BACK/TOP/NEXT

第三章 追憶の森 1


「もう、動かしても大丈夫でしょう」
「良かったですわねティアレ様」
 リョシュンの言葉に、ラナが手を合わせて歓喜を示す。二人はそのままティアレに何かを語りかけてきているのだが、その内容は上手く頭に留まらなかった。やがて二人は会釈をして退室していった。何かございましたら遠慮なくお呼びくださいね。控えの間におりますので。そう、丁寧に言い置いて。
 広い寝室にティアレ一人が残された。
 窓の外をぼんやりと眺めていたティアレは、ゆっくりと視線を、足先へと動かした。寝台の上に投げ出された足にはまだ包帯が巻かれているものの、力を入れれば痛みなく動く。思うが侭に動く足先を無感動に見つめながら、ティアレは瞼を閉じた。
 先日会った皇帝の姿を、瞼の裏にそっと思い描く。
 黒曜石もかくやという艶やかな黒髪と、闇夜に焚かれる炎のような、暗い緋色の瞳を持っていた。木肌色の身体はよく鍛えられて、野性の獣の美しさを宿していた。端整な顔立ちをしていた、と思う。精悍さと気品を漂わせていたが、抜き身の刃のような危うさがあった。宝剣――そう、抜き身の宝剣だ。野生の獣というよりは、どこかの宮殿で見た、凝った作りの一振りの剣をティアレは思い出した。簡素な、けれど精緻な彫金が施された、これでもかというほど鍛え研磨された鋼。それに似ていた。
 身に着けている衣服は今まで目にしてきた王侯貴族が身につけていたそれと比べると、驚くほど簡素だった。灰色の縁取りがされた、派手でない程度に蓮の花が刺繍された藺草色のゆったりとした長衣を腰の辺りで墨色の帯で縛っていた。白く柔らかそうな布地の下穿きと、室内用と思われる黒い飾り気のない靴。その装いから、彼が誠実な、真面目な皇であることが、窺えた。
 そして、優しい人々。この奥の離宮と呼ばれる離れに部屋を与えられること早十日以上。これまでの人生で最もと言及しなければならないほど、大事に扱われた。彼女らはおそらくこれからも自分をそのように扱うのだろう。
 ティアレの、呪いの意味を真に知るその日まで。
 ティアレは目を見開き、自然と蘇ってくる古い声に耳を傾けた。
 
 ――もたらすだろう。
 
 耳の奥にこびり付いているのは占師の声だ。ティアレが十の頃まで育った貧しい農村に、年に一度やってくる占師だった。老婆の声はしわがれていて、それでも鮮明に、耳に残っている。朗々と謳うように、彼女はティアレに呪いの存在を宣告した。

 ――滅びを。

「もたらす、だろう」
 魔女としての洗礼を受けた日の占師の言葉を、丁寧になぞりながら、ティアレは胸元を押さえた。

『滅ぼしなさい』

 若い女の声が、甘く囁く。幼少のころは、不思議に思うと同時に受け入れていた。周囲に誰ぞおらずとも、ティアレの耳朶を震わせていた自分のものとは異なる声。魔女としての洗礼を受けてからは、これが魔女の証なのだと、呪わしく思うようになった、母親よりも優しく慈愛に満ちた声。
 それが、甘く囁く。

『滅ぼしなさい』

 それが役目なのだというように。繰り返し繰り返し声は囁く。
 ティアレは押さえた胸元に向かって、問いかけた。
 何を?
 一体何をこれ以上滅ぼせというの。

『滅ぼしなさい』

 囁きは繰り返す。全てを解放せよといわんばかりに誘惑する。
 ティアレは再び、古い予言をなぞった。


 滅びを、もたらすだろう。


『どうして?』
 愛した女はそう言った。壊れた微笑を口元に、涙を目元に浮かべながら。まるで、覚えたての言葉を繰り返すしかない鸚鵡[おうむ]のように。
『ねぇどうして……? どうして傍にいてくれないのどうして……』
 どうして、と問われても、どうしても、と答えざるを得ない。以前のように昼夜を共に過ごすことはできない。それは判りきっていたはずのことであった。空間を共有できる僅かな時間は、自分にとっては貴重でも、彼女にとっては爪の先ほどもなかったのだろうか。女は、これだけでは足りないのだと、まるで子供のように駄々をこねた。
 胸を叩く力は弱い。女は頬に爪をたて、そのまますがりつくようにしながら床に腰を落とした。頬と首と腕に、女の爪の跡が残る。赤く尾を引いて、血がにじんだ。
 ならどうすればよかった?
 なら自分はどうすればよかったというのだ――。
 幼馴染が女の身体を支えながら見上げてくる。その瞳には困惑、同情、悲哀。この状況に直面して、何をすべきか判らないのだろう。ただ、彼は女の身体を支え、そして口を噤んでいた。
 女は慟哭する。顔に張り付かせた笑みは狂気じみ、涙に腫れ上がった両の目は大きく見開かれていた。
 硝子のような瞳に、戦慄している自分の姿が映りこむ……。


「……ルト……ラルト」
 揺り起こされて目覚めると、間近に幼馴染の顔があった。
「ジン?」
「寝るなら部屋行って寝なよ。風邪引きますよ皇帝陛下」
 腰に手を当て、呆れの眼差しを寄越してきながらジンは言う。そうだな、と苦笑しながらラルトは机から上半身を起こした。いつの間にか、机に突っ伏して眠っていたらしい。
 ジンは床に詰まれた書類を適当に蹴り飛ばし空間を作ると、そこに座布団を敷いて腰を落とした。胡坐をかいた膝の上に分厚い本を乗せて、彼はその内容と睨めっこを始める。ラルトは欠伸をかみ殺しながら、相も変わらず乱雑な執務室を見渡した。
 [うずたか]く積まれた書類が文字通り山を形成して部屋全体を浸食している。中途半端に解かれた一抱えもの巻物の端が、今にも滑り落ちそうなほどの微妙な均衡を保って机の端に乗りかかっている。床の上には足の踏み場もないほどの本、本、本。その殆どが過去の歴史書、政治の手引き、他国の憲法目録。その傍らでは商人が目を通すような経済学および倹約術の本が大量の栞の紐をぶら下げて無造作に置かれていた。
 ジンが何ゆえ床に腰を下ろしているかと問われれば、場所がないからに他ならない。椅子と机はラルトが使っているもの以外に宰相のためにもう一組ずつ用意してあるのだが、今は足りない書棚の代役として活躍、もとい部屋の隅に追いやられていた。よって、座りたければどこかに強引に場所を作るしかないわけである。
「夢を見てた」
 小難しい顔をして、本を読む幼馴染を視界の端に捕らえながら、ラルトは呟いた。
「何の?」
 ジンは書面から顔を上げずに尋ねてくる。それに対して不快になるようなことはない。誰も咎めない。どうせこの部屋には、自分と彼しかいないのだ。
「ヤーナの」
 沈黙がおち、一瞬遅れてジンの亜麻の眼差しがラルトを射抜いた。陽が差すと、金色に転じる美しい双眸。
「いい夢?」
「最悪な夢だな」
 机の上に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる。夢の名残として腕に、女の爪の感触。
「疲れてるんじゃないのラルト。大丈夫っすか」
「さてな。大丈夫なことは大丈夫だが、目覚めは最悪だ」
 嘆息して、両手で顔を拭う。椅子の背に重心を預けながら、ラルトは夢見た女を思い返した。
 かつて愛した女、レイヤーナ。
 自分たちの幼馴染。かつてその笑いは鈴を鳴らしたかのように軽やかで、春風のように暖かな光りを誰の心にも振りまいた――……。
 裏切りの呪いに取り込まれた、愛しく、哀れな。
「ヤーナの夢、お前もみるか?」
「見るよ」
 即答だった。ジンの目線は再び書物の文字を追いかけている。紙に何かを書きつけながら、彼は言った。
「嫌になるぐらい」
 嘆息し、ジンは静かに繰り返す。
「ホント……嫌になるぐらい」
「……そんな時、お前どうする?」
「そんな時って?」
「目覚め最悪だ、と思って、仕事にもいまいち集中できない。そんな時、お前はどうする?」
「んーそうだねぇ」
 文字を書く手を止めて、ジンは顎をしゃくった。こちらを仰ぎ見てくる顔には、陽気な人好きのする笑顔。
「運動するかなぁ」
「運動?」
「身体動かす。剣の稽古とか。むちゃくちゃがんばって走るとか。けっこうすっきりするよ」
「なるほど」
 感心して頷くラルトに、ジンが他には、と提案を持ちかけてくる。彼が口を開きかけたまさにその瞬間、甲高い声と共に女官長が踏み込んできた。
「陛下!」
 その剣幕に、幼馴染と二人で飛び上がる。女官長にここまで皇帝と宰相二人揃っておびえるのも、彼女が色々と自分たちの秘密を握っているからこそである。彼女の柔和な笑顔を絶やすことのない顔が、今日に限っては焦燥に彩られており、肩で息をしているところをみると、かなり急いで執務室に駆け込んできたことが推測できた。
「どうしたんだシノ? 何があった」
「ティ」
「てぃ?」
 呼吸すらままならないらしい女官長は、身体を圧し折ってぜいぜいと深い呼吸を繰り返していた。深呼吸を繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻したらしい彼女は、唾を嚥下して神妙な表情で報告してきた。
「ティアレ様が――」


 ざざっ……
「は……」
 つる草の絡みつく木の幹に手をついて、肩で呼吸を繰り返す。空気を求めて喘ぎながら、ティアレは周囲を見回した。
(……なんて、広い……)
 人目を忍んで奥の離宮を抜け出したものの、本殿と見られる方向へ足を向けるわけにもいかなかった。自分の容姿が酷く目立つことを、ティアレは自覚していた。事情を知らぬ人の目に触れれば、十中八九、ラルトに迷惑が掛かるだろう。人知れず姿を消すのなら、全く別の方向へ。そうして足を踏み入れた場所は、奥の離宮の裏手に広がる森だった。
 獣道すらも羊歯に覆われて確認することが難しい森は、鬱蒼としていて、時折女の悲鳴のような声をあげる鳥が、ティアレの頭上を滑空していく。足元の土は柔らかく湿っているが、時折その中から突き出した枯れ枝が、ティアレの足を傷つけた。治ったばかりの足は既に擦り傷によって出血し、巻かれた包帯が赤黒く汚れている。脳裏によぎる医者の老人と、若い気の利く女官の笑顔を、ティアレは頭を振って振り払った。
 空を見上げても枝葉が覆い遮って、昼なのか、夕刻なのか、判別することが難しい。
 逃げなければ。
 そう思った。逃げなければ。
 もし逃げることが不可能だというのなら。
 命を絶ってでも。
 滅びの魔女として生を受け、傾国姫と名を授けられても、命を絶ちたいとは思わなかった。怨嗟の言葉をティアレに投げかけ炎に焼かれて死ぬ人々を見て、罪悪感から気が狂いそうにならなかったわけではない。けれども、それでもどこか、いつも当然だと報復を成し遂げたかのような満足感が心の片隅を支配していた。
 星の数ほどの国をたらい回しにされ、身体を弄ばれ、侮蔑と嘲笑と嫉妬と畏怖の視線にどっぷりと浸った後では、滅びの呪いを自分に残された唯一の復讐の力のように感じることも多々あった。
 けれども。
(ここの人たちは違う)
 滅ぼすことに、本当の意味での恐怖を覚えたのは初めてだと、ティアレは幹に背を預けながら思った。
 ティアレの傷が癒えていく様を、まるで自分のことのように喜んでいた人の良い女官たちと御殿医。娼婦だと主張したティアレの手に触れて、柔らかに笑った上級女官と、道楽だと言い放ちながら、言葉の端々に常にいたわりの響を込めて自分に語りかけてきていた、眼差し真っ直ぐな皇帝。
 滅ぼす前に。
 彼らのあの優しげな眼差しが、ティアレに対する畏怖のそれとすりかわり、いつしか心を抉る刃と成り代わらないうちに。
「いたか?」
 聞き覚えのある声に、ティアレは思わず口元を押さえて息を殺した。暗い森に響く、足音と会話。木の陰からそっと様子を窺うと、先日と変わらぬ簡素な衣服を身に纏った、この国の皇帝の姿。
(……私を、探している?)
 額の汗を拭いながら周囲を見回しているのは、ラルトとシノだ。会話の内容から、どうやら彼らが自分を探しているようだった。何ゆえ、よりにもよって皇帝とかなり高位にあるだろう女官が、一介の娼婦に過ぎない女をこんな森の奥にきて探し回っているのだ。
 そう考えかけて、ティアレは思い立った。
(……他に、探す人がいないから)
 ティアレの存在を知らされているのは、おそらくごく一部だ。兵士を動かせば、ラルトがハルマ・トルマから献上されてきた娼婦をかくまっていることが周囲に一気に知れ渡ってしまう。
 ラルトとシノは、どうやら一度引き上げることに決めたようだった。遠ざかっていく足音に、ひとまず安堵の吐息を漏らすものの、一体どうやって自らの命を絶つのか。短剣でもくすねてこられればよかったのだが、そういった刃物の類一切を、見つけだす余裕がティアレにはなかった。
 しばらく寝台の上で生活をしていたために、体力も限界に来ている。出来る限り、遠くへ。でなければ、餓死しようと身を隠していても、見つけ出されてしまう可能性がある。
 探すなと、書き置きでも残してくればよかったか。
 ふと。
 ひらりと小さな燐光が鼻先を掠めた。
 首を傾げて光を視線で追う。薄緑の淡い光はたった一つだけだというのに、鬱蒼とした森のなかで眩しいばかりの明るさを保って宙を漂っている。一瞬、妖精光かと思った。古い森は魔力が溜まり易い。溜まった魔が、妖精光と呼ばれる淡い光となって漂うことは、よくあることだった。ただそのような現象が見られる場所は、世界でももう数が限られてしまっているのだろうが。
 だが妖精光は、大抵群れを成して宙を漂う。一つだけ、というのも奇妙な話だ――そう思った瞬間、光りは森の奥で忽然と消えさり、その代わりに、女が一人、姿を現した。
「……え?」
 美しい女だった。
 長い黒髪を背に流した、細面の女。理知的な瞳は闇を吸ったような黒、象牙色の肌。刺繍も何も施されていない、雪のような白の衣装を身に纏い、黒と橙の[かさね]の帯で腰を縛っている。薄紅の唇を引き結び、冷ややかといっていい眼差しで、女はティアレを見つめていた。
「……誰」
 誰何[すいか]の問いとも取れぬ、ティアレの掠れた呟きに、女も答えることはない。ただゆったりとした袖口を翻し、女はティアレに背を向けた。そのまま、森の奥へと霞に紛れるように消えていってしまう。
 ティアレは息を呑み、足を踏み出した。
 ティアレに背を向ける寸前、震えた女の唇が紡ぎだした言葉を、理解したからだった。
 女は一言、ティアレにいったのだ。
 おいで、と。


BACK/TOP/NEXT