは、ずきりと痛んだこめかみを思わず手で押さえる。一体何が起こったのだろう。意識が途切れた瞬間の記憶を思い起こそうとしたが、上手くいかない。頭が、ひどく痛み、吐き気がした。
「大丈夫か?」
 押し殺した声音がかけられ、ティアレははっとなりながら声源の方向に視線を向けた。ティアレのすぐ傍らに、誰かが腰を下ろしているが、暗闇でその輪郭は確認できない。
 繰り返し瞬いて目を慣らし、ようやっと見知った少女の姿を、ティアレは認めた。
「……ヒノト」
 呼びかけられ、少女は微笑んだ。
「よく眠っておったが、顔色はあまりよくないのう。脈を診よう」
 ヒノトはそういって腰を浮かせた。その際にも床が大きく跳ねたが、彼女はそれをものともせずに膝立ちで移動し、ティアレに近寄ってくる。
「ま、待ってください……!ヒノト……」
 脈を診るべくティアレの手首を取ろうとしたヒノトの手を振り払って、ティアレは声を張り上げた。
「一体、どうなって……」
「覚えとらんのか?」
「何を」
「ここに隠れて、ティアレはそのまま、眠ってしまったのじゃ」
 不思議そうな少女の声。ヒノトの言葉が鍵となり、ティアレの記憶の扉を押し開く。ティアレはようやっと、こんな場所にいる経緯を思い出した。
 そう、確か、寝台にいてばかりでは、腹の子供にもよくないと、庭先に引き出された。ヒノトの発案で、鬼ごっこをすることになったのだ。そうして、夕刻まで遊んで、最後にかくれんぼをすることになって。
 ヒノトに連れられて、馬車の中に隠れた――星詠祭の為、隣国ダッシリナへ向かう一団の、馬車の中に。
 馬車が既に出発しているのは明らかだ。がたがたごとごと。車輪が小石を乗り越えて進んでいることは確認しなくともわかる。正確な刻限はわからないが、おそらく夜だ。そうでなければ、これほどまでに暗いはずがない。
「何故、起こしてくださらなかったのですか!」
 馬車は皆で遊戯に興じていた庭先の傍の裏門に停められていて、一度隠れて、すぐにまた出て行くつもりだった。隠れた馬車は人の乗らぬ荷馬車で、行李や木箱が山積みにされていた。その奥には幕が取り付けられていて、さらに奥にも空間が。ティアレたちが現在いるのはその奥まった場所だ。少し馬車の荷台を除いたぐらいでは、ティアレたちが隠れていることも判らないだろう。
 ヒノトに連れられ、少しばかり隠れた。そこから、記憶がない。
 ティアレの糾弾に、ヒノトはけろりとした表情で言った。
「だって、最初から、この場所に隠れて城を抜け出すつもりであったからのう」
「何故!?」
 半狂乱になりながらティアレは叫んだ。自分は皇妃だ。できることはたとえ少なくとも、あの場所にいなければならぬ責任がある。
 だが、ティアレを見つめる翠の双眸はひどく穏やかだった。
「城に、ティアレを置いておくことは、よくないと思った」
 きっぱりと、少女は断言する。
「だからじゃ」
 呆然として、ティアレはヒノトを見つめ返した。宮城に、自分がいてはよくない?
 どういう意味かとティアレが問いかける前に、細く吐息したヒノトが、口を開いた。
「自覚しておったか? 日に日に、ティアレは憔悴していくばかりじゃ。妊娠して、ラルトに、子供をおろせと、言われたその日から。周囲の人間に堕胎を勧められたその日から。今では寝台からほとんど動こうとせぬではないか」
「……それは――……」
「食も細くなった。心細いのは判るのじゃ。妊婦はそうなりやすいものじゃと。けれどあの場所にいてはだめじゃ。ティアレはどんどん弱るばかりじゃと、妾は判断した。じゃから妾はティアレをあの場所から強引に引き離すことに決めた」
「ヒノト」
「あそこにいては、ティアレは子供のことばかり考えるであろう。ラルトのことばかりを、考えるであろう?」
「当然です」
「それがよくないといっておるのじゃ」
 ヒノトはなおも食い下がる。
「堂々巡りになって、結局自らを追い詰めてしまう。それをよせというても、あそこでは無理であろう。じゃから、妾は、ティアレをあの場所から引き離すことにきめた。そのために遊びを提案し、そのために馬車の」
 言ってヒノトはそっと幕に触れる。これは、馬車の内部を仕切る件の幕だ。
「この幕だってこっそり用意したし、荷も全て用意した。もっとも、ティアレが妾の問いかけの前に、寝入ってしまうのは想定外じゃったが……」
「と、いかけ?」
「そうじゃ。ここに隠れて、すぐに問いかけるつもりじゃった。妾のしたことは、ティアレにとって、迷惑だというのなら、そのまますぐに馬車を降りて、女官たちの前に姿を現せばいいことじゃ。けれどその前にティアレが寝入ってしまって……」
「そのまま、起こさなかったのですね」
 思い出した。
 おそらく、久方ぶりに身体を動かした疲れからだろう。また、妊婦は睡魔に襲われやすくなるとも聞いたことがある。もしかして、近頃の睡眠不足のせいかもしれない。
 どんな理由にせよ、ティアレはこの場所にヒノトと共に隠れて、強烈な睡魔に襲われた。抗ってみても、無駄だった。確か最初はヒノトに揺すられた気がする。それでも、自分は目覚めなかった。
 目覚めたくなかったのだ。
「もし戻りたいというのなら、妾はそれでもよいよ」
 ヒノトは微笑んだ。それはあまり少女の見せることのない、落ち着いた、ひどく大人びた微笑だった。
「御者も眠らなければならぬから、馬車は定期的に止まっておる。その際に外に出れば、宮城まで戻してくれるであろう」
 いざとなったら、かくれんぼで隠れていて、寝入ってしまったといえば。
 そういって、彼女は笑う。悪戯を成功させた子供のような顔をして。
 ヒノトの言う通り、まだそんな言い訳が通用する刻限であった。一日は経っていないのだろう。よくても、遊戯に興じた日の、夜中。もしくは、翌日の夜明け前。
「なに、妾がエイにこっぴどく、怒られればよい話じゃよ」
「……ヒノト」
「どうする? 妾はどちらでもかまわんよ。ただ、妾の意見としては、ティアレは宮城にいるべきではないと思うのじゃ――今は」
 ヒノトの眼差しは静謐だった。彼女は決して、ティアレが背負う責務を理解していないわけではないのだろう。
 それでもこんな形で連れ出したいと思わせてしまうほど、自分はひどい状態だったのだ――ティアレは愕然としながら思い知らされた。
「少し離れて、頭を冷やすのが一番いいと思うのじゃよ。どうせダッシリナについてしまえば、また宮城に戻されると思うし……本当は、星詠祭とかもみたいのじゃがのう」
 いつか連れて行くと約束したのに、エイはちっともそんな気配をみせないのだと言って、ヒノトは笑った。
 ティアレは笑いたくなった。自分にも、身に覚えのあることだ。春待ち祭り。木蓮。そのほかにも、たくさんのラルトとの約束は未だ、守られぬまま。それでも、それを恨んだことはないが。
「僅かな間じゃが、どうじゃろう?」
 不安げな面持ちで小首をかしげるヒノトを視界に捉え、ティアレは瞼を伏せた。
 一度離れてみる。そう、それがいいのかもしれないと、ティアレは思った。
 ラルトとは言葉を重ねれば重ねるだけ、離れていくものがあるような気がした。それは今回に限ったことではない。もう、ずっと以前から――少しずつ感じていたことだ。政治の世界に没頭する男の負う責任を理解しないわけではない。それを承知で、彼の背負うものを少しでも軽くしたくて、ティアレは自分の業を知りながらこの国に身をおいたのだ。
 それでも、一人で彼の帰りを待つ夜に。
 約束が反故にされていくたびに。
 理性では押さえつけていても、なにか、やるせない感情が澱の様に心の奥にたまって、ラルトの心が見えなくなっていく。
 彼の見る政治という世界を理解することができなくて、そのたびに己の無力感に打ちひしがれる。
 ただ、彼の傍にあれることが嬉しくて、自分の居場所ができたことが嬉しかった頃のままで、どうして人はいられないのだろう。
 子供ができた。生むことに、賛同して欲しかった。ティアレは、ラルトの傍にいること以外は望まなかった。そのための義務も責任も果たしてきた。
 だから、ひとつのわがままを、せめてラルトの口から賛同して欲しかった。喜んで欲しかった。
 たった一つでも、立場諸々を考えれば、叶えられないわがままだと、ティアレ自身知ってはいたけれども。
 そして、シノ。
 ティアレの身を真に案じる彼女は、今日も怪我を押して、何事もないかのようにして傍らにいた。イルバというらしい男とシノとの会話を聞いた後、リョシュンに、訊いて知ったのだ。
 本当は、彼女もまた安静にしておくべき人間なのだと。
 自分がいなくなれば、せめてその間は、彼女も、ゆっくりと休めるだろうか。
 心配をかけるとは知っているけれど。
 ごめんなさい、シノ。
 ごめんなさい。
 ラルト。
 ごめんなさい。
「いいえ。いきましょうか」
 ティアレはヒノトに微笑み返した。
「ほんの少しの家出に、付き合ってくださいますか? ヒノト」
 彼女には、迷惑をかける。
 いざというときには、嘆願するつもりだ――ティアレが、ヒノトを付き合わせたのだと。
 ヒノトは破顔した。
「もちろんじゃよ」
 そうと決まればとヒノトは腕まくりをし、ティアレの傍らに積まれていた行李の蓋を開けて、中を漁り始めた。ひょいと覗けば、そこにはヒノトがいつも持ち歩いている薬箱、着替え、毛布一切が詰められている。そういえば、眠りこけていたティアレにも綿の詰められた掛け布団がかけられていた。
「これらは」
「妾が用意した。苦労したのじゃ。見張りの目を盗んで持ち込むのはのぅ。床板は薄いし、腰を痛めてはならぬから……えーっと、どこに入れたかのう。座布団座布団……。あ、食べ物も水もちゃんと持ってきておるから、安心せいよ」
 ちなみにこの天井から下がる幕も、自分が取り付けたのだとヒノトは言う。なんと用意周到なことだろう。ヒノトが忍び込んでいたことに全く気付かなかったらしい兵士たちの迂闊さは笑うべきものではない。それでもティアレは思わず少女の周到さに呆れ返り、笑い声を立てたのだった。


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