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終章 裏切りの帝国 3


「……え?」
 シノは面を上げた。その目は大きく見開かれ、口が半開きになっている。彼女が呆ける様などなかなかみられるものではない。ラルトは目を通した書類の末尾に署名を繰り返し、その紙面に目を落としたまま繰り返した。
「聞こえなかったか。さっさと戻れよ」
「……で、すが陛下」
 まだなお、納得がいかないという風に食い下がるシノに一瞥をくれて、ラルトはため息をついた。署名し終えた書類を、それようの山のてっぺんに無造作に置いて、足を組む。机に頬杖をつきながら、ラルトは言った。
「ですがじゃない。さっさと戻れ。俺も暇じゃないし、お前だって暇じゃないだろう」
 押し黙るシノに、ため息をついて続ける。
「それとも何か? 罷免して追放でもしてほしかったか?」
 シノはぎゅ、と衣服の裾を握り締めた。普段最強といってもいい彼女がこうしてしおらしくあるのは結構見ものだ。沈黙する彼女から目を離し、眉間を指で揉み解しながら命ずる。
「……お前、さっき俺にいったこともう一回言ってみろ」
「……どのような処罰も」
「違うその前だ」
 ふーと長く息を吐く。長く書類と向き合っていると目が疲れる。これから狸爺どもと会食だった。それを思うとさらに鬱だ。その前に見ておきたい顔が約二名。さっさとこの仕事を終わらせなければ、と、軽く辞書二、三冊分の厚さほどに積み上げられた書類の束を見やった。
 シノが、口を開く。
「……決して、裏切るまいと。命を懸けて、今度こそ、お仕えいたしましょうと」
「言った言葉には責任持てよ。さっそく実行してくれ」
「ですが陛下!」
「いいかシノ」
 シノの言いたいことはよく判る。ジンとレイヤーナの姦通を黙っていたことに、それ相応の懲罰を与えて欲しいこともよく判る。彼女が言おうとしている意味は、おそらく遠くにいても、何か自分に危機があれば無条件で馳せ参ずる。そういう意味合いであろう。
 が。
「今思いっきり人手不足だ。文官武官、書記官女官、法官暦官、神官ついでに大臣も、ぴんからきりまで人材不足だ。なのにくそ忙しい。俺はお前が女官として有能であることは認めていて、お前ほどの腕のやつを探す労力を費やすのははっきり言って時間の無駄だし面倒臭い。見ろ、この書類の山を。狸だらけの宮廷で、それなりに信頼の置ける奴、使える奴を探し出すのは面倒くさいんだ」
 たった一人の穴をうめるために、すでに数千枚の書類に目を通して選考しなければならない。
 その上、腕のいい女官長にまで突然消えられたら。考えるだけでも末恐ろしい仮定だ。
 そういうわけで、遠くでいくら自分の安寧を祈っていてもらっても嬉しくは無いのだ。
「……裏切り者の私を、取り立てるなんて」
「罪の意識にさいなまれるのなら結構。そのままきりきり働いてくれ。むしろ一度裏切った分だけ弱みを握ってお前の賃金を安くできそうだ。いつ裏切られるかとひやひやすることもないな。狸爺どもよりは数倍いい。ついでにティアレを正妃に取り立てる際にもいろいろきりきりお前にしっかり働いてもらわなきゃいけないんだからそのつもりで。残業手当はなしで行く」
「……陛下、性格変わられました?」
「そうか? たとえそうだとしても、変わらなければやっていけないこともあるだろう。俺だって聖人君子じゃないんだから正論で行くつもりはない。聖人ぶった狸を雇うよりは、あけっぴろげな狐、しかも弱点掴み済みのほうが、断然お買い得だとは思わないか?」
 シノは唖然として閉口していた。ラルトはため息をついて次の書類に目を通す。出生、経歴、学歴、その他。人の軌跡が紙切れ一枚で納まるとは到底思えないが、それでも重要な資料であることには変わりは無い。
 紙面に踊る文字を目で追いながら、ラルトは再びため息をついて命令した。
「いけよ」
 シノは微笑んで頷いた。
「かしこまりました」


 会食の前に時間を見繕って二人の顔を見に行くその途中、奥の離宮の敷地に入る架け橋の袂で、偶然にも、見に行くつもりだった顔の一人と鉢合わせした。
「ラルト様」
 ティアレである。
 昔、表情を表すことの滅多になかった緋色の髪の女は、今は頬を緩めて自然に微笑う。笑うことができないのですと、泣きそうな顔で訴えて百面相していたころが懐かしい。あの顔もあの顔で気に入っていたのだが、とは、今でこそ言える科白である。
 会うのは久方ぶり、というほどではなかったが、せいぜい朝方挨拶を交わす程度の時間しか取れない。ティアレはレイヤーナと異なり文句どころか寂しいそうなそぶり一つみせやしない。これはこれで少し悲しい気もするが、口に出していったところでこの女に通用するかどうか。
 やはりため息防止の方法を考えるべきかもしれない、と思いつつラルトはため息をついた。
「……ジン様とお会いになるのは、それほどお辛いですか?」
 歩く方向から目的地を推測したらしいティアレは、並んで歩きながら尋ねてくる。考えていたことは全く別のことであったのだが、言及することが面倒臭くて、やめた。
「別に辛くはないな。会いにくい、かな。けれどもあって話しをする必要があったから」
 今日はあいつに呼ばれているし、と付け加える。今朝ジン様からお話があるそうです、と、ラルトに言ってきたのは、このティアレだ。この奥の離宮で、今ジンは治療を名目とした軟禁状態だった。
「お茶をお持ちいたしますので、ここで一度失礼いたします」
 女官の詰め所にさしかかったところで彼女が一礼する。別に茶ぐらい無くてもかまわないし、もしくは女官に運ばせればいいのだが。
 気を遣ったというところだろう。
 ジンの部屋は中庭に面した畳の部屋だ。静養するのなら、のんびり畳の上がいいと彼が軽口を叩いたのだ。
 扉を軽く手の甲で叩き、返事を待たずに中に入る。
 縁側に腰掛けて足をぷらぷらさせている幼馴染の傍らに腰を下ろして、ラルトは欠伸をかみ殺した。
「いい天気」
「じゃねー。お弁当持って、どっか行きたくなるねー」
 ごろん、と寝そべってジンが応えた。
 もうすぐ春になる。空の色も幾分か冴え冴えとしたものから、眩しさを増した。水路の水もぬるんで、水露商たちも舟を漕ぎ出した。茶から緑に塗り替えられていく草木。咲き誇る、白梅の花が美しい。
「ラルトぉ」
「うん?」
「俺国出る」
「そうか」
「……他になんか言ってよ」
 小鳥が庭で撒かれた餌をついばんでいる。ラルトは両腕を後ろに回し、その腕に体重を預けた。
「このくそ馬鹿阿呆お前がいなくなるだけで俺がどれだけ忙しくなるか判っているだろうに大体馬鹿なことをやらかさずにもっと早く全て暴露していればいいのに一人で抱え込みやがって俺がどれだけお前が大事かわかってないなんていわせないしまぁお前が人の妻とやっちまうぐらいどうしようもなくてへたれなことなんてわかってるけれども」
「……ゴメンナサイもういいです」
「……でもま、お前ばかり責められた義理じゃないからな」
 怪訝そうに、ジンがわずかに身体を起こす。ラルトは彼を見下ろして笑った。少し、泣きたくなりながら。
「俺が、きちんとレイヤーナのことを見て、きちんと、お前のことを見ていれば、よかったんだ。こんなに、近くに居たのに。……気づかなかった俺が阿呆なんだ」
 信頼して任せることと依存することは違う。けれども自分はまさしく後者だった。この自分にとんでもなく甘い幼馴染に、依存していた。この裏切りの帝国で、裏切られることを恐れて他者を敬遠するあまりに、彼にありとあらゆるものを依存しすぎていた。
「それだけだよ」
 全てを呪いのせいにすることができないのと同じように、ジンの弱さばかりを責めることはできない。
 自分もまた、弱い人間だから。もし自分がジンの立場だったら、同じようなことをしていたかもしれないのだから。
「お前は強いよラルト」
 ジンは身体を起こし、胡坐をかきながら呟いた。
「普通なら、そんな風に思えない。俺の横に、座ったりなんかできないよ」
「そうだな。普通なら怒りに任せて滅多刺しってところか。はらわた煮えくり返るような憤りと憎しみ、俺だって覚えなかったわけじゃない」
 ジンが押し黙る。ラルトは薄く笑った。
「そしてあっさり死なせてやるほど、俺は優しくも甘くも無いんだ」
 罪の意識に苛まれるなら、そのままのた打ち回って生きていけ。
 生きていくことそのものを、死を願うお前の懲罰とする。
 死による断罪なんてものは、望まない相手に与えてこそ効果があるのだ。
「国を出て行きたいなら出ていけよ。ただ死ぬなよ。死ぬなら俺の目の前で死ね。俺がよしというまで死ぬな。国を出ることに飽きたら戻ってこい。シノにも言ったが、仕事なんてものは腐るほどあるんだお前が知ってる通り」
 ジンは目を丸めて呻いた。
「何ソレ。あんねぇラルト。罪人の俺が戻ってきて城の仕事なんて出来るはずないでしょうが何のために俺奥の離宮にい」
「お前罪人なんかじゃないぞ」
「るのってう、え?」
「大怪我負って動けないから安全なところで治療していることになってる。ちなみに全ての罪はシンバ・セトに被ってもらったからな。お前はただ大怪我につき休暇中なだけだ。むかつく奴だったがあいつもあいつで使い道があったわけだし、感謝しなくちゃならないな。酷い死に方もしているし、そのうちそれなりの墓を立てて葬ってやるか。……オイ、ジン、なんだその目」
「…………職権乱用って言葉知ってる陛下?」
 半眼で呆れた視線を寄越して呻いてくるジンに、ラルトは笑顔で返した。
「知ってるぞ宰相」
 腹を満たした小鳥が空へと羽ばたいていく。彼らのさえずりが酷くのどかだ。
「……なんで俺奥の離宮にいるの?」
「ティアレがそうしたいといったからだ。世話を焼きたいと」
 ジンの静養場所を奥の離宮に指定したのはティアレだ。理由は詳しく聞いていないが、思うところがあったのだろう。
 ジンががっくり肩を落とす。
「……俺、ティーちゃんと顔合わせるの、なかなかキツイんすけどね……」
 むしろ地下の牢獄にいれて欲しかったと宣う幼馴染を笑ってあしらう。
「馬鹿だな。だからこそだろうが」
「ソウダトオモッタ」
 ふう、とため息を漏らして、ジンが再び横になる。
「毎日寝てばっかりだと身体なまるよー」
「阿呆。そんな青白い顔して立つだけで眩暈起こすくせに」
 傷は塞がっても瀕死であったという事実は変わらない。魔力による強制的な修復に、彼の身体が追いつかないのだ。年が明けて一ヶ月半。ジンはまだ、この部屋から出て動き回れるほど体力を回復していない。
「ジン」
 眠るように瞼を下ろす幼馴染を、ラルトは呼んだ。応えはすぐに返ってくる。
「なにー?」
「生きろよ」
「うん」
「生きていろ。でないと俺は」
 ぎゅ、と拳を握って瞼を閉じる。まだ風は、長居するには冷たすぎた。いくら温かくなったとはいえども、手足の感覚が徐々になくなってくる。
 ラルトは、肚のそこから声を絞り出すようにして、呻いた。
「でないと俺はお前を憎めない」
 憎みたい。
 憎ませていっそ。
 けれども呪いに囚われて、刃を振るった過去の皇帝たちのように、なぜか自分は彼を心のそこから憎むことができない。
 自分はまだ、こんなにも。
 ジンは頷く。
「……うん。判った」
 こんなにも、彼の生を喜んでいた。


「もうお戻りになられるのですか?」
 茶器を携えて詰め所から出てきたティアレは、きつく眉根を寄せてそう尋ねてきた。あぁ、と頷けば珍しく彼女の唇からため息一つ。ちょっとは寂しがるのかと思いきや。
「お茶が無駄になってしまいますね……」
 と、これである。
 思わず天を仰いだラルトに、ティアレは無邪気な笑顔を向けてきた。
「お茶だけでも、お召し上がりになられませんか?」
 憮然として、ラルトは頷いた。
「……なる」


「一つ訊きたいことがあったんだ」
 女官の詰め所にティアレと並んで入り、ラルトは席に腰を下ろした。
「はい」
 表面が溶けた臙脂色の美しい茶碗に手際よく茶を注ぎながら、彼女が頷いた。ティアレの茶を入れる動作はいつ見ても優雅だ。白く細い指が茶器に映える。
「……あの、場所で」
 ティアレの動作がほんの一瞬、止まる。だが彼女は茶器の蓋に手を添えなおし、相槌を打って茶を注ぎいれることを再開した。
「はい」
「……あの、女性は何をいっていたんだ?」
 昼下がりは静かだ。女官たちが各々の担当場所に出向いて出払うから。女官の数が増えたら、奥の離宮の女官達の何人かを、ここ専門にしなくてはならないだろう。現在この離宮で任についている女官たちは皆、平常の仕事と掛け持ちをしている。交代で誰か一人は離宮内に留まっているものの、こんな風に彼女に雑務をやらせるのもどうかと思う。
 ティアレの場合、自分から好んでやっている節があるが。
 ラルトの目の前に、茶碗がことりと置かれた。
「……ルーシアのことですか?」
「ルーシア?」
「……私たちの、始まりの魔女です」
 ティアレは、何かを懐かしむように目を細めてそう応えた。


 ラルトに茶を淹れながら、一月半前を思い返す。
『呪いは、消えたのか……?』
 あの古い舞台から戻ってすぐに、ラルトが尋ねてきた。質問というよりは、確認の形で。
 ティアレは応えた。
『判りません』
 そうとしかいえない。
 あの場所で起こったすべては奇跡だった。確証はなくとも、魔術としての呪いは消えていると思っていいだろう。裏切りの呪いの支柱であったらしい魔力は、影も形も見られない。
 シンバ・セトの件もあって、もう二度と奥の離宮で平和に暮らすことは叶わなかっただろうと思っていたが、ラルトのそんなことは錯乱した奴の妄想ということにしておけ、という命令一つで、あっさり事態は片付いた。ティアレは奥の離宮に戻り、シノたちに世話をやかれながら暮らしている。
 ジンの処遇をどうするのかラルトが考えあぐねていたとき、自分が世話をすると申し出たのも、自分が一番暇だからであろうという理由もあるし、ジンという人となりを、もう少し見てみたかったということもあった。
『あの場所で、死んでいるはずのレイヤーナにあったんだ』
 そのジンが、まだ立ち上がることすらできないころだった。薬を持って部屋を訪ねると目が覚めているのはいつものことであったが、ジンが自ら口を開いたのはそのときが初めてだった。
『……それからだよ。さらに、うるさくなったのは』
 ことあるごとに耳元に囁かれる女の声。眠るとき生々しく指先に残る肌の感触。
 それが一層酷くなったのは、あの場所で、幻惑を見てからだと彼は言う。
 その証言からも、あの場所の魔力が呪いの根幹であったことは間違いない。
 魔力に当てられるという話を聞いたことがある。強すぎる魔力を身体に浴びたものは、命を落とす、もしくは精神的に異状を来すというものだ。もしかしたら、これまで裏切りを繰り返してきた人々は、あの場所を訪れたことがあったのかもしれない。
 あの場所は、こんなにも宮城にも近いのだから。
 まるで、墓守をするようにして、この宮城はあの処刑場の傍にある。舞の奉納を行う祭壇を舟の上で見つけて、ラルトに墓守のようですね、と呟いたのは、他でもない自分であった。
「ルーシア?」
「……私たちの、始まりの魔女です」
 怪訝そうに問い返すラルトに、ティアレは微笑んで応えた。


 最初の魔女の、世界における二つ名は、神殺しの魔女ということを、今回ティアレは初めて知った。だがその魔女の名前は、ずっとずっと昔から知っていた。
 ルーベン・ルーシア。
 魔女たちの中に生きる魔女。
 一番古い、始まりの魔女。
 魔女達の、呪いの根幹。
 自分を責め苛んできた、呪いの正体。
 代価は人生。支柱は彼女。それが自分の『呪い』だった。
 彼女はもう居ない。ラルトの呪いを、おそらく、呪いの代価となっていた人を、連れて行ったから。
 囁きは聞こえない。もうおそらく二度と、自分は魔力を弾けさせることはないだろう。
 瞳の色は変わらなかったが、体を粟立たせる魔力を、感じることはもうなかった。
 魔力を失うまでにはいたっていない。いまだその容量は普通の人のそれを遥かに超えている。
 けれども、世界の均衡をかき乱すほどではないのだろう。
「ティー」
 は、と顔をあげると、ラルトの優しい眼差しがあった。
「それで、あの女性の幽霊は、なんていったんだよ」
 この国に流れ着くこと。
 目の前で不思議そうな眼差しを投げかけている人を愛すること。
 その人の呪いを“滅ぼす”こと。
 それらが。
 すべて。
 ティアレは言った。
「……これが、役割よ、と仰っていました」
「……は?」
 怪訝そうに眉をひそめて彼は尋ねてくる。
「……何の?」
 ティアレは微笑んだ。
「……秘密です」
「………何だソレ」


 ラルトは嘆息を一つ零した後、茶を飲み干した。そろそろ戻って会食の準備をしなければならない。部屋で女官が衣装を揃えて待っているはずだった。
 ラルトは、空になった茶碗を弄びながら呟いた。
「ジンがいなくなる」
 ティアレはさして驚くこともなく、ただ僅かに睫毛を震わせた。
ラルトは息を吐き出すとともに言葉を紡いだ。
「その穴を、お前が埋めろよ」
 明確に、ティアレが返事を返す。
「はい」
 その響きに満足して、ラルトは口元に笑みを刻んで瞼を閉じた。と、どすん、と膝の上に重みが加わり、ラルトは慌てて目を見開いた。すぐ目の前に、ティアレの頭がある。ラルトの膝の上に腰を下ろした彼女は、肩越しにこちらを見上げて口先を尖らせた。
「これから会食でいらっしゃるのでしょう?」
「……あ? あぁ」
「次、お戻りになられるのはいつでございますか?」
 少しだけ潤んだ瞳で見上げてくるティアレ。
 ラルトはきょとんと目を丸めた。そして思ったことがすぐに口に出た。
「……珍しい」
「何がですか?」
「お前がそんな風に俺にいつ戻って来るんだと訊いてくることとかちょっと寂しそうな顔してみることとか」
 即答してやると、ティアレは表情を消してつん、と前を向いた。
「……これでもラルト様の仕事の邪魔にならないように、必死の身の上なのですけれども」
 ラルトはたまらなくなってそのままティアレを抱きしめた。香る甘い匂い、少しひやりとしている柔らかい身体がたまらなく愛しい。膝の上の重みすらも心地よい。
「ティアレ」
 目頭が、少し熱い。
 彼女が居てよかったと思う。彼女の存在に感謝をする。
 彼女がこの国にやってきて、そして全ては始まった。
 自分はジンを失うけれども、その穴は彼女が確実に埋めるだろう。
「裏切るなよ」
 誓いのように紡がれた言葉に、ティアレもまた誓いのように言葉を返す。
「裏切りません」
 ことんと預けられる体重。甘く香る緋色の髪に、あごを埋めてラルトは呻いた。
「ありがとう」
 その言葉がかすれて響いたのは、彼女の頭に顔を押し付けていたからだけではないだろう。


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