BACK/TOP/NEXT(第一幕)

終章 裏切りの帝国 4


「行くのか」
「うん」
 春の日差しに輝く緑。その下で幼馴染は、眩しそうにその亜麻の瞳を細めて言った。
「今日の船で行く。行き先は想像にお任せするよ」
 ラルトは頷いた。
「そか」
「……ティーちゃんに宜しく」
 ジンは言った。名前を紡ぐとき少しだけ顔をしかめたが、晴れやかな笑顔だった。
 ラルトは瞑目し、微笑み、静かに頷いた。
「さようならジン」
 またいつか。
「さようならラルト」
 いつか。
 この膿んだ傷口が、塞がって、愛しくその跡を、指でなぞることができるようになるまで。

 健やかに在れ愛しいひと。

 さようなら。


 どうしてこうなってしまったのだろう。
 何を、どこを、どう間違えてしまえばこのようになってしまうのだろう。女には、皆目見当もつかなかった。
 ただ優しい記憶は胸を抉り、別れの間際に聞き取れた微かな、本当に微かな名を呼ぶ声が、いつまでも耳に残っていた。
 自分が吐いた呪いの言葉は、もしかして男の心に傷として刻まれるのかもしれない。これから建国にあたり、彼は忙しさに追われて自分のことを忘れるだろう。忘れる必要があった。けれどもちくりとした痛みと共に、自分のことを時折思い出してくれれば。
 彼は自分たち皆の夢を叶えた。いや、叶える。自分の死を以って、それは叶えられるだろう。
 泡沫と呼ばれた自分たちの夢の成就。けれどそれと引き換えになったものの大きさ。女は泣きたくなった。彼が夢をかなえて嬉しいはずなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。理由は、判りきっていた。
 自分が、その夢をかなえた男の隣に立つことは、もう二度とないからだ。悔しい、という感情が体を塗りつぶす。悔しい悔しい悔しい。一緒に生きられないこと。一緒に、国を造っていけないこと。その悔恨じみた念が、別れ際にあの呪いの言葉を吐かせたのだ。それが『祝福』を与えるために集中させた魔力の、へたくそな偽装だとしても。
 女はただ男を愛していただけだった。ただ静かに暮らしたいと思っていた。どうせ残り少ない命だ。高すぎる魔力は体を蝕み、長命を許さない。残された時間が僅かだというのなら、たとえ毒に蝕まれても何者にも脅かされない時が欲しかった。
 馬鹿なことをしたものだ。
 今更になって女の口元には苦笑が刻まれる。静かな時間を望んで起こした行動を起因として、最終的に、自分からその幾許かの時間すらも奪われようとしている。
 裸足の足に石畳はひやりと心地よい。暗い通路を抜ける間、湿気がしっとりと肌をぬらす。後ろに回されて縛られた両手首。縛っているのは呪をかけてある組紐だ。解こうと思えば解けるが、そんな気力はもうどこにも、残っていなかった。
 ぴたり、と雫が零れてどこかで弾ける。衣擦れの音がさらさらと響いている。湿った黒い石の階段を、一段一段踏みしめて上っていく。
 空が見えた。
 青い空。
 昔、皆で笑って見上げた空。
 こんな終わり方を迎えても、それでも思い返すのは、いつか、彼と共に見た空だ。理想を語り合った優しい日々だ。
 ――ねぇ。
 胸の奥で語りかける。自分はこれから繰り返し生まれて、非業の死を遂げるだろう。それが、神が自分に与えた懲罰だった。
 ――もう一度、出逢えるわよね。
 けれども胸に一つ希望がある。遠い未来、自分は会えるだろう。
 私たちが望んだ、私たちが終焉を迎えた。
 この、水の大地で。

 そのために、自分はこの命すべてを使って、この国に祝福を与えるのだ。


 永久にあれ。
 愛しい人の血脈よ。
 私と再び出会うそのときまで。



すれ違い
思い違い
強く憎み
けれど必死に
誰より 人を愛する人々の国


東の果て、水の土地。
そこに、裏切りの帝国と呼ばれる国があった。


BACK/TOP/NEXT(第一幕)