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第二章 保護の理由 2


「入るぞ」
 瀟洒な扉が軽い音を立てて、自分を迎え入れた。ラルトはゆっくりと部屋に足を踏み入れると同時、ティアレの姿を認めると、足を止めた。
 ハルマ・トルマの旧領主から献上されてきた、呪われているという噂の娼婦は、寝台の支柱を支えに立ったまま、ぎこちなく会釈してきた。
 彼女は夜着ではなく、きちんと身なりを整えていた。春の緑の貫頭衣を身につけ、腰を光沢のある黒い帯で縛っている。ゆったりとした袖口と裾には刺繍が施されているものの、そのほかには一切装飾はみられない。その簡素さがかえって女の美しさを引き立てていた。緑という色も、女の銅の色の髪によく映えている。おそらく、シノが見立てたのだろう。
「よく似合っているな」
「……え?」
「その服」
「……ありがとうございます」
 褒め言葉に対する女の対応は淡白で、彼女はそのまま口を噤んでしまう。さて一体どうしたものかと顎をしゃくり、ラルトはひとまず、目の前の病み上がりの女に椅子に座るよう促すことにした。
「座ったほうがいい。疲れるだろう」
 ティアレは椅子に躊躇いがちに腰を下ろした。その向えの椅子に、ラルトも続いて深く腰掛ける。女は何も言わない。ラルトの言葉を待つように、沈黙して瞼を震わせている。
 献上されてきた夜を最後に、顔を見ていなかったわけであるが、彼女の血色は随分と良くなっていた。それほど長い間放り出していたわけで、シノに急かされるのも無理はない。いってきなよとの幼馴染の爆笑に背中を押されるまで彼女を放り出していたことに対し、少々ばつが悪かった。
「悪かったなしばらくほったらかしにして」
 シノの不機嫌という文字を貼り付けた表情が目に浮かんだ。どうやら久方ぶりに現れた世話をすべき対象に、女官長は肩入れしているようである。早く顔をみて差し上げてくださいませと笑顔で諫言、もとい脅しをかけてきたのは彼女だ。彼女の笑顔ほど怖いものはない。それというのも女官長は幼少からの付き合いで、知られて欲しくない自分の過去を知り尽くしているためである。皇帝に笑顔で脅しをかけてくる女官長がいるのも、ここ水の帝国ぐらいなものではないか。
「こちらもこちらで色々忙しくて」
 言い訳がましいと思いつつ、ラルトは言葉を続けた。
「顔色、よくなったと俺は思うんだが気分はどうだ?」
 ついついぶっきらぼうな謝罪の仕方になってしまうのは許して欲しい。一方、ティアレは当惑の表情を浮かべ口を閉ざし続けていた。その反応に怪訝さを覚え、ラルトは思わず首を傾げる。
「どうした?」
「……気、だるい、ですが……気にするほどのことでは。いつもの、ことですから」
 ぎこちないティアレの返答に、ラルトは納得し、鷹揚に頷いた。
「そうか。まぁゆっくり養生するといいさ」
「はい……」
 そこで、ぱったりと会話が途切れてしまう。
 一体何を話せばいいのか判らない。まるで女の扱いを知らぬ初な少年のようだとラルトは内心自分を嗤った。
「陛下」
 ティアレがたまりかねたようにとうとう口を開いたのは、それから間もなくだった。
「ラルトでいい」
「……ラルト様」
 様付けもいらないんだが、といいかけて、止めた。余計に口を挟んで、彼女の口の滑りを妨げたくなかったからである。逡巡する彼女を、ラルトは急かした。
「なんだ?」
 長い躊躇いの末にティアレの口から飛び出した問いは、ラルトの目を剥く内容だった。
「……わたくしをお抱きにならないのですか?」
「…………は?」
 思わず目を点にして、閉口する。やや置いて、ラルトは困惑しながら断言した。
「こんな真昼間っから、そんなことするか」
 のどかな小春日和の日差しが、窓から差し込んでいる。昼寝するには確かによい頃合ではあるが――いやいやそういう問題でもなく。
「では、夜に?」
 追求してくる女に、ラルトは首を横に振った。
「するかよ。俺は別にあんたを娼婦としてここにおいているわけじゃない」
「……では、売られる場所は決まったのでしょうか?」
 今度こそ。
 ラルトは絶句した。
 一方のティアレは不思議そうに首を傾げている。その表情は、何か変なことを言っただろうかとでもいわんばかりだ。
「俺は、あんたを売り飛ばす気もない」
 今度は、ティアレのほうが驚きの表情を浮かべる番であった。彼女は柳眉をきつく寄せて、ラルトに低く呻いてくる。
「では私は……?」
 では、といわれても。シノや他の女官たちから話を聞かなかったのだろうか。椅子の肘置きに頬杖をついて、ラルトは盛大に嘆息せざるを得なかった。
「ただ身体を休めてくれればいい」
 その盛大な嘆息と共に、ラルトは言葉を吐き出した。
「ゆっくり養生して、ものを食べて、元気になって、好きなところへどこへでもいけばいい。その間、少し俺と話をしてもらう。それだけだ」
 出来る限り、簡潔に、要点を噛み砕いていったつもりであったのだが、女はまだ納得できずにいるようである。彼女は長い睫毛が飾る目を瞬かせ、喉だけを小さく鳴らした。
 やや置いて、彼女はラルトから視線をそらした。その美しい顔に浮かぶのは、苦渋だ。
「ただの同情から私を置いて、下さるならば、後悔することになると、思います」
「何故?」
 その問いは、からかいではなかった。本当に理由がわからない。
 ティアレは、息を吸った。呼吸の乱れを整えて、静かに告げてくる。
「私は、ここに滅びを招きますゆえに」
「滅びの魔女、か……?」
 知らず疑わしげな響が篭ってしまう。ティアレはラルトの物言いに不快感を覚えたらしい。彼女は初めて、憤りにか、声を荒げた。
「冗談を、申しているわけでは――」
「別に冗談だと思ったわけじゃないさ」
 鋭い声音で先を制する。
「馬鹿にしているわけでもない。誰もがあんたのことを滅びの魔女、傾国姫と呼び習わし、そしてあんた自身も自覚している……その経歴から見ても、あんたが呪われているんだ、ということを否定はしないさ」
 言い切ってからふと思いたち、ラルトは一言付け加えた。
「でなければ、かの魔術大国、魔の公国メイゼンブルが滅びるわけがない」
 傾国姫、滅びの魔女と呼ばれる娼婦の存在は、彼の国の滅亡を通じて実しやかに、世界各地の王侯貴族の間に広まった。
 魔の公国メイゼンブルは、この水の帝国から内海を隔てた向こう側、西の大陸に位置した古い歴史を持つ大国だった。世界きっての魔術大国。首都は魔術の陣によって防護され、陥落するなどありえなかった。その国が、たった一夜にして滅んだというのである。その当時国を治めていたメイゼンブル公の下、庇護されていたというたった一人の娼婦のせいで。
「どんな呪いかは想像がつく。それだけ、魔力が高ければな」
 七色に移ろう不可思議な双眸を見つめながら、ラルトは呟いた。瞳の色はそのものが保持する魔力の高さを表す。銀は、魔の色。その場にいるだけで、世界を循環する魔の均衡をかき乱す。魔の乱れはすなわち世界の乱れだ。
 ティアレは自らが内包する魔力を制御しきれないのだろう。身体から溢れた魔力が、その土地の魔の均衡を突き崩してしまうのだ。おそらく、それが呪いの正体であると、ラルトは見当をつけていた。
「そこまでお分かりになられているのでしたら、何故」
 追求の眼差しを向けてくる女に、ラルトは微笑んだ。腕を組んでそれを膝の上に乗せ、上目遣いに彼女を見つめる。
「興味さ」
 ラルトは答えた。
「呪われた女に興味があった。それだけだ」
 ラルトの返答に、ティアレは思わずといった様子で絶句している。ラルトは椅子から腰を上げ、窓の傍へと歩み寄りながらゆっくりと言葉を続けた。
「やっぱりというか、あんたをここに置いて、事情を知る奴らには散々お小言を喰らった。あんたに限らず、俺の場合立場から言って、女一人を囲うっていう行為は非常に危険を伴うからな」
 幼馴染の馬鹿四段活用を思い出し、堪えきれず忍び笑いを漏らす。呆然自失といっても過言ではない様子のティアレを視界の端に捉え、ラルトは表情を引き締めることにした。
「特に俺の場合、今現在正妃の位は空白だ。古い国だから、多少国内が荒れてようがなんだろうが、婚姻関係を結びたいと申し出てくる奴は結構いる。そこにどんな身分であろうと、離宮に女一人が飛び込んできたと判れば、騒ぎどころじゃすまない」
「ならば何故?」
「言っただろう? 興味さ」
 掠れた声で問うてくる女に、ラルトは再度微笑みかけた。
「呪われている女に対する興味が、なぜかそういう危機感を上回ってしまったんだ」
「興味……」
 鸚鵡返しに呟く女の様子を見つめながら、ラルトは唇を小さく歪めた。その口端に乗るのは、薄い、自嘲の笑み。
「俺も呪われているからな」
「え……?」
 ティアレが首を傾げながら小さな呻きをあげる。ラルトは低く嗤いに喉を鳴らして、瞼を伏せた。
 血塗られた歴史。幾度も幾度も繰り返される、赤い連鎖。
 時に子に、時に兄弟に恋人に、時に友人に――。
 繰り返す、裏切りの歴史。
 今も、刻まれている。心を、刃で抉りぬいたような痛みと共に。疲れた老人の背中と、銀の中に飛び込んでいった女の姿が記憶の奥に刻まれている。
 裏切りの、皇。
「裏切りの帝国、という忌み名を耳にしたことはあるだろう」
「はい」
 水の帝国[ブルークリッカァ]という名より、今となってはその二つ名のほうが人々の耳と慣れ親しんでいる。一瞥すると、ティアレも躊躇いなく、首を縦に振っていた。
 ラルトは視線を窓の外に移し、嘆息混じりに説明を続けた。
「その二つ名は、この国を蝕む古い呪いに由来する。他の国は結構冗談のように取るが、確かにこの国には呪いが掛けられている。それが裏切りの呪いと呼ばれるものだ」
 水の帝国の皇族としてリクルイト皇家は、建国当初からその血統を絶やしたことがない。そしてこれからも、絶やすことはないだろう。永遠の繁栄を約束されている。未来永劫の繁栄の祝福。だがそれと同時に、“裏切り”も約束されている。
 一族は裏切りを繰り返し、また、繰り返し裏切られる。何時、どこで、どんな形で、誰にかは問われない。ただ、裏切られる。妻に、兄弟に、友人に、父に、母に。そして時に裏切る。彼らを。信頼を銀の刃で断ち切って、憎悪の眼差しを一身に受け、そうして血塗られた皇は永遠にあり続ける。
 そう、約束されている。
 裏切りの呪いと繁栄の祝福。その二つの説明に黙って耳を傾けていた女はふと、思い立ったように口を開いた。
「……解呪師の方には、調べていただいたのですか?」
 呪いに精通した術師の中には、それを解くことを専門とするものもいる。一般に、解呪師と呼ばれるものだ。
「……父上が、何人も呼んでいたよ」
 皮肉を込めて、ラルトは呻いた。
「誰もがお手上げだった。そりゃそうだ。建国当初から――つまりは神話の時代から、この国にあり続ける呪いだぞ。呪いの基本原理と、解呪法は知っているだろう?」
 呪いには、呪いを実行する際に必要となる犠牲と、呪いを継続させるために必要になる魔力がつき物だ。それを、代価と支柱と呼ぶ。解呪には代価と支柱の破壊が手っ取り早くかつ有効だが、強大な威力を誇る呪いはそれ相応の代価と支柱でもって行使されており、解呪師にはそれらを上回る技術と魔力を要求される。
 世界最古の国を飽くことなく蝕み続ける、世界最古の呪い。それを支え続ける魔力に打ち勝てる解呪師が、この世にいるとは思えない。
「探すだけ、馬鹿馬鹿しい」
「ですが」
「俺の父と祖父は俺と違って呪いからの解放を望んで、何もかもを投げ打った。民の、血税さえ。湯水のように財政を解呪の捜索につぎ込んだ。魔術師、魔道具、からくり、極めつけが<魔女のかけら>だ」
 最後の言葉に反応して、ティアレの身体が小さく震える。ラルトは窓枠に腰を預けて、冷笑にを口元を歪めた。
「その結果、他国に見放されるほど、この国の内部は荒れに荒れた。民は飢餓に喘ぎ、貴族は略奪を繰り返す。盗賊が横行し、人の行き来さえ途絶えた。田畑は荒れて、耕作するものもない……なぜなら、種も何もないからだ。一歩宮廷から出れば、混沌そのものさ。……シンバ・セトは父上たちが魔女のかけらを喉から手がでるほど欲しがっていたことを知っていた。だから俺もそうだと踏んで、あんたをここに連れてきたんだ」
 魔女のかけらと偽って、美しい娼婦を差し出せば、釈放されるとでも思っていたのか。馬鹿な男だ、と胸中で毒づいて、ラルトは嘆息した。
「……セト様は」
「様付けするなよ」
 元々主であったためだろう。癖が抜け切らないのか、シンバ・セトに対して敬称をつけた女に思わず叱責を飛ばす。ティアレは一瞬口を閉ざし、セトは、と言い直してきた。
「あれから、どうなりましたか?」
「現在地下牢だ。そのうち処分は決める」
 むしろ放置している間に自ら命を絶ってくれれば楽であるのだが、あの図々しさを思い返す限り、そういった可能性は皆無だろう。
「とにかく」
 一度咳払いをし、ラルトは話を仕切りなおした。
「呪いを今更、解く方法を探したいとも思わない。が、呪いの根源が別だとはいえ、俺と同じ呪われた存在を見かけるなんて滅多にない。というわけで、興味がわいた……話を、してみたくなった。あんたをここに置いているのは、そういうわけだ。理解してもらえたか?」
 ティアレはまだどこか、釈然としない表情を浮かべている。疑わしげに見つめてくる女に、ラルトは苦笑を隠せなかった。
「政治しかやるべきことを見出せない男の、道楽とでも思ってくれよ。そう思ったほうが、あんたも楽だろう?」
「……話など」
 ティアレは自らの腕を抱き、視線を背けた。瞼を伏せて、彼女は鋭い口調で主張する。
「私にどんな話を求めているというのです。私ができる話など、何もございません。それこそ、夜伽しか能のない女ですのに」
 そういって下唇をきつく噛み締める女にラルトは歩み寄った。椅子に腰掛けたままの女を見下ろし、出来る限り優しく微笑みかける。
「当面はまぁ寝ていればいいさ。……言っただろう。道楽だと。何を求めているわけでもない。強いて言えば、あんたという存在に興味がある。……それだけだよ」
「私は滅びを招きます」
 女はそう主張した。涙すら溜めてラルトを真っ直ぐ射抜き、静かな、けれども力の篭った声音で彼女は繰り返す。
「私は、滅びを招きます」
 女の眼差しは、何かを糾弾するように、ラルトを責める。ラルトは彼女の眼差しに当惑しながら、静かに尋ねた。
「あんた、そんなにここにいたくないのか?」
 彼女は答えない。ただ、あの澄んだ眼差しで、ラルトを射抜いている。
「この国は、滅びないさ」
 ラルトは嘆息して、女の背後をすり抜けた。
「古い魔女が、そう約束した土地だから。裏切りと引き換えに、永遠の繁栄を、約束した土地だから」
 彼女の肩に、軽く手を触れさせ、その場を離れる。
「……長話をして悪かったな。ゆっくり休め」
 後ろ手に扉を閉めた後、ラルトはそのまま背と体重を共に扉に預けた。天井を仰ぎ見ながら、腹の底からため息をつく。
 女の責めの眼差しが、思いのほかこびり付いて離れないのは、かつて愛した女を彷彿とさせるせいだ。
 ラルトは顔を手で軽く拭い、瞼の裏の残像を振り払うと、気を取り直して執務室へとつま先を向けた。


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