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第三章 追憶の森 2


 一体、どこへ消えたのだ。
 羊歯に隠されるようにしてある頼りない道を歩きながら、ラルトはため息をついた。
 ラナが少し目を離した隙にティアレが消えたという。まだ治りきってもいない足で、奥の離宮を囲む森の中へ入ったというのだ。しかも、足跡を追跡するかぎり、彼女はどうやら裏手のほうから森へ入ったらしい。そちらは手入れがなされておらず、今となっては足を踏み入れるものは皆無に等しいというのに。
 今ラルトが進んでいる道は、三年前から放置されたままの古いものだった。一時期頻繁に人通りがあったために、足元は獣道よりか幾分ましだといえる。それでもこうも足元不安定になってしまっては、シノを含む女官たちにはきつい道のりだ。あまり政務に穴を開けるわけにはいかないが、これも彼女を奥の離宮に置くことに決めた自分の責任である。後に睡眠でも削ってまとめて終わらせれば問題はないだろう。
 昔も、一度歩いた。
 既視感に囚われながら、ラルトは胸中で独りごちた。
 羊歯と枝葉を踏み散らしながら、森を黙々と。
 あの時は雪が降っていた。手足はかじかみ、自らの吐息は白く凍てついて視界を遮った。徐々に銀色に塗りつぶされていく世界。普段は枝葉によって天に蓋をされている森も、雪の重みに耐え切れず空に向かって口を開いていた。
 思い出す。
 古い記憶。
 ふるいふるいふるいふるい。
 その道をどうして再び歩こうという気になったのかはわからない。この方向にティアレが向かっているとは限らないのに。ただ、怪我人の足は無意識のうちに森の中でも歩きやすい道を選び取っているのではないか。そう、思ったのだ。
 やがて木々の向こうから、石造りの小さな塔が姿を現し始めた。くすんだ色合いの塔は、五百年前、仮面王によって為された水の帝国最盛期<絢爛の夏>の時代に建造されたものである。小さいながらもしっかりとした造りのその塔は、彼の時代に誰か高貴な人間を幽閉していたらしい。内装は本殿の造りと似通っていた。
 間近にたてば、塔の最上階はかなりの高さだということがわかる。家屋と円筒が隣接して、開けた場所の中央に、森の主であるかのように鎮座している。壁を構成する石の表面にはびっしりと細かな蔦が絡み付いていた。
 ラルトは隣接している家屋を覗き込んだ。小さくはあるが、しっかりとした造りの家屋の内部は、数年放置されているとは思えないほどに整えられている。窓の玻璃の外側は、蔓草や雨風の侵食を受けて薄汚れてはいるものの、内部は多少埃が溜まっている程度に思える。ただ、人の気配は全くなかった。
 家屋から離れたラルトは、塔を見上げた。遠目からでは、巨木のようにも思えた細い塔。出入り口は魔術によって施錠されているため、斧を振り回したところで壊されることはない。
 が、ラルトが今探している女は、精霊や長命種に匹敵、否それ以上の魔力を内包する女だ。魔術による施錠が、圧倒的な別の魔力に触れると術式が乱され効力を失うことはよく聞く話で、この塔と家屋に施されている鍵もおそらく例外ではない。
「わぷっ」
 唐突に視界が暗闇に転じ、ラルトは頭に覆いかぶさってきたものを引き剥がした。一体何なのだと手の中のものを確認する。
 女が外出時によく被るような、刺繍の施された、薄布だった。
 一体どこからと、数歩塔から離れて空を仰ぎ見る。風はなく、木の枝一つ揺れていなかった。首をかしげかけたラルトは、見覚えのある銅の色の髪が塔の上階の窓からなびいている様を見て動きを止めた。
 塔の扉を見ると、左右の戸の間に僅かな隙間が開いている。施錠されている状態であることを示す扉に取り付けられた招力石は、輝きを失っていた。すなわち、それは、効力を失っていることを意味する。
 ラルトは扉に取り付いて、乱暴にそれを押し開いた。
 薄暗い円形の空間に、扉の形の光りが落ちる。赤と蒼に塗り分けられた床板が、幾何学模様を描いて発光している。一番奥、壁に張り付くようにして取り付けられた螺旋階段が、天井へと吸い込まれていた。
 階段を飲み込む、暗闇の穴に呼ばれたかのように、ラルトは駆け出した。
 いつか、やはり同じように駆けたことがあったと、既視感に囚われながら。


 頭から被っていた薄布が、格子の[はま]った窓からすり抜けていった。
「ま、待ってください……」
 女の白い衣装の袖口が壁の向こうで翻る。まるで誘っているかのように、階段の先をいく宙を流れる黒髪。女はティアレの呼びかけには応じることなく、やがてティアレの視界の中から姿を消した。
 立ち止まって逡巡する。一階の玄関広間を覗いて、その他は全て階段で構成されるらしい螺旋階段の両脇の壁には、交互に燭台を模した台座が取り付けられている。その台座の上で、赤子の拳程度の大きさの招力石が、淡い灯りを宿し周囲を照らし出している。
 あの女の後ろについて歩いてたどり着いたこの塔は、かなり古いものであるように見受けられた。だが実際内部の造りは恐ろしく堅固だ。おそらく奥の離宮と同じように、保存の魔術が施されているのだろう。
 ちらりと女の消えた方向を一瞥した後、ティアレは格子の向こうを覗き込んだ。外に流れ出る長い髪を耳の上で軽く押さこみ、落ちてしまった薄布を探す。格子一本一本の間隔は狭く、よくぞ引っかからずにすり抜けたものだと感心してしまった。
 知らぬ間に、随分と塔を上ってきたらしい。地面は窓からかなり遠い位置にあった。鬱蒼とした森の枝葉が近い。長い間休むことなく歩き続けてきた結果から、荒くなりがちな呼吸を整えていると、ふと地面の上で、落とした薄布がはためいた。
 薄布の落ちた場所を確認すべく視線を動かす。
 その瞬間。
 美しい、暗い緋色の双眸が。
 鋭い、眼差しが。
 ティアレを射抜いた。
 思わず窓から跳ぶようにして後ずさった。壁に張り付き、鼓動止み鳴らぬ胸を衣服の上から押さえつける。
(どうして)
 唾を嚥下し、自問する。
(どうして、このような場所に)
 皇帝が。
 引き返したのではなかったのか。
 たった二度しか言葉を交わしてはいないが、彼は今までの“所有者”と少々異なり、娼婦としてのティアレに価値を見出しているわけではなさそうであった。彼の瞳は曇りなく、澄んでいる。大抵どの所有者も、ティアレを一目見ると好色の目で眺めるものだ。だがラルトの眼差しから汲み取れる意図はまさしく彼が述べた通り、子供が珍しいものに対して抱くような“好奇心”であった。
 黒曜石の如き黒髪、叡智を宿す緋色の瞳に、整った容貌――彼ならば、わざわざティアレに執着せずとも、美しい姫君たちから引く手数多[あまた]、ということであろう。ティアレを探している理由は手に入れたばかりの珍品を逃がしたくないからであろうが、だからといって皇帝がわざわざこのような場所に来ることもあるまい。事情が事情だとはいえ、信用できる部下はいるはずだ。
 だというのに――。
 程なくして、階下から扉が押し開かれる音が響いた。紛れもない、階段を駆け上ってくる足音がその主に先行してティアレの耳を捕らえる。ティアレは身体を掻き抱き、更なる先へと足を踏み出した。
 爪が割れ血が滲む足先は酷く痛み、病み衰えた身体に急な階段は堪えた。心臓が胸を突き破らんとするほどに鼓動し、引き絞られた肺は空気をティアレに要求する。ふらつく身体を支えるために手をつく壁はひやりと冷たい。等間隔に取り付けられた招力石の薄暗い灯りも、どこか冷え冷えとしている。
 荒く呼吸を繰り返しながら階段を駆け上るティアレの目前を、再び白い袖の裾が過ぎった。先を行って姿を消した、あの女だ。虚無を塗り固めたような漆黒の双眸が、冷ややかにティアレを映し出している。
 女の裸足が、ティアレを導くように先を行く。背後からはティアレを追い立てる駆け足の音。朦朧とした意識は、果たして自分は追いかけられているのかそれとも追いかけているのかという、意識の混乱を招いた。
 やがて螺旋階段は途切れ、円形の部屋にティアレは足を踏み入れた。天蓋を備えた寝台が一つ、部屋の中央に鎮座している。その傍らには揺り椅子と書き物机。部屋の奥で、葡萄酒色の厚手の布が大きく翻っている。その向こうに見えるのは、森の緑と夕暮れに青さを失いかけている空だ。背後の足音に急きたてられたティアレは、その布の向こうで空に向かって大きく口を開けた窓に、勢いよく取り付いた。
 窓板にはめ込まれた玻璃が、夕暮れの太陽の日差しを照り返している。木々の枝葉よりも更に上に位置するためか、まるで部屋が宙に浮いているかのように錯覚した。ティアレは、その高低差に意識が遠くなりかけた。それほどの、高さだった。
 背後の足音は、徐々に大きさを増している。距離を、詰めている。ティアレは隠れる場所を探して部屋を一瞥したが、そういった類のものは何もないと知れただけだった。
 開け放たれた窓の窓枠に手をかける。髪が、風になびいて外に躍り出た。喉を鳴らして、再び地面との距離を、測った。
 ここから落ちれば、確実に、呪いからは解放されるだろう。
 死という、名の下に。
 それは甘い誘惑だった。
 ふと、白いものが視界を掠めた。
 女の、袖だ。姿を消していた女はティアレの背後からティアレをすり抜け、窓の縁を軽々と超えて、橙と群青入り混じる空へと身を投げ出していく。
 地面へと落下していく女はその顔をティアレに向けて、ゆったりと微笑んだ。
 今までが冷ややかな表情しか向けられていなかったためか、微笑による女に対する印象の変化は劇的だった。まるで、絵画に描かれる春風か何かの妖精のようだと、ティアレは思った。浮かべられる微笑は親愛のこもったもので、見るものの心を温かくする。彼女の衣装の袖が風にはためき、そこから覗く繊手がティアレに向かってゆっくりと動いた。
 おいでとでも、いうように。


「運動しても忘れられないぞ馬鹿野郎」
 息を切らしながら螺旋階段を駆け上りつつ、ラルトは幼馴染に向かって毒づいた。無我夢中で走れば夢の内容を忘れられるとジンが言っていたが、足を動かせば動かすほど、あの夢の内容が鮮明に脳裏に蘇ってくる。
 もっとも、走っている場所が問題なのであろうが――。
 古い、傷跡をなぞっている。
 引き攣れた、傷跡を、爪で引っかくようにして。
 嫌な汗が体中から噴出している。足音はいやというほど反響して耳朶を打った。招力石の薄暗い灯りが、壁にラルトの影を刻んでいる。
『ごめんね』
 夢に見たように、かつて狂ったように泣いた女は、この塔の上では穏やかに微笑んでいた。よく、そのように謝った。取り返しがつかなくなった、後で。
 そうして、最後にその女は――。
 螺旋階段が終わりを告げる。最上階の部屋に足を踏み込んで面を上げた瞬間、ラルトは肌という肌が粟立つのを感じた。
 真新しい銅の色の髪が、風に煽られ波打っている。七色に移ろう双眸が一瞬ラルトを捉えた。ラルトは叫びとも呻きとも取れぬものが喉の奥で引っかかるのを感じた。
 女の身体が傾いで、開け放たれた窓の向こうへ沈んでいく。
 いつか見た。
 これと同じ光景を。
「ティアレ!」
 葡萄酒色の帳のはためく音が、掠れたラルトの呻きをかき消した。
 届かないことは判っている。絶対的な距離がそこにある。それでも手を伸ばさずにはいられない。空しく指先は宙を握り、戦慄に突き動かされて再び名を呼ぶべく口を開いた。
 刹那。
 どだん!
 何かが、ひっくり返ったような、派手な音が部屋に響き渡った。
 一瞬何が起こったのか判らず、立ち止まって目を瞬かせる。女は窓の向こうに消えておらず、その代りに床に押し倒されていた[・・・・・・・・]
そう、押し倒されていたのだ。
 女を床に引きずり倒した男は女を組み敷いた状態で、紐が解けてばらけた髪をかきあげながら、大きな吐息をついていた。


 何が起こったのか。
 理解が追いつかずティアレは床に仰向けに倒れたまま瞬きを繰り返した。見知らぬ男が、ティアレを組み敷いている。金色に近い亜麻色の髪と瞳。色素の薄い肌に彫りの深い容貌。こういった特徴には覚えがある。
 西大陸の人間のものだ。メイゼンブルで、こういった髪と肌の色をもつ人々を多く見かけた。
「あっぶなー」
 ティアレの上に乗ったままの状態で、男が呻いた。彼はティアレににこりと微笑んでから、面を上げ、ラルトに向かって語りかけ始める。
「ねー見た見たラルト? 今の超やばかったよね? あー心臓止まるかと思った」
「な、な、お、ま」
 部屋の入り口で呆然と立ちすくむラルトは、明らかに狼狽して言葉にならない呻きを繰り返している。やがて大きく深呼吸し、落ち着きを取り戻したらしい彼は、僅かに声の裏返っている叫びを上げた。
「ジン! こんなところで一体何やってるんだ?!」
「貴方を呼びにきたんですよ皇帝陛下。シノちゃんに訊いたらこっちだっていってたから、真っ直ぐきたらなんだかラルトたちよりも早く着いたみたいでさ」
 明らかに狼狽を見せるラルトとは対照的に、ジンと呼ばれた男は陽気に笑ってみせる。ラルトも毒気を抜かれたようで、深くため息をつき、こちらへと歩み寄ってきた。
「鍵はかかってたけど、一応様子見にきたんだ。誰か来るからちょっと隠れて様子見てたんだけど、危なかったから飛び掛ってみました」
「判ったから降りてやれ。お前みたいな図体のでかい奴が乗っかってたら重いだろう」
「失礼な。俺これでも痩せてるほうだと思いますけれども。誰かさんの人使いが荒いせいで?」
「悪かったなこれからもきりきり働いてもらうからな宰相。よかったじゃないか大臣たちみたく肥え太りたくはないんだろう? ……いいから、降りてやれ」
 ジンは小さく頷き、ティアレの上からゆっくりと立ち退いた。
 ラルトと並んでも遜色のない、むしろ対極の美しさが際立つ男だった。ラルトが黒漆ならばジンは黄金。どちらも上品で、艶がある。一見ジンのほうが華やかにみえる。が、ラルトのほうに親しみを覚えるたくなるのは何故だろう。ラルトの傍らに並んだその男は、確かに人好きのする笑顔でティアレを見つめているというのに。
 ふと、ラルトが腰を落とし、尻餅をついたままのティアレの顔を覗き込んできた。きょとんとその暗い緋色の双眸を見つめ返す。綺麗な色だと思った。魅入られそうな。炎に向かって飛んでいく、蛾の気持ちとはこのようなものをいうのだろう。
 と。
 ぱん。
 頬に、痛みが走った。
 一瞬何が起こったのか判らず、頬にじわりとひろがる痺れた痛みに首を傾げる。目前のラルトは片膝をついたまま、開いたり閉じたりを繰り返す自らの手に視線を落としていた。
「俺は、女に手を上げる主義じゃないんだが」
「しかも顔にね。シノちゃんに怒られてもしらないからね」
「手加減はしたさ。黙ってろよジン」
「はいはい」
 嘆息混じりに呟くラルトを、ジンが揶揄する。その彼を押し黙らせたラルトは、すっと目を細めた。
 怒りらしき感情が、細められた瞼の奥から覗く光によってティアレに伝わってくる。
 刹那。
「馬鹿かお前はっっっ!!!」
 怒鳴られた。
 雷を落とされるという表現がどのようなものかと問われると、このようなもの、とティアレは答えるだろう。驚きにぱちぱちと目を瞬かせる。ラルトは眉間に手を当てて、細く長く吐息していた。
「そんな足で抜け出してどうする。しかも黙ってだ」
「爪割れちゃって痛そうだねぇ」
「お前は黙ってろ」
「……あい」
「……とにかく、どうして抜け出したりした? どこかに行きたいなら、傷が治ってからどこになりと行けばいいだろう」
 どうして、と問われても。
 ティアレはぼんやりと、男を怪訝さに首を傾げながら見つめていた。何故、これほどに男は憤っているのだろう。最初、男の手から逃げようとしたことに対して怒っているのだろうと思った。昔、娼館から逃げ出そうとしたことがある。所有者たちの手から逃げようとしたことが幾度かある。それらは全て、ティアレの元から庶民の生活というものが剥奪されて間もないころの話だが、どの所有者も揃って美しい哀願人形が手から逃げ出したことに烈火のごとく怒ったものだ。
 が、ラルトの怒りの論点は、そういった所有者たちのそれからは、少しずれている気がした。
「私は、滅びを、まねきます、ゆえ」
 どうにか、それだけを口にする。
 そう、滅びを招くゆえ。この国にいてはならないと思った。優しい人々の眼差しが、畏怖と憎悪に摩り替わる前に――。
「まだ言ってるのか」
 子供の言い訳には聞き飽きた。そういった響で紡がれた呟きに、ティアレは思わず振り乱さずにはいられなかった。
「私は滅びの魔女です! まだ判らないのですか若き王! 賢明な方だと思うからこそ申し上げます! 貴方は貴方の道楽一つで、ご自分の国を滅ぼすおつもりですか!」
「馬鹿を言うな。この国を滅ぼすつもりなんて毛頭ない」
 ティアレの剣幕に狼狽をみせ、ラルトが抗弁する。ティアレはそのまま身を乗り出すようにして、呻いた。
 懇願のように。
「ならば今すぐ、私を殺すのがよろしいでしょう」


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