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終章 裏切りの帝国 2


「ジン……!」
 揺すったところで彼は目を覚まさず、息はまだ辛うじてあるが、それもすぐに途絶えるだろうことは明白で。
 横ではティアレが口元に手を当てて泣き出さんばかりの顔をしている。ラルトはジンを抱いて、頬を叩き、泣いてすがった。
「馬鹿野郎! こんな終わり方あってたまるか! まだ俺はお前に赦すともなにもいっていないんだ!」
 こんな終わり方、自分は決して認めない。赦さない。
 肌は土気色に変わり、身体が徐々に冷えていく。血が、止まらない。
「……馬鹿野郎……」
 こんな風に死んでもらっても、少しも嬉しくなんか無い。
 小さな小さな間違いが積み重なって、すれ違い、それが『裏切り』という形をとってしまうのは、よくあることだ。
 呪いがあるか無いかの差などあるかないかに過ぎない。が、人の心に決定的な染みを落とすことは確かだった。呪いがある分だけ、絶対であるはずの信頼に揺らぎがでる。
 そんな呪いに、どうして囚われてしまったのだという怒りがある。その怒りに囚われて、父も、祖父も、その代の皇帝たちも、皆大事なものを自らの手で弑してきたのだ。
 そんなこと、自分は御免だった。
 自分が何のために、その怒りに囚われないように必死だったと思っている。たとえその瞬間憤怒に心が塗り染められても、生きてさえ居れば、いつか取り返せる何かがあるからだ。
 それを。
 こんな終わり方、自分は絶対に認めない。
 ラルトは呻いた。
「……こんな死に方するなんて、それこそ俺は赦さないからな……!」


 滅びの、魔女。
 人に破滅をもたらすものとして生を受け、娼婦として世界を漂泊した。人が死んでいく姿など飽きるほど見てきた。傾国姫の源氏名も、それゆえだった。
 ティアレは今、天に召されようとしている幼馴染に、泣いてすがっている男を見た。自分は結局、この人に、ある意味破滅をもたらしたのではないだろうか。自分がこの国にやってこなければ、この人を愛さなければ、全ては始まらなかったのであろうから。
 無力感に、唇を噛み締める。
 たとえ。
 自分のこの体の中に、国一つを滅ぼせてしまう魔力が流れていたとしても、それで人一人の命を救うことすらできない。魔力を行使して人の傷を癒す医療師がいる。けれど自分はどうやってこの身体からあふれ、人の全てを狂わせてしまう魔力を、その方向に生かすすべを知らない。
 どうして、自分はただこの魔力を呪って、何の手段も講じずに居たのだろう。
 この滅びの呪いに、ただ嘆くばかりであったのだろう。
 少なくとも、きちんとこの身を循環する力の使い方を、人を救う方向に役立てる努力をしていたら。
 目の前で死のうとしている、人を一人、助けることは容易かったかもしれないのに。
『……滅ぼすことよ』
 この国に呪いをかけた魔女と同じであろう、神殺しの魔女は、そう囁く。
 何を。
 あぁ、自分は、何を滅ぼすために、自分は生まれてきたのだろう。
 この、国を?
 ティアレはラルトとジンから視線を離して、かつて魔女が死んだという、舞台を見渡した。
 石畳の上には、赤黒いもので陣形が描かれている。よくよく目を凝らせば二重に描かれているそれは、一つは真新しく、もう一つは今にも消え入りそうに薄い。
 ただそのどちらも、ジンの血にも、セトの体液にも汚されず、わずかに発光して浮かび上がっていた。舞台はもとより淡く発光して闇夜にその輪郭を浮かび上がらせているが、いつの間にかその明るさの度合いを増している。
 ラルトの、胸や頬の傷から零れ落ちた血が、丁度その方陣の上に落ちていた。
 ティアレの手から零れ落ちた血が、丁度その方陣の上をなぞっていた。
 いつの間にか、世界の色が夜のそれから昼のそれに転じている。
 流動する、銀色の波が、見える。
 いつもの暴走のときと同じ、流動する、魔力の軌跡がティアレの視界を塗りつぶしていく。
 きん、という耳鳴りとともに、魔女の声がどこからともなく聞こえた。

『……滅ぼす、ことよ』


「……なんだ?」
 ラルトはジンの身体から顔を離し、突如明るさを増した世界に目を瞠った。突如ずん、と何か重たいものが体中にのしかかり、それが重力、というものであることを本能的に理解する。空気の塊めいたものが身体を押しつぶし、指先を動かすことにすら苦痛を覚えた。
 ジンの身体を下敷きに、何とか腕で身体を支える。だが身体に残る疲労感と、負った傷の痛みがそれを非常に困難なものにしていた。わけが判らず、とりあえずすぐ傍にいるはずの女の名を叫ぶ。
「……てぃ、あれ!」
 が、返答は無かった。
 彼女の姿は容易に確認できた。ティアレは膝立ちのまま瞳孔を開き、どことも知れぬ場所を見据えていた。ぎぎぎ、という耳に反響する重低音。耳鳴り。これらにラルトは、覚えがある。
(……魔力の、暴走!?)
 デュバートが死んだとき。そして、先ほど舞いの奉納の舞台の上で。
 ラルトは魔力の暴走の場に居合わせた。その際に鼓膜を破らんとする、世界の音としてはありえない重低音の耳鳴り。そしてぶれる視界――もしかしたら、ジンのように魔術の徒であるならば、肉眼で魔力の流れとやらを確認できるのかもしれない。だが残念ながら、ラルトはそれを確認することは出来なかった。内在魔力は高いのだが、自分に魔術を扱う才能は爪の垢ほどもない。
 けれども、この暴走は、比べ物にならないほど、大きいことは、理解ができた。
 『溜め』、が長い。
 否。
 そもそもこれは、『暴走』ではないのかもしれない。
 ラルトの足元に、ジンの手で描かれた魔術の方陣が、薄紫に発光して浮かび上がっていた。
「………絢爛にして素朴、賢者にして愚者、対極なる四つの色を紡ぎ合わせて作られた母よ。今ここに金貨を支払おう」
「……ティアレ?」
 ラルトは閉じかける瞼をこじ開け、女の姿を視界に納めた。ティアレの唇が動いている。が、その声は聞きなれた彼女のものではなかった。彼女の唇は動いているが、喉が動いていない。ただ、別の誰かの唇の動きをなぞっているかのようだった。
 ずん、と身体の重量が増す。
 地面すれすれに視線が低くなる。そこでラルトはジンの唇もわずかに動いていることを確認した。その動きはティアレと同じだ。その異様さに、背筋が凍った。
『つえはかたちあるものがもつかたちなきもの。この大地にしみこんだ、一つの命と血肉に宿る、かたちなきもの』
「……――つ?!」
 ラルトは頭の中で突如反響した男の声に顔をしかめた。心臓を鷲づかみにされたかのような感覚に眩暈がする。胸のむかつきに、嘔吐したい気分を必死にこらえ、ラルトは息を吐き出した。
『金貨はこの水を飲み暮らす人々の、血と肉と悲哀と憎悪。疑惑を至上の美酒として献上し、奏上していた私の願い』
(……なんだ、これは……!)
 おぉん、と、空気が震えている。大地が揺れている。だがそれはどうやらこの舞台上だけのようで、光に包まれたこの円形の舞台の外は、風が止まっているのか草木が揺れている様子すら認められない。
 だが、そんなことはどうだっていいのだ。
 それよりもまず、この頭の中で鳴り響く誰のものだかわからない声を、どうにかして欲しかった。
『今、それに見合う杖と金貨をこの場に献上し、眠る父に赦しを請う。今ここに貴方を弑した私と、貴方が弑した私が揃った』
 反響する声は女と男のものだ。だがそのどちらも聞覚えが無いくせに、奇妙に懐かしくあった。耳をふさいでも響いてくる。
 否、自分の喉から、紡がれていた。
『歩んだ物語を酒として、貴方の枕元に並べ奉る。金貨はかたちあるものかたちなきもの。この大地に流れ着いた、一つの命と血肉に宿る、かたちなきもの。支えるべき杖はない。絢爛にして素朴、賢者にして愚者。さぁ――』
 ぎん、と世界が凍る。凍った、と思った。
 舞台の周囲の世界が、凍った。風に揺れていたはずの草が、風に揺れる形をとどめたまま静止していた。木々も同じだ。星の瞬きが失せ、空気すら凍てついていることを本能的に悟る。
 それと入れ替わりに舞台の上の重圧が消し飛び、高らかな声が響いた。
『願いを聞きいれよ改変されよ。願いいれるは金貨の交換。杖の破壊なり』
 ごっ………
 突風が、吹く。
 それはまるで上昇気流のように足元から頭上へ向かって吹きぬけた。ばたばたと衣服の裾が跳ね上げられる。あまりの空気の流れの強さに目を閉じ、腕で顔をかばう。
 全ての音が消えるのには、そう長くの時間はかからなかった。
 ぱさ、と、衣服の裾が落ちた。
 ラルトは頬に夜風を感じて、閉じていた瞼を押し上げた。視線だけを動かして順々に周囲の様子を探っていく。
 膝の上のジンは、変わらず硬く瞼を閉じたままだった。けれどもそっと頬に触れると温かい。土気色であった肌に、血色が戻っている。紅い筋が傷の名残として肌に走っていたが、筋肉の繊維は塞がれ、そこからあふれていたはずの血は完全に止まっていた。
 信じられない。
 こんな。
 超一流の医療師ですら、こんな軌跡じみたことは無理だ。見ればラルトの胸および手足の傷も塞がっていた。疲労に重かったはずの身体が軽い。
 驚愕に、息を呑む。
「……しあ……」
 ラルトは、風に乗って耳に届いた小さな呟きに面を上げた。ティアレが膝を突いて、何かを凝視している。その視線の先を追って見て、ラルトはもう一度、吃驚に息を止めた。
「……レイヤーナ?」
 死んだ当時そのままのレイヤーナが、そこにいた。
 レイヤーナだけではない。見知らぬ顔の女が一人と男が一人、レイヤーナの背後に佇んでいた。
 女はくるくると巻かれた銀の髪にティアレと同じ、色移ろう銀がかった双眸をしており、男はどこかで見たことのある面差しをして、深遠の闇そのものの漆黒の髪と、真新しい銅の色の瞳を持っていた。若い男女だ。年は自分たちとそう変わらない。
「……ルーシア」
 ティアレが、呟く。名前であることはよく判った。ティアレがその言葉を口にした瞬間、同じ目をした女が微笑んだからだ。
 ひたり、とレイヤーナが裸足の足を踏み出す。
 亡霊。
 亡霊だった。身体の輪郭が透けている。その向こうに、寄り添うようにして立つ男女が見える。魔力と残留思念が上手く絡み合えば、死者が亡霊となって現れ出でることがあることも知っている。
 が、精霊すら生まれてこの方見たことの無いラルトは、一歩一歩近づいてくるそれに、恐怖からだろうか、強張りを隠せなかった。たとえ、それがレイヤーナの姿形をとっていたとしてもだ。
 レイヤーナはラルトとジンの前に佇み、腰を折ってラルトの額に口付けを落とした。実体無きそれはなぜか温かく、春の花びらが触れたかのようだった。
 彼女は手を伸ばし、ジンの額にも触れた。哀しいのか、愛しいのか、その瞳にこめられた表情は複雑で、ラルトには読み取ることはできない。ただ、子供を撫でるような優しい手つきであったことだけは見て取れた。
 彼女は、くるりと踵を返して男女の元へと歩み寄った。銀の髪の女が唇を動かし何かを呟く。だがその声はラルトの元までは届かず、ただ、ティアレだけがその呟きに、涙をこぼすことで応えていた。
 辺りを満たしていた光が、徐々に弱まっていく。
 それに伴って、彼らの輪郭も、徐々に薄まっていく。
 そこでふと、ラルトは黒髪の男に見覚えがあることに気が付いた。
 自分だ。
 自分に、とてもよく似ている。決定的に違う体格と輪郭をもっているが、髪の色と瞳の色と、肌の色と、どことなく雰囲気が、自分で言うのも何というか、似ているような気がした。
 す、と全てが溶けて消え、常にこの場所を満たしていたはずの、淡い魔力の明かりすら消失する。
 その場に膝を突いたまま放心して、なんの名残も見られない虚空を、そのままラルトはじっと見据える。
 それからすぐに。
「陛下!」
 医師たちを引き連れたシノの叫び声が、夜の闇に木霊した。


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