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第四章 奥の離宮にて 1


「子供を作ることが、お仕事ではないのですか」
 ごほ、と。
 ティアレが言うが早いか、ラルトが盛大に咳き込んだ。
 彼の傍らで茶器を片手に佇むシノが、普段滅多に見開かれることのない糸目を満月の如く丸めて絶句している。その背後に控えるラナは噴出し笑い寸前といった様子で、大きく頬を膨らませしゃがみこんでいた。ややおいて、誰よりも早く我に返ったらしいシノが、穏やかに失礼いたしますと断りをいれ、赤毛の部下を引きずって退室していく。その後まもなく、廊下から響いてくる、爆笑。
 ラルトは渋面でこめかみを抑え、組んだ膝の上にため息を落としていた。彼らの様子の意味がわからず、ティアレはきょとんと目を丸めるしかない。
 ラルトの胸中を図りかね、ティアレは真面目に彼を見つめた。
 だがそんなティアレに送られてきたのは、呆れとも憤りともつかない何かに荒げられた声だった。
「何をどう思ったらそんな風になる?!」
「……違うのですか」
「違う!!」
 命一杯否定して、ラルトが天を仰ぎ見る。その背後には、すました顔で入室してくる笑いを収めたらしい女官長の姿があった。
 奥の離宮に落ち着いて幾日経ったのだろう。この場所で皇帝と共に、遅めの昼食をとることが日課となりつつあった。昼食を取り終わり、一息ついた折、何気なくかねてより疑問にしていたことをラルトに問うてみたのだ。
 毎日、こちらで過ごして姫君たちは怒らないのかと。
 だがそれに対するラルトの返答はこうであった。
 彼曰く、姫君、と呼ばれる存在はリクルイト皇家には存在しない。異母姉がラルトにはいたが、それももう随分と昔の話だという。ラルトには子供もいないらしい。姫君とは誰のことだ、という話が、ラルトには妾がいるかいないかの議論に発展した。無論妾どころか、正妃の位すら空欄なのだそうな。
 ある意味、それはティアレにとって衝撃の事実であった。いままでかつて、自分の所有者となった権力者のなかに、ラルトのような存在は一人としていなかったのだ。
 困惑の表情で、搾り出すように、ラルトが問うてきた。
「……皇という存在を、どういう風に思っているんだあんたは」
 一瞬逡巡したものの、ラルトの鋭い視線に無言の圧力を感じて、ティアレは口を開かざるをえなかった。
「民の、頂点に立たれるお方」
「率直に言えよ。あんたの考えていることを、だ。一般論なんてどうだっていい」
「……民の、象徴。命ひとつ、容易に握りつぶせてしまう方。人の行く末の在処を、定めて、しまえる方。純潔な一つの血筋に、連なる方。そのために、未来に種を残す必要がある方」
 ふと、ティアレは思い立って面をあげた。
「では、貴方様は皇帝ではなかったのですか?」
 血族を残そうという意志が感じられない。ということはその必要がないということで、つまりはラルトは皇帝ではなかったのだろうか。
 だがティアレの推測はラルトにあっさりと否定された。
「おいなんでそうなるんだ?」
「未来に血筋を残す必要があらせられるのに、それを行おうとしていらっしゃらないので……」
「阿呆か」
 彼は表情にありありと徒労の色を浮かべていた。
「いっておくが、俺は正真正銘間違いなくこの国の皇帝だ。この国の皇帝の一族、リクルイト皇家の最後の一人。在位現在七年目。后妾現在一切なし。他に質問は?」
「……本当に、妾の方すら、いらっしゃらないのですか?」
「妾は持ったことはないな。さっきから言っているだろうが」
「本当でございますよ、ティアレ様」
 ぐったり疲れを見せて呻くラルトを、シノが苦笑しながら擁護する。彼女は手の甲を口元に当て、控えめに笑いながら言葉を続けた。
「驚くのは無理ありませんでしょうけれども。確かに大抵の皇族の方々は、大勢の妃をお持ちでございますから」
「俺は皇としては珍しい部類に入るんだろう。だが、再三言及するがな、女抱いて子供生ませるだけが皇帝の仕事じゃないからな。断じて違う」
「……男色の方なのですか?」
 そういう趣味も権力者には珍しくないことだ。純粋な好奇心からくる問いだった。
 だがそれに対して派手な反応を見せたのは、皇帝と上級女官だった。
 シノは驚愕に顔色無くして立ちすくみ、ラルトは一瞬体勢を崩し、その後どうにか持ち直して、笑顔で凄んでくる。
「殴るぞ? なぁ殴っていいか? 今本気であんたのことを殴りたくなった。俺のどこをどうみたらそうなるんだ」
「違うのですか」
「違う!」
 全力でティアレの発言を否定した皇帝はやや置いてから、諭すようにティアレに説きはじめた。
「確かに王としての仕事の一貫にする国もあるさ。世継ぎを生ませることが、君主の最優先事項である国もある。けどな、政務を放棄して世継ぎ作りに励めという国は、かなり珍しいと思うぞ俺は」
「……おかしな方でいらっしゃいますね」
 そうなのか、と感心して頷くと。
「あんたにだけは言われたくない」
 皇帝が頬杖をつきつつ、呆れたように呻き返した。
「おっじゃまー」
 唐突に割り込んできた声に、室内の三人はほぼ同時に面を上げた。御簾を片手で上げながら、派手な身なりの男が姿を現す。見覚えのある顔。ラルトの幼馴染だという、この国の宰相だった。
「ややシノちゃんご機嫌麗しゅう。ティーちゃんお久しぶり。なんか廊下でラナちゃんが笑い疲れてたけど、話が盛り上がってるみたいだねぇ。よきかなよきかな」
「どうしたんだジン? お前がここまで来るの珍しいな」
 ラルトが椅子から腰を浮かせながら、怪訝そうに呟いた。それもそのはず、ジンと呼ばれるこの男が、奥の離宮に滞在するティアレの前に姿を現すのは初めてのことだ。彼をみたのも、あの森の奥、塔の上以来だった。
 シノから聞いた話では、大臣も一切この離宮には足を踏み入れないということであったが、宰相の彼は別格らしい。珍しい、というからには、彼は自由にここに立ち入ることを許されているようだった。
「うん。楽しそうなところ申し訳ないけどねー。ラルト、ちょっと」
 ラルトを手招きで呼び寄せ、彼の耳元に小さくジンが耳打ちをする。何かを伝えられたらしいラルトは小さく顔をしかめた。声を潜めた、深刻な声音。
「判った。すぐ行く」
「ん」
 ラルトはそのままジンの傍らをすり抜け、部屋を退出する寸前で、振り返った。
「悪いな。また明日」
「……は、はい」
「いってらっしゃいませ」
 シノが頭を垂れるが早いか、ラルトは素早く背を向けて部屋を出て行った。部屋が花か何かを失ったように、急に明度を下げる。ラルトは差して派手な男でも何でもない。だがその身一つで、その場所の空気を変えてしまうのだということを、ティアレは彼の背中の残像を見つめながらまざまざ感じさせられていた。
「生活には慣れた?」
 椅子を引く音と同時に部屋に響いた声に、ティアレは意識を引き戻された。先ほどまでラルトのいた場所に、ジンが腰を下ろしている。柔和な笑みを浮かべる男に、ティアレは頷いた。
「はい」
「結構退屈じゃない? 日がな寝台の上って」
「そんなことは、ありません」
「ティアレ様は一日お忙しくお過ごしです。今は祭り用の刺繍の手直しを手伝っていただいております」
 ジンに茶の入った椀を差し出しながら、シノが口を出す。忙しいかどうかはともかくとして、手伝いの一環として刺繍直しを行っているのは確かだった。夜伽以外に能のない女に、出来ることなどたかが知れてはいるが、何か手伝いを申し出ることにした。寝てばかりいるのも確かに退屈であったし、何も全くせずにただ客人でいるというのも、逆に気が咎めた。森を散々歩いてまた足を痛めてしまったので、寝台から動かず手伝えることなどあるかどうか不安だったのだが、シノや他の女官たちはティアレにも出来そうなことをひねり出してくれた。刺繍直しは、その一つである。近々、大きな祭りごとがあるそうで、その準備の一環だそうだ。
「あぁ……春待ち祭りね。準備も順番に取り掛かってるけど、間に合うかねぇ」
 やたら暢気に呟きながら、宰相の男は椀を口元に寄せた。動作の一つ一つが目を惹くのは、ラルトと同じだ。ラルトとは違った意味で、存在感のある男だった。
 陶器の音を響かせながら、シノがそのうりざね顔から笑みを消していた。不信そうな眼差しを、彼女は宰相に投げかけている。彼女がそのような表情を見せるのは、実に珍しいことだった。ラルトの前でもティアレの前でも、決して笑みを絶やさないのが、シノという女官なのである。
「閣下、お茶をお淹れしておいていうのもなんですけれども、油を売っていてよろしゅうございますの? 陛下が飛び出していかれるほどの火急の件に、閣下がおいでにならなくてよろしいので?」
「うん大丈夫」
 シノの問いに、どこか間延びした声でジンが答える。呆れたように腰に手をあて、シノが呟いた。
「何も閣下が直々に陛下をお呼びに来られずとも、伝令に言伝を頼めばよろしいでしょうに」
「俺に対して相変わらず手厳しいねぇシノちゃん。ちょっとぐらい休憩させてよ」
 ジンは苦笑を漏らしてシノの言い方を非難する。女官長の地位にある女は口を噤み、大きくため息を零していた。
「……それに、ティーちゃんにちょっと会いたかったしね」
「……わた、くしに?」
「そう」
 ジンはにこりと微笑んで頷く。だがその笑みはすぐさま、どこか寂しげなものにすりかわった。笑っているような、泣いているような、奇妙な笑い。ラルトも時々そのような笑い方をする。外見は全く異なっている二人だが、よくよく観察すれば些細な表情や指先の動かし方、足の組み方などが似通っている。まるで、ラルトの兄弟に面会しているよう。ティアレはそう感想を抱きながら、ジンの言葉にじっと耳を傾けた。
「あれからどんな具合なのか、気になってたし。ラルトに訊いてもいまいち的を射ないからねぇ。まぁ女の子について長々と語るような奴じゃないのは判ってるけどさ。それでももうちょっとちゃんとした感想がほしいな、と思ってしまう僕なわけですよ」
「……はぁ」
 確かに、ラルトが女について長々と語る様子など想像できない。先ほど妾について尋ねたときですら、答えることが億劫だと表情が訴えていた。やはり、ラルトは多少変わった皇帝のようだ。今まで出会ってきた権力者と毛色が違うことを、改めて納得しかけ。
「いやぁ君変わった子だねぇ」
「……はい?」
 しみじみとしたジンの呟きに、思わず首を傾げた。
「傾国姫として他者とは異なった人生を歩んできたことを差し引いても、君ってやっぱり変わってるね。まぁだからラルトも興味を持ったんだろうけどさ。普通の女の子なら皇帝に客人扱いされたりしたら、飛び跳ねるほど喜ぶか、それとも緊張に鯱張[しゃちほこば]るかのどちらかだと思うよ」
「……そうなのですか?」
「うん。多分ね」
 ジンは足を組み替え、右足を左の膝の上に胡坐をかくように乗せると、その上に頬杖をついた。上目遣いに見上げてくる、亜麻色の双眸。
「ラルトは頑張ってるよ」
「え?」
「ほら。狸の爺さんたちとの和解っていうあれね。和解したっていうのは疑問符浮かべちゃうけど、仕事を他人に任せ始めた」
「……あぁ。あれですか」
 塔の上での呪い証明論争。その終わりに、ジンがこちらとラルトに提案したこと。ラルトは、周囲の信頼を勝ち取る。自分は、精神安定に努め、これからの身の振り方を、考える。
「いい傾向だよ」
 ジンは嬉しそうに、そう漏らした。
「ラルト、なんでも結構一人で背負い込むところがあるからさ。そこんところは、君に礼を言っておかないと」
「……お礼ですか?」
「うん。ありがと」
 礼など、今までかつて言われたことはなかったので。
 どうしたらよいのか判らない。
 ティアレは困惑し、俯くことしか出来なかった。膝の上の欠け布を、握り締める。すると可笑しそうに笑い声を立てて、彼が追求してきた。
「君はどう? 身のふりかたとか考えられた?」
「……いえ、その……」
 これからなんて、いつも考えたことがなかった。
「まだ、わかりません。先なんて、考えたこと、なかったですから」
 一瞬一瞬を、耐え忍ぶことに精一杯で。未来を憂う余裕は、自分には与えられていなかったから。
 口ごもりつつジンにちらりと一瞥を寄越す。すると男の予想外に冷ややかな眼差しが、そこにあった。
 男の口元の笑みは柔和そのものだが、亜麻の瞳には先ほどとうって変わって温度がない。のっぺりとした暗い影が双眸に宿っている。氷の刃を喉元に突きつけられているかのような、圧迫をティアレは感じた。
 この変化は一体何なのだろう。
 思わず息を呑んで身体を強張らせる。指先が冷えて、足先の感覚が薄れて行く。ふと、女官の声が頭上から響いた。怪訝さに満ちた声音だった。
「ティアレ様? お加減でも?」
 ティアレは弾かれたようにシノを見上げた。救いに縋るようだと、胸中で呟いた。きょとんと、怪訝そうに首を傾げる女官に安堵していると、視界の端で影が動いた。
「さて、俺もそろそろいこうかな。シノちゃんの言う通り、あまり油売れるほど暇じゃないしね」
 ばさり、と上着の裾が翻る。亜麻色の髪と双眸が日に透けて、黄金の色に転じた。日陰に浮かび上がる金の色は、冷たく、指で触れたことのあるものならわかるだろう――あの他者を寄せ付けない金属特有の冷えた温度を思い起こさせた。
「この国は滅びないだろうけれども、なるべく、早くね」
 ジンが踵を返しながらそういった。早く身のふり方を考えろ。そういう意味だろう。彼としてはやはり得体の知れない娼婦など、皇帝の傍に置きたくはないに違いない。出来る限り早めに出て行ってほしいのが本音であろうことは想像に難くなかった。
 だが、この国は滅びないという、その自信は一体どこからくるのだろう。たとえ滅びの魔女である自分がおらずとも、滅亡する可能性は均等に、どの国にも存在する。
「この国の祝福を、信じているのですか?」
 この国を蝕む、古い古い裏切りの呪いと、それに伴う未来永劫の繁栄の祝福。
 それを、信じているのか。
 この国は、滅びない。ラルトはそういった。
 この国は、滅びない。ジンもそういう。
 傾国姫の二つ名をもつ女の前で。滅びの魔女という運命[さだめ]を背負った女の前で。
 彼らは疑いなく断言する。
 この国は、呪い故に、未来永劫あり続ける――。
「君は魔女だね」
 顔のみをこちらに向けて、彼が問う。そこにあるのはあの冷ややかな微笑ではなく、少し寂しげな、疲労の色すら滲ませる青年の顔だった。
「……はい」
 脳裏に響く女の笑いを押し込めるように、胸元で拳を握ってティアレは頷いた。
「森で、何かを見た?」
「森で、ですか?」
 唐突に趣旨の変わった質問に、首を傾げつつティアレは思考をめぐらせる。
 何か、とは。
 何だ?
 ――……オイデ。
「あ……」
 瞼の裏に、燐光がよぎった。暗闇に翻る女の白い袖と、裸足。
「この国は呪われているよ」
 ティアレが言葉を紡ぐ前に、嘲笑すら含んだ声音でジンがいう。
「君が呪われているように」
 だから、この国は滅びない、と彼は言った。
 ぱさりと、御簾が自分と宰相の地位にある男の間を隔てる。
 部屋に静寂が戻り、ティアレはシノに視線を移した。上級女官は、困惑の表情を見せていた。彼女はこの会話の内容をいったいどこまで把握したのだろう。ジンはどうやらティアレが傾国姫と呼ばれた娼婦であることを承知しているようだが、シノはそうではないようであったから、呪いといわれてもおそらく首を傾げるばかりであったのではないだろうか。
「あぁ忘れておりました」
 突如、シノがぽん、と拍手[かしわで]を打って声を上げた。白々しさすら滲む声音だったが、それが明るく響くよう努められていたことが感じられた。
「ティアレ様に、お見せしたいものがございましたの。またあとでお持ちいたしますね」
 場を取り繕うように柔らかい笑顔を見せる女官をしばし見つめたティアレは、小さく頷いた。
 ジンの冷ややかな、突き放すような笑みをみたあとでは、シノの微笑は小春の木漏れ日のように温かにティアレの心に染み入った。


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