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第十章 今でも愛するその人が 7


「どういう意味だ?」
 ラルトがジンの身体から滑り落ちながら尋ねてくる。ティアレはラルトに微笑み、そして静かにジンを見下ろした。
「そのままの意味です」
 胸を締めるのは憎しみでもないし、憐憫でもない。この人の無様さを嗤うことはできない。
 ただこの胸を占めるのは、悲しみだけだ。
 慈しみたいほどの、悲しみだけだ。
「この方は、私を殺す機会などいくらでもあったのですから。本当に殺そうとするのなら、もっとはやく、この方は殺せた。たとえば、私が、宮城を出たときに」
 ジンはティアレの出国を手配している。本当に殺したかったのであれば、こんな騒ぎを起こさずとも、その先で暗殺して、死体を処理すればあっさり蹴りがついたのだ。
 実際、案内人の男はティアレを殺しに掛かったが、それはティアレが宮城に戻ろうとしたからだ。そうでなければ彼は確実にジンの命令に従って、ダッシリナまで送り届けただろう。暗殺するつもりがあったのなら、あの嵐の中、黙々と案内を続けるはずもない。
 それをわざわざ、手間隙かけて逃がして。
 ありがとうといって見送って。
 自分を殺すことなど、どうでも良かったに違いない。むしろ必死に守ろうとしていたのかもしれない。
 うぬぼれでなければ――ラルトが、傍に侍ることを許した、ティアレ・フォシアナという存在を。
 この人が、やろうとしていることは。
「ラルト様に赦されたかった」
 自分の静かな声は、冷たい夜気を震わせた。
「断罪されたかった。他でもないラルト様に殺されて、全てを放棄して楽になりたかった。……違いますか?」
 ジンは何も言わない。ティアレは眉根を寄せて、非難する。
「……でもそんなことは卑怯です。ジン様」
 彼がどうしてあれほどレイヤーナにこだわっていたのか、夢現の狭間で聞いた話を思えば頷ける。
 レイヤーナとのことに対して、同情する気はない。ただ、呪いに囚われるというそれが意味することを理解するティアレにとっては、彼の苦悩は同調できるものがある。
 それでも。
 それでも彼のやり方は卑怯だ。
 きっと彼は、全てを吐き出して楽になりたかっただけだ。
 たとえばラルトにその手を汚させて、残された彼はどうする。この裏切りの帝国で、愛すべき家族とも呼べる親友に裏切られて、その親友を殺して、そうして残された彼はどうなる。
 愛しているといいながら、ジンはラルトのことを何も考えていないし、理解していない。
ただ、自分が逃げる事だけに必死になっている。
 それは。
 とても卑怯だ。
「……ラルト様が貴方のことをどれだけ大事に思っていらっしゃるか、貴方は、まず理解すべきです。ジン様」


「もう終わりにいたしましょう」


 割り込んだ声に、ティアレが面を上げた。
「シノ」
 ラルトは驚きの目でもって振り返った。シノはラルトが入ってきた通路の方向から、草を踏み分け歩いてくるところだった。思わず立ち上がってシノが気絶していたはずの場所を確認する。その場所は、わずかに草が折れ曲がって誰かがそこに倒れていたという名残をみせるものの、誰一人の影も形も無かった。
「兵と医師を呼んでまいりました。程なくして、こちらにたどり着くでしょう」
 シノの発言に目を瞠る。一体いつの間に戻ったのだろう。こちらの表情を読み取ったのか、シノがわずかに微笑んだ。
「処罰ならば後ほどにお受けいたします。もとより……覚悟はできていたものですから。お聞きになられたのでしょう? レイヤーナ様と、閣下と、私のことを」
「……あぁ」
 ラルトは頷いた。
 シノの微笑は、自虐的といっても良かった。自嘲めいた微笑を口元に、真っ直ぐラルトを見返して、彼女は静かに告白する。
「私は恐ろしかった。恐ろしくて、奏上することができなかった。幾度も言われたのに。罪に対して目を閉じる、そのこと自体が罪で、裏切りに他ならないのだと」
 誰に言われたのか、ということをシノは口にしなかったが、ラルトには予想が付いた。
 レイヤーナが毒を盛ったあの茶会で、シノは愛するものを失っている。彼がシノとジンの罪について、知っていたとは思えないが、それでも諫言していたということは、何か思うところがあったのだろう。
 けれど彼も、レイヤーナと同じく、もうこの世の人ではないのだ。
「どんな理由であれ、私が選び取ったのは、裏切り者の道でした。陛下の信頼を欺いて、閣下とヤーナ様の手引きをする、裏切り者の道でした。そして、レイヤーナ様がお隠れあそばした後も、私は口を噤み続けました。……処罰は、いかようにも。どのようなものでも、お受けいたしましょう」
 彼女は瞼を一度伏せ、今度はその視線の先を、ラルトの足元で沈黙しているジンに向けた。ジンは大の字で寝そべり、微動だにしていない。虚ろな眼差しを空へと向けて。まるで、死んでしまったのではないかと錯覚するほど、その呼吸は潜められていた。
「閣下。もう終わりにいたしましょう」
 シノはその彼に呼びかける。
「どのような会話が陛下とティアレ様と、閣下の間にあったのか、私には知ることができませんが、予想は付きます。閣下はティアレ様を殺してはいらっしゃらないし、陛下も閣下を殺してはいらっしゃらない。もう十分でしょう閣下。もう、気が済みましたでしょう」
「たとえ俺の気が済んだとしても」
 ジンが長い沈黙を破って口を開いた。
「たとえラルトが、俺を赦してくれても」
 殴りつけたその拍子で傷つけている口は大きく開くことがなく、声は低くくぐもっている。そうであるのに、拡張の招力石でも傍においているかのように、ジンの声はよく通った。
「……頭の中で、レイヤーナがずっと囁き続けているんだ」
「ジン……」
 吐息を吐き出すと同時に、泣きに震えた声で彼が懇願した。
「……助けてラルト………」
 ジンの閉じられた瞼のまなじりから、涙が零れ、頬を滑り落ちた。
「シノ!!!!」
 悲鳴じみたティアレの声に、ラルトははっと我に返った。シノもまた彼女の叫びに体を震わせ、ティアレの視線の先を追って、背後を省みる。ジンが緩慢な動作で身体を起こし、息を呑んだ。
 
 ざざざざざざざざざ!
 
 草が擦れあい、千切れ、空に舞う。
 口から体液とも血液とも取れないものを吐き出しながら、こちらに向かって突進してきたのは、殺したはずのシンバ・セトだった。シノは恐怖に射すくめられてか、その場から動こうとしない。だがそれは、頭を抱えて目を閉じているシノに衝突する直前に、ありえない高さで跳躍した。
 ずん、という地鳴りとともにそれが舞台の上に着地する。胸部から緑色の体液を零して、それは止まることなくこちら側に向かって地を蹴っていた。
 ラルトは瞬時にティアレを顧みて、その腕から剣をひったくった。からん、とジンの青龍刀が地に落ちる。ティアレは息を呑んだまま、表情を引きつらせていた。
 足を軸に腰を捻り、手首を返して刃を閃かせる。
 が、遅いとすぐに悟った。
「ひ……」
 しゃくりあげたようなティアレの呻きが聞こえる。
 人の名残をとどめない、焼け爛れたような顔がラルトの眼前にある。
 並みの鋼では太刀打ちできないような硬度の爪が振りかざされるのと。
 身体の衝撃を襲ったのは、ほぼ同時だった。
「きゃぁああああ!」
 ティアレの悲鳴が近場ではじけた。ぽた、と紅い何かが床に零れていく。自分が悲鳴を上げなかったのは、ただ単に、事態が上手く飲み込めてなかったからだ。
 ジンがごほ、と血を吐いて、頭から床に崩れ落ちた。石畳に彼が完全に身体を預ける姿を視界の端で追い、ラルトは腹筋の要領で身体を起こした。返した刃を突き上げるようにして、そのままの勢いでシンバ・セトのあごを砕き貫く。
 ぎあぁあああああああああ…………!!!!!
 獣の雄叫びにも似た悲鳴が、それから発せられた。ラルトは剣を引き抜き、刃を返し、勢いはそのままそれの首へと打ちつける。
 じゅ、という肉を切る音がして、刃がそれの首に食い込んだ。が、骨が邪魔をして剣が止まる。痛みからかセトは咆哮を上げ、手足を暴れさせた。鋭い爪が、頬と腕を掠めていく。
「こ……の!」
 ラルトは踏鞴[たたら]を踏むと、渾身の力をこめて胴体に蹴りを入れた。みしり、という骨の折れる音は、自分からではない。セトからだ。
 ずひゅっ……
 肉が弾け、剣に纏わり付いた体液が飛沫を散らす。鞠のように、切り離されたセトの頭部が地を跳ねた。一瞬遅れて胴体もまた石畳に叩きつけられる。ぱしゃり、と跳ねた体液が、ラルトの身体を汚した。
「……は……は………はぁ……」
 膝に手をついて空気を求めて喘ぐ。体中の筋肉が悲鳴を上げている。セトはびくびくとしばしの間胴体部分を跳ねさせていたが、今度こそ、決定的に、事切れた。
 その様子を、呼吸を整えながら見つめていたラルトは、直ぐに、ティアレの叫びによって現実に引き戻された。
「ジン様!? ジン様!」
「……ジン!」
 ティアレがジンの身体を抱き起こして揺すりたてている。ラルトは剣を石畳の上に落とすと、傍らに膝をついて、ティアレの腕から幼馴染を受け取った。
 刹那、指先に触れた生暖かいぬめりに顔をしかめる。
 手のひらを見ると、べっとりと紅くそれが染まっていた。
「……ジン?」
「私! 早くこちらへ来るように医師を呼びに行ってまいります!」
 舞台に上がったばかりだというのに、シノは血相を変えて衣服の裾を絡げた。飛び降りて闇の向こうへと駆けていってしまう。ラルトはその背を少し見送って、再び手に視線を落とした。
 手のひらの血が、乾く間もなく、ジンの血があふれて濡らしていく。
 出血が、酷い。
「……ジ」
「……あぁ」
 ジンの口角から、紅い泡が溢れている。それでも彼は唇を動かし、かすれた声を紡いだ。呼吸音がおかしい。ひゅ、という空気の漏れる音がする。
 肺が、傷ついている?
「……もっと……こう……れ……ば……ったのに……」
「ジン、しゃべらないでくれお願いだから」
 へへ、とジンが小さく笑う。子供の頃から変わらない屈託の無い笑い。どうしてここで笑うんだ。ラルトは頭を振りながら懇願した。
「……ジン!」
 しゃべるな。
 お願いだから。
 死ぬな。
「ジン様」
 ティアレがジンの手をとって唇を震わす。ジンの視線が彼女の方へとゆっくりと注がれた。ふ、と微笑んで彼は唇を小さく動かす。が、もうその音は聞き取れない。
 がくん、と彼の身体から力が抜けて。
 ラルトは、声にならない悲鳴を上げた。

「……………ジン………………!!!!!!!!!」


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