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第二章 保護の理由 1


「馬鹿ですかアナタは」
 埃舞う、乱雑極まりない執務室。
 朝、デュバートから仔細を聞いたらしい幼馴染が、もはや寝所同然となっているその部屋に踏み込んでくると同時に吐き捨てた言葉がそれであった。
「顔を見るなり馬鹿かお前は、はないだろうお前」
 机から面をあげ、ラルトは頬杖をつきながら幼馴染を見返す。机の前に佇む幼馴染は、最上級の笑顔でラルトの発言を却下した。
「いや馬鹿だという。むしろ言わせて四段活用で。馬鹿ですか馬鹿ですね馬鹿でしょう馬鹿だ。うん俺ラルトがくそ真面目な方面に馬鹿だとは思ってたけどそれを超越して馬鹿だとは思いませんでした馬鹿」
「あー誰か耳栓を貸せ……朝から五月蝿い」
「人がちょこっと地方視察に行って戻ってきたと思ったら、これですからね。事情知ってるのは誰と誰?」
「デュバートとシノと奥の離宮の女官たち、それからリョシュンだ。謁見があったとだけ知っている人間を含めるなら、近衛兵が四人。あとお前」
「あらま少人数」
「いくら俺でも馬鹿をやらかしたということぐらいは判るさ。むやみやたらに大臣の狸共に弱みをさらしてやるほど俺もお人よしじゃない」
 欠伸をかましてラルトは改めて幼馴染を見上げた。仁王立ちで佇む彼は、半眼でラルトを見下ろしている。見詰め合うこと、しばし。どちらが先に噴出し笑ったのかは判らない。ただどちらからともなく手を上げて、ぱん、と宙で叩き合わせた。
「お帰りジン」
「ただいまラルトぉ。やぁ今日も疲労絶好調って感じだねー」
「いろいろとな。視察の報告を聞かせてくれ」
「あせらなくてもちゃんとお話しますよ。お茶淹れてお茶。俺喉渇いたぁ」
「皇帝に茶を淹れることを請う宰相は世界探してもお前ぐらいだ」
「おや。無論お望みとあらばワタクシメがお入れいたしますよ? どっちがいい?」
「いいさ、疲れている宰相を労うのも皇帝の役目だろう。多分な」
 立ち上がり、床に詰まれた書物や冊子を蹴り飛ばしつつラルトは後ろの戸棚の茶器に招力石を放り込んだ。込められた魔力に応じて効力を発揮する、特殊な樹木を加工したものだ。親指程度の宝玉の形をとっているそれは、水に触れた瞬間熱を発する招力石だった。茶葉の用意をしつつ窓の玻璃に映りこんだ幼馴染の姿を見つめる。彼は座布団を引き寄せその上に腰を下ろし、膝の上に本を乗せて頁をゆっくりと繰っていた。
 ジン・ストナー・シオファムエン。
 それが彼の名前である。年はラルトよりも一つ年嵩の二十六。黄金に近い亜麻色の髪と双眸をもつ、甘い容姿の持ち主だった。彫りが深く、肌の色素が薄いのは、彼が西の血を引いているからだ。彼の母は西大陸の中で勢力を誇っていた魔の公国メイゼンブルの出身で、彼の容姿はその特徴を色濃く残している。そしてその派手な容貌に負けず劣らず派手なのが彼の様相。黄色の上着に藍の下穿き、そして濃い赤の帯と、道化と呼ばれてもおかしくはない。事実大臣たちからは、派手すぎると非難轟々であった。本人には特に、気にした様子は見られないのであるが。
 最愛の幼馴染。乳兄弟。遠縁にも当たる。今の自分にとっての唯一の家族であり、同時に、政務における女房役でもあった。宰相。この国における彼の地位がそれである。
「茶、入ったぞ。報告書は?」
 湯のみを押し付け、湯飲みをもつ手と逆の手のひらを差し出す。ジンはこの数日地方視察に出かけていて、その報告書をまだ受け取っていなかった。だがジンは湯のみをうけとると、それよりも、と空のラルトの手を叩いた。
「先に例の子の話、して頂戴ラルト。そっちのほうが大事。ものすごっく大事」
「馬鹿いえ」
「馬鹿じゃない。俺は真剣なんよラルト。だってラルトが保護したのは五歳六歳の子供の女の子じゃない。……れっきとした、成人の女。しかも……娼婦、だって?」
 ラルトを見上げてくるジンの瞳には、責めの色がある。諸手を挙げて降参の意を示し、ラルトは知れず嘆息していた。
「怪我をしていたんで、手当てさせているだけだ」
 女の姿を思い出す。未だに目に焼きついている女の姿。足を鎖で繋がれ、その部分が傷ついて膿んでいた。爪の中が赤黒いのは、己の血のせいだ。それでも、苦痛の顔色一つ見せず佇んでいた女。
 感銘を受けたのだ。だから手当てをさせている。それだけだと。
「だったらなんで奥の離宮なのさ」
 だがジンは頬杖をつきながら、変わらず呆れの眼差しを寄越してきた。
「皇帝のためだけに建てられた、不可侵の庵。不可侵の離れ。なんでそんな場所に、手当てするだけの女の子を入れたりするのさ。言い訳は聞きたくないよラルト」
「別に言い訳じゃ」
「怪我の手当てだけで女囲うような、軽薄な奴じゃないでしょラルト」
 一度嘆息に言葉を区切って彼は言う。
「<裏切りの帝国>の皇帝である、他でもないお前が」
 ジンの糾弾は、もっともだった。
 皇帝の位について早七年が経過しようとしているが、現在正妃の位は空席で、妾の一人すらいないのだ。それに未だに、先代から続く重鎮たちから不信感は拭えていない。若造が、といつでも足元をすくう用意を整えてラルトを監視している。こんな時期に、女を……しかも献上された“娼婦”を、囲うような真似をするなどと、ラルト自身自分で己の正気を疑いたくなった。ジンの懸念は、痛いほどよく判る。
 昨日の会議の様子を思い出す。古い慣習に縛られた大臣たちの不信の目はいつでもラルトの頭痛の種だ。彼らから差し向けられた暗殺の使者の数など、とうに数えることをやめている。
 狭い宮廷内部だ。隠していても、自然と自分が女一人を囲っていることは明らかになるだろう。時間は多少掛かるかもしれないが。
 その後一体どうするのか。いやそもそも自分は彼女をどうしたいのか、見当もつかないのが本音だった。
 彼女――滅びの魔女。傾国姫と呼ばれる、娼婦。呪われた女、ティアレ・フォシアナ。
 ラルトは目を伏せた。
「……お前が思っているような、深い意味はないさ。ジン」
 あえていうならば、彼女が呪われている。その一点に対する強い好奇心だ。
 自分たち以外に呪われているという人間を、傍においてみたかった。それだけである。
「だったらいいけど」
 ぱたんと、膝の上の本を閉じながら、ジンが嘆息する。
「でもいろんな意味で危ないってことだけは、わかっておきなよねぇ?」
 ラルトは肩をすくめ、肯定を示す。ジンは呆れたようだったが、何も言わず、じゃぁ視察の報告を、と携えてきたらしい書物をラルトに差し出してくる。
 受け取った報告書に目を通すラルトの思考を、あの女は今どうしているのだろうという疑問が掠めた。


 ティアレに与えられている部屋は、奥の離宮と呼ばれる場所のなかでもよく日の当たる、南向きの小さな部屋だった。小さな、とはいっても、この離宮の中で小さめの、という意味である。二間続きの部屋は、悠々と四人ほどが暮らせてしまいそうな広さがあり、それでも、程よく配置された家具が部屋の空白を目立たせなかった。大きく取られた窓からは太陽の光が差し込んで明るく、その明度は時に眩しすぎるほどである。そういったときは、色鮮やかな御簾で日差しの角度を調節した。
 焚かれている甘い香は、精神を落ち着かせ怪我の治癒によく効くのだという。ティアレは一番奥に置かれた寝台で上半身を起こし、ぼんやりと部屋と、窓から見える風景を観察していた。腰にはいくつも綿がたっぷりと詰まった敷物が当てられ、疲弊した身であっても辛さは感じない。
 ただ、どうしてこのようなことになっているのだろうと思った。
「大分綺麗になっておられますな。近日中には歩けるようになられるでしょう」
 足を診ている老人が、片眼鏡を外しながらそう笑った。皺を刻んだ手が労わるようにそっとティアレの足を敷物の上に置く。代わってその後を引き取ったのは赤い髪を結い上げている、動き機敏な女である。老人はリョシュンと名乗った。皇室の、御殿医だという。女はラナといって、ティアレがこの部屋に来てから甲斐甲斐しく世話をしてくれている女官であった。
「よかったですわねティアレ様。寝台の上にいてばかりで、さぞや退屈でいらっしゃったでしょう。歩けるようになられたら少し離宮の周辺を歩いてみましょう。今は冬ですので特に目を瞠るようなものはございませんが、空気が澄んでいて気持ちがようございます」
 ティアレの足に丁寧に包帯を巻きつけてゆきながら、女官が弾んだ声音でそう告げてきた。
「……はぁ」
 ティアレはそう同意ともなんとも取れない呻きを漏らすしかない。女官たちの気安さはただティアレを当惑させるばかりで、一体未来に何が待っているのか、少し怖くもあった。今まで、手厚い扱いを受けたことはあったものの、これほどまでに気さくに声をかけられたことはかつてなかったのだ。いつも自分を取り巻くのは侮蔑、もしくは羨望、畏怖、劣情の眼差し。そう決まっていた。
 ほどなくして、リョシュンが医療道具を鞄にしまいこんで退室する。戸をくぐる小柄な背を黙って見送っていると、御簾を上げ下げして日差しを調節していたラナが、ティアレに声をかけてきた。
「間もなくシノ様がいらっしゃると思いますので、お疲れでしょうがお眠りになられるのは少々お待ちくださいね」
「……シノ様?」
「私共の上役でございます。本来ならばもう少し早くお出でになられたがっていらっしゃったのですが……あぁ、いらっしゃいました」
 ラナが身を正して戸口のほうへと一礼する。やがてティアレの視界に姿を現したのは、黒髪を綺麗に纏めた、若い女だった。
 ラナが身につけているものと似た簡素な動きやすさを考慮された衣装であるが、素材が違うのか布地に僅かに光沢があり、ラナの生成りと違って色も濃い紫である。それが、女の紫紺の瞳によく映った。瓜実[うりざね]顔に浮かぶのは見るものを安堵させる微笑である。ラナに手を軽く振って彼女に退室を促したその女は、目元口元をほんのりと緩めて、ティアレに向かって深く一礼した。
「ご気分はいかがでしょうか。顔色は大分良くなったとお見受けいたしますが」
 見知った顔がいなくなる心細さに、思わず沈黙していたティアレは、はっと我に返って口ごもった。
「え……あ……はい。あの……大丈夫です。随分と、楽に」
「それはようございました」
 女はにこりと微笑んでティアレのそばに歩み寄ると、椅子を引き寄せ腰を下ろした。目線を、合わせてくれたのだと知れる。黙って彼女の動作を見つめていると、女が胸元に手を当てて名乗った。
「シノ・テウインと申します。シノとお呼びくださいませ。現在一時的にこの奥の離宮の全責任を預からせていただいております」
「……このお屋敷の、ご主人の方ですか?」
「いいえ。この離宮の主人はあくまで陛下でございます。私は先ほども言いましたように一時的に、一切の管理における責任を預からせていただいているだけに過ぎません。本来ならばもう少し早くに様子を伺いに参るべきでしたのに、このように遅れて誠に申し訳ございませんでした」
 シノと名乗ったその女が、あまりにも申し訳なさそうに呻くものだから、ティアレも当惑しつつはぁと間抜けな呻きを上げることしかできなかった。どうして、自分がこのように恭しく扱われているのかが判らない。
 わからない事ばかりだと首をかしげるティアレに対して、シノは言葉を続けてきた。
「この離宮においてだけではなく、女官一切についての責任も私が預かっております。……ラナは何か失態をいたしませんでしたか? 何か不満があったら遠慮なく」
「いえあのっ、とてもよくしていただいています……から」
 思わず声を荒げてしまったティアレに、シノが一瞬目を瞬かせている。だが口元を再び緩めた彼女は、それはようございました、と安堵の呟きを落としていた。
 何をそんなに心配していたというのだろう。ラナという女官は本当にティアレに対してよくしてくれていた。文句など何もない。
「喉がお渇きになっていらっしゃいませんか? 今お茶を淹れますので」
「あの」
 立ち上がりかけたシノを呼び止めたのは、条件反射からである。特にどんな理由があったわけではない。だが呼び止められたシノは柔らかな微笑を口元にたたえ、ティアレの言葉の続きを待っていた。
 ティアレはしばらく何を口にすべきか迷いながら窓の外に視線を逃がした。朗らかな冬の日差しに輪郭を晒しているのは、静まり返った庭。色のくすんだ葉を茂らせる低木、葉を全て落とした高木が並ぶ。苔むした岩が小さな池を囲み、小川――ラナ曰く、鑓水[やりみず]と呼ぶらしい――の傍ではとけ残った雪が陽を柔らかく反射していた。名も知らぬ花が、その花弁の深紅を庭のところどころに飾っている。
「ここは、どういう、場所なのですか?」
 時間をかけてティアレが紡いだ問いは、ごくごく素朴な疑問だった。
「奥の離宮でございます」
 シノがよどみなく答える。そうではない――ティアレは頭を振った。その名前は、既にラナから聞き及んでいる。
 この場所に連れてこられた当初は、後宮の一角かと思ったのだ。後宮、牢。人目につかない薄暗い棟、もしくは王の寝所。ティアレが最初に運び込まれる場所は大抵そういった場所であった。
 だが、奥の離宮と呼ばれるこの場所はそのどれもとは違っているように思えた。後宮というには人は少なすぎる。奥の離宮は驚くほどに静かだ。ラナに言わせれば、今現在部屋を使用しているのはティアレのみで、残りは空き部屋だという。庭からは城の本殿がぼんやりと見える。人里はなれた別宅、というわけでもなさそうだ。王の寝所といっても差し支えない広さを備えているが、心当たりのある男、この場所にティアレを運び込んだ張本人であるラルトと名乗った皇は、最初にあって以来数日たった今まで一度も見たことがない。牢屋、と呼ぶには待遇が良すぎる。人目につかぬよう配慮がなされてはいるように見えるが、関わりになる人間があまりに気さく過ぎて、ティアレに違和感をもたらすほどだった。
「その、奥の離宮とは、一体、どういう」
 一体自分はどういった扱いを受けているのか。そういう意味を込めて紡いだ問いは、シノの即答によって途切れさせられた。
「不可侵の庵と呼ばれております」
 シノはティアレに一言断りを入れると、改めて椅子から立ち上がって戸棚へと歩を進めていった。表面艶やかな戸棚には、茶道具一式が納められている。彼女が茶器を引き出すその後姿を眺めながら、ティアレは彼女の言葉を共通で反芻していた。
(不可侵の、庵?)
 ティアレの怪訝そうな表情を見て取ったのだろう。茶器を盆に載せて運んできたシノが、茶の用意をしながら説明を続けてきた。
「五百年前、絢爛の夏と呼ばれたこの国の最盛期を治めていた皇が、個人的な静養の為に建てた庵。それがこの奥の離宮でございます」
 陶器の触れ合う音に混じって彼女の涼やかな声が響く。歌か何かを嗜んでいるのだろうかと、彼女の説明を耳に入れながらティアレは思った。
「一時期後宮として使われていた時期もあったようですが、今は間違[まご]うことなき、立派な空き家でございます」
「……立派な、空き家、ですか?」
「えぇ」
 揶揄するように言い切った女官は、その言い方に呆然とするティアレに対してか苦笑を浮かべ、招力石を陶器の中に落とし入れた。美しい白磁の、茶器。
「陛下もほとんどおいでになることはございません。使われていないからといって、陛下以外の方が自由にこちらへおいでになることはなりません。大臣の方も誰も、一切こちらにおいでにはなられません。許しを得たものだけが足を踏み込むことが許される。文字通り、不可侵の庵。ティアレ様がこちらに運ばれたのは、人目を避けなければならなかったという理由もありますが、誰もおいでになられないこちらのほうが、ゆっくりとご静養なさることができるでしょうとの、陛下のご配慮だと思われます」
 どうぞ、と淹れたての茶が差し出される。ありがとうございますと消え入りそうな声で応じながら、茶器を恐々と受け取って、その縁にティアレは口をつけた。
 甘い匂いのする飴色の茶は北出身のティアレになじみの深いものである。舌先に広がる柔らかな味にほっと息をつき、ティアレはシノを見上げた。
「静養……?」
「リョシュン殿からお伺いしておりませんか? 足の傷の具合も大分よくなっていらっしゃるとのことです。真に、酷いことですこと。美しい御御足[おみあし]でいらっしゃいますのに、あのような鎖で。一体どれほど長くつながれていたのでしょう。内在魔力が高くなければ、治癒が間に合わず肉が腐り落ちていたかもしれないと。幸い、ティアレ様は高い内在魔力をお持ちでいらっしゃいますので、跡は多少残るかと思われますが、綺麗に治ると、聞き及んでおります。陛下もお喜びになられますでしょう」
 見当違いの言葉を返してくるシノにティアレはしばし呆然となった。まだなお何か言わんと口を開きかける彼女に、慌てて口を挟む。
「いえあのそうではなくて……どうして私に、療養が必要なのですか?」
 ぴたりと。
 ティアレの問いに、息そのものまでも止めて、シノが静止した。微笑みに彩られていたうりざね顔がほんの僅かに、怪訝さにであろうか、しかめられる。何かおかしなことを口にしただろうか。シノの顔に浮かぶ表情に、ティアレは思わず萎縮して身を引いた。
「……ティアレ様」
 嘆息と共に零された音律は、どこか痛々しい憐憫に満ちていた。紫紺の瞳を労わりの微笑に細めて、シノが寝台の傍らに膝をつく。
「寝台から動けない身であらせられますのに。当然療養は必要でございましょう。枷による手足の傷も、酷いものでした。何故、と問われるまでもございません」
「ですが私は娼婦です」
 華奢な茶器を両手で握り締めるようにして、ティアレは主張した。この女官は、何か勘違いしているのではないか。自分は、娼婦だ。人としての扱いを受けるまでの身分ではない。
 シノが瞠目したように見えたのは、どうやらティアレが語気を荒げたためであるらしい。お体に触りますよと、やんわりとティアレをたしなめた彼女は、ティアレの手から茶器を取った。空になった器を傍の円卓の上に置いた女官は、器を握ったままの形で布団の上に落とされるティアレの手を、包み込むように握り締めてくる。
「あまりそのことは口になされませぬよう。いくらここが不可侵の庵とはいえ、万が一誰かの耳に入れば、陛下の立場が危うくなりますので」
 咎めているという雰囲気はない。ティアレが怯えぬよう、細心の注意が払われた、穏やかな声音だった。
「手を、お持ちで」
「……は?」
 シノはまずティアレの手を広げ、そういった。
「腕をお持ちでいらっしゃられる」
 シノの指が、柔らかな綿の夜着に包まれた腕を差す。その指先は続いて布団の下に投げ出されているティアレの脚へ向けられた。ティアレは黙ってその指先の軌跡を目で追いながら、シノの言わんとすることに注意深く耳を傾けた。
「足をお持ちでいらっしゃられる。いえ、たとえそれらがなくとも、感情をお持ちでいらっしゃられる。私たちと、一体何が違うというのですか」
 でしょう、と同意を求められ、ティアレは口を噤むしかなかった。美醜の違いはあれ、たとえ姿かたちが同じだとしても、決定的に違うものがある。
 呪われている。
 自分は呪われている。
 滅びを招く。存在するだけで、呼吸をするだけで、周囲に存在するものに対して滅びを招く。
 シノの微笑を見つめながら、ティアレは急に泣きたくなった。今すぐこの場所を離れ、海に身を投げ入れたくなった。彼女に手を伸ばし、女官服の袖口を握り締める。
「……ティアレ様? 大丈夫ですか?」
「……皇は……」
 首をかしげる女官の手に額を押し付け、ティアレは呻いた。
「皇は、一体何を……」
 手当てなど要らぬ。玩具として弄ぶというのなら早くそうすればいい。姿を見せぬこの国の皇帝は、一体何をしているのだろう。
 何か、甘い夢を見ているようだ。こういった状況は非常に良くない。ティアレは思った。甘い夢ほど残酷なものはない。それは現実に救いがないことを、短剣で肉を抉り取るかのような生々しさと痛みでもって見せ付ける。早く、現実に戻らなければ。気まぐれに与えられる優しさは、要らぬのだ――。
「全くですわ」
 どこか憤慨してすらいるようなシノの同意に、ティアレは面を上げた。間近に、悪戯っぽく微笑んでみせる女官の顔。彼女はティアレの頬に指を添えて、言葉を続けてくる。
「珍しく美しい姫君を匿いたいなどと仰るものですから、喜んでいたのもつかの間、女性を幾日も放り出すなどと、殿方の風上にも置けませんわ、うちの陛下は」
「え、いえ……あの」
 そういうことを言いたかったのではない、と抗弁しかけ、当たらずとも遠からずかとティアレは喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。が。
「近いうちにお会いに来られるように進言しておきましょう」
 シノの一言に、目を剥いた。保護されている身の上で、国の皇を呼びつけようなど無礼も甚だしいのではないか。
「……あ、あの、私が会いに行けばよいだけですので」
 だがシノは取り合わなかった。彼女はティアレの危惧を汲み取っているようではあるものの、ティアレの肩に上掛けを着せ掛ける彼女の微笑は、何故だか自信に満ちていた。
「大丈夫です。ティアレ様は何も心配なさらず、ご静養に専念してくださいませ」
「……お叱りを受けたりしませんか?」
 皇の個人的な庵の責任を預かるほどだ。シノはそれなりに信頼があり、地位も高い女官であるのだろう。だからといって、主である皇よりも、ティアレの肩を持つ発言をするのはどうかと思われる。
 だがシノの反応はけろりとしたもので、大丈夫ですよ、と彼女は力強く繰り返した。
「陛下が周囲に知られたくない秘密の一つや二つ、きちんと懐に収めておりますので」
 言いながらしたたかに笑う女官を見て、どうやら奇妙な国に流れ着いてしまったものだと、ティアレは天井を仰ぎ見ながら胸中でこっそりため息を漏らした。


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