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終章 裏切りの帝国 1


 年が明ければ、待ち受けていたかのように華が一斉に開花することが、この国の特徴の一つでもあった。
 海流が安定して、頻繁に船が出せるようになる。それに伴い街も活気付き、丘から見下ろす街並みは、酷く美しかった。張り巡らされた水路、そして彼方に広がる海面が、宝石の屑を撒いたかのように煌々しい。蒼穹が目に痛く、太陽の日差しが眩しくはあったけれども、柔らかさを残していた。風は羽毛に似た温かさでもって頬をなで、芽吹く新緑によって盛り返された、真新しい土の匂いが鼻に香る。
 白い墓石は、丁寧に掃除が成されていた。この下で眠る前の主人は、その罪によって王家の墓に葬られることすら厭われた。罪人の死体として葬られるところを、皇帝は内密にこの、城下が見下ろせる丘に運ばせて墓を[こしら]えたのだ。忙しさに頻繁にこの場所へ通うことは叶わぬものの、定期的に華を携え詣でに来ている皇帝の姿を、自分は知っている。
 シノは立ち上がり、土を払った。目の前に置かれている焼き菓子は、今朝現在の女主人が焼いたものだった。自分が見たことの無い異国の焼き菓子は、敷紙の上に丁寧に詰みあげられ、春の風を受けながら少し震えていた。
 城下町の向こう、港から、異国へ船が出港する。
 それを知らせる鐘の音が、余韻をもって響き渡った。


 執務室には相変わらず書籍書類が散乱し、足の踏み場を探すのにも一苦労だった。
 開け放たれた窓から吹き込む風は穏やかだが、その度にかさかさと紙が揺れる。時折署名している最中の書類が飛ばされそうになったり、墨壷がひっくり返りそうになったり、筆記具の金具が引っかかって書類を書き直したりしなければならないのは、本当に勘弁願いたい。
 片付けなければならない政務が、どうしてこんなにも溜まっているのだろう。
 ラルトはため息をついて考えかけ、そしてやめた。考えずとも、答えは容易にはじき出されてしまったからである。
 初春、人事の大移動があった。年末に起こった事件は丸く収まったものの、その後始末が年明けまで持ち越されてしまった。年末に決済すべき物事も全て年明けに持ち越し。それと同時に担当者が総換えされたものだから、片付くものも片付かず、今に至る。
 いつものことだが、煮詰まっている。
 空が青いなぁとか思って玻璃の外を眺めれば、あほーと鴉が飛んでいく。夕刻ならばまだしも、まだ日が傾くには早い昼下がり。だというのに、どうして鴉がわざわざ視界の端をよぎっていくのか。あまりに不吉すぎるではないか。
「うーくっそー」
 唸ってみたところで、目の前に積み上げられた書類は片付けられないし、議論している問題に解決策は現れないし、ついでに人材不足を埋めることの出来る誰かがひょっこり現れるわけも無い。
 と、思ったら。
「失礼いたします陛下」
 現れた。
「エイ」
 ラルトは嬉々として立ち上がった。
 長い黒髪を背で一本に結わえた、最近取り立てた新しい文官は、目を丸くして立ちすくんだ。
「……ど、どうかなさったのですか陛下?」
「いや別に」
 押し黙りながらラルトは肩をすくめた。さすがに一人で黙々仕事をこなし続けることには飽きてきたとは言えない。
 別に仕事から逃げたいわけではない。決してそうではない。断じて違う。
 たとえば。
 趣味が仕事である画家が、時折画廊から抜け出して空気を吸いたくなるときがあるだろう。
 それと同じだ、と自分に言い聞かせてラルトは微笑んだ。
「エイ、今お前暇か?」
「は? え、はぁ時間なら取れますが」
「よし。……それ、次の会議に持っていくやつか?」
「はい。コレについて二、三質問が……陛下?」
 ラルトはエイの元へと書類を踏まないようにして歩み寄ると、その手の中にある紙束をひったくるようにして奪い取った。ぱらぱらとめくって目を通す。問題点をとりあえず見つけて、それを付き返した。
「このままで通すと上限枠が厳しすぎて多分不満がでるぞ、この基準。費用の項目をきちんと挙げていったほうがいいな。公共事業を別物としてあつかって、あとは人件費と軍費と社会保障と医療と……えーっと、後は自分で考えろ。それから税収制度な。アレについての思案案ディスラの徴税案集がそこにあるし纏めてあるから後で目を通しておいてくれ。教育推進のための教科書改訂はあっちな。いちおう見て書き込んでおいたから後で他の奴らと目を通して議論しなおせ。マジェーエンナの染料の関税率も纏めておいたし。多分コレでいいと思うけれどもそれについての意見を纏めてあとで教えてくれ。それから人員の選定報告書、署名しておいたからあそこだ積み上げてある奴もって帰れ」
 指折りで終えておいた仕事を並べ立てる。それにさらに付け加えて、三つ、四つ、五つ。指で数え切れなくなった頃に面を上げると、鳩が豆鉄砲を食らったが如く、ただ呆けているエイの顔があった。
 ぽん、と彼の肩を叩いて、ラルトはたずねた。
「覚えたか?」
 エイが我に返り、瞳の焦点を結んで応じる。
「……は、はい。かしこまりました」
「よし」
 ラルトは満足して頷くと、机にとって返しまだ目を通していない書類とそれに関連する本数冊を小脇に素早く抱えた。エイの脇をすり抜けながら、笑顔で言う。
「じゃ、俺は手水に行ってくるからお前ここに居ろよ。帰ってくるまでに今言ったこと一人で出来る奴はなるべく終えておいてくれ」
「今言ったことってな、ちょ、お、お待ちくださいっ陛下!」
 慌て何かを踏んづけたのか、ずるべたーんと人一人転倒する音が派手に背後で響いた。足元に気をつけなければ執務室では転倒しやすい。紙が散乱しているからである。
 ラルトは、あいつ書類破いたりしていないだろうなと思いつつ、そそくさ執務室を退室した。
 背後で、泣きそうな叫びが聞こえた。
「へーいーかー!!!!!」
 が、そんなものは無視するに限った。


 奥の離宮へと向かうには、最終的には宮廷内に張り巡らされた鑓水[やりみず][また]ぐ橋を渡らなければならなかったが、そこまでならいくつも近道はある。冬場は歩く気分に決してなれないような中庭も、春になれば白と薄桃色が埋め尽くし、甘い匂いを漂わせる小道となった。ぽかぽかと暖かい陽気を浴びながら闊歩する。土の匂いすら新鮮な気がするから、春とは不思議なものだ。
 欠伸をひとつかみ殺すと、どこからともなく忍び笑いが響いた。
「……さっき執務室覗いたら、泣いてたよ、新入り君。あまりいじめんほうがいいんでないの? ラルト」
 足を止め、肩をすくめて向き直る。
「別にいじめてないさ。だいたいアレぐらいの仕事量で嘆いてもらっていたら困る。そのうち、お前の仕事を継いでもらわなきゃならないのに。ジン」
 中庭にそびえ立つ、一本の古い樹。
 その幹に凭れかかるようにして佇んでいた宰相は、苦笑とも取れる薄い微笑を口元に刻んで身体を離した。
 ジンは頷いて、確認するように彼の服装を見直していた。
 今の彼は旅装だ。深い藍の袍に、山吹色の帯を締めている。腕には厚手の上着と外套を引っ掛け、足元には鞄が一つ。その横には使い込まれた青龍刀が鞘に収まって立てかけられていた。
 紐で軽く縛った、薄い茶の髪が風に揺れている。
 風が、吹く。
 それに撓った枝が、白い花弁を雪のように散らした。


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