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第四章 奥の離宮にて 2


 ジンからもたらされた報告は、他の部下の口を通じてより詳細になる。全ての報告を聞き終えたラルトは、ため息を覆うようにして顔を両手で拭った。
 シンバ・セトが。
「逃げたのか」
 確認のために独りごち、ラルトはちらりと傍らの書面に視線を落とした。執務室の机の端に無造作に置かれた書面の束。墨すらも乾ききっていないそれは、つい先ほど纏められたばかりの報告書である。
 あの謁見の間の一件以来、地下牢に留め置いたままになっていた。だが数日中に処分が決定する予定であった。その決定を目前にして、何者かの手引きによって警備厚いはずの地下牢から、ハルマ・トルマ元領主が脱走した。
 それが、今受けた報告だった。
「捜索させていますが、警備の目をどのようにして掻い潜ったのか、見当もつきません」
 担当の武官の一人が、渋面になりながら奏上してくる。ラルトは頬杖をつきながら、空いた片手を軽く振った。
「まぁいい。何か判れば報告を。この首都に奴の潜伏先になりうる場所など指で数え切れる程度だろう。だが森や山に逃げ込まれると厄介だな」
「探させますか?」
「山狩りをする必要はない。雪も降る。山や森に入ったのなら、入り口は限られている。入り口付近に人の出入りの形跡がなければ引き上げろ」
「かしこまりました」
「推定時刻と警備担当はこの中にあがっているんだな?」
 ぽん、と報告書の表紙を叩くと、別の武官が頷いた。
「はい」
「この配置を考えた警備担当者と一体誰がこれを把握していたかもあとで教えろ。下がっていい」
 武官たちが一斉に頭を垂れ、素早く執務室から退室していく。扉が閉まり足音が遠のいていく中で、一人男が入り口付近に直立不動で留まっていた。墨色の官服を身につけた男を一瞥し、ラルトは問うた。
「……何か他に用件が? デュバート候」
「お恐れながら」
 デュバートは深く会釈し、ゆっくりと面を上げた。彫りの深い顔に収まった青い瞳が細められ、ラルトを射る。
「……陛下は、裏切り者の可能性を?」
「考えないわけがない。手引きした誰かがいるということだろう」
 先ほどの報告書に目を通していきながら、面もあげずラルトは応じる。裏切り者――嫌な響だ。何時耳にしても。ティアレの件と違って、シンバ・セトについては大臣たちとも討議を終え、その存在を知るものの枠は幅広い。かといって、地下の奥に存在する牢獄から男一人逃がすためには、事情にそれなりに詳しくなければならない。セトの部下がはるばるハルマ・トルマから彼を逃がしにやってきたと考えるよりも、彼の存在に目をつけた何者かが内側から脱獄の手引きをしたと考えるほうが普通であった。
「まだ何かあるのか?」
 何か言いたげな男の眼差しに根負けして、ラルトは面を上げた。白い肌とその体格からもわかる通り、この男は異人だった。水の帝国において異人は稀だ。国民のほとんどが黒髪に浅黒い肌をしている。繁栄の最中にあったころは、他国から多くの移民があったそうだが、どの国にも見捨てられたといって久しいほどに荒廃した水の帝国に、移民するものは少ない。
 フェンデルウィッセン・デュバートという侯爵は、父の代の最後の頃に官として取り立てられた非常に希少な移民の男だった。出身はメイゼンブル。かつての魔の公国と水の帝国は、互いにその歴史の古さも相まって、関係が深い。もともとはあちらで貴族の位にあったらしく、その伝手もあっての取立てであったらしい。
「……他に誰かは?」
 躊躇いがちに尋ねてくる男に、ラルトは苦笑した。
「執務室は離れだ。人払いは必要ない。密偵も入り込めない。そういう風に、なっているからな」
 本殿の中央に位置する離れである執務室。施されたかなり高度な魔術によって、まじないによる盗聴や透視といったもの全てから、執務室は遠ざけられている。
「それで?」
 続きをせかすと、ようやく覚悟が決まったのか、率直に申し上げます、とデュバートが口を開いた。
「あの女は、どうなりましたか?」
「……あの女?」
「傾国姫でございます」
 ティアレの存在を知るこの男、どうもあの<傾国姫>が気に掛かっているようである。その問うてくる声音に、激しい嫌悪感が滲んでいるように思えるのは気のせいか。
 再び報告書に視線を落とし、ラルトは筆記具の金具の先で朱壷の蓋を開けた。きん、という澄んだ金属音が部屋に響く。
「傾国姫ならもういないさ」
「何処へ?」
「手当てをさせたあと、<傾国姫>なら出国したと聞いている。独り身の女がどこへいったかなど、私が知るところか?」
 皮肉を込めて笑うと、ご冗談を、との嘲笑が異人の侯爵から返ってきた。
「何ゆえ嘘を仰られるのですか陛下」
「何故嘘だと思う? デュバート候」
「手当てをさせただけでどこかへ出国させるおつもりでしたら、あの時あの場所で、人払いまでさせて陛下の御身直々でもって、あの女を謁見の間から運び出したりはしないでしょう。最初より、女官の誰かに任せてしまうはずです。僭越ながら、陛下は大臣の方々に愉快がられる要素を親切に差し上げるような方ではないと」
「お前もなかなか言う奴だなデュバート」
 男の皮肉に苦笑して、ラルトはデュバートを見据えた。直立不動の男が、怯んだように一瞬身体を戦慄かせる。
 もとより、この男を騙せるとは思っていないし、騙すつもりもない。
「デュバート」
 ラルトは微笑んだ。
「傾国姫はもういない。そういうことだ。判ったな?」
「……陛下」
「まだ何か言い足りないのか?」
 まだなお何か言い募るデュバートに、呆れ交じりの呻きを漏らした。
 ここまで言ってラルトの意図するところがわからぬというのなら、デュバートという男はラルトの予想を裏切って愚鈍である。だがラルトの視線に臆することなく、デュバートは 言葉を続けた。
「無礼を承知で申し上げます。陛下は、ご存じないのです。あれは、魔女です」
「……そうだな。滅びの魔女、そういう二つ名があったはずだ」
「そういう意味ではありません。確かにあの女は、<滅びの魔女>なのです」
 デュバートの言葉の意味が判らず、ラルトは筆記具を動かす手を止めて顔をしかめた。
「魔女は、神より呪いを与えられた女たちです。陛下、もしも興味本位でただ女を留め置かれるのでしたら、どうかお早く手放してください。あの女が滅びの魔女だというのなら、それがあの女の呪いだというのなら、あの女は確かにこの国を滅ぼすでしょう」
 デュバートはどこか必死とも取れる様相で、ラルトに訴えてくる。どうしてそこまで必死になる必要があるのか。
「……どうしてそのようにして訴える?」
「新しき母国となったこの国に、滅びてほしくはないからです」
「ならどうしてそのように断言することができる?」
「メイゼンブルの民なら皆知っています。なぜなら我らの聖女も魔女だった。魔女は、絶対の呪いを持つ女なのです、陛下」
 魔の公国メイゼンブル――二つ名を、聖女の紅国。聖女とは、その偉大な魔力によって国を打ち立てた、伝説の建国者。公国を治めていた王族の、祖。
(魔女、か)
 他にも幾人か魔女と呼ばれた女たちが歴史に名を連ねている。決して多くはないが、皆国の興亡に深く関わる女たちだ。聖女シンシア・レノン、無魔のトリエステ、毒の女帝アティレティシア。
(そういった女たちと、ティアレが同じだと?)
 あの、己の呪いに怯えてすらいる、女が。
 ラルトは瞑目し、しばし沈黙した後、わかった、と呟いた。
「お前の進言は心に留めておく。とりあえず下がれ。お前とて何時までも油を売っていられる身でもないだろう」
 デュバートは沈黙していたが、再び頭を下げ、長い間腰を折った体勢を保っていた。ほどなくして、彼は素早く身を翻し、扉の向こうに消えていく。
 完全に一人の空間を手に入れたことを確認して、ラルトはそろりと息を吐いた。
 奥の離宮とは異なり、本殿には窓という窓に玻璃がはめ込まれている。この執務室もまた例外ではない。冬の白けた日差しが、窓にはめ込まれた玻璃の表面に反射して、部屋に差し込んでいる。が、人の呼気によって作られた水滴により、その日差しは更に薄められて部屋の床の上におちていた。静まり返った執務室。誰もいない。自分ひとり。そのことに、何故か酷く安堵を覚える。
 同時に、先ほどのデュバートの表情が自然と思い返された。
 ティアレ・フォシアナ。
 彼女の呪いが云々という話を除いても、確かに彼女の存在はラルトの立場を危うくする。
 重々承知してはいるのだ。ジンたちに釘を刺されずとも。『あれ』から三年だ。ようやく、内部も落ち着いてきたばかりであるのに。
「……魔女、か」
 実際、彼女の呪いは一体どこから来るものなのだろう。
 彼女の呪いの根源は、彼女の内在魔力の高さからくるものだと、ラルトは信じて疑っていない。あの、七色に移り変わる不思議な瞳。デュバートに指摘されてみて思い出したのだが、確かに過去に存在した魔女と呼ばれる女たちも、同じ瞳をしていたと逸話にある。
 事実、瞳の色は体の中を循環する魔力――いわゆる、内在魔力の高さを示す。珍しければ珍しい色合いを見せる瞳ほど魔力の高さを指し示し、実際その魔力は多くのことに影響を及ぼすのだ。
 例えば、怪我の治癒。内在魔力が高いと、軽傷なら跡形もなく数刻で消え去る場合もある。体の中に巣食う高い魔力は寿命を引き伸ばすこともあれば、逆に体に負荷を与えて短命にすることもあった。リクルイトの家系は代々魔力が高く、特にラルトの瞳の色は呪いの証とも呼ばれるほど希少であった。実際、自分のような深緋[こきあけ]の瞳に、ラルトはいまだ出会ったことがない。
 だがティアレのような瞳の人間にも、かつてラルトは出会ったことがなかった。銀は、魔の色だ。神や精霊の色といってもいい。人間が持ってはならぬ色――そのように、いわれることもある。
 魔女。確かに、その言い方がしっくりくる。精霊でも神でも人間でもないなにものか――魔女。
 その証である、七色に移り変わる銀。
 ふとラルトはどうしようもなくその目を覗き込みたくなった。つい先ほど、食事を共にしていたばかりだというのに。
 苦笑いを浮かべて軽く指先で筆記具を弄ぶ。その先の金具で、朱壷の蓋の開閉を繰り返しながら、ラルトは呟いた。
「……何、やってるんだか」
 知れず疲れの滲む呟きは、煩雑な執務室に響いて消えた。


 以前に比べれば驚くほど長い間身を起こしていられるようにはなったものの、一日活動するには遠く及ばないのが、今のティアレの体力だった。シノが部屋を引き上げ、人の気配がなくなれば、自然に睡魔が忍び寄ってくる。夢も見ずに深く眠っていたティアレが目を覚ましたのは、再び部屋に人の気配が感じられたためであった。
「……お目覚めですか?」
 柔らかなシノの声が部屋に落ちた。
 寝ぼけ眼を擦るティアレの視界に、見覚えのない家具の姿がよぎった。部屋の壁際にいつの間にか設置されたそれは、よくよく使い込まれているらしい古い箪笥だった。上のほうは開きになっていて、下に引き出しが数段取り付けられている、衣装箪笥だ。磨耗した木の光沢が美しく、上は曲線を描いていて、胡蝶と華が透かし彫りされている。
「その箪笥……」
「あぁ……こちらが、先ほど申し上げましたお見せしたいものです」
 シノが箪笥のほうへ歩み寄りながら口を開く。戸を開いた彼女は、箪笥の中からいくつもの白い包みを取り出した。白い光沢のある紙の包み。
「ご覧になります?」
 シノの問いに黙って頷く。女官は微笑んで、取り出した包みを寝台の上に並べられていった。それをじっと眺めていると、戸を閉めながら振り返ったシノがふんわり微笑んだ。
「ティアレ様、どうぞ遠慮なさらずに、それらを開いてみてくださいませ」
 さぁ、というシノの催促に従って、ティアレはおずおずと包みを閉じている紙縒りに指をかけた。広げた紙のなかから現れたのはどうみても真新しいとしか思えない衣装。簡素だが、色目美しい衣装に腰を引かせたティアレは、当惑の目で以って女官を見上げた。
「えと」
「この間から仕立てていた衣装がようやく上がりましたの。数自体はそれほど多くはございませんけれども、年が明けてしまえばすぐに春ものですものね」
「し、仕立ててって……」
「お気に召しませんか?」
「いえあのそうではなくて」
 しどろもどろになりながらティアレは呻く。
 思い返せば確かに、色々身体を採寸された覚えがある。だがまさか服を仕立てているとは誰もおもわなかった。今借り受けている衣服――基本夜着であるが――だけでも十分すぎるほどであった。自分は、いつかここを出て行かなければならない。
「あの、一体、どなたが」
「は? 贈り主のことでございますか?」
 こくこくと首を振るしかない自分を見て、シノがくすくす笑った。
「無論陛下でございます。いくらなんでもこういうことは、私個人が発注するわけには参りませんし」
「ですけれど」
 口ごもるティアレの目の前で、シノは次々と包みを解いていく。数は彼女の言う通りそれほどでもないが、どれも仕立ての良いものだ。娼婦に与えるにしては、品物が良すぎる。
 ティアレの胸中を知ってか知らずか、シノはそのまま衣装を広げ、箪笥から衣装と共に取り出していたらしい帯と色目をあわせ始めていた。
「あまり派手なものはティアレ様自身に負けてしまわれるとのことで。刺繍なども控えめのものですけれども。……陛下もよく見ていらっしゃいますわねぇ。ティアレ様の色が、映える色目のものばかり。閣下ならまだしも、意外に侮れないお方ですわ本当に。髪結いの品もいくつか揃いましたので、また後ほど御髪を結いましょう」
 喜々とした様子の女官と手元の衣装を交互に見比べながら、ティアレは下唇を噛み締めた。かつての自分の所有者にも、幾人か自分にものを贈ってくる男はいた。だがそれはティアレを美しく飾り立て、周囲の人間に新しく手に入れた玩具をひけらかすためのものだ。だが、今手元にある衣服は、そういったものではないと、わかってしまった。近いうちに、痛めた足が癒え、一人でどこかへ歩き出せるように、用意されたもの。
「……ラルト様は、変わったお方ですね。何の得にも、なりはしませんでしょうに」
 ジンの忠告の通り、ティアレの存在はこの国の若き皇帝にとって、邪魔にしかならない。
 女官たちの仕事を手伝えるわけでもない。美しい唄が歌えるわけでもなければ、舞えるわけでもない。夜伽のほかは何も芸を持たない――呪い以外、本当に何も持たぬ女なのだ。ティアレ・フォシアナという女は。
 シノが思案に手を口元に当て、そうですわね、と呟いた。
「確かに、王族としては多少変わった方かもしれませんわね。もっとも、この国から出たことのない身としてはどのように変わっているのか申し上げることはできませんけれども。ですが私どもの心を汲んでくださるよき皇帝でございます」
「よき、皇帝?」
 ティアレが鸚鵡返しに聞き返すと、女官は躊躇いなく首を縦に振っていた。
「諫言を聞き入れ、私たち下々のものと同じ目線で見聞きなさる……しようと、してくださる」
 それはとても大切なことです、とシノは自慢げに言った。
 確かに、なぜかラルトに対しては次々と意見することができた。他の所有者に対しては、どのような扱いをされようと口を噤み全てを諦めていた自分が。
 彼が、きちんとティアレの言葉に耳を傾けたから。
 だから、意見することができた。そのそうでなければ、自分は他の所有者たちに対してと同じように、口を噤んだままだっただろう。
 彼は他の所有者と違う[・・・・・・・・・・]
 その事実は、なぜか今更のようにティアレを愕然とさせた。
「何故、この国が裏切りの帝国という二つ名を持つか、ご存知でいらっしゃいますか?」
 唐突のシノの問いに、ティアレは首を傾げた。裏切りの呪いの存在は、国民皆が知るところであるのだろうか。ティアレの沈黙を否ととったのか、シノは腕に抱えていた暗緑色の衣服を、丁寧に畳みつつ、椅子に腰を下ろす。
「閣下からかそれとも陛下からか、この国の呪いのお話は、どうやらお耳にいれていらっしゃるようですので割愛させていただきますが、呪いによって、国は幾度となく荒れてきました」
 微笑みながら、ゆっくりと、彼女は切り出した。
「……裏切られたことへの悲哀にか、それとも裏切ることへの苦悩にか、なんにせよ、皇帝は呪いをその身に感じるたびに、[まつりごと]に手がつかなくなりますの。長い長い裏切りの歴史は、皇帝という身位に就かれる方たちにとって、周囲への猜疑心を更に煽り立てるもので。ですが歴代の皇の方々と同時にまた民も、新しい君主を戴くたびに、今度こそはという期待を裏切られるのです。何時しか、国は、期待も、愛情も信頼も、何もかもが打ち砕かれる国、裏切りの巣窟、そのような認識を他国から受けるようになりました」
「それで、裏切りの帝国、と?」
「はい」
 シノが頷き、僅かに瞼を伏せる。
「陛下の――ラルト様の父君であらせられるお方の時代は、本当に酷かった。振り返れば、同情できるほど彼の方が歩んでこられた人生も酷いものでありましたけれども。それでも、酷うございました。あの方は、政治に見向きもなさらなかった」
 彼女の美しいうりざねの顔には、どことなく憂いが見て取れた。
「民は海藻のような衣服を纏い、餓死するものが後を絶ちませんでした。雨風凌ぐ場所にすら困るものも多くいました。けれども、永久存続の呪いによって、この国は、この国の王家は、滅ばない」
 いくつも、そのような国を目にしたことがある。
 ティアレは思い返した。売られる先は、いつも煌びやかな城であるが、そこに至るまでの道程に、いくつも餓えて腹を膨らませた子供の姿を見た。
 大抵そのような国は、まもなく滅ぶ。家臣の中から、民のなかから王がたつ。けれども、この国は滅びないという。
 この国の皇族は、この国の皇族であり続ける。病んでいても、呪いが延命を約束する。
 ティアレが馬車の中から見た皇都は、少なくともシノが語るような荒れた状態ではなかった。皇都のみならず、ハルマ・トルマからの道すがら、見た村の様子は穏やかなものだった。
 子供と女が笑っていた。ならば国は、健康であるということだ。シノの言葉の内容と、現状はあまりに食い違っている。
「陛下は、状況を憂い、父皇から簒奪して、玉座につかれたお方です」
「……え?」
 真剣な響の込められたシノの呟きに、ティアレは思わず面を上げた。
「陛下と閣下と、その近しい方々と……誰もが笑える国を作るのだといって。まるで、子供のようだと、思ったものです」
 くすくすと笑ったシノは、突如声の抑揚を落とした。
「……犠牲は、決して、少なくはなかったですけれども」
「……犠牲?」
 シノはティアレの怪訝な呻きに答える様子を見せない。にこりと微笑んで、彼女は続ける。
「今、国は健全な姿を取り戻しつつあります。それを目の当たりにする私共が、陛下を敬愛するのは当然のことでございますわティアレ様。ひとつ残念なことは、民、そして数多くの家臣がいまだ過去を引きずって陛下を真に信頼していないということですけれども、それもじきに。あの方は、良き皇帝であらせられる。ほんの少し、不器用なお方であらせられますけれどもね」
「誰が、不器用だって?」
 唐突に割り込んだ皇帝の声に、ティアレは飛び上がる思いだった。彼の声音には明らかに、不機嫌さが滲み出ていたからだ。ぎくしゃくと顔を向けるティアレとは対照的に、傍らの女官の反応は実に落ち着いたものだった。
「お疲れ様でございます陛下。珍しゅうございますね。このようなお時間に」
「会食が中止になったからな」
 そう答えるラルトも、先ほどの声音に表れていたほどには機嫌を損ねてはいないらしい。シノの問いにぞんざいに答えた彼は、寝台やティアレの手元にある衣装に目を止めたようだった。
「あぁ、出来たのか」
「今朝方に。報告することが遅れていて申し訳ございません」
「いいさ。別に逐一報告するほどのことでもないだろう。袖は通してみたのか?」
「いえ。今から」
「え? 今から、ですか?」
 シノとラルトの会話をぼんやりと聞き流していたティアレは、我に返って声を上げた。シノはさも当然という風に深く頷き、どちらにいたしましょうかね、などと尋ねてくる。
「どれでもいいだろう」
 硬直するティアレに代わってシノの問いに答えたのは、ラルトだった。
「品評会じゃないんだからな」
「……ですが、袖を通して、どうなさるんですか?」
 どこかに出かけるわけでもない。確かに夜着のまま皇帝の前にあるというのは、失礼な気もするが、いままでもずっとそうであったし、ラルトも別段気にした様子はない。
 袖を、今から通さずともかまわないはずだ。
 だが、どうやらラルトはティアレの問いの意味を、別の意味で汲み取ったようだった。
「そうだな。どこかにでかけるか」
 試着して、どこかに出かけたい、という方向で汲み取ったらしい。
「……え?」
「もうすぐ日は落ちてしまうが、まぁちょっとした散歩にはいいかもしれないな。今日はいい日和だったし」
「今日の様子でしたら、夕暮れも綺麗でございましょうね」
 ラルトの言葉に、シノが調子を合わせて微笑む。
「さて、ティアレ様」
「え?」
 面を上げると、シノが二着の衣服を左右に提げていた。光沢のある黒の衣装と緑灰色の衣装。満面の笑みを浮かべてそれらを突きつけてくるシノから一歩引きながら、ティアレは訊き返した。
「な、なんですか?」
「決まっていますでしょう。どちらをお召しになりますか? ティアレ様」
「お、お召しって……今すぐですか?」
「あらいやだ。お話をきいておりまして? ……陛下! いくら陛下といえども淑女の着替えの場にいるのはいかがかと思われますが」
「……もっともな意見だと思うが、でも時々お前上官に対する敬意とかそういったものがどことなく失われている気がするのは気のせいか?」
「気のせいです」
 きぱっと即答したシノに、皇帝は疲れたような嘆息を漏らして踵を返す。御簾を上げながら寝所を退室していく彼は、着替え終わったら呼べと言い置いていった。
 その背中を呆然と見送り、ティアレは手元の衣装に視線を落とした。
つまるところ、このどれかに袖を通すことは決定事項、らしい。
「どれがよろしゅうございますか?」
 ずずい、とシノに追求されたティアレは、思わず手に握っていた、錆青磁[さびせいじ]の衣装を差し出していた。


*錆青磁:灰色に緑を溶いた色。

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